ウィーンのリンク道路沿いにある公園のひとつに国会議事堂の前にあるバラが多く咲いているVolksgarten (フォルクスガルテン)・・・国民庭園があります。
リンク道路沿いにある多くの公園(庭園)のひとつで、地元の人が多くくつろいでいて、いい季節には木陰に座って寝転んでいる人も多く見かけます。
バラが多く咲いているリンク道路に面した最も優雅な場所からちょっと奥に行くとテセウス神殿というミニギリシャ神殿が立っているのがわかります。
さらに奥に行った目立たない所にエリザベート皇后の像があるのを御存知ですか?
日本にも多くのファンがいるエリザベートはバイエルンのヴィテルスバッハ家出身で、1837年12月24日生まれ、自然の中で自由に子供らしい幼少時代を送り、ある意味では普通に育てられたエリザベートの運命が変わることになるのは、いとこに当たるフランツ・ヨーゼフ1世に一目惚れされ、結婚が決まってからでした。
元々エリザベートのお姉さんのヘレーネとフランツ・ヨーゼフ1世を結婚させることが決められていましたが、それに反して妹に一目惚れをしたわけで、16歳のエリザベート(愛称シシィ) がウィーンに嫁ぐこととなったのです。
ウィーンの宮廷文化は全く肌に合わず、1人でいることも多く、精神的なバランスも崩れ、宮廷を逃げ出すかのように色々な所を旅します。
2人の間からは、彼女が30歳までに4人の子供が生まれますが、3番目に生まれた長男ルドルフ皇太子はウィーンの森マイヤーリンクでピストル心中自殺をすることは有名ですね。(悲劇のマイヤーリンク 参照)
エリザベートの最後は、1898年9月10日 スイスのジュネーブでルイジ・ルッケーニによって心臓を刺されて帰らぬ人となるという、悲劇的なものでした。
エリザベートが亡くなった4年後には、この像を作るコンテストが行われています。
パーテルノステルを御存知ですか?
パーテルノステル(Paternoster)は循環式のレトロなエレベーターです。
循環式なので利用する人がいなくても止まることなく常に上下しています。
2つのエレベーターシャフトがあり、左が昇りで、右が下りです。
止まることがないため、カゴが来たらタイミングよく乗る、目的の階に来たらタイミングよく降りないと行けません。
そのため扉も存在しません。
ウィーンの街には未だに7つのパーテルノステルが活躍していて、今日はそのひとつを動画で御覧下さい。
このタイプはイギリスから発展したもので、1876年にロンドンのGeneral Post Officeに設置されたものが世界で最初と言われています。
でもこれは小包など郵便物の輸送を目的としていました。
1882年にイギリス人のPeter Hartが人間を輸送するための循環式エレベーターにアイデアを発展させ、1884年に最初に J. E. Hall社によって登場しました。
これを初めて見たらレトロな雰囲気で結構感動します。
私は30年近くウィーンに住んでいますが、ウィーンに住み始めた当初にウィーン大学で見たのが最初でした。
面白くて何回か行ったり来たりしたのを覚えています。
パーテルノステルはオーストリア、ドイツ、スイスなど、ヨーロッパでは1920年代よりかなり普及しました。
特にドイツには多く残されています。
オーストリアではウィーンのSchwarzenbergplatzにあるPaternosterが1910年製で、現在利用されているものでは世界で最も古いということです。
ウィーンでは全部で7つのPaternosterが現在でも活躍していますが、オーストリアでは1960年代より、新しいPaternosterを設置することが禁止となりましたので、残っているものだけということになりますから、これは貴重です。
速さは秒速20cm~25cmで、止まることがないので一番上、一番下に来た時にはどうなるのか興味深い所です。
もちろんかごがひっくり返るわけではなく、スライドされて循環していきますからどこかの階で降りなければずっと回り続けていることになるわけです。
Paternosterの長所は待ち時間が無く、近い階同士の移動がすぐにできますが、短所は離れた階への移動に時間がかかること、安全性に問題があること、物の輸送が出来ないこと、身障者に不向きであること、乗り降りする時に集中力が必要であること、などやはり現在では短所が多いわけですね。
ヨーロッパの街には噴水が多く見られますね。
ウィーンの街にも多くの噴水があるのですが、例えば国立オペラ座前やグラーベンなどすぐにいくつも浮かぶと思います。
シェーンブルン宮殿はSchönbrunn・・・美しい泉が由来ですよね。
皆さん、ウィーンには噴水がいくつあると思われますか?
飲料水として使える噴水が約1.300ヵ所、そして記念碑的な噴水が55ヵ所もあるんです。
想像されていたよりかなり多かったと思います。
そう言えば先日はパパゲーノ噴水を話題にしていました。
今日はそんな噴水のひとつを紹介します。
こちらはウィーン5区の一角にあるSiebenbrunnenです。
ここはちょっと絵になりそうな?広場になっています。
このように広場に置かれている泉は多いですね。
この泉は1562年ハプスブルグ家の皇帝フェルディナント1世がウィーンの王宮へ水を運ぶために作られた最初の水道管です。
その水源はここで、現在の5区は1850年に7つのVorstadtがまとめられて代表して"Margareten"という名前になるわけですが、7はドイツ語でsiebenです。
王宮に運ばれる水はSiebenbrunnenfeldにあった7つの泉に集められて、ウィーン中心部のAugustinerbasteiまで運ばれ、そこから王宮に供給されていました。
1904年、ウィーンにアルプスの湧水が引かれたこと、かつてのVorstadtが5区になったこと、当時のウィーン市長Karl Luegerの60歳誕生日を記念してオーストリアの彫刻家Richard Kauffungenによるこの泉が除幕されました。
歴史を感じる石造りの泉です。
一番上の像はウィーンのローマ時代、"ヴィンドボナ"を表し、その台座には当時の市長Karl Luegerのレリーフが見られます。
レリーフの横にはこの泉が作られた背景が書かれています。
„Zur Erinnerung an die hier vor Zeiten bestandenen sieben Brunnen“ und „Errichtet anlässlich der Vollendung des 60. Lebensjahres des verdienstvollen Bürgermeisters Dr. Karl Lueger“.
その下には7か所から水が注がれています。
これは当時5区になる前のそれぞれのVorstadtとそのワッペンが見られます。
ウィーンはこの地域に住んでる人しか地元では知られていないようなもの、でも歴史的に重要な意味を持っている物がたくさんあります。
オーストリアはウィーンを含めて9つの州から成り立っているわけですが、それぞれの州にその州のシンボルとなる紋章(ワッペン)が存在しています。
実際は州だけでなく、オーストリアそれぞれの街にも独自の紋章が存在しています。
ウィーンの場合は23区で成り立っていますが、23区それぞれの区に歴史ある紋章があり、ウィーン市自体にもウィーン市の紋章があります。
例えば・・・ウィーンの花時計を御覧下さい。
このページの2枚目の写真のベンチ見られる赤地に白の十字架が入っているマークがウィーンのワッペンです。
このワッペンは街中を歩けば至る所に見られるはずです。
車のナンバープレートにも見られますね。
今日はこのウィーン市の紋章について歴史的背景をお話ししましょう。
こちらはウィーン市の正式な紋章です。
一般的には十字架だけを目にすることが多いと思いますが、お役所などの行政が関わる場合には単頭の鷲が描かれて、その鷲の真ん中に十字架が描かれます。
<ウィーン市紋章の歴史>
ウィーンの一番古い紋章は1228年の記録に登場していて、そこではおそらくバーべンベルク時代から受け継がれた鷲だけがデザインされていました。
十字架マークはまだ登場していません。
13世紀の終わりになって十字架が登場していますが、紋章ではなく硬貨に見られます。
1278年の硬貨には鷲の真ん中に十字架マークが見られます。
十字架はウィーンの人も多く参戦した十字軍からではないかと推定されています。
1327年になって初めて鷲と十字架のコンビネーションが確認されています。
1461年9月26日に皇帝フリードリヒ3世が、双頭の鷲と皇帝の帝冠をデザインした紋章をウィーン市に与えていますが、十字架はありませんでした。
1463年皇帝への不信感よりその特権を失っていますが、1465年にはウィーン市は皇帝と和解し再びこの特権を取り戻しました。
この時には十字架が確認されています。
これが1918年、帝国が解体され、そして1925年まで続いて行くことになります。
1925年の2月、長い議論の末、オフィシャルな紋章が決められ、同時に双頭の鷲が14世紀の時と同様に単頭の鷲となり現在に至っています。
1934年~1945年のナチス時代には双頭の鷲が復活しますが、第2次世界大戦終了後、また単頭の鷲に戻されました。
ウィーンにはいくつかの日本庭園があることを御存じですか?
おそらく一番知られているのはシェーンブルン宮殿の庭園内にある日本庭園とウィーン19区の一角の世田谷公園ではないかと思います。
他にはまず知られてない所でウィーン10区の一角にもあったり、21区にある寅さん公園など意外と日本庭園は存在しています。
ウィーンに居ながらも一瞬でも日本文化に触れられるのは面白いです。
さて、探せばまだある日本庭園ですが、ここはどうでしょう?
この小さな日本庭園は、1999年5月にウィーン大学の"Japanologie"(日本学)という専門学科ができた60周年記念としてここに作られたものです。
ウィーン大学では日本学を専攻することができるんですね。
私の知り合いにもここで学んで卒業し、社会で活躍している人が何人かいます。
よく見ると正面の石には日本語が彫られていますね。
枯山水スタイルの石の庭園で、源氏物語23帖の「初音」がテーマになっています。
石は水の流れを象徴しています。
奥の石は「岩の滝」で、山脈を表し、その源水が小川、川、やがては海に注がれるということを表現しているそうです。
このミニ日本庭園がある場所は、Altes AKH 旧ウィーン総合病院の建物の中庭の一角にあり、現在はウィーン大学が入っています。
時間があれば訪れてはいかがでしょうか。
どこもそうだと思いますがウィーンを始めオーストリアには観光的に知られていない場所がたくさんあります。
そのような所は地元では人気あって知られた場所であることがほとんどです。
そのような博物館?をひとつ紹介しましょう。
先日ブルゲンラント州の一角ににあるForchtenstein(フォルヒテンシュタイン)というお城に行きましたが、そのお城の目と鼻の先にReptilien Zoo...(直訳すると爬虫類動物園ですが爬虫類館と表現します)があります。
ここは地元ではかなり知られている場所で、文字通り爬虫類の博物館です。
個人的に爬虫類は全くと言っていいほど興味がないのですが、せっかくここに来たので訪れてみました。
入り口から歩いて行くとすぐに小屋があり、ここが爬虫類館の建物です。
目立たない小さな入り口があり、入ると小さな空間にショップと窓口があり、かなり小さなマニアック的な博物館だろうという印象を与えます。
所が中に入ると思わぬ大きな空間が奥まで続いてて、テーマ別に分かれては物凄い数の爬虫類が飼育・展示されています。
いや、これは爬虫類に興味がある方にとってはウィーンから距離がありますが、訪れる価値大の爬虫類館です。
この爬虫類館はPolaschekファミリーによる運営で、すでに3代目に入っています。
40年以上に渡って爬虫類を飼育していて、ヨーロッパやアメリカのその分野で広く知られていて、展示内容はまだまだ広がっていきます。
トカゲ、蛇はもちろんのことヨーロッパ爬虫類、ワニ、緑のアナコンダ、蜘蛛の洞窟、北アメリカの爬虫類、オーストリア最大のアミメニシキヘビ、亀などのコーナーに分かれ、もちろんそれぞれの解説も設けられています。
私のように全くその世界を知らない人でも興味が持てる内容となっていて、見かけとは違い内容の濃い爬虫類館になっています。
上の階にはカフェテリアもあり、疲れたら休むこともできます。
ウィーンからは非常に来辛い場所にありますが、それこそForchtenstein城を訪れる機会があれば寄り道をお勧めします。
ここのホームページhttps://reptilienzooforchtenstein.com/では館長が説明している(ドイツ語です)動画が掲載されているので、雰囲気をご覧になれます。
地下鉄1号線に中心から乗ると、UNO City(国連都市)があるKaisermühlen VIC駅に着く直前に高架に入り外に出ます。
それまでは地下を走っていたので一瞬あれっと思いますね。
この界隈はウィーン22区で高層ビルが多く立ち並び、国連都市もあって歴史ある荘厳な建造物が立ち並ぶウィーンの街の景観とは全く違っていて、いわばウィーンらしくない雰囲気です。
この駅はちょうどドナウ河を渡ったばかりの所にあり、この次の駅はAlte Dnauです。
この国連都市の建物を進行方向左側に見ることが多く、それを過ぎるとすぐにAlte Donauを渡るのでそちらを車窓から眺めることになります。
このAlte Donauの方が見た感じは開放的で、地元の人がボートなどになっていてのんびりしています。
実はこの国連都市の右側に池みたいなものがあり、ここがKaiserwasser・・・直訳すると皇帝の水と呼ばれている水面が鏡のような綺麗な水です。
地下鉄からだとほんのちょっとしか見えません。
こちらはそのKaiserwasserから国連都市方面を眺めています。
ここへ来るにはAlte Donauからボートでしか入ることができません。
とても静かで水質が良く、鏡のような水面です。
ここに入る入り口は少し狭いので両側に船をぶつけないように気を付けましょう。
しばらくここに佇んでいました。
夏至まであと10日ほどですね。
この時期は日が長く、緑も豊かになり開放的な初夏の空気を感じるウィーンの街です。
こういう陽気での散歩も気持ちいいですが、自転車もいいですよね。
天気がいい時にはよく子供と自転車で走るのですが、ウィーンの街は自転車通行に関しても非常によく整備されていますね。
個人的にドナウ河沿いや郊外の長閑な景色が見られるユーロ ヴェロをよく走るのですが、街中を走っても楽しいです。
そのウィーンのドナウ河は大きく分けて4つあり、本流、新ドナウ、旧ドナウ、運河です。
ウィーンの川幅が広い本流と新ドナウには全部で21本の橋が掛けられているのですが、そのうち2本は天然ガスなどの供給に利用されていて、一般利用はできません。
それ以外の19本は人が移動できる橋・・・つまり歩行者、自転車、自動車、電車ですね。
このドナウ河を自転車で渡れるSteinitzstegはよく通ります。
Steinitzstegはドナウ河~ドナウインゼル~新ドナウを渡る全長875mの橋で、以前はNordstegという名称でした。
この橋はウィーンの高速道路になっているNordbrückeに平行して掛かっています。
もともとこのSteinitzstegは、交通量が多いNordbrückeの補強工事のための一時的な作業用の橋として設置されたものでしたが、その後撤去されず1996年から自転車と歩行者専用として開放されています。
この橋はオーストリアの建築家Johann Georg Gsteuによるもので、2009年に橋の名称が初代チェス世界チャンピオンになったWilhelm Steinitzに由来してSteinitzstegに変えられました。
ウィーンのこの地域では自転車でドナウ河を渡れる最初の橋となったわけです。
こちらはウィーン中心方面に向かって橋を眺めています。
右側にはウィーンの森が見えていますね。
この橋の右側に平行してNordbrückeが通っています。
かなり幅が広い橋ですね。
Nordbrückeが補修工事を行っている間は、ここに片側1車線の両側通行で車を通していました。
現在でも必要な時には、すぐに車をこちらに迂回させることができます。
この橋はドナウ河を渡りますから、橋の上からのドナウ河の眺めがとても素敵です。
次に橋の上から眺められるドナウ河を掲載します。
最初がドナウ本流、2枚目は新ドナウです。
今年の冬は寒くならないわりには風が強い日が多いですね。
ちょっとの風ならまだしも、不快を感じる強風です
ここまで風が強く吹く日が多いのは珍しいと思います。
さて、先日2月10日にレオポルド美術館においてオーストリア国家公認ガイドのAkkurediteirungがありました。
これは公認ガイドとして美術館を単独に案内できる登録をするもので、いわゆる研修のようなものですね。
コロナになる前にレオポルド美術館は大きく展示スタイルが変わったので、新しく登録し直すこととなりました。
数回コロナのお陰で中止になりましたが、この前無事に終わりました。
知り合いの同僚と色々な話ができて楽しかったですね。
その時にそうだ、ここもまとめておこうと以前から思っていて忘れていたことを思い出したので、今日はそれをテーマにします。
レオポルド美術館はMQと同時2001年にオープンした美術館で、去年が20周年を迎えました。
この20年間で700万の入場者数、119回の特別展示、7.206のコレクション数になっていますので、短命だったリヒテンシュタイン美術館とは違い、ウィーンにある重要な美術館のひとつとして数えられています。
MQの中に入るとレオポルド美術館はこのように白い四角い建物でよく目立ちます。
この建物は40m x 46m x 24m(高さ)の大きさです。
ここの屋上を御覧下さい。
ここにMQ Libelleの一環で2020年2月に完成した大きなリングを見ることができます。
この屋上空間のコンセプトは2007年からすでにあり、2014年~2018年にかけて徐々に進められていきました。
建物の外側にエレベーターを設置し、外からこの屋上階に美術館の入場とは無関係に無料でアクセスできます。
ここには3つの大きな鋼鉄のリングがモニュメントのように置かれています。
それぞれ直径が13.5m、10.5m、8.4mです。
この屋上階はさらに少し高くなっている所がありテラスが作られていてカフェになっています。
テラスの上にレオポルド美術館の展望台のような建物があるので、それを入れるとレオポルド美術館の高さは約32mとなります。
MQ Libelleは全体で1.350 m²、その内テラスが970 m² 、建物383m²で、建物内部空間の高さが4m、建物自体の高さは7.69mです。
実際はこのリングだけではなく、この展望台全てを含めたこの屋上空間の景観をMQ Libelleと呼んでいます。
レオポルド美術館の館内上階から大きな窓ガラスを通して、印象的な街の景色が楽しめますが、このMQ Libelleの方が開放的で、もっと奥までの視界が広がりお勧めです。
ここはMQのさらに新しい空間です。
一昨日までは日中の気温が10℃を越えず、どんよりした曇りの日が続きましたが、昨日から10℃を越えて晴れマークが見られるようになったウィーンです。
その日の天気がある程度いい時には朝、明るくなってくる時間も早く感じます。
今日から再ロックダウンの外出規制がさらに厳しくなります。
さて、今日はウィーンの王宮からです。
ウィーンのHofburg(王宮)は非常に複雑で、様々な時代様式から成り立つ複合建築です。
夏の離宮シェーンブルン宮殿のようにはっきりバロック建築で・・・というわけではありません。
約650年続いたハプスブルグ王朝時代に様々な増改築が行われて、結果的には一度も完成を見ることはありませんでした。
1273年にハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国のドイツ王に選ばれてから、帝国が崩壊する1918年まで続くわけですから、王宮は13世紀~20世紀までの様々な建築様式から成り立っているわけですね。
でも実際の所王宮はそのハプスブルグ家が始まる前のバーベンベルク王朝の君主レオポルド6世によって、13世紀前半にはおそらく最初に建築されたとされています。
興味ある方は以下もどうぞ。
ウィーンの王宮1、ウィーンの王宮2、ウィーンの王宮3、ウィーンの王宮4、ウィーンの王宮5、
さて、その複雑な王宮を分かりやすくまとめたコーナーがあります。
こちらは王宮インフォセンター(HOFBURG INFO CENTER) です。
ここは前述したウィーンの王宮3でも紹介している新王宮(Neueburg)の一角に2018年4月27日よりオープンしています。
空間の真ん中に右の写真に見られるように大きな箱のようなものが置かれていて、王宮周辺の地図が大きく描かれています。
ここに来た人はこのシステムのそれぞれ3つの辺に埋め込まれているディスプレイにタッチして何がどこにあるのかを知ることができます。
王宮だけでも様々な建築の集合体ですから、それらが王宮のどこにあるのかなどもここで知ることができます。
この空間には右の写真に見られるように、王宮の見取り図もあり、それぞれの細かい名称を知ることができます。
ここでは紹介していませんが王宮の歴史も知ることができます。
当時の王宮はどのように建設され、どのように拡張されていったかなど、歴史的な資料も展示されていて、非常に興味深いものがあります。
一言で王宮と言っても、ウィーンの王宮は非常に複雑で、多くの博物館もあり、入口もそれぞれ違っているためまごつく方も多いです。
そういう意味でもこの王宮インフォセンターが出来たのはいいことかもしれません。
ここにはインペリアルショップも接続されていますので、お土産を探すついでにこのインフォセンターも訪れてみて下さい。
ウィーンの真ん中に建つシュテファン大聖堂はウィーンのひとつのシンボルであり、歴史的にもとても重要です。
場所的にもケルントナー通りとグラーベンという重要な歩行者天国のほぼ交差した所に位置しているため観光の皆さんの目印にもなり、旧市街を歩けば何度となく通るでしょう。
このシュテファン大聖堂は1147年からずっとこの場所で歴史を見つめてきましたし、大聖堂自身にも様々な重要なものが目白押しです。
このコーナーでも知らない間にシュテファン大聖堂の色々な物について書きました。
今日ここで紹介する物もそのシュテファン大聖堂にあって、しかしあまり知られていない重要な物です。
シュテファン大聖堂の有名な説教壇、当時のステンドグラス、記念プレート、
涙を流す聖母マリア、プンメリン、ローマ時代の墓石、モーツァルト最後のお別れの場所なども是非御覧下さい。
シュテファン大聖堂に入ると、ずっと左側にこの写真に見られるDom Shopがあり、ここは司教の門と言われています。
ここには絵葉書やガイドブックなどが売られている大聖堂の小さなショップになっています。
このショップの入口には左右2つの扉がありますが、この右側の扉側の柱のちょっと上辺りに今日のテーマである"コロマニ石"がはめ込まれています。
コロマニ石はこの写真のように柱の中に真鍮の枠と共に埋め込まれていて、人間の右手のような形に色が変色しています。
コロマンはアイルランド人のいい所の出の巡礼者で(一説には王様の子とも)1012年ウィーン近郊のStockerauで不審な身なりや外国語を話したことからスパイの容疑をかけられ、拷問され、ニワトコの木に絞首刑となりました。
伝説によればコロマンの遺体は2年経っても腐らず、しかもその枯れていたニワトコの木が再び緑を吹き返したということからバーベンベルクのハインリヒ1世がコロマンの遺体を1014年にメルクに運ばせました。
聖コロマンがこの石の上で殉教したとされ、このコロマニ石は1361年にここに埋め込まれました。この石の後ろには鉛でできた聖遺物を入れる箱があり、たくさんの聖遺物が埋め込まれているとされています。
この石に触れる者は、祝福と幸運を授かると言われています。
ウィーンのシンボルであるシュテファン大聖堂には一番有名な南塔とその反対側に未完成の北塔があり、南東は螺旋階段で、北塔はエレベーターで上れます。
どちらも眺めが違ってお勧めです。
北塔に上ると、オーストリア最大の鐘 "プンメリン"が見られますが、このプンメリンは始めからここにあったわけではありません。
プンメリンは300年以上の歴史を持つ古い鐘です。
1683年にオスマン・トルコのウィーン包囲があったわけですが、そのトルコ軍が残していった大砲などを溶かして1711年7月21日に作られ、同じ年の12月15日に奉納され、翌日12月16日に今の北塔ではなく、南塔の今のAlte Glockenstubeに置かれました。
それ以来から現在のシュテファン大聖堂の南の塔で時を知らせていました。
第2次世界大戦の終わり頃である1945年4月12日14:30、シュテファン大聖堂に周辺からの火が燃え移り、屋根が焼け落ちることになりますが、その時にこのプンメリンも粉々になってしまいました。
右の写真は南塔のAlte Glockenstudeに置かれていた最初のプンメリンで、幅3.15m、重さ22.511もあった巨大な鐘です。
その粉々になったプンメリンとその他壊れた大聖堂の別の鐘を合わせ、再鋳造したのが現在のエレベーターで上って見られる北塔にある「プンメリン」で、1951年リンツに近いフローリアン修道院があるSt.Florianで作られ、やはり21トン以上、314cmと、オリジナルとほぼ同じような大きさになっています。
シュテファン大聖堂の南塔を螺旋階段で上って下さい。
段数は343段あり、何回も回りながら上へ行きます。
素晴らしい景色が楽しめる終点の少し手前にあるちょっとした空間を通ることになりますが、その空間に最初のプンメリンが置かれていました。
上の写真が最初のプンメリンが置かれていたAlte Glockenstubeです。
歴史を感じますね・・・。
ここを通り、さらに上に行くと素晴らしいウィーンの街並みに出会えます。
日本は猛暑日が続いていますが、群馬県桐生は40.5℃に達し今年一番の暑さになったようです。
こちらもウィーンも日中30℃を越える暑い日が続いています。
こちらでは熱中症という言葉はあまり聞かれませんが、水分補給は暑くなくても日頃から大事と頻繁に言われています。
さて、ウィーンの街は中心から外側にかけて多くの集合住宅が立ち並んでいますが、もう少し外側に行けば庭付きの一戸建ても多く立っている地域もあります。
集合住宅は日本で言えば5階、6階、7階など階数があるわけですが、多くはエレベーターがあります。
新しい建物は始めからエレベーターを付けて建設していますが、昔からある古い建物はエレベーターを後付けしたケースが多いです。
古い建物ではアンティーク風のエレベーターもあって、日本では見られないスタイルが多くあります。
エレベーターと言えばパーテルノステルというエレベーターは御存知ですか?
パーテルノステル(Paternoster)は循環式のエレベーターです。
このタイプはイギリスから発展したもので、1876年にロンドンのGeneral Post Officeに設置されたものが世界で最初と言われています。
でもこれは小包など郵便物の輸送を目的としていました。
1882年にイギリス人のPeter Hartが人間を輸送するための循環式エレベーターにアイデアを発展させ、1884年に最初に J. E. Hall社によって登場しました。
右の写真を御覧下さい。
これがPaternoster(パーテルノステル)です。
左と右2列にエレベーターそれぞれ上下し続けています。
左が上へ、右が下へ常に動いていて、利用する人はタイミングを見計らってかごに乗ったり、降りたりするわけです。
これを初めて見たらレトロな雰囲気で結構感動します。
私は30年近くウィーンに住んでいますが、ウィーンに住み始めた当初にウィーン大学で見たのが最初でした。
面白くて何回も行ったり来たりしたのを覚えています。
パーテルノステルはオーストリア、ドイツ、スイスなど、ヨーロッパでは1920年代よりかなり普及しました。
特にドイツには多く残されています。
オーストリアではウィーンのSchwarzenbergplatzにあるPaternosterが1910年製で、現在利用されているものでは世界で最も古いということです。
この写真のものはウィーンの市庁舎です。
ウィーンではこの市庁舎を入れて全部で7つのPaternosterが現在でも活躍していますが、オーストリアでは1960年代より、新しいPaternosterを設置することが禁止となりましたので、残っているものだけということになりますね。
上の写真は実際にかごに乗っている時の模様です。
速さは秒速20cm~25cmで、止まることがないので一番上、一番下に来た時にはどうなるのか興味深い所です。
もちろんかごがひっくり返るわけではなく、スライドされて循環していきますからどこかの階で降りなければずっと回り続けていることになります。(笑)
Paternosterの長所は待ち時間が無く、近い階同士の移動がすぐにできますが、短所は離れた階への移動に時間がかかること、安全性、物の輸送が出来ないこと、身障者に不向きであること、乗り降りする時に集中力が必要であること、などやはり現在では短所が多いわけですね。
ウィーン大学にあったPaternosterは残念ながら通常のエレベーターに変わってしまいましたが、まだまだ現役で活躍しているのもありますので、機会があれば是非見て下さい。
早いもので今日で6月も終わりです。
週末は30℃を越えて暑かったですが、昨日は気温が下がり涼しい夜で寝やすかったですね。
オーストリアはウィーンを含めて9つの州から成り立っているわけですが、それぞれの州にその州のシンボルとなるワッペンが存在しています。
実際は州だけでなく、オーストリアそれぞれの街にどくじのワッペンが存在しています。
ウィーンの場合は23区で成り立っていますが、23区それぞれの区に歴史あるワッペンがあり、ウィーン市自体にもウィーン市のワッペンがあります。
例えば・・・ウィーンの花時計を御覧下さい。
このページの2枚目の写真のベンチ見られる赤地に白の十字架が入っているマークがウィーンのワッペンです。
このワッペンは街中を歩けば至る所に見られるはずです。
例えば車のナンバープレートを見て下さい。
今日はそのワッペンが石畳に施されているというちょっと珍しいものを紹介します。
こちらはウィーンの街の、ある一角の歩道です。
両側通行の車道の横にある歩道で、歩道でもこの部分には石畳が施されています。
赤地に白い十字架マークが見られ、見間違えることがないウィーン市のワッペンです。
ほぼ正方形のサイコロのような石が綺麗にはめ込まれていますね。
こちらはちょっと別の角度から眺めています。
ウィーン市のワッペンの通り、(当たり前ですが)縦長になっています。
<ウィーン市紋章の歴史>
ウィーンの一番古いワッペンは1228年の記録に登場していて、そこではおそらくバーべンベルク時代から受け継がれた鷲だけがデザインされていました。
十字架マークはまだ登場していません。
13世紀の終わりになって十字架が登場していますが、ワッペンではなく硬貨に見られます。
1278年の硬貨には鷲の真ん中に十字架マークが見られます。
十字架はウィーンの人も多く参戦した十字軍からではないかと推定されています。
1327年になって初めて鷲と十字架のコンビネーションが確認されています。
1461年9月26日に皇帝フリードリヒ3世が、双頭の鷲と皇帝の帝冠をデザインした紋章をウィーン市に与えていますが、十字架はありませんでした。
1463年皇帝への不信感よりその特権を失っていますが、1465年にはウィーン市は皇帝と和解し再びこの特権を取り戻しました。
この時には十字架が確認されています。
これが1918年、帝国が解体され、そして1925年まで続いて行くことになります。
1925年の2月、長い議論の末、オフィシャルなワッペンが決められ、同時に双頭の鷲が14世紀の時と同様に単頭の鷲となり現在に至っています。
1934年~1945年のナチス時代には双頭の鷲が復活しますが、第2次世界大戦終了後、また単頭の鷲に戻されました。
上の写真は私のオーストリア国家公認ガイドとしての労働許可証で、現在でも使用されているウィーン市のシンボルが押されていますね。
単頭の鷲の真ん中にはその十字架が見られます。
ウィーンの街は旧市街を含め、かなりの広さが世界遺産となっていて、荘厳な建造物が多く建ち並ぶ上品さと優雅さを備えたかつての帝国の都を今でも感じることができます。
言ってみれば街全体が博物館みたいですね。
観光客の皆さんにとって重要なものはガイドブックなどにもある程度紹介されていますね。
今日は、地元では非常に有名ですが観光的にはまず知られていない中世のモニュメント的なものを紹介します。
こちらは"Spunnerin am Kreuz"(シュピンネリン・アム・クロイツ)と言われる地元で知られたゴシック様式の記念像みたいなものです。
これはウィーン中心部から離れた10区のTriester Sstraßeの通り沿い、Wienerbergに立っています。
ここはウィーンの街中ではウィーンの森を除いて最も標高が高い所で、ここからまた南へ向かって下り坂になっています。
通常の市内観光でここを通ることは多くありませんが、ウィーンの森の南側などに行く時にはよく通りますので、私もここを通る時には必ずと言っていい程これを御案内しています。
これは14世紀の終わりにMichael Knabによって作られたことになっていますが確かではありません。
もともとここには質素な木で作られた十字架があったようです。
その後15世紀にこれを新しくした後から記録で確認することができます。
1452年にシュテファン大聖堂の北塔を手掛けるHans von Puchsbaumによって現在の形になりました。
高さ16m、土台の部分を含めて5層構造のゴシック様式の教会の塔のように見えます。
真ん中の高さにはそれぞれ4方向に、磔刑、むち打ち、茨の冠、エッケ・ホモを表した大きな像が立っています。
こちらはこのSpinnerin am Kreuzの2ヵ所に見られる年号です。
プレートのように見えますが、これ自体に刻み込まれています。
左上は1452年にこれが作られたこと、右上はこれが修復された年を表しています。
今まで数多く修復されてきました。
<Spinnerin am Kreuzの伝説>
このSpinnerin am Kreuzには、700年以上も前から伝わる若い女性の絶望の伝説があります。
レオポルド公爵の使いが、聖地を征服したオスマントルコを倒すため、若い男性達が十字軍に召集されるという御触れが出されました。
その若い女性の夫がすぐに志願します。
この女性は自分の夫のために赤い十字架を彼の服に縫い付けますが、その際に彼女の涙が服にしみ込んだといいます。
3週間後に時は来ました。
若い女性は夫をこのWienerbergまで送って、2人はここで別れました。
別れの際に彼女は「私はあなたがここに戻ってくるまで、ずっとこの場所であなたを待っています」と夫に約束しました。
この場所には木でできた質素な十字架があり、この場所から南をずっと遠くまで見下ろせました。
夫は妻の言葉を真剣に聞かず、頭の中はこれからの戦いでいっぱいだったようです。
彼女はこの場所に座り、夫が去って行くのを日が暮れるまで見ていました。
次の日の朝、彼女はもうこの場所に座っていました。
彼女は自分の生活のために糸を紡ぐための巻き棒を持参し、糸を紡ぎながら遠くの聖地で戦っている夫の事ばかりを考えていました。
何日も何日も時が経つにつれて、彼女のこの姿はこの界隈に住む人達にとっても日常光景となりました。
当初人々は家で糸を紡ぐようにと説得したのですが、彼女は言うことを聞かず、どんな天候の時でも毎日欠かさず、街の門が閉められるまでここに居続けました。
彼女が織った織物を買う人も多く、彼女が言った価格以上を支払う人も多かったそうです。
そこで"Spinnerin am Kreuz" (シュピンネリン・アム・クロイツ)と言われるようになりました。
彼女は時間はたっぷりあったので、この木でできた十字架を、より立派な石で作り変えようという考えが生まれました。
それが完成したら、きっと自分の夫が戻って来るだろうと確信しました。
そこで名が知られていた親方Michael Knabを訪ね、いくつかの案を見た所、そのひとつが大変気に入りました。
親方から言われた価格は、彼女がその半分ですら支払うことができない価格だったそうですが、親方はこの若い女性の事情を知っていたようで、残りの支払いは後で少しずつでいいからと言って早速作業に取り掛かりました。
石の埃なども全く気にせず、この場所で彼女は今まで以上に熱心に仕事を続けました。
1年後に石の素敵なモニュメントが完成しました。
ここに来るお客さんに今にも夫が戻って来ると言っていたそうですが、聖地の状況がこちらにとって良くないことを誰も彼女に話すことは出来なかったそうです。
人々は彼女の気が狂ったのではないかと思うようになり、彼女は3回目の冬を越しました。
3年の月日が流れ、毎日南を見て夫の帰りを待っていたSpinnerin am Kreuzがある日、ついに大きな群衆を見つけました。
ついに十字軍が戻って来た!・・・この彼女の叫びを聞いた人々がどんどん集まって来てこの場所は大変な人だかりになりました。
本当だ、十字軍が帰って来た!
多くの人々は再会を喜んでいましたが、彼女の夫はいませんでした・・・。
十字軍が帰国し、人々がここからいなくなって静かになり、彼女は神が自分の夫を聖地で死なせたこの運命を受け入れることができませんでした。
日が沈んで行きます。
気を取り直して、紡ぎ車を持って家に帰ろうとした時、暗くなった所から松葉づえをついて大変そうに歩いている男性が見えました。
彼に自分の夫の安否を聞いて、夫が亡くなっていたらもう二度とこの場所には戻ってこないと思いました。
長い髭を生やし、長いもつれた髪のその男性に話しかけようとしたら、彼が頭を上げたので顔を見ることができました。
彼は目を輝かせて言いました。
「私の愛する人よ!」その瞬間に彼は別れの時に言った彼女の言葉を思い出しました。
「お前は本当にここでずっと私のことを待っていたのか?」と静かに涙を浮かべて聞きました。
「はい」とささやき、続けて「あなたが無事に生きて帰って来てくれて本当にうれしい、よかった!」と言い、お互いに抱き合いました。
夫は「ごめん、私は人質となり、怪我のため皆の後について行くことが出来なかったんだよ」
彼女は「あなたは今ここにいるわ、もう何も私達を引き離すことができないわ」と言い、2人は暗闇の中をゆっくり家に向かいました。
それからまもなく"Spinnerin am Kreuz"の夫が戻って来たことが知れ渡りました。
日本でヨーロッパワインと言えば、ドイツ、フランス、イタリア・・・などが一般的でしょうか。
オーストリアワインはまだまだ日本ではマイナーなワインであることが残念です。
でもこの国オーストリアは生産量からすればヨーロッパでは3本指に入るとさえ言われるワイン王国です。
オーストリア国内には45.790haの広大なぶどう畑が存在し、9つ全ての州でワイン生産が行われていますが、主に16の生産地域に分かれています。
州としては、ウィーン、Niederösterreich、Burgenland、Steiermarkの4州が基本で、アルプスの標高が高くない地域を除いてワイン産業が営まれています。
ウィーンのぶどう畑と言えば多くの人が19区のカーレンベルク界隈の裾野やNeustift am Walde、21区のStammersdorfなどを思い浮かべると思いますが、ウィーンの街中にぶどう畑があるのに気付いていましたか?
こちらはウィーン中心部のSchwarzenbergplatzの一角です。
左奥に見られる建物はリンク道路沿いにあり、反対方向にはHochstrahlbrunnenがあります。
この交通量が多い広場のどこかにぶどう畑があります。
あまりにも街並みに溶け込んでいて見逃してしまいますが、画面中央ちょっと左に小さなソーセージスタンドが見えますね。
そのすぐ右側に美しい装飾の石の囲いが見えますが、これがぶどう畑です。
"Weingarten am Schwarzenbergplatz"です。
地元ではこのぶどう畑はハプスブルグ帝国時代からあるとされています。
現在はベートーヴェンが住んだ有名なホイリゲ"Weingut Mayer am Pfarrplatz" が管理しています。
広さは100m²で60本のぶどうの木が植えられていてます。
その内の約30%がGrüner Veltlinerという典型的なオーストリアの品種で、残りはいくつかの品種が植えられています。
ここ数年来からトレンドになっているとても質のいい"Wiener Gemischter Satz"のワインが毎年50~60本の作られます。
1988年より毎年10月の始め、ウィーンの市長さんを中心にここから収穫をすることが伝統となっていて、 "Bürgermeisterlese"とも呼ばれています。
ドイツ語でウィーンはWien...ドイツ語でワインはWein...i とeが入れ替わるだけです。
ウィーンはワインひとつとっても歴史があります。
シェーンブルン宮殿の庭園に行けば、丘の上にある堂々としたグロリエッテが見えます。
それを見れば誰もがあそこに行ってみたいなと思うはずです。
一般団体ツアーの場合は決められた時間内で多くの見所が詰め込まれているため、シェーンブルン宮殿の内部見学をしても、庭園でのんびり過ごすというわけにはいきません。
団体ツアーは必ず国家ガイドが案内しますので、観光のクオリティーは高いですね。
逆に個人旅行されている方は、ここまで足を延ばすことが多いでしょうか。
ここからの眺めは素晴らしいですし、有料ですがグロリエッテ自体に上ることもできます。
私は年間を通して個人のお客様と来ることはよくあります。
ここに来たら、下から見る以上に大きなグロリエッテとそこからの眺めを楽しむことがメインとなるため、このそばにちょっと貴重な物が置かれていることに気付く方は少ないようですね。
今日はそれをちょっと紹介しましょう。
グロリエッテを正面から見て、左後方の方に右の写真に見られるように柵で囲まれたちょっとした領域があります。
ここには多くの彫刻のような物が並べられていますね。
これは何でしょうか?
よく見ると小さな正方形の石のプレートが中央部分に置かれています。
これはグロリエッテに用いられていた当時の彫刻の名残です。
これはトロフィーと言いますが、トロフィーと聞けばスポーツ競技などで優勝者に与えられるものをイメージしますね。
もともと戦利品を意味する儀式的な意味合いがあります。
長くここに置かれているようで、石の色が黒ずんでいます。
グロリエッテは庭園内最後のものとして、ホーエンベルクによって当初は栄誉神殿と素晴らしい眺めを念頭にプランしたようで、完成は1775年です。
第2次世界大戦末期1945年2月にグロリエッテは爆弾による被害を受けました。
でも1947年には早くも修復されることになります。
その時に壊された彫刻の一部です。
つまりこれは18世紀後半、当時のグロリエッテに使われていたオリジナルのトロフィーです。
観光客の皆さんにはほとんど気付かれることなく、この場所に何気なく置いてありますが、当時を偲ぶ貴重なものです。
石の素材は多くの建造物や彫刻に用いられている素材です。
よく見ると鉄の棒が組み込まれていることがわかりますね。
ウィーンは "~通り ~番地" というように簡単に住所を探すことができます。
通りには全て名前が付けられていて、建物それぞれに番号が付けられています。
目的の通りがどこにあるかがわかれば、後は建物の番号を辿って行けばいいです。
通りの他にはPlatz(広場)も多く、Allee(並木通り)やZeile (家並み)などもあります。
通りにはStraßeや Gasseが非常に多く使われています。
Gasseは小路でStraßeよりも短いイメージがあります。
ウィーンには6.842の通り(2014年時点)が存在し、全部で2.763kmもあります。
因みにウィーンで一番長い通りはHöhenstraße (14.8km)、一番短い通りはIrisgasse (17m) です。
通りの始まりと終わりの建物の、日本で言う1階と2階の間の辺りに、紺色で白字で通りの名前が書かれた標識が多く掲げられていることがわかります。
旧市街などでは昔風の通りの標識も多く見られます。
こちらはウィーンの街で至る所に見られる定番な通りの標識です。
数字が"10"と記されていますが、これはウィーン23区ある中で10区であることを示しています。
この写真をよく見て下さい。
標識の左上部分に手が見えていますが、実は私の手です。
この場所は建物の修復工事をしていて、本来この建物の壁に掲げられているこの標識が外されていて、立てかけられていました。
それを持ち上げて自分で支えながら撮影しました。
この標識は結構重くてビックリしました。
サイズも900mm x 270mmで普段見ているよりも手に取るとかなり大きいものです。
こちらが本来この標識が置かれている状態です。
標識が縦になって建物の壁に立てかけられています。
これは面白い光景ですね。
工事中でも通りの表示が見えるようにということでしょう。
この界隈のホテルから仕事が始まる時があって、偶然この場所を通りかかったのですが、個人的にちょっと面白かったです。
ウィーンのカールス教会はヨーロッパで重要なバロック建築であり、国立オペラ座に近いにもかかわらず、団体ツアーなどではなぜかほとんど訪れることがありません。
ここは修復に利用されたエレベーターが現在では観光用として人気を呼んでいます。
このエレベーターに乗ると、円蓋天井のフレスコ画を目の前で見ることができ、さらにそこから階段で一番上まで上ることができます。
これはお勧めです。
さて、このカールス教会には去年の11月から巨大な球体が登場しています。
カールス教会に入ると、大楕円形を基本としたバロックの宇宙的空間が印象的ですが、その空間を塞いでしまうかのような巨大な球体が2つぶら下がっています。
これは去年の11月中旬頃からここに見られ、アルゼンチン出身のパフォーマンス/インスタレーションの芸術家 Tomás Saraceno(1973年生まれ)によるもので„Aerocene“というタイトルです。
2つの巨大な球体が天から降ってくるような演出で、下には直径10mを超える大きな球体、その上には直径7mのちょっと小さめの球体がそれぞれ間隔を空けて空中に浮いているようです。
それぞれの球体は半分が鏡のように反射するようになっていて、この教会を様々な角度から映しています。
ここに初めて入った時には驚きましたね~。しばらく唖然としてしまいました。
左上の写真は主祭壇を眺めていますが、下の大きな球体にはこちら側が映っています。
右上の写真は別の角度から上を見上げています。
何年も前にここで紹介したイエズス会教会の巨大な岩を思い出しました。
興味ある方は是非カールス教会を訪れて見て下さい。
自転車もヨーロッパ文化のひとつでしょう。
Euro Vero(ユーロヴェロ)というヨーロッパ縦断のサイクリングコースを見てもわかります。
ウィーンの街も多くの人が自転車で走っています。
ウィーンはリンク道路沿いを始め、郊外まで自転車専用ゾーンが多く設けられています。
一般道路にも多くの自転車ゾーンが設けられ、それ以外にもドナウ河やドナウ運河沿いなどにもサイクリングコースがあり、自転車レースをするような本格的な方から、その辺に買い物に行くような実用的な自転車に乗っている人や子供達まで多くの人が走っています。
うちの子供もそうでしたが、こちらでは3歳で自転車に(もちろん補助なし)乗り始める家庭が非常に多いです。
実際に誰かに支えてもらって練習することはあまりなく、小さい頃からLaufradと呼ばれる、ペダルがなく、両足を地面につけて走る自転車がとても普及しているので、歩き始めてからしばらくすると散歩にこれを利用するわけですね。
これでバランス感覚が養われ、慣れると子供は足を地面から離して走れるようになるので、それができたらもう普通の自転車にすぐに乗れてしまうわけです。
観光でウィーンを訪れる日本からの方は公共交通機関が発達していることもあり、街中で自転車に乗ろう・・・という考えにはあまり至らないと思いますが、ヨーロッパからの観光客は自転車に乗る人も多いです。
Citybike(シティーバイク)は手軽でお勧めなレンタサイクルです。
街中でこれだけ自転車が普及していることもあり、特定の場所に自転車の空気入れが設置されていることを御存知でしたか?
こちらはRennweg駅のすぐそばにある自転車置き場です。
柵が立てられていて、誰もが自転車置き場だということがわかるようになっていて、何となく無秩序のように駐輪されています。
それぞれの自転車は鍵で柵に結ばれています。
この手前に赤い細い棒が立っていますがこれが自転車の空気入れです。
本格的に自転車に乗っている人は小さな空気入れを自転車にくっつけていることが多いですが、一般の多くの人は空気入れを持参していません。
この空気入れは"Wiener Pumpe" という名称で、ウィーンの街中に 現時点で12箇所置かれています。
カレンダーではクリスマスは終わりましたが、クリスマスツリー🎄は1月6日まで飾っておく習慣があります。
クリスマスツリーも一緒に年を越すわけですね。
1月6日はまたここで話題にしますが聖三王の日で、イエスキリストが生まれたことと関連があるためクリスマスの習慣があるわけです。
さて、12月24日のクリスマス・イヴは私のこのホームページの伝統として、このオーストリアから生まれた"きよしこの夜"を話題にしていますが、この曲は今年の2018年は200周年記念を迎えたため、それに伴っての特別展示会などがよくローカルでも話題になりました。
今日はその一環できよしこの夜200周年記念硬貨を紹介します。
今年の2018年11月7日に発売された "きよしこの夜200周年記念硬貨"です。
きよしこの夜はドイツ語では"Stille Nacht, heilige Nacht"で、これがオリジナルタイトルです。
この曲は2011年に無形文化遺産にも登録されています。
硬貨にはすぐにそれとわかるOberndorfにあるきよしこの夜記念礼拝堂がデザインされていて、大きな流れ星が金色(黄色)に輝いています。
"20 EURO"と書かれていますが、この記念硬貨自体は20ユーロの価値があるということになります。
実際のオーストリア造幣局正規販売価格は59.40ユーロで販売されましたが、すぐに売り切れになってしまいました。
いかに前評判が高く、人気があるかということがわかります。
現在では専門のコインショップなどで購入ができますが、正規価格よりも高くなっています。
こちらは裏側のデザインです。
Christkindがヨゼフとマリアの真ん中に描かれ、"STILLE NACHT!" "HEILIGE NACHT!"というロゴが周りに見られます。
この記念硬貨は直径34mm、重さ20g、90%が銀、10%が銅で製造されています。
オーストリア造幣局は、世界有数の貴金属加工やコイン生産の技術を持つ造幣局として国際的に認知されていて、オーストリア国内で流通するユーロコインを製造するだけでなく、国際市場で有名な地金型金貨「ウィーンフィルの金貨」なども販売し、幅広く事業を展開しています。
ウィーンでちょっと珍しい、そして価値があるお土産を探している方にはお勧めです。
うちも販売当日にこの記念硬貨を買いました。
ウィーンやオーストリアの郊外にはユニークでクリエイティブな発想を感じられる物がよくあります。その物の本来の使い方を常識的に考えるため、あっ、こういう使用法もあるのか・・・とその場で初めて気づかされるわけですね。
先日、公園に置かれているグランドピアノを話題にしましたがそれもその一例です。
さて、今日はそのような物をひとつ紹介しましょう。
近くに行って見るとこのメガネのレンズが動き、ベンチになりました。
右の写真を見て下さい。
レンズをこちら側に倒すとちょうど真ん中で止まって、人が座れるようになります。
ここに座ってみましたが、座り心地は悪くなく、メガネのフレーム部分が背もたれになります。
このレンズのベンチは座らないと自動的に閉じてしまうので、バックを置いて写真を撮りました。
このユニークなメガネのベンチはUNITED OPICSというオーストリアには70以上もある眼鏡屋さんによるもので、もちろん宣伝を兼ねています。
このような発想はとても面白いです。
今年はサッカーのワールドカップがロシアで開催されましたね。
開催期間は6月14日~7月15日で、世界から予選を勝ち抜いた32ヵ国が競い合いました。
オーストリアは2年前のヨーロッパ選手権には出場しましたが、今回の世界選手権には残念ながら出場できませんでした。
オーストリアではサッカーとスキーは国民的スポーツです。
オーストリアは今回出場しなくても、ワールドカップの盛り上げりを感じますね。
多くのレストランやカフェでは大型テレビを設置して、観戦できるようになっていて、カフェに座らなくても外から立ち見で観戦している人も多く、ウィーンのちょっとまた別の一面です。
日本チームは決勝リーグに進めましたが、ベルギーに敗れてしまいました。
サッカーの日本チームが、ワールドカップ前の合宿をここオーストリアのチロル、インスブルックに近いSeefeldで行ったことも話題になりました。
さて、以前こんな所にもサッカーの影響が見られる一例として、石のサッカーボールについて書いたことがありました。
そこにも飲料水スタンドが置かれています。
ここは地元で有名な"Ernst Happel Satdion"と言う名のサッカースタジアムです。
まだ記憶に新しい2008年、サッカーヨーロッパ選手権の決勝戦が行われた場所で、ドイツとスペインが戦いました。(この内容はおもしろくありませんでしたが・・・)
もちろんそれ以外にも地元では頻繁に使用され、50.000人以上収容できます。
石のサッカーボールが無数に並べれているのがユニークで、その間に飲料水スタンドが立っています。
今年も飲料水スタンドが大活躍とうタイトルでグラーベンの光景を書きました。
もう何回も書いていますがウィーンの上水道はアルプス山脈の湧水です。
良質なアルプスの湧水が上水道として利用されている贅沢な街です。
そこからカフェ文化というウィーンのまた別の一面も生まれるわけですね。
喉が本当に乾いた時は水が一番美味しいです。
まだまだ日中暑い日が続くウィーンです。
朝はでも涼しくなりましたね。午前中10時を過ぎると暑さを感じ、午後はもっと暑くなります。
30℃を超えることはなくなりましたが、水分はこまめに取りたいです。
ウィーンの街を歩く時に目安になる建造物として国立オペラ座があります。
ウィーンのい滞在すれば何度となく国立オペラ座を行き来することになると思います。
団体ツアーの場合も国立オペラ座の場所は最も重要な場所のひとつで、フリータイム後の集合場所などにもよく使われます。
通常の観光でもこの"国立オペラ座の写真を撮る"というのが観光内容に含まれていることが多くありますが、ここは是非内部見学をして頂きたいですね。
この国立オペラ座が建築的なことだけでなく、いかに物凄い運営状況であるかということに驚きます。
ここは個人で見学はできませんので、一般ガイドツアーに入る必要があります。
もしくは、私のような国家公認ガイドとであれば待ち時間もなく、お客様だけを御案内できます。
さて、この国立オペラ座の写真を撮る時に多くの方が正面がら撮られます。
正面と言えばリンク道路に面した所ですね。
こちらの写真はリンク道路に面した国立オペラ座を正面から撮影しています。
公演がある時にはこの正面側の入口とその左右の扉から中に入ることになります。
ルネッサンス様式の印象的なアーチ構造が見られますが、この1階と2階のアーチの高さが違うことにお気付きでしたか?
このことが国立オペラ座が当時建設中から批判を生んだ理由です。
国立オペラ座はリンク道路最初の大建造物として、シッカルズブルクとニュルという二人の建築家によって1868年の明治維新の時に完成し、次の年の1969年モーツァルトのドン・ジョバンニでこけら落としがありました。
ウィーンの国立オペラ座は始めからこの場所に建設しようとプランされたので、その与えられたスペースを念頭に建築されたわけです。
19世紀後半のリンク道路は他にもどんどん荘厳な建物が建てられる建築ラッシュの時代であり、オペラ座の周りにも多くの建物が建てられました。
そのためウィーンの国立オペラ座は始めに決められたスペースということと、周りにも荘厳な建物が多くあることもあり、極端に目立つことはありません。
世界の他のオペラハウスはそれだけが目立つように建てられていることが多いため、存在感がしっかりあるわけです。
そこで・・・
前述した2人の建築家はこの事情を十分理解していたので、正面から見てオペラ座が映えるのではなく、斜めから後ろを見通すように見た時に、初めてこの国立オペラ座が荘厳な建造物に見えるように計算されて建築されました。
国立オペラ座を改めて斜めから見て下さい。
どうですか?
国立オペラ座がとても荘厳で堂々と見えますね。
正面からとは全く違います。
私のホームページのスライドショーにも写真は違いますがこの角度からの国立オペラ座の画像を使っています。(笑)
国立オペラ座については以下も御覧下さい。
今日はその辺では絶対に見ることができない公園に置かれているグランドピアノを紹介します。
公園に置かれているグランドピアノ・・・というとどのように御想像されますか?
公園で定期的に演奏会がある?・・・と想像できます。
実際ウィーンの市立公園では20年近く前には外でオーケストラが毎日ワルツコンサートを行っていました。
日本からの多くの皆様もそこで夕食をした後、演奏会を楽しんでいます。
シェーンブルン宮殿の庭園では毎年5月の終わりにウィーンフィルの無料のオープンエアコンサートが行われます。
でもここに置かれているグランドピアノはもう弾かれることはないでしょう。
そのグランドピアノとはこんな感じで公園の一角に置かれています。
石畳で円形に作られたスぺースに赤いグランドピアノと長椅子が置かれ、まるで今にも演奏会が始まるような演出です。
今までに数多くの公園やガーデンショップを見てきましたが、このような演出がされているのは初めてです。
でもよくよく見ればピアノは相当傷んでいますね。
鍵盤部分も白鍵や黒鍵はなく、ピアノの中にはそこそこ大きな石が詰め込まれていて、箱のような物がが置かれています。
鍵盤のメカニズムははっきり確認できますね。
かつてはちゃんと弾かれたグランドピアノであったことがわかります。
しかも、ふたの所には製造者の名前も薄く見られ、わかりにくいですが双頭の鷲のシンボルも入っています。
右の写真では石が並べられた本来弦が張ってある部分です。
小さな箱のような物には植物が植えられていました。
どういう事情でこのグランドピアノがここに置かれたかは分かりませんが、個性あるデコレーションとして大活躍しています。
ちょっとこれは面白かったですね。
これが見られるのはPillichsdorfで、ウィーン中心部から30km程離れた所にあり、中央ヨーロッパでは最も大きなKellergasseがあることで知られています。
KellergasseはウィーンのSammersdorfにも見られるワイン製造・貯蔵をしておく地下空間で、PillichsdorfにあるKellergasseは非常に有名です。
シェーンブルン宮殿に来ると時間によってはPanoramabahn(パノラマバーン)に出会います。
これはシェーンブルン宮殿の庭園内をグロリエッテを含めて1周しているタイヤで地面の上を走るちんちん電車です。
実はここ10年ぐらいからでしょうか。これは色々な街で見られます。
ウィーンでもGrinzingやStammersdorfといったワイン屋さん街、ヴァッハウ渓谷のデュルンシュタインなどでもよく見られます。
似たようなものとしてDonaupark(ドナウ公園)に走っているものも地元では有名です。
こちらはLiliputbahn(リリプットバーン)という地元で親しまれているちんちん電車系列ですが、タイヤで地面の上をはしるわけではなく、ちゃんと線路の上を走ります。
つまりちゃんとした鉄道でドナウ公園内を循環しています。
Liliputbahnはプラター公園にもあり、こちらの方がドナウ公園のよりも歴史があり、„Schaubahn“として1824年から存在していますが、当時は馬車鉄道から始まりました。
現在3.9km、線路幅381mmで活躍しています。
こちらドナウ公園のLiliputbahnは1964年のWiener Internationalen Gartenschau・・・ウィーン国際園芸博覧会の際に作られました。
営業距離数は3.34km、線路幅はプラター公園と同じ381mm、1周約20分です。
駅はDonauturm、Donau-City、Rosenschauの3つです。
2014年はこのLiliputbahnの50周年記念の年でした。
この大きなドナウ公園内を走っていることから、Donauparkbahn(ドナウパルクバーン)とも呼ばれています。
ウィーンの街中や郊外には個性ある標識が立っています。
普通に歩いていると気付かないこともあったり、意識せずに通り過ぎてしまうことがほとんどです。
こちらは地下鉄などの出口案内を見ると"アイコン"的表示で、何がどちらの方向にあるかということが視覚的に分かり易くなっています。
でも時として、慣れていないとそれが何を意味しているか一瞬考えさせられることもよくあります。
さて、このコーナーでもおもしろい標識、乗馬禁止、サラマンダ―注意、自転車禁止、公園にある禁止標識、そり禁止標識などいくつか話題にしていますが、今日はウィーンの街中にある標識です。
右の写真を御覧下さい。
ウィーン旧市街の一角に立てられている馬車禁止標識です。
御者が荷車に乗っていて、それを馬が引っ張っているように描かれています。
実際にはウィーンの旧市街に荷車を引っ張っている馬車は走っていませんので、これはFiaker(フィアカー)禁止と解釈することができます。
Fiaker(フィアカー)とはウィーンの街に溶け込んでいて、なくてはならない観光用馬車です。
ウィーン旧市街の王宮や石畳の小路などを走っていて、ウィーンの街によく合います。
ウィーンに来たら是非乗ることをお勧めしたいです。
フィアカーは王宮の英雄広場からミヒャエル広場へ抜けるルートや、グラーベンを横切るなど、普通の車では走ることができない場所も走ることが許されています。
逆にこの標識に見られるように禁止の場所も決められています。
ここはどこかというと・・・
御覧のように右側に馬車禁止標識が立っていますね。
ここは最近道路の舗装工事が終わったHerrengasseです。
この通りはミヒャエル広場からSchottentorを結ぶ通りで、ローマ時代はLimesstaraße(リメス)・・・別名Grenzwall(グレンツヴァル)でした。
Limesは駐屯地を中心として防衛範囲をもつ部隊配置のことで、"境"の役割がありました。
古代ローマでは1世紀終わり頃から建設が始まっています。
このHerrengasseには名前から想像できるように多くの宮殿が立ち並んでいて、一角には有名なカフェツェントラルがある洗練された通りです。
ここから先はフィアカーが通行できないというわけです。
このような標識も興味深いですね。
オーストリアは農業も盛んで、食糧自給率は100%と言われています。
ウィーンを離れて郊外を走ると多くの畑が広がっています。
ウィーンの街にだってウィーン市の畑があります。
スーパーなどで日常の食料品を買う時には地元の多くの人はオーストリア産のものを購入する傾向があるようです。
色々な面でしっかりしているオーストリアですから、自国産の食材が一番安心ということでしょうか。
でもこれはわかります。
EUの関係上、周辺諸国からの多くの野菜や果物も並べられていますが、オーストリア産と比べると値段は安めです。
最近はBio嗜好で、値段は高くても健康や環境を考えてBio食材を買う人も増えています。
うちも野菜、肉、卵などは全てと言っていい程Bioです。
味が違いますし、おいしいですね。
さて、オーストリアの郊外を走れば長閑な畑を多く見ることができますが、ウィーンの街中にも小さいですが多くの畑があることに気付かれましたか?
今日はその一場面について触れてみます。
上の写真はウィーン2区の一角であるObere Augartenstraßeです。
ここはBundesugarten(国が管理する庭園)のひとつであるAugarten(アウガルテン)という52haもある大きな公園があります。
ウィーン少年合唱団や磁器工房のアウガルテンもこの一角にあることで有名です。
そのアウガルテンの大通りに面してかなり広範囲で畑が作られています。
このような街中にある畑はUrban Gardening(アーバン ガーデニング)と呼ばれています。
Urban Gardeningは公共の場所での家庭菜園で、ウィーン市内だけでもこのようなコミュニティーが60以上も存在しています。
国やウィーン市が場所や苗床を提供し、希望者が野菜や果物などを植えて管理するわけです。
街中にこのような菜園場所を作ることにより、花やハーブ、野菜が街中にもたらされ、緑が多くなることにより空気も良くなり、自給自足が実現し、自然界の生き物にもいい影響を与えます。
このAugartenはÖsterreichische Bundesforste(ÖBf)の管轄で、120の場所が提供され、花、ハーブ、野菜が栽培されています。
ÖBfは1921年の設立で、オーストリア共和国に属する株式会社で、850.000ha(その内510.000haは森林)の自然を管理しています。
オーストリアにはこのような街中の菜園場所や、集合住宅の中でそこの住人達によって管理されている限られた菜園場所などが多く存在しています。
これだけ見ているととてもウィーン市とは思えませんね。
この場所は中心のドナウ運河沿いにあるSchwedenplatzから1kmぐらいしか離れていません。
写真では見えませんが、左側は車が走っている大通りです。
今日は個性的な公衆トイレの話題です。
観光中に皆様から「フリータイム中にトイレに行きたくなった時はどこに行けばいいでしょうか?」という御質問はよくあります。こちらの公衆トイレは有料であることが多く、デパートなどにも日本と違って手軽に利用できるトイレは極端に少ないですし、そもそも旧市街にはデパートはほとんどありません。
カフェやレストラン、ホテルなどで借りるのもひとつの手です。
でも団体で利用するわけにはいきませんからね。
時と場合によりますが、観光中に急を要する場合はホテルやカフェなどその場所から一番近いトイレにお連れすることは稀にあります。
さて、ウィーンには個性あるトイレが結構あり、こんなトイレがここにあったんだ~ということがよくあります。
このコーナーでも個性的なオペラ座そばの名物トイレ、えっ!!・・・と思う「名物トイレ」、
フンデルトヴァッサーのトイレ、庭園内にも知る人ぞ知る公衆トイレ、ちょっと個性的なトイレ、トイレの扉に子供用の扉などいくつか話題にしています。
右の写真はウィーン10区の有名な公園Kurpark Oberlaa(クアパルク オーバーラー)にある公衆トイレです。
見た感じは中々清潔感があって扉が2ヵ所あります。
遠くから見ていると男女の違いかな・・・と思うのですが、左が男女兼用、右が車椅子用となっています。
この辺もウィーンらしさを感じます。
真ん中に手洗い場所があります。
これだけだと使用中なのかどうかわかりませんが、扉の上には緑と赤のランプがあり、使用中であれば赤ランプが点灯しています。
緑ランプが点灯していれば扉は引くだけで開きます。
扉を開けてみると・・・
室内はこのような構造でした。
便座と便器が一体化していません。
必要がある時に便座を下げられるようになっています。
ちょっと斬新ですね。
便器もこの室内の素材と同じ金属性で、三角錐のようで上が広くて徐々に狭くなっていく形になっています。
空間は決して広くありませんが、機能的に作られています。
必要がある時に便座を下げるようになっているので、基本的には通常のトイレよりも清潔でしょう。
男性が小を足すときには普通は便座を上に上げると思いますが、人によっては便座には触りたくないから、また持ち上げるのも面倒なのでそのまま用を足す人も絶対にいると思います。
そうなると便座にはねることもあるでしょうから、そういう意味ではこのスタイルはむやみに汚される機会が少ないので清潔ということになります。
水洗ですからボタンを押すと大量の水が流れ出します。
この水量は普通のトイレの水量よりも遥かに勢いがあります。
実際にこのトイレを使いましたが清潔で気持ちよく用を足せました。
ウィーンには7つの美術館がありますが、頻繁に御案内するのは美術史博物館とベルヴェデーレ宮殿のオーストリアギャラリーです。
美術史博物館はヨーロッパ3大美術館のひとつでもあり、絵画史上重要な画家が目白押しです。
ベルヴェデーレ宮殿は何と言ってもクリムトが真っ先に登場し、シーレや印象派の作品があります。
共に個性があり、団体ツアーでも毎日のように行きます。
その後に来る美術館としては国立オペラ座のすぐ裏にあるアルベルティーナ美術館は仕事では残念ながら訪れる機会がとても少ないですが、個人的には空き時間によく立ち寄っていて面白い美術館だと思います。
今日は久しぶりにこの美術館の階段アート第6弾をお届けします。
第1回目は「マティスとフォービズム」、2回目はアルブレヒト・デューラーの野うさぎ、3回目はMONET BIS PICASSO、第4回目は"SEURAT,SEGNAC,WAYS OF POINTILLISUM,VAN GOGH" (スーラ、シニャック、ゴッホ、点描画)、5回目はエゴン・シーレでした。
第6弾はこんな感じです。
こちらはKeith Haring(キース・ヘリング・・・1958–1990)の" The Alphabet" という特別展示の宣伝です。
キース・ヘリングはアメリカの画家で、エイズによる合併症で31歳という若さでこの世を去っていて、
ストリートアートの先駆者的人物です。
ポップアート、落書きと言ってもいいでしょう。
Andy Warholとも親交がありました。
ニューヨークの地下鉄駅構内でチョークで絵を描き、地元の人に一挙に知られるようになりました。
社会貢献活動も多く行っていました。
彼の展示会は6月24日までということになっているので、その期間にウィーンに来る方は、是非アルベルティーナに足を運んでみて下さい。
19世紀以降日本の文化はヨーロッパ文化にも大きな影響を与えていて、世界の色々な所に日本庭園が造られるようになります。
異文化主義と言ってもいいと思いますが、日本のイメージというものが表現されているのでしょう。
ヨーロッパももちろん例外ではなく、数えるのが大変なぐらい多くの日本庭園があります。
ドイツには多くの日本庭園があり、フランスやオランダ、ベルギー、スイス、イタリア、ポーランド、チェコ、クロアチア、スゥエーデン、ノルゥエー、フィンランド・・・本当にたくさんあります。
ここウィーンにだってシェーンブルン宮殿の日本庭園、世田谷公園、旧AKH内のミニ日本庭園、
寅さん公園などすぐに思い浮かびます。
今日はまた別の日本庭園をちょっと話題にしてみましょう。
こちらはウィーン10区のLaaer Bergの南東の裾野に位置しているKurpark Oberlaa(クアパルク オーバーラー)という大きな公園の一角にある日本庭園です。
入口は上の写真に見られるように、寂しげな空気が漂う日本風となっています。
右側には日本語とドイツ語の説明が書かれたものが立っています。
写真の日本語で書かれたプレートに見られる通り、1974年に開かれたウィーン国際園芸博覧会に出展した日本庭園を長く保存するために群馬県高崎市が1992年、整備して寄贈しました。
ちなみに1974年ウィーン国際園芸博覧会は4月18日~10月14日まで開かれ、260万人が来場しています。
入口から庭園の中に入ると左側と奥の方に広がっていて、岩に囲まれたちょっとした川が真ん中に作られています。
この川は池のようになっていて周りを一周することができます。
数本のカエデも植えられていて風情を感じます。
ここは外から中の様子を見ることができないように高い垣根のようなもので囲まれています。
そのため、中に入ると一挙に空気が変わります。
この場所はウィーン10区の一角で伝統的に労働者階級が多く住んでいる地域にありますので、ここを訪れている人達のいわゆる客層がちょっと違うことがわかります。
しかし、こんな公園の一角に日本庭園があるというのがおもしろいことです。
ウィーンの街にはドナウ河が流れていることはよく知られています。
そのドナウ河を詠った"美しき青きドナウ"というヨハン・シュトラウスの曲は世界的に知られ、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートの最後だけでなく、ウィーンでいくつも提供されている観光向けのワルツコンサートでも必ず演奏されています。
ウィーンを流れるドナウ河は大きく4つあることを御存知でしたか?
それは本流、新ドナウ、旧ドナウ、運河です。
ウィーンに来られるたいていの方はドナウ運河は見ると思います。街のほぼ中心を流れていますからね。
ドナウ運河を本流だと思っている方も意外と多いんですね。
団体ツアーの場合はリンク道路をバスでひと回りすることが多いですからその時にドナウ運河沿いを走るので、私はドナウ川についての簡単な案内をしています。
でも本流をしっかり見るという方は意外と少ないのではないでしょうか。
ドナウ河については何回か話題にしていますので御興味ある方は
秋のドナウ河、春のドナウ河、ウィーンのドナウ河にある閘門 1,
ウィーンのドナウ河にある閘門 2、ウィーンのドナウ河にある閘門 3、
ヨハン・シュトラウスの"美しき青きドナウ"、ドナウ運河が始まる場所にあるNussdorfer Wehr und Schleuseanlage、ドナウ河の距離表示なども参照して下さい。
今日はそのドナウ運河のちょっとした地点を話題にします。
この写真は通常の観光ポイントからするとかなり珍しい場所から撮影していて、実際に私はドナウ運河の真横に立っています。ドナウ運河が流れている所に降りてきているわけです。
通常ウィーンの街でドナウ運河を見る時には道路の水準から少し見下ろす形になります。
この写真の奥の所に2重橋のようにアーチ構造を持った橋が架かっていますが、ここはウィーン川がドナウ運河に注がれる場所です。
ドナウ運河はNußdorfのドナウ本流から枝分かれして街の中心近くを流れ、やがてPraterspitzと呼ばれる2区と11区の境からまた本流に入ります。
ドナウ運河は中世の頃ドナウの本流部分でした。
ドナウ河は歴史の中で雨が多く降ったり、雪解け水が流れ込むとすぐに水害を引き起こしたのでその度に河川工事的なものが繰り返されてきました。
1700年頃には本流は今よりもかなり東側を流れていたので、そのころから現在のこの部分は"ドナウ運河"と呼ばれるようになりました。
ちなみにここの最初の河川工事は1598年~1600年に行われています。
リンク道路完成後の1868年~1875年の河川工事でドナウ運河は現在の姿になっています。
ウィーン川はウィーンの森にあるKaiserbrunnberg(標高540m地点)が水源で,Niederösterreichからウィーン市14区に入りシェーンブルン宮殿のそばやナッシュマルクトを通りドナウ運河に注がれる全長34km、高低差385mの川です。ウィーン川もドナウ河同様に河川工事のプランがあり、1713年、1781年には水路を深く掘って、川沿いにはアカシアと柳が植えられました。
1875年のドナウ運河河川工事の後、1890年代になってウィーン川の河川工事が行われました。
ウィーン川がドナウ運河に注がれる場所はSchwedenplatzから歩いてすぐのリンク道路の少し外側にあります。
この橋の上をしょっちゅう通りますが、この橋の上に立ってみるのもおもしろいですよ。
ウィーンで生活をしていると新製品のキャンペーンをしている光景によく出くわします。
街中とか路上とかで新製品を配って宣伝をしているわけです。
以前ファンタオレンジのキャンペーンとかコーラの宣伝など話題にしたことがありますが、偶然その場所に居合わせると得した気分になります。
今回は観光中に遭遇した新製品のキャンペーンです。
観光中と言っても旧市街を歩いていたわけではなく、大型バスで移動している時に新製品を宣伝している光景に出くわしました。
この日は先一昨日の11月3日で、ドナウ河クルーズの団体ツアーの皆様を船着き場でお迎えして、大型バスでそこから観光が始まるというものでした。
ドナウ運河沿いを走って街の中心に向かう交差点でちょうど信号が赤になり、私たちの前には3台ぐらいの乗用車が止まりました。
それと同時に数人のキャンペーン係が一斉に停車している車の合間を縫うようにして、小さな物とその広告を高く掲げていてドライバーに配っていました。
私もドライバーに運転席側の窓を開けるように言って、合図してもらったら笑顔でキャンペーンの男性が「どうぞ~!」と言って数個くれました。
遠くから見ていて何が配られているかすぐわかりましたが、実際に手にしたらここ3週間ぐらいからうちでも飲み始めたものでした。
それはActimelというヨーグルトドリンクです。
ウィーンは中心部を始めその外側地域までの歴史地区は世界遺産となっていて、様々な物がリンクしているかつての帝国の都です。
歴史的建造物が多いウィーンは建築や改築などの規制が細かく定められているので、中心部の街並みはそう変わるものではありません。
しかし、建物の中は様々なリフォームも行われ、外側からは目立たない屋根裏部分や屋上などはモダンになっている所も多くあります。
ウィーンを高い所から見て下さい。
建物の屋上などはかなりモダン化されていることがわかります。
今日は個人的にちょっと気に入っているそのひとつを話題にしましょう。
こちらはウィーン旧市街の一角にある屋上テラスです。
ガラスの奥にはウィーンの中心に立つシュテファン大聖堂が見えています。
手前はガラスの囲いがあり、この場所のロゴが見えます。
ここはホテルLaméeの屋上テラスで、このロゴの通り"Lamée ROOFTOP"と呼ばれています。
シュテファン大聖堂からケルントナー通りを背にしてドナウ運河方面にRotemturmstraßeを歩くとアンカー時計があるHohermarktに通じるLichtensteg2番地がここの入口です。
小さなフロントが左側にあり、そこの係にちょっと挨拶をして奥のエレベーターに乗って上がります。
御覧のような雰囲気のカフェテラスになっています。
とても開放的で、ちょっとカラフルなテーブルや椅子、スタンドテーブルなどが置かれています。
飲み物などを準備する係がいる空間はここからは直接見えませんが、中央右側部分にあります。
ここはウィーンの中心部にありながらもちょっと別世界で、私は暑い時によくここに立ち寄ってウィーンの眺めを楽しみながら喉を潤しています。
軽食もすることができ、サラダなどを食べている人も多くいます。
このROOFTOPはシュテファン大聖堂方面に作られていて、写真に見られる通りかなり細長い空間となっています。
このような外からはあまり目立たない屋上テラスから街並みを見るのもおもしろいです。
最後にこのLamée ROOFTOPから見られるシュテファン大聖堂の姿です。
ウィーンに観光で来てケルントナー通りを歩かないという人はまずいないと思います。
たいていのガイドブックでは一番の目抜き通りと紹介されているケルントナー通りは国立オペラ座とシュテファン大聖堂という2つの重要な建造物を結んでいて分かりやすい通りです。
美しさからすればグラーベンの方がずっと綺麗ですが、ケルントナー通りの方が観光では重要かもしれません。
そのケルントナー通りとグラーベンが交わる角にはPalais Equitableという立派な建物があり、その建物の角の所にまず観光の方は気がづかないStock im Eisen
(シュトック・イム・アイゼン)という有名なものがあります。
これは無数の釘が古い木に打ち込まれているというちょっとおもしろいものです。
Stock im Eisenと言うとこの場所を思い浮かべる人がほとんですが、ウィーンには別の場所にもStock im Eisenがあります。
シュテファン大聖堂の近くにあるSotck im Eisenは透明なプラスチックケースに入っているように保護されていますが、こちらの方は外にそのまま記念像的置かれています。
2段の台の上に荒削りの石が置かれ、その石の上に釘がたくさん打ち込まれた木が立っています。
錠前屋や鍛冶屋の修行旅行でその場所に自分が来て、試験に合格した後に、それを永遠化するために釘を打ち込んだという同業者組合の習慣によるもので、この習慣は1715年ぐらいから見られます。
この場所はウィーン8区のWickenburggasseで、ちょっと広場のような雰囲気です。
このStock im Eisenが置かれている場所にはビーダーマイヤー時代の1835年に建てられた建物があり、そこは1899年に錠前屋同業組合によって買い取られました。
右上の写真はその建物に見られる銘板で、ウィーン錠前組合700年記念である1988年にこのStock im Eisenがここに置かれたことが記されています。数百年に渡るウィーン錠前屋の古いシンボルということです。
このような歴史がウィーンの街の至る所に見られます。
全長2.800km以上もあるドナウ河はヨーロッパでは2番目に長い川で、ドイツを水源にしてオーストリアを通り、計10ヵ国を経由して黒海まで注いでいます。その長いドナウ河の最も美しいところが幸いにしてオーストリアにあるヴァッハウ渓谷で世界遺産にも登録されていてシーズン中は船下りの名所となっています。
ウィーンの街にもそのドナウ河が流れているわけですが、ウィーンは歴史的にドナウ河の氾濫に多く悩まされてきました。雨が降ったり、雪解け水が入り込むとすぐに水が溢れてきたのです。そこで河川工事が何回も行われては流されて・・・そんな繰り返しでした。ウィーンのドナウ河は長年からの河川工事のおかげで、現在見られる姿になっていて、大きく分けて4つあり、本流、新ドナウ、旧ドナウ、運河です。
さて、そのドナウ河が氾濫した時にどのくらい水位が上がったかを示すいわゆる物差しが置かれている所がいくつかあり、今日はそれを話題にしてみましょう。
右の写真を御覧下さい。石の壁の所に地面から壁の上まで物差しが見られますね。これは何年にドナウ河の氾濫があって、どこまで水位があったかを示しています。
この物差しの一番下にある赤い字はローマ数字"VIII"が記されていて、ドナウ河から8mの高さを示しています。
実はこの場所はドナウ河からちょっと高い所に位置しています。
ずっと上の10mと11mの間には左右に赤い数字が縦に書かれています。左側が2002、右側が2013です。
つまり2002年と2013年にはここまで水位が上がったことを示しています。
この場所はヴァッハウ渓谷の有名な街デュルンシュタインの船着き場からすぐの所にあるドナウ河に沿ったプロムナードで見ることができます。
ここを歩くとわかりますがドナウ河はプロムナードよりもかなり下を流れているわけですが、そこから10m以上も水位が上がったわけですから相当な量ということになります。
2013年の時はNHKのニュースでもこの地域の水害が報道されていて、その模様をウィーンの自宅で見たことを今でも覚えています。
NHKで登場したのはこのデュルンシュタインではなく、メルク修道院とは反対側にあるEmmesdorf an der Donauという街でした。
この時の映像では街中をボートで移動している人が映し出されていました。
こちらの写真もデュルンシュタインですが、上の写真とは別の場所です。
ここにもたくさんの赤いラインが引かれています。
一番下から1923、1920、1954、1897、1899、2013、1862と書かれていてそれぞれの年の水位を示しています。
一番上の赤い線の左側に小さな黒のプレートが見られますが、ここには2002年8月14日と書かれています。
上の写真でもそうでしたが2002年が一番高かったようです。
右上の写真を御覧下さい。こちらはドナウ河が見えるように物差しを別の角度から写しています。
大きな木の後ろ側にはドナウ河が流れているのがはっきり見えます。
相当高い所まで水位が上がったことがわかります。
ドナウ河については何回か話題にしていますので御興味ある方は
秋のドナウ河、春のドナウ河、ウィーンのドナウ河にある閘門 1,
ウィーンのドナウ河にある閘門 2、ウィーンのドナウ河にある閘門 3、
ヨハン・シュトラウスの"美しき青きドナウ"、ドナウ運河が始まる場所にあるNussdorfer Wehr und Schleuseanlage、ドナウ河の距離表示なども参照して下さい。
ウィーンのカフェは文化の一面で、100年以上も営業しているカフェハウスがたくさんあります。
カフェ発祥とも言われているウィーンの街ですから、伝統カフェハウスに座ってカフェハウスの空気に触れることもウィーンの観光では外せません。
ウィーンのカフェハウス文化は無形文化遺産にもなっていて、完全に生活に密着しています。
さて、カフェハウスと言えば5月23日付でウィーンで唯一の"Fenster CAFE" (窓のカフェ)を紹介しましたが、その後ここを初めて見た時に直感で思った通り、私は常連となっていました。
そもそもこの場所自体がGriechenviertel(グリーヒェンフィアテル)と呼ばれるウィーン旧市街一角の歴史ある地域で、ここは17世紀中頃からオリエント貿易を営むギリシャ人の商人が多く住み始めたことから由来しています。
ここにはウィーン最古の "グリーヒェンバイスル"という話題性あるレストランがあり、日本からの団体ツアーでもよくここで食事があること、また個人的にもこの界隈は仕事が終わった後、頻繁に通る地域だったのです。
そのレストランの向かいにまったく空気が異なる小さなこの窓のカフェが5月半ばにオープンしたわけで、それからというもの仕事の後にしょっちゅう訪れることになり、私は完全に常連となりました。
ひとつはここのコーヒーがとてもおいしいことです。
ここのオーナーはコーヒーの質にこだわりがあって、本当にいい豆を仕入れていて、ウィーンのカフェハウスやレストランに見られるよりもはるかに高価なカフェマシンを使用しています。
オーナー自慢の豆もここで買うことができます。
私が個人的に好きなのはここで提供されている全てのカフェがアイスコーヒーでも提供されるということです。
ウィーンのカフェハウスでアイスコーヒーと言うと、Wiener Eiskaffeeを真っ先に思い浮かべます。
これはこれでおいしくてウィーンを感じる飲み物だと思いますが、日本的なアイスコーヒーとはかなり違います。
でもこの窓のカフェでは日本的なアイスコーヒーからカプチーノやラッテまで希望すれば全てアイスコーヒースタイルで出してくれます。
もちろん、ホットなコーヒーも売りですが、アイスコーヒーにもオーナーはこだわりを持っています。
特にCOLD BREWはアイスコーヒーを本当に飲みたい方にお勧めです。
右上の写真は私がよく飲んでいるLATTEですが、仕事の後の喉の渇きを潤すのによく飲んでいます。
ここは壁にひとつの窓があるだけで、椅子があって座れるカフェではなく、持ち帰りスタイルとなっていますが、私はここに来るたびにオーナーと世間話をしています。
隣のグリーヒェンバイスルで働いている多くのボーイさんとも顔見知りなので、ここでカフェを飲んでいると、「今度はうちのカフェを飲んでくれよ」とか「今日はうちで食事じゃないの?」とか笑いながらよく冷やかされています。
"窓のカフェ"というアイデアもおもしろですが、コーヒーの味と質にこだわる所が気に入っています。
今日も仕事の帰りにきっとここで喉を潤すことになるでしょう。
オーストリアは国は小さいですが、観光での魅力を全て持っている美しい国です。
9つの州、それぞれ個性があって色々な一面を見ることができます。
ウィーンはかつての帝国の都ですから荘厳な建造物が達ならんぶ上品で優雅な街ですが、ちょっと郊外に行けばのどかな美しい風景に出会えます。
郊外にあるオーストリアの名所のひとつであるヴァッハウ渓谷は全長2.800km以上もあるドナウ河の最も美しい所で船下りの名所となっていて、世界遺産にも登録されています。
私もここは大好きで、仕事でもプライベートでもよく行きます。
ここは個人的に行く人も多いでしょうし、現地ツアーで行く人も多いでしょう。
今日はオーストリア国鉄が提供しているヴァッハウ渓谷のコンビチケットを紹介します。
ÖBB(オーストリア連邦鉄道)が提供しているヴァッハウ渓谷コンビチケットはウィーン~メルクとクレムス~ウィーンの電車代、メルク修道院入場、船下りがセットになっていて、個別でそれぞれ支払うよりもお安くなっています。
期間は4月15日~10月29日までです。
料金はÖBB VORTEILSCARDを持っている人は49ユーロ、一般は55ユーロ、6歳~15歳までは32ユーロとなっています。
このコンビチケットが実際どのくらいお得なのかと言うと・・・
●ウィーン~メルク 15.40ユーロ
●メルク修道院入場 11ユーロ
(ガイドツアーなしの個人で見る料金)
●船下り 25ユーロ
●クレムス~ウィーン 17.60ユーロ
上記は2017年度の個別の一般料金です。別々に購入した場合は合計69ユーロかかることになりますね。
コンビチケットは一般55ユーロですから14ユーロもお得となります。
一般的にはウィーンからメルクに行って、修道院を見学した後、昼食後船下り、デュルンシュタインで下船してウィーンに戻るパターンが多いですが、このコンビチケットはこの逆ルートも有効です。
つまりウィーン~クレムス、クレムスから船上りでメルクまで、修道院見学、メルク~ウィーンです。
この場合は船上りですからドナウ河の流れが強いためクルーズが約3時間かかります。(下る場合は1時間40分)
船に長く乗っていたい人はこの回り方もありでしょうか。
ちなみにこのコンビチケットでは船下りの始まりや終点がクレムスとなっていますので、ヴァッハウ渓谷の一番有名な街であるデュルンシュタインは通り過ぎるだけということになります。
しかし、船下りの料金は一緒なので別にデュルンシュタインで下船しても、逆にデュルンシュタインから乗船してもOKです。この場合はクレムス~デュルンシュタインを個人的にバス、タクシー、ヴァッハウ鉄道などで移動することになります。
実際にどういう時間的行程になるかは以下を御覧下さい。
これはÖBBサイトからの行程表です。
ウィーン中央駅から8:55に出発して、帰りは18:00にフランツ・ヨーゼフ駅に到着です。
または、フランツ・ヨーゼフ駅8:04出発、ウィーン中央駅18:05到着ということですね。
始まりと終わりの駅が違うのはヴァッハウ渓谷の地理的状況からです。
この時間の電車ではウィーン~メルク間で、途中駅St.Pöltenでの乗り換えがありますが、乗り換え時間は全く問題ありません。
このコンビチケットはÖBB窓口、ÖBB自販機、ÖBBチケット購入サイト(ドイツ語/英語)で購入できます。
ウィーンの街には星の数ほどレストランやカフェがあります。
現地の食文化に触れることも旅の楽しみのひとつですね。
レストランやカフェのようにしっかり座って食べるだけでなく、ソーセージスタンドやスーパーなどでパンを買って公園で食べるなんてこともありでしょう。
しっかり食べたい、ちょっと軽く食べたい・・・などお腹の空き具合などにもよりますが旧市街を歩けば様々な選択ができ、食べ物に困ることはありません。
今日は地元でよく知られている気軽に寄れるカナッペの店を話題にしたいと思います。
その店とは"TRZEŚNIEWSKI"です。
この店の読み方が難しいですが、地元ドイツ語発音をカタカナに直せば"トレシュ二エフスキ"とウィーンでは発音されています。
この店は実は100年以上の歴史があります。
1902年にFranciszek Trześniewskiがウィーン旧市街のTiefer Grabenに手軽に食べられる店(ドイツ語ではImbiss)をオープンさせました。彼はポーランドのクラクフ出身です。
Tiefer Grabenはユーゲントシュティール様式の橋やベートーヴェン住居があった所で、歴史的におもしろい所です。
彼はその後店を有名なカフェ ハヴェルカの斜め前に移します。
第一次世界大戦後の困難な時期を乗り切り、1939年には彼の娘のマリアが店を引き継ぎました。
第二次世界大戦後、この店は大変人気のある場所となっていきました。
現在でもここはハヴェルカがあるDrotheergasseにあります。
店内は決して広くありませんが、時間によってはかなり混雑します。
地元で人気あることがよくわかります。
入るとすぐに大きなショーケースにたくさんのカナッペが並んでいます。
ここの味を知っている人は迷うことなくすぐに注文しますが、最初はかなり迷ってしまいますよ。
何が載せられているかわからない方は右側に写真に見られるようにメニューのようにちゃんと説明書きされています。
しかも日本語表記までもありますから言葉に自信がなくても大丈夫です。
以前はあり得ませんでしたが、最近この店が日本でも知られて来ていることを表していますね。
こちらではパンの上に塗られて食べられるこのようなものをAufstrich(アウフシュトリッヒ)と呼んでいますが、ここは独特なコンビネーションです。
例えばいわし&オニオン、ニシン&オニオン、にんじん&クリームチーズ、サーモンマリネ、鳥レバーなど色々あります。
TRZEŚNIEWSKIは現在ウィーンの街中に11ヵ所店が出ていますが、多くはSCS,SCN,Donauzentrum、CItyGate、西駅といったショッピングセンター的な所にありますから、観光で立ち寄るのであればここでしょう。
ウィーンは東京と同じ23区で成り立っていて、415km²とかなり広い街です。
中心部だけにいるとその辺はわかりませんが、車などで走ると結構広い街だな・・・ということを実感します。
それぞれの区にはそれぞれのカラーがあって、ウィーンの街だけでも地域の違いを感じます。
ハプスブルグ帝国のおかげで昔からの混合民族の色合いが今でも濃く感じます。
観光レベルで見ただけではそこまではわかりませんが、生活をしているとその辺が非常にはっきり見えておもしろいです。
それぞれの地域の生活に個性があります。
生活というと買い物・・・スーパーや市場がつきものです。
市場と言えばNaschmarkt(ナッシュマルクト)が観光ではず抜きに出て有名ですが、市場は街の色々な所にあります。
今日は同じ市場でも限られた人しかまだ知られていない市場に少し触れてみます。
そのあまり知られていない市場とはウィーン旧市街一角のDominikanerbasteiとPostgasseの間にある歴史的な建物にあります。
この建物はHauptmautgebäudeとして1684年と記録されています。
19世紀終わりに近い頃、ここは郵便局として使用されていましたので、現在でも"Alte Post"と呼ばれています。
左上の写真はDominikanerbastei側にある建物で、ちょっと立派です。
ここの入口には"Markterei" (マルクテライ)という看板が掲げられています。
ここから中に入ると、この大きな建物の中庭空間に入り、そのまま反対側のPostgasseに通り抜けができます。
この中庭空間に入口があって、そこから入ったさらに奥にMarkthalleという空間があり、そこがこの市場のメイン会場です。
左上の写真は中庭からこのMarkthalleへの入口を見ています。
ここにはデッキチェアやベンチなどが置かれていてくつろげる空間になっています。
中の市場で買ってきたものをここで食べてもいいわけです。
右上の写真はMarkthalleです。
真ん中にスペースは長椅子とテーブルが並べられて、壁沿いに多くの市が出ています。
市場ではパン、ハム、サラミ、チーズなどの市場で定番な食品、Trześniewskiという地元で有名なカナッペの店、健康的な飲み物やバーなどもあります。
この市場は常設というわけではありませんので、実際の雰囲気は一般的な"市場"のとはかなり違っています。
この市場があまり知られていないのは常に開かれているわけではありません。
2015年11月~2016年4月までが初回で、場所はこのAlte Post、2回目は7区の一角で、3回目が今回で2016年11月~2017年6月17日までです。
しかも金曜日と土曜日だけ開かれていますので限らているわけですね。
今週が最後です。
営業時間は金曜日12:00~22:00、土曜日は10:00~24:00です。
もちろん入場無料ですから、時間が合えば覗いてみて下さい。
先日団体ツアーの皆様をアテンドしている時にちょっとおもしろいカフェに出会いました。
この日は全日でアテンドしていて、昼食がウィーン最古のレストラン "グリエーヒェンバイスル"に予約が入っていました。このレストランは話題性があるので、ある程度の予算があるツアーではよく利用します。
この日はシェーンブルン宮殿のグランドツアーが終わって、庭園見学の時間を取った後、バスで国立オペラ座からリンク道路をSchwedenplatzまで走ってそこから歩いて行きました。
ここにはGriechengasseという歴史を感じる小路があり、その小路の片側の壁の中にちょっと見慣れない光景を目にしました。
一瞬、壁に穴が開いているように思えましたが、すぐに何であるかわかりました。
上の写真を御覧下さい。
この通りがGriechengasseで、とても細い石畳の通りです。
向かって右側の壁がレストラン グリエーヒェンバイスルですが、その反対側の壁は窓になっていて、
小さなカウンターがあるカフェになっていたのです。
個人的にはおもしろい発想だと思いました。
皆さんにこのレストランについての話をしながら歩いて来たのですが、この見慣れない光景のため、こっちが話題になりました。
窓の中からすぐにオーナーが声をかけてきました。
右上の写真がオーナーで、とても明るくて親切な方です。
この日は5月17日だったのですが、3日前にオープンしたとのことで、私達に宣伝のために無料でここのコーヒーを勧めてくれましたが昼食前だったので残念ですが・・・ということでお断りをしました。
その後、この日の仕事が終わってから個人的にここにまた来て、オーナーと話をしました。
旧市街全体が世界遺産ということもあって、当局からの営業許可が非常に複雑で大変だったと・・・
でもこの発想には自信を持っていて、ウィーンで唯一の"窓のカフェ"ということです。
オーナーがカフェを御馳走してくれて、仕事の後だったこともあり、こくのある美味しさでした。
その後まだ数日しか経っていませんが、ここを通る度に話をするようになりました。
ちなみに小さなカウンターがありますが、基本は持ち帰りスタイルのカフェです。
結構種類があります。
この歴史ある場所の壁にある窓からカフェが提供されるというのはおもしろいですね。
ちなみに中世の住居塔と美しいライトアップ 4ではこのGriechengasseも話題にしています。
ウィーンには7つの美術館がありますが、頻繁に御案内するのは美術史博物館とベルヴェデーレ宮殿のオーストリアギャラリーです。美術史博物館はヨーロッパ3大美術館のひとつにもよく数えられ、15世紀~18世紀の絵画史上重要な作品が目白押しです。ベルヴェデーレ宮殿の上下宮はオーストリアギャラリーで、特に上宮はクリムトが多くあることで知られ、19世紀、20世紀の絵画が多く見られます。
それとは別に国立オペラ座のすぐ後ろにあるアルベルティーナ美術館も意外とおもしろい美術館で、常設展の他に様々な特別展示会が定期的にあります。
このアルベルティーナ美術館の階段がアートになっていて、特別展示会の内容によってよく変わります。
今日はそのアートの第5弾です。
第1回目は「マティスとフォービズム」、2回目はアルブレヒト・デューラーの野うさぎ、3回目はMONET BIS PICASSO、第4回目は"SEURAT,SEGNAC,WAYS OF POINTILLISUM,VAN GOGH" (スーラ、シニャック、ゴッホ、点描画)でした。
第5弾はこんな感じです。
この場所は国立オペラ座の裏側にあり、アルベルティーナ美術館へはエスカレーター、エレベーター、もしくは後ろの階段やこの階段を使って2階の入口に行きます。
これはもう見た瞬間にエゴン・シーレの絵であることがわかります。かなり目立ちますね。エゴン・シーレ展は2017年2月22日~2017年6月18日まで開かれています。
アルベルティーナ美術館は約5万点の素描・水彩画と約90万点の版画のコレクションを所有して、これは世界最大規模です。
アルベルティーナは、王宮の一角のAugustinerbastei(アウグスティーナーバスタイ)の上に、もともと17世紀後半に宮廷役所として建てられました。
18世紀の1742~1745年マリア・テレジア時代に、マリア・テレジアの助言者で、宮廷建築監督のEmanuel Silva-Tarouca によって宮殿に改築されます。
その後18世紀終わり1795年、ザクセンのアルベルト公が所有し、彼の好みに改築させました。
このアルベルト公は、マリア・テレジアの成人した子では次女にあたるマリア・クリスティーナと結婚します。
このアルベルト公はグラフィックコレクションを所有しており、彼が亡くなった1822年にはそのコレクションの重要な作品が一般公開されています。
そこからここはアルベルティーナという名称がついています。
エゴン・シーレ展は結構おもしろいですよ。
ウィーンの街は歴史があるので普通に歩いているだけでも十分楽しませてくれます。
ヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ王朝の居城があり、そのハプスブルグ家から神聖ローマ皇帝やローマ王が多く輩出されたこともありウィーンの街は他のヨーロッパの街とは歴史的立場が全く違っています。
街中の歴史的建造物や教会など、一般的な建物でさえも様々な時代様式から成り立っていて、それだけ見ていても飽きることがありません。
ウィーンの街が華やかに見えるひとつの理由でもあるわけです。
歴史的建造物や教会などにはよくラテン語の文字があったり、ローマ数字があったりしますし、またハプスブルグ家が関わっている建物や修道院などでは様々な紋章を見ることができます。
だいぶ前にキリスト教でよく見るモノグラムについて書いたことがありましたが、そのようなものも一例として興味深いものがあります。
さて、今日はこんなものを取り上げてみます。
右の写真に見られるものは何でしょうか?
何も気にしなければただの装飾模様に見えるのではないかと思います。
木の丸い縁どりにはさらにたくさんの球体装飾が施されていて、真ん中には金属で作られた模様がはめ込まれていますね。
この模様をよく観察して下さい。
一見すると左右対称のバロック的装飾で、縦に3本の棒が見られ、真ん中の棒だけがちょっと長めになっています。
棒の先にも渦巻き的な装飾が見られます。
しばらく見ているとローマ字の"H"の形のように見えないこともありません。
でも完全な"H"ではないですね。
何でしょう?
それではこちらはどうでしょうか?
これは木で作られたバロック的ワッペンです。
左の写真は上の写真と同じものを表現していますがちょっと簡略化されて分かり易くなっていますね。
そうです・・・
よく見ると3つの文字が表現されています。
左から"F・・J・・1"の3文字です。
もう一度上の写真を見て下さい。
左からF,J,1であることがわかりますが、Jは下のカーブが表現されていませんが。
これはハプスブルグ家事実上最後の皇帝で、バイエルンの王女エリザベート(愛称シシィ)の夫であるFranz Josef I.(フランツ・ヨーゼフ1世)のモノグラムです。
フランツ・ヨーゼフ1世は1830年8月18日にシェーンブルン宮殿で生まれ、18歳から68年間も皇帝であり続け、1916年11月21日にやはりシェーンブルン宮殿で86歳で亡くなります。
1枚目の写真は実は国立オペラ座の入口の扉に見られるもので、この国立オペラ座はリンク道路沿いの最初の大建造物としてプランされ、1868年には完成しています。
実際この国立オペラ座の上の部分にはフランツ・ヨーゼフ1世の名前が刻まれています。
今年2016年はフランツ・ヨーゼフ1世の没後100年祭にあたり、シェーンブルン宮殿では特別記念展示も行われています。
ほとんど気付かれないようなものですが、重要な意味を持っていました。
ウィーンの旧市街の真ん中にはシュテファン大聖堂があります。
ゴシック様式のとても印象的なこの大聖堂はウィーンのシンボルのひとつでもあり、歴史的にもとても重要な教会となっています。
年間を通してこのシュテファン大聖堂も頻繁に御案内しますが、2年前(2014年)の4月の終わりまではシュテファン大聖堂のすぐ後ろまで大型バスを横付けできましたが、それ以降は残念ながらバスが入れなくなったため、ここを見学する場合はSchwedenplatzや国立オペラ座裏のアルベルティーナから歩く必要があります。
普通免許で運転できる専用車での場合は、なるべく近くまで入ってそこから歩きます。
そのシュテファン大聖堂の前は広場になっていますが、ここはあまり知られていないかもしれませんが実は2つの広場がくっついています。
StephansplatzとStock im Eisen Platzという2つの広場です。
Stock im Eisen(シュトック・イム・アイゼン)についてはこちらを参照して下さい。
Stephansplatzにはあまり気付かれることがない石畳があります。
右の写真はシュテファン大聖堂が定番な姿で見られる場所ですが、地面には一見なんだかわからないような石畳の模様を見ることができます。
たいていの人はその意味に気づくことなくここを通り過ぎて行きます。
いくつかの異なった石畳のブロックが見られますね。
今はシュテファン広場になっているこの場所は中世の頃この大聖堂の墓地でした。
その墓地の敷地の中に"MARIA MAGDALENA KAPELLE" (マリア・マグダレーナカペレ)という礼拝堂が建っていました。
この礼拝堂の地下にはVirgilkapelle (ヴィルギルカペレ)という聖人ヴィルギルに捧げられた礼拝堂が1220年~1230年頃に作られました。
ヴィルギル礼拝堂についてはいつか時間がある時にまたこのコーナーで取り上げます。
実はこのVirgilkapelleが先に作られて、その後、その上にこのMaria Magdalena Kapelleが作られます。
Magdalenakapelleは公証人・書記協会の会合の場所として使用されていました。
18世紀になってマリア・テレジアの時代、衛生上の問題から城壁の中の遺体の埋葬を禁止させたこと、女帝の長男のヨーゼフ2世は墓地を閉鎖させて外側に埋葬させたことや、1781年にMagdalena礼拝堂が火災で焼失したこともあり、この場所は忘れ去られていくことになります。
このシュテファン大聖堂前の石畳の模様はこのMagdalenakapelleが当時ここに立っていた場所を示しています。
言ってみれば見取り図のようになっています。
この場所をよく見ると地面の所に左の写真に見られるような記念プレートがはめ込まれています。
"MARIA MAGDALENA KAPELLEが1781年まで、
その下に博物館として見学可能なVirgilkapelle"
と記されています。
Magdalena礼拝堂の場所を示す石畳のブロックがかなり広範囲なので、ここを歩く人はこの石畳の模様にはあまり関心を持たず、そのまま通り過ぎていくようですが、歴史的におもしろい意味が隠されていました。
それを知っていると普段ここを通る時ちょっと特別な思いがあります。
少し立ち止まって観察してみて下さい。
"ちょっとおもしろいマンホールのふた"というタイトルでだいぶ前に国立オペラ座やバーデンのマンホールのふたをここで話題にしました。
ウィーンの街並みの美しさに気を取られていて、無意識に通常の視線で歩いてしまいますが
地面を見てもこのようにちょっとした芸術的なものもあるわけです。
マンホールの蓋があるということは、当然その下には下水道(こちらではKanalnetz・・・カナールネッツと呼ばれている) が作られているわけです。
ウィーンは1世紀のローマ軍の駐屯地(der XIII.Legion)時代にはすでに当時としてはモダンな下水道システム がありました。
14世紀の終わり(1388年)には地面の下に専用のルートが作られていました。
1739年には街を囲む城壁の中が完全に地下化されています。
ウィーンはヨーロッパで初めて城壁の中が完全に下水道が地下化された最初の街であることが知られています。
その後、19,20世紀にKanalnetzはどんどん延長され、拡張されていきました。
1948年に映画「第三の男」のラストシーンで効果的にウィーンの下水道迷路が使われたことはよく知られています。
現在ウィーンの住居のほぼ100%の99%が地下公共下水道と接続されています。
これはヨーロッパではトップクラスです。
全長2.400kmにも及んでいます。これはウィーン~ザルツブルクを8往復する距離です!
文字通り下水道の迷路です。
こちらは双頭の鷲がマンホールのふたになっているという高貴なものです。
このマンホールのふたはクレムスのもので、この鷲はクレムスの紋章です。
1463年に皇帝フリードリヒ3世がこのクレムスの街に与えたもので、現在でもこの街の紋章として使われています。
赤い舌を出した金の双頭の鷲で、皇帝の帝冠が間にあります。
地面にも歴史を感じる物が刻まれています。
ウィーンで音楽家の跡を見ようと思ったら時間がいくらあっても足りません。
"音楽の都"と言われている通りたくさんの作曲家がこの街に足跡を残しました。
当時作曲家達が住んでいた場所の多くが博物館になっていてその多くがウィーン市の管轄となっています。
博物館にはなっていなくても、住んだいたことを示す記念プレートも多くあり、また記念像なども多く立っています。
たいていの作曲家の家には絵ハガキやCDなどのちょっとした物も売られていますが、あくまでも係がいる窓口にちょっと置かれている程度です。
ベートーヴェンの住居のひとつであって博物館となっているパスクヴァラティハウスもこのコーナーでテーマにしていますが、その博物館がある入口に博物館とは全く関係のない小さなベートーヴェンショップがあります。
一般的にパスクヴァラティハウスに来る時にはリンク道路沿いのウィーン大学が反対側に見える場所から
メルカーバスタイのスロープを上って行きます。
ベートーヴェンの記念プレートが見られ、入口に扉があって中に入ると静かな中庭空間があり、そこからさらに右側に扉があって建物の中に入り、階段を上がって行きます。
ここにはショップらしきものは全くありません。
中庭からこの建物の中に入るとわかりますが、右には博物館へ行く階段がありますが、そことは反対側に別の出口があり、来た所とは反対側に出られるようになっています。
この出口の階段を下りたすぐ右側に小さな木の扉があり、ここにベートーヴェンショップがあります。
たいていこの扉は閉まっていますが、思い切って開けると中はショップです。
大人が3人も入れば窮屈に感じてしまう小さなショップです。
カウンターがあってここの係が奥にある部屋と行き来しています。
ここに誰もいなくても、すぐに係が気付いてショップに現れます。
博物館にも置かれている同じ物も一部ありますが、それ以外ちょっとした小物などが狭い店内に多くの物が並んでいます。
パスクヴァラティハウスを見学された方は是非覗いてみましょう。
お店の方もとても親切ですよ。
このブログコーナーでもベートーヴェンに関することは結構取り上げています。
ハイリゲンシュタットの遺書の家、ベートーヴェンのデスマスク、第9交響曲の家、
第9交響曲の家 2、第9交響曲の家 3、交響曲第6番田園の小川、ベートーヴェンの記念像、
ヘレーネ渓谷のベートーヴェンの跡、ウィーン21区のベートーヴェンの滞在場所、
ベートーヴェンの最後の住居、中央墓地、ウィーンのベートーヴェンの散歩道にあるベートーヴェン像なども参照して下さい。
ウィーンの街は普通に歩いているだけで歴史の深さを感じることができます。
特に旧市街は何回歩いても飽きることがありません。
ローマ時代、荘厳な歴史的建造物、絵になる広場、帝国時代からの老舗、普通では見られない路地裏や中庭などとても奥が深い旧市街地です。
ウィーンの歴史では1529年と1683年にオスマントルコの包囲があったことはよく知られていて語り継がれています。
以前そのオスマントルコが放った砲弾をここで話題にしたことがありましたが、今日はその時とは違う別の砲弾です。
こちらはかなり有名な砲弾で、壁の中に石の砲弾が埋め込まれているのが見えます。
これがどこにあるかはウィーンをよく知っている人であればすぐわかると思います。
ウィーン最古のレストラングリーヒェンバイスルに入るちょっと手前左側の螺旋階段の入口に見られます。
一見、鉄の玉のようにも見えますね。
実は右の写真に見られるように石の砲弾3つが埋め込まれています。
昔のドイツ語で何か色々なことが記されています。
1529年のオスマントルコのウィーン包囲の時、ここは当時"Gasthaus zum gelben Adler"と呼ばれていて、ウィーンの城壁のバスタイの一部に組み込まれていました。
この場所は雹のように降り注ぐ砲弾のの中にありました。
1963年にここの修復作業が行われた時にこの3つの砲弾が発見されました。
このレストランの歴史的出来事の貴重な一部となっています。
貴重な城壁の名残り 1、貴重な城壁の名残り 2 も参考にどうぞ。
久しぶりにちょっとおもいろい階段を取り上げたいと思います。この階段は国立オペラ座裏にあるアルベルティーナ美術館の階段で、ここの展示内容によって階段に描かれているアートが変わります。
第1回目は「マティスとフォービズム」、2回目はアルブレヒト・デューラーの野うさぎ、3回目はMONET BIS PICASSOでした。第4弾は何でしょうか?
第4弾はこんな感じです。太陽が昇っているのが奥に見えていて、手前には人物が何かしていますね。何をしているんでしょう?
この絵を知っている人は多いかもしれませんね。
これはゴッホの「種をまく人」です。
これは"SEURAT、SEGNAC, WAYS OF POINTILLISUM ,VAN GOGH"というアルベルティーナ美術館の展示会で2016年9月16日~2017年1月8日まで開かれています。スーラ、シニャック、ゴッホの3人の名前がタイトルになっています。彼らのスタイルから想像できますがPOINTILLISUMは点描ですね。この階段をひとつひとつ見ていると点描という雰囲気はあまりしませんね。
それではちょっと離れた所からこの階段を見てみましょう。この方が何を描いているかよくわかります。
毎回書いていますが、アルベルティーナは、王宮の一角のAugustinerbastei(アウグスティーナーバスタイ)の上に、もともと17世紀後半に宮廷役所として建てられました。
18世紀の1742~1745年マリア・テレジア時代に、マリア・テレジアの助言者で、宮廷建築監督のEmanuel Silva-Tarouca によって宮殿に改築されました。
美術史博物館の方が遥かに多く訪れますが、ここは国立オペラ座に近いことや印象派の常設展もあることから地元では人気のある美術館となっています。
この階段には常に誰かが上り下りしていたり、座ってくつろいでいる人がいるので、誰もいないこの階段を見るためには朝早くにここに来る必要があります。(笑)
ウィーンは現在の生活がちゃんとあっても、その中に様々な歴史が見られるとても奥深い街です。
最近の団体ツアーでもシェーンブルン宮殿以外にもウィーンの中心部を少しでも歩くことが多くなりました。
最も2014年の5月から残念なことにシュテファン大聖堂までバスで入れなくなったため、シュテファン大聖堂が観光プログラムに入っている場合は絶対に歩くことになるわけです。
通常の団体ツアーの場合は時間がかなりきついので、歩く時間も当然制限されますから、それでも私はなるべくこのウィーンの街が歴史的にとても奥が深いことを紹介しながら歩いています。
ウィーンの街はローマ時代から存在し、中世のバーベンベルク王朝時代、そしてヨーロッパで一番長く続したハプスブルグ王朝時代に街が発展していきました。
ウィーンの中心部が城壁で囲まれていたことは有名で、今でも何か所かでその名残を見ることができます。
今日はそれを思い起こさせる城壁(城門)の一部について少し書き記します。
このコーナーでもウィーンの街を囲んでいた城壁については何回か書いていますので参考にして下さい↓
貴重な城壁の名残り 1、貴重な城壁の名残り 2、貴重な城壁の名残り 3、
2つ目の城壁「Linienwall」、19世紀後半のウィーンの街並み、ウィーンの城壁とある城門なども参照して下さい。
こちらは王宮 3 で紹介しているLeopoldinischder Traktです。
この部分はリンク道路からでもよく見られ、17世紀半ばに建築された初期バロック様式です。
ここはマリア・テレジア広場からバスを降りて、英雄広場を通りながらお客様とよく歩く場所で、王宮全体の説明をする時には様々な建築様式を見ながら効率よくミヒャエル広場やヨーゼフ広場に通り抜けができます。
このレオポルド宮を通り抜ける時にたいていの人が気付くことがない貴重な城壁の名残があります。
上の写真に見られる場所が通り道の壁の所に見られます。
これは"Widmertor"と言われる中世の城壁に組み込まれていた城門の名残です。
ウィーンの旧市街地の基本の大きさが形成されるのはバーベンベルク王朝時代で、12世紀の終わりにローマ時代の城壁をもっと拡張する形で築かれていきました。
最終的にこの城壁はフランツ・ヨーゼフ1世の時代1858年から取り壊されて、1865年にはリンク道路が全線開通することとなります。
当時城壁が取り壊される時点では全部で11個の城門がありました。
これは13世紀の1230年~1240年代にバーベンベルクの居城を建築する際に、当時の城壁に組み込んだ部分です。
ここにはWidmerturmという城壁(城門)に組み込まれた塔があり、これはその名残で16世紀の初頭まで存在していました。
"Widmer"という名は当時のこの地域の名前です。
ウィーンの旧市街は当時Viertel (フィアテル)と言われた
Stubenviertel , Kärntner Viertel , Widmerviertel 、Schottenviertel 4つの地域に分けられていました。
そのひとつであるWidmerviertelから由来しています。
Widmerturmの最初の記録は1418年です。
皇帝フェルディナント1世の時代1553年~1559年に住居に改築され、その部分が隣接しているスイス宮に接続されました。
そこからレオポルド宮が建築されることになります。
ほとんどの人が気付かないこのようなちょっとした物でもとても深い歴史が隠れているわけです。
ウィーンは本当に奥が深い街です!
ウィーンにはたくさんの路面電車が走っていますね。
去年2015年はリンク道路開通150周年記念と同時に、路面電車も150周年記念です。
ウィーンの路面電車はリンク道路開通と同時に営業が始まりました。
最初の区間はSchottenring~Hernals間で、鉄道馬車から始まっています。
ウィーンの路面電車は市民の重要な足としてなくてはならない存在です。
リンク道路上から外側に向かってや、中心を全く経由しない路面電車など本当に多くの路面電車が活躍しています。
路面電車もウィーンの街の風景に溶け込んでいます。
さて、私も頻繁に路面電車を利用しますが、仕事でも日本のツアーの皆様と路面電車をチャーターして乗ったり、観光中に路面電車体験乗車をプログラムに入れている団体ツアーも多くあります。
乗るとわかりますが、たくさんの分かれ道があって、系統番号によって様々な方向に走るわけですが、分かれ道には当然ポイントがあります。
このポイントの切り替えは、通常路線の場合ポイントに設置してある無線が路面電車と反応して自動で切り替わるようになっています。
しかし時としてそれが機能しないことがあったり、プログラムされていないルートを走る時には手動で切り替える必要があるわけです。
右の写真は路面電車の運転手が車内から降りて、自らポイントを切り替えているシーンです。
この時に少し会話をして普段利用客には気付かないようなことも教えてくれました。
しかもこの方は快く撮影させてくれました。
ポイントが自動で切り替わらなかった場合は、運転手が車内に積んである専用の鉄の棒を持ち出し、線路の特定の部分に突っ込んでポイント切り替えを行います。
路面電車の運転手は自分が担当している系統番号のルートをしっかりと把握していますので(当たり前のことですが)ポイントが置かれている分岐点ではある程度慎重に通過することになります。
路面電車の運転士が外に出てポイントを切り替える光景は意外と多く日常生活の中で見られます。
冬のこの時期は気温がマイナスになったり、+10℃を超えたりとここ何年も気温がよく変化するのが当たり前になっています。
基本的に寒くなるとそれが何日も続き、逆に暖かくなるとそれが何日も続きます。
冬に観光していると寒さの違いというのをかなり感じることができます。
日中マイナスになる日が続いた後、0℃をちょっと超えただけでも暖かく感じます。
雪も多く降りますし、路面も凍結することがありますからウィーン市はしっかりと対策をしていて生活に支障がないようにしています。
雪がある程度積もれば朝早くから除雪車がそこらじゅうで活躍している姿を見かけます。
雪が多く降ったからと言って公共交通機関に支障が出ることはまずありません。
さて、冬の日に雪がある程度降った時に街を歩くと歩道の上にはたくさんの小さな小石がまかれているのに気づきませんか?
右の写真はお馴染みシェーンブルン宮殿です。
奥の方にシェーンブルン宮殿の正門が見えています。
この場所は地下鉄から出てきてシェーンブルン宮殿へ向かっていく定番の道です。
この石畳の歩道を見ると細かいものがたくさんあることがわかります。
これは歩行者が滑らないようにという配慮からまかれている小さな小石です。
この近くを撮影してみました。
細かい小石がたくさん敷かれています。
これは"SPLITT"と呼ばれるもので路面が凍結する恐れがある場所にまかれるものです。
これがあることによって歩くときに摩擦が生じるので仮に歩道が凍っていても滑りにくくなるというものです。
よく凍っている歩道や雪が積もった歩道でも見られます。
"Winterdienst"と言われる冬のこのような仕事はウィーン市MA48の管轄です。
ウィーンではこのSplittの大きさや材質もしっかり定義しています。
つまり環境をしっかりと考えているわけです。
例えばこれをまくことによって空気を汚す・・・そこから人間の健康に悪影響を及ぼすので
必要最低限しか使用しません。
大きさも2mm~8mmと決められていて、角が絶対に鈍くなっていなければいけません。
そこから"abstumpfenden Streumittel"と本来呼ばれます。
クリスタル、リサイクルコンクリートといった材質や灰、燃えカスも禁止されています。
(昔は灰を滑り止めにまいていました)
耐摩耗性でよく洗われていてかどがあり、埃がなるべくたたないようにそして乾いていなければいけません。
ウィーン市では玄武岩、ドロマイト、Blähton(拡張された粘土)を推奨しています。
Splittは"雪が降った後にまく"という規定があり、降る前に使用することは固く禁止されています。
このような些細なことでもウィーン市は環境にも気を使っていることがわかります。
去年ウィーンは世界で一番住みやすい街に5回目選ばれています。
オーストリアの国旗と国章というタイトルで前回オーストリアの国旗の赤・白・赤の由来について書きましたが今日はその続編です。
通常のオーストリアの赤・白・赤の国旗の真ん中に国章が入る場合があります。
その意味について触れてみたいと思います。
上の左の写真は国会議事堂で、その上のはオーストリアの国旗が掲げられています。
よく見ると国旗の真ん中に黒っぽいものが入っています。右側はベルヴェデーレ宮殿の前に掲げられた、オーストリア国家条約締結60周年記念の時のものです。やはり国旗の真ん中に黒っぽいものが見えますね。
ちょっと拡大するとこのようなものが描かれていることがわかります。
これはBundeswappenと呼ばれ、Bindenschild (ビンデンシルト)を真ん中に掲げたオーストリアの鷲です。
歴史的に双頭の鷲を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、そうではなく単頭です。
国旗の真ん中に、宙に浮かんだ、単頭で、赤い舌を出し、黄金の城壁冠をかぶった鷲です。
鷲の右の触手には金のかまが、左の触手には金のハンマーを持ち、それぞれ引きちぎられた鎖が描かれています。
鷲はオーストリアの国家主権を表し、その鷲はBindenschildを持っています。
金の城壁冠はブルジョアを表し、かまは農民、ハンマーは労働者を表します。
引きちぎられた鎖はナチスからの独裁政治解放を表します。
この国章は、1918年ハプスブルグ帝国が崩壊した次の日の11月12日にドイツオーストリア民主主義共和国としてスタートし、その翌年の1919年にオーストリア共和国となってから導入されたものです。
1934年~1938年には双頭の鷲が再び導入されますが、オーストリアは地図上から消されてしまい、第2次世界大戦へと巻き込まれることになります。
終戦後、ナチスから解放された1945年に引きちぎられた鎖が追加されました。
この国章は、Österreichische Bundeswappen とか、Österreichischer Bundesadlerとも呼ばれています。
オーストリア共和国としての政治的意味合いがかかわる時に掲げられる、とても重要な意味を持っています。
<全くの余談>
風がある時に国旗を撮影するのは大変でした(笑)
いや、撮影は簡単ですが、このÖsterreichische Bundeswappenがちゃんと見られるようなタイミングで撮影するのは何回も繰り返してやっと成功しました。
国旗が揺れまくってましたからね~・・・。
さて、今日は思いっきり久しぶりにちょっとおもしろい階段シリーズです。
ちょっとおもしろい階段の初回が2013年11月16日、第2弾が2014年5月25日でした。
今回もまたアルベルティーナ美術館の階段です。
こんな感じです。
何が書いてあるかわかりますか?
アルベルティーナは、王宮の一角のAugustinerbastei
(アウグスティーナーバスタイ)の上に、もともと17世紀後半に宮廷役所として建てられました。
18世紀の1742~1745年マリア・テレジア時代に、マリア・テレジアの助言者で、宮廷建築監督のEmanuel Silva-Tarouca によって宮殿に改築されました。
この美術館の入口に通じる長い階段は、一種のアートになっていて、展示内容によって変わります。
今回は"MONET BIS PICASSO"という文字が表されています。
これはアルベルティーナ美術館の常設展示内容です。
普段はここにたくさんの観光客が座っていますから、全く人がいないここの階段を撮影するのは限られた時間しかありません。
奥に見られる緑の屋根は国立オペラ座で、左にはカフェ・モーツァルトがある建物が見えています。
このモネからピカソまでの展示は2017年3月10日までの予定ですからまだまだ見ることができます。
次はどんなデザインになるのでしょうか。
ウィーンはかつての帝国の都ですから、様々な歴史上の有名人達が足跡を残しました。
街中を歩いていると色々な場所に記念の銘板が見られ、それが現在の生活の中に自然に溶け込んでいます。
今日はこんな人もウィーンに住んでいたのかという例でアンデルセンを話題にします。
アンデルセンと言えば幼い頃にたくさん聞いた童話を思い出す人が多いと思います。
はだかの王様、人魚姫、みにくいあひるの子、マッチ売りの少女、もみの木、親指姫、
空飛ぶトランク、ひなぎく・・・様々な名作があります。
そんなアンデルセンもウィーンに少し住んでたことがあるんです。
ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)は1805年4月2日に
デンマークのオーデンセで、貧しい靴屋の息子として生まれました。
彼が11歳の時に父親が亡くなってしまい、学校を中退します。
小さい頃から夢想家で、創造力を発揮し、人形芝居などで遊んでいたといいます。
その後、ますます空想と芝居の世界への興味が膨らみ、1819年、14歳の時に演劇の道を
進もうとコペンハーゲンへと向かいました。
その後1820年~1822年に演劇学校で役者を目指して舞踏や歌も学び、同時に脚本も書くようになります。
俳優は挫折することになりますが、脚本の方は続け、劇作家を志すようになります。
様々な作品を劇場幹部宛てに送り続け、そこで見い出されますが、それまで満足の教育を
受けていなかった彼の文章力が浮き彫りにもなって、劇場幹部の紹介で語学学校へ入学することになります。
その時期に本来持っていた豊かな空想力を文章で伝える力が身についたようです。
その後も劇作家として執筆を続けて行きますが、「即興詩人」、「親指姫」などを発表するとデンマークだけでなく、ヨーロッパ、そして世界中に知られるようになりました。
この2作は1835年に刊行されていて、即興詩人はアンデルセンの出世作です。
これが刊行される1年前に彼はウィーンに滞在していました。
これはグラーベンに近い所にあるアンデルセンが住んでいたという銘版です。
ここには19世紀終わりまで"Bognergasse 315"という建物があり、"この家の2階の所に1834年6月9日~1834年7月9日まで、デンマークの童話作家アンデルセンが住んでいた"
・・・オーストリア・デンマーク協会存続50周年記念によせて・・・と記されています。
アンデルセンは1833年4月~1834年8月にかけてイタリア、ドイツ、イギリス、スペイン、オスマン帝国までと旅行し、その際にウィーンにも来て1ヵ月滞在しました。
彼は多くの旅行記を書いていて、旅行はかれにとってに学校だったようです。
その後彼は童話を書き続け、70歳で肝臓癌で亡くなりました。
彼が書いた童話の数は156と言われています。
ウィーンとアンデルセンとは意外な結びつきだったと思いますが、当時フランスから始まった2月革命がヨーロッパ中に火の粉を振り掛ける前までのヨーロッパはウィーン会議後からは平和な時代が続いていました。
そんな時にアンデルセンは色々な所を旅していたわけです。
せっかくアンデルセンをテーマにしたので、次回はアンデルセンの生家も話題にしたいと
思います。
日本のお客様から観光中によくトイレの質問があります。
午前中に全員で観光し、午後フリータイムなどがある場合です。
歩いている時にトイレに行きたくなった時に・・・ということですが、添乗員さんなどは
たいてい「街中のカフェに入ってトイレを」と言われています。
それもひとつの方法ですね。
ホテルに入ることもできますが、宿泊客ではないのでちょっと心が痛いかもしれません。
個人であればカフェでもホテルでも、「すみません、トイレを使わせて頂けますか?」と言えば、カフェで何も頼まなくても、またホテルの宿泊客ではなくても快く貸してくれることがほとんどです。
でもそれがちょっと敷居が高く感じれば公衆トイレがいいでしょう。
多くの地下鉄の駅などには公衆トイレが設置されています。
このコーナーではすでにトイレについていくつか書いていますが、今日はまたちょっと意外な場所にある公衆トイレです。
こちらは国立オペラ座からも近い
王宮庭園 (Burggarten)にある公衆トイレです。
"WC"と書いてあるのでトイレということがわかりますが、それがなければ全くトイレには見えませんね。
後ろにはカフェPalmenhausが見えていて、この界隈の荘厳な建築物に合わせるかのようなトイレの入り口です。
国立オペラ座裏側のアルベルティーナの壁のすぐ下にはソーセージスタンドがあり、その後ろを行くとこの王宮庭園に入れる入口がありますので、リンク道路側からではなくてもここに入れます。
ここから入るとトイレがあるなんてことには気づきません。
そもそもここはカフェPalmennhausを見ればわかるようにトイレの入り口の水準よりも高いですから、上からはわからないわけです。
でも落ち着いて見るとトイレの上のあまり目立たない所に"WC"の案内表示があります。
この入口の木の扉をくぐると、中は
結構広い空間になっていて、男女に
分かれています。
写真は男性用ですが、トイレの扉の
所には50セント入れるような仕組み
になっています。
つまりここは有料トイレです。
小銭がなくてもこの空間にはトイレ担当の人がいるので小銭に両替してくれます。
この王宮庭園のトイレはちょっと灯台下暗し的なトイレで、この王宮庭園に実はトイレが
あるという雰囲気ではありません。
シェーンブルン宮殿庭園にある公衆トイレ、Opernpassageの新しい公衆トイレ、
フンデルトヴァッサーのトイレ、えっ!!・・・と思う名物トイレなど結構話題にしていましたね。(笑)
ウィーンの真ん中に建つシュテファン大聖堂はウィーンのひとつのシンボルであり、
歴史的にもとても重要です。
場所的にもケルントナー通りとグラーベンという重要な歩行者天国のほぼ交差した所に位置しているため観光の皆さんの目印にもなり、旧市街を歩けば何度となく通るでしょう。
このシュテファン大聖堂は1147年からずっとこの場所で歴史を見つめてきましたし、
大聖堂自身にも様々な重要なものが目白押しです。
このコーナーでも知らない間にシュテファン大聖堂の色々な物について書きました。
今日ここで紹介する物もそのシュテファン大聖堂にあって、しかし知られていない
ちょっと重要な物です。
シュテファン大聖堂の有名な説教壇、当時のステンドグラス、記念プレート、
涙を流す聖母マリア、プンメリン、ローマ時代の墓石、モーツァルト最後のお別れの場所なども是非御覧下さい。
シュテファン大聖堂に入ると、ずっと左側にこの写真に見られるDom Shopがあり、ここは司教の門と言われています。
ここには絵葉書やガイドブックなどが売られている大聖堂の小さなショップになっています。
このショップの入口には左右2つの扉がありますが、この右側の扉側の柱のちょっと上辺りに今日のテーマである"コロマニ石"がはめ込まれています。
コロマニ石はこの写真のように
柱の中に真鍮の枠と共に埋め込まれていて、人間の右手のような形に色が変色しています。
コロマンはアイルランド人のいい所の出の巡礼者で(一説には王様の子とも)1012年ウィーン近郊のStockerauで不審な身なりや外国語を話したことからスパイの容疑をかけられ、拷問され、ニワトコの木に絞首刑となりました。
伝説によればコロマンの遺体は2年経っても腐らず、しかもその枯れていたニワトコの木が再び緑を吹き返したということからバーベンベルクのハインリヒ1世がコロマンの遺体を1014年にメルクに運ばせました。
聖コロマンがこの石の上で殉教したとされ、このコロマニ石は1361年にここに埋め込まれました。この石の後ろには鉛でできた聖遺物を入れる箱があり、たくさんの聖遺物が埋め込まれているとされています。
この石に触れる者は、祝福と幸運を授かると言われています。
オーストリアでは外に出る人が多いと言うと滑稽ですが、つまり外で余暇を楽しむ人が非常に多いです。ちょっとした散歩からハイキング、本格的な登山、ロッククライミング、
自転車、マウンテンバイク、水遊び、様々なスポーツをする方も多いです。
スポーツと言えばサッカーとスキーは国民的と言ってもいいでしょう。
スキーは御存知の通り、ジャンプやアルペンはしょっちゅうメダルを取りますね。
アトミックやフィッシャーなど有名なスキー板はオーストリアの製品です。
逆にサッカーはここずっとオーストリアはヨーロッパで見れば残念ながら弱国です。
1970年代ぐらいまでは強国であったオーストリアでしたが・・・。
しかし、ここ最近はまたレベルが上がってきています。
Bundesliga(ブンデスリーガ)という日本で言うJ1が10チームあり、オーストリア国内ではファンが多く大変盛り上がっています。
さて前置きが長くなりましたが、サッカーファンであれば誰でも知っているサッカー競技場が国内にいくつもある中でウィーンのErnst Happel Satdionは有名です。
このサッカー競技場・・・こちらでは"Satadion"まだハプスブルグ帝国時代の1915年ぐらいからプラン
されていました。
いくつかの案が募集されれ、その中にはシェーンブルン宮殿の横に作る構想も存在していました。
帝国解体や第一次大戦などで、それどころではなく、その後オーストリア共和国10周年の1928年から工事が始まり、1931年7月11日がオープニングとなりました。
建築家はOtto Ernst Schweizerです。
その後修復は何度も行われ、1992年まは"Praterstadion"という名でしたが、現在では地元では誰でも知っている歴史的で偉大なオーストリアのサッカー選手である
Ernst Happel(1925年~1992年)の名がついています。
ここは記憶に新しい2008年サッカーヨーロッパ選手権の決勝戦が行われた場所で、ドイツとスペインが戦いました。(この内容はおもしろくありませんでしたが・・・)
もちろんそれ以外にも地元では頻繁に使用され、50.000人以上収容できます。
さて、話が長くなりましたがこのサッカー競技場には街中では絶対に見ることができない石のサッカーボールが見られます。
このErnst-Happel-Satdionの脇にある舗装された広場のような通りに、御覧のようにたくさんの石で作られたサッカーボールが並べられています。
この光景は滑稽です。でもこの場所だから許されるもので、なおかつここ雰囲気にピッタリですね。一種のガードレールであり、車の通行を制限する役割を担っています。この石のサッカーボールは直径70cmぐらいとかなり大きいです。
このブログコーナーでは何をテーマにしようか・・・なんてことは考えておりません。
ウィーンの街はとても奥が深いヨーロッパ文化が凝縮した街ですから、あらゆる角度から
思い立ったことをまとめているので、とてもためになる内容から、しょうもない内容まで
様々です。(笑)
以前、えっ!!・・・と思うトイレとか、オペラ座そばの名物トイレとかを話題にしていますが、今日はおそらく地元の人しか知らないトイレについて触れてみたいと思います。
オーストリアの世界遺産のひとつになっているシェーンブルン宮殿はウィーンに初めて来た人は誰でもたいていは見学するでしょう。
マリア・テレジア時代に最終的に
完成した重要なバロック建築で、
宮殿内部は美しいロココ様式です。
見学後は庭園に行くのも定番で、
幾何学模様の美しい庭園と
丘の上に立つグロリエッテが印象的です。
庭園の一角には地元で大人気の、
営業している動物園では世界最古の動物園があります。
もちろん動物園の中にはちゃんとしたトイレがあり、庭園内にあるカフェやレストランなどにもちゃんとしたトイレがあります。
通常庭園に行くのは宮殿を正面から見て、右回りでフジの美しいアーチを見ながら後ろに
行きます。庭園に行ってのんびりと散策する人も多いですし、地元の人達もジョギングしたり散歩をしたりとのんびりくつろいでいます。
上の写真はずっと奥にシェーンブルン宮殿が見える並木道です。
そんな庭園の一角にちゃんとした公衆トイレがあります。
こちらがシェーンブルン宮殿庭園内にある公衆トイレで、一見トイレっぽく見えません。
庭園内の一角にある温室や、王宮庭園にあるカフェ パルメンハウスのスタイルによく似ています。
写真が2枚あるので、トイレが2つあるように見えますが、実際にトイレはひとつで、
左が女性用側で、右が男性用側から撮影しています。
自分もここで用を足したこともありますが、中は綺麗で清潔でした。
写真のこの公衆トイレは、通常の庭園へのルートでは見ることができません。
シェーンブルン宮殿のMeidlingtorから入り、すぐ左に奥まで進んでいくと見られます。
ちなみにシェーンブルン宮殿の庭園にある公衆トイレはここだけではなく、宮殿に近い所にもまだあります。
ウィーンの街でホテルではなく、また街中にあるポストでもなく、郵便局で切手を買って
そのまま絵葉書を出す人もいるでしょう。
今年8月の終わりに祝祭日も営業してる郵便局を紹介しましたが、このSchwedenplatzの
近くにある郵便局は結構使えます。
この郵便局がある建物の入口に入るとすぐに、ハプスブルグ帝国時代の郵便局が展示されているちょっとした博物館を見ることができます。
こちらが"Historische Postamtskanzlei"と呼ばれた帝国時代の歴史的郵便局の雰囲気
です。Kanzleiは事務局みたいな意味に使われます。
当時実際に使用されていた物がここに並べられています。
当時郵便局は整理整頓されていて、真面目であり、その目的によく合って配置され、
火災、不法侵入から守られ、仕事上の機密を守り、郵便物と役所のお金をしっかり管理することが決められていました。
お客さん側と郵便局側もガラスでしっかりと仕切られていました。
この写真に見られる窓口は、1892年Niederösterreich の Franzenに作られた郵便局の
窓口で、実際に1991年まで使われていました。
窓口内の物は全て1918年の帝国崩壊前に実際に使用されていたものです。
左の壁には当時のポストを見ることができます。
こちらは1878年以降から1918年
まで使われた帝国時代郵便局の
オフィシャルマークで、ブリキで
作られています。
"K.K.POST&TELEGRAFENAMT"
と書かれています。
郵便と電報を扱っていました。
帝国時代を象徴する双頭の鷲を
見ることができます。
ここはとても小さな空間ですが、
当時の帝国時代の歴史的な物を見ることができる貴重な空間です。
この郵便局の入口はFleischmarkt側にあります。
ウィーンにはかつて"Linienwall"と呼ばれた2つ目の城壁があり、それが取り壊されて
Gürtel (ギュルテル)という大きな環状道路が作られました。
ベルヴェデーレ宮殿の正面側入口もそのギュルテルに面しています。
Gürtelには路面電車やオーストリア国鉄(ÖBB)の駅がいくつかあるわけですが、
そこに何気なくあったものについて少し書きたいと思います。
"WALL OF HOPE" ドイツ語では
WAND DER HOFFNUNGと書かれていて、希望の壁ということで、
壁に2面にわたって大きなパネルが掲げられ、そのパネルの中にはたくさんのセラミックのタイルが並べられています。
タイルにはカラフルな色で様々な絵が描かれています。
遠くから見ると一瞬大きなモザイクのようです。
これはウィーン20の小学校からの小学生達が、彼らの望み、夢、そして希望を表現した
プロジェクトで、そられを象徴する様々なものが描いてあります。
2001年6月20日以来からここに展示されています。
この場所はMatzleinsdorferplatzの国鉄の高架駅と地下にある路面電車の駅を結ぶ階段の
壁に見ることができます。
ウィーンの市庁舎のそばにひっそりと立っている像に気付く人は果たしてどのくらいいるでしょうか?
市庁舎はフランドル風ゴシック様式でとても立派な建物ですし、その市庁舎前広場では
年間を通して様々なイヴェントが行われています。
クリスマス市やスケートリンクなどは毎年地元でも楽しみにしているイヴェントです。
その市庁舎のすぐ脇のアーケードの一角にこの像があります。
この像は"Wehrmann in Eisen"で
鉄でできた防衛男なんて直訳を勝手に
してますが、兵士の様ですね。
もともとこの像は1915年3月6日に
Scwarzenberg広場に置かれ、
第一次大戦で亡くなった兵士の妻や
子供達を救済する目的でした。
よく見ると鉄で兵士ができているわけではなく、釘が打ち込まれていることがわかります。
この兵士自体は菩提樹の木で作られています。
この像は1919年まで、Schwarzenberg広場に置かれ、
その後倉庫に置かれ、1934年5月、
王宮にあるBurgtorが第一次大戦で
亡くなった兵士達の英雄記念となったことがきっかけで、再び
Schwarzenberg広場に置かれて以前同様寄付の運動があり、その年9月にはそれも終わって現在の場所に移されました。
上の写真は兵士の足元です。無数の釘が打ちつけられていることがわかりますね。
釘の数は50万本と言われています。
前述したように第一次大戦で亡くなった兵士の妻や子供達を救済する目的で義援金を出した
人々がこの像に釘を打ち込むことができ、名前を芳名録に書いてもらえました。
このような像は当時オーストリアには結構あったらしいですが、このウィーンのSchwarzenberg広場に置かれた像が最大だったということです。
釘を打ち込むということでは、以前もここで話題にしたケルントナー通りの終わりにある
Stock im Eisen(シュトック・イム・アイゼン)を思い出させます。
ウィーンの街を何気なく散歩をしていると意外な物が意外な場所に見られることがよく
あります。
だいぶ前にこのコーナーでも登場したキックボード専用置き場なんかはいい例です。
今回もそんなような物について紹介します。
こちらは普通の公園に何気なく置かれていた物で、遠くからこれを見て何だろうと最初は思いました。
これはフィットネスセンターなどに置かれているトレーニングをするためのものです。
誰でも入れる公園の中に、
お金もかからず誰でも自由にトレーニングをすることができるわけです。
公園と言えば、ベンチとか子供の遊び場などが多く設置されているわけですが、
フィットネスマシーンが置かれている公園は見たことがありませんでした。
これはFree Gymという2011年に設立された会社が提供しているもので、フィットネスマシーンに不安がある方や、フィットネスセンターのような閉じ込められた場所で体を動かす気分になれない方、全くコストがかからずにトレーニングをしたい方などの気持ちを考えたコンセプトです。
ウィーンの街中だけでも現時点で12カ所の公園に設置されていますが、残念ながら中心から簡単に行ける公園にはありません。
写真はAuer Welsbach公園に置かれているものです。
"fitness im freien" (屋外でのフィットネス)を掲げたこの案内表示には一般的なな注意事項が書かれています。
健康に問題のない方14歳以上が対象となっていて、一般的にトレーニングを始める前には
医師の助言を受けることをお勧めします・・・
心臓に問題があったり、血圧が高い方は禁止・・・
トレーニング中に心地よさを感じることが大事で、以上を感じたらすぐやめること・・・
トレーニング前にはからっだを温めること・・・
などといった内容です。
観光で疲れたら、公園でトレーニングをしてリフレッシュ!?
オーストリアの3大クラシックの作曲家と言えば、モーツァルト、ハイドン、シューベルト
ですが、シューベルトはウィーンで生まれたウィーン人です。
すでにここでは中央墓地のシューベルトのお墓、シューベルトの生家、ますの泉などを
紹介していますが、そのシューベルトに因んだもので、場所柄のせいか、あまり知られて
いないものがあります。
それはSchubert-Brunnenと
言われるもので、シューベルトの泉です。
この泉は、1928年ウィーンシューベルト連盟とウィーン9区(Alsergrund)の代表とで、
彫刻家Theodor Stundと
建築家Franz Matuschekにより
作られたものです。
正方形の泉の真ん中に、しゃがんでいて顔と手を上に向けている、等身大以上の
„Lauschendes Mädchen“ (耳を澄ましてじっと聞いている女性)が表現されています。
シューベルトは1828年11月19日に亡くなっていますので、この泉はシューベルト
没後100年という記念の年に作られたわけです。
ここはシューベルトの生家やシューベルトが洗礼を受けた教会も比較的近くにあり、
それらは現在ウィーンの9区に位置しています。
このシューベルトの泉はLiechtensteinstraße とAlserbachstraßeが交わる、
リヒテンシュタイン宮殿の庭園の外側にあります。
ウィーンのマリアヒルファー通りは美術史博物館の裏側からウィーン西駅まで、そしてさらにもっと奥まで伸びている長い通りですが、美術館の裏側から西駅までが俗にデパート街として知られ、通りの両側には様々なデパート的な店が並んでいて、ウィーンの中心部とはまた一味違った通りで多くの若者が歩いています。
この写真はマリアヒルファー通りを西駅側から中心方面に見たもので、地下鉄の"U"マークを見ることができる建物が手前に写っています。
この建物の壁の所に作曲家の記念プレートがあります。
人通りが多い場所で、たいていの人はそのプレートに気づきません。
その作曲家とはヨーゼフ・シュトラウスです。
ヨーゼフ・シュトラウスは
有名なワルツ王である
ヨハン・シュトラウスのすぐ
下の弟で、ワルツの父
次男になります。
彼は音楽とは縁がなさそうな
技術学校で学びます。
その後、現場監督として働きますが、兄ヨハン・シュトラウス
が1852年の秋、大変な疲労で
演奏旅行から帰って来たことが
きっかけで、次の年にシュトラウス楽団の楽団長として兄の代わりを務めます。
その後も兄のシュトラウスが不在の時などを始め、演奏する機会が増えていきます。
ヨーゼフ・シュトラウスは作曲法やバイオリンを習い、1857年6月8日に
カロリーネ・プルックマイヤーと結婚し、次の年に女の子が生まれます。
1870年のワルシャワ演奏旅行の際、演奏中に意識不明になり、指揮台から落ちていまい、
その後まもなくウィーンで1870年7月に43歳になる前に亡くなります。
死因はハッキリとはわかっていません。
このプレートは、"この場所に建っていた家で1827年8月20日にヨーゼフ・シュトラウスが
生まれ、その17年後に彼は280のダンス音楽を作曲し、兄のシュトラウスと弟の
エドゥワードと共にシュトラウス楽団を指揮した"と記されています。
ウィーンのリンク道路沿いにある公園のひとつに国会議事堂の前にあるバラが多く咲いているVolksgarten (フォルクスガルテン)・・・国民庭園があります。
そこには以前ここでも紹介したテセウス神殿というミニギリシャ神殿がありますが、リンク道路からもっと奥に行ったあまり目立たない所にエリザベートの像があります。
世界中にファンがいるエリザベートはバイエルンのヴィテルスバッハ家出身で、1837年12月24日生まれです。自然の中で自由に子供らしい幼少時代を送り、ある意味では普通に育てられたエリザベートの運命が変わることになるのは、いとこに当たるフランツ・ヨーゼフ1世に一目惚れされ、結婚が決まってからでした。
元々エリザベートのお姉さんのヘレーネとフランツ・ヨーゼフ1世を結婚させることが決められていましたが、それに反して妹に一目惚れをしたわけで、16歳のエリザベート(シシィ)がウィーンに嫁ぐこととなったのです。
ウィーンの宮廷文化は全く肌に合わず、1人でいることも多く、精神的なバランスも崩れ、宮廷を逃げ出すかのように色々な所を旅します。
2人の間からは、彼女が30歳までに4人の子供が生まれますが、3番目に生まれた長男ルドルフ皇太子は
ウィーンの森マイヤーリンクでピストル心中自殺をします。(悲劇のマイヤーリンク 参照)
エリザベートの最後は、1898年9月10日 スイスのジュネーブでルイジ・ルッケーニによって心臓を刺されて帰らぬ人となるという、悲劇的なものでした。
エリザベートが亡くなった4年後には、この像を作るコンテストが行われています。
ウィーンはとても歴史ある奥が深い街です。
バーベンベルク王朝時代、ハインリヒ2世が12世紀半ばにウィーンに居城を移し、
その後12世紀の終わりぐらいに城壁が築かれ、現在のリンク道路の内側の大きさがほぼ形成されるわけですが、その中でも一番古いウィーンの部分はもっと限られた部分です。
こちらは以前
でも登場した、Vindobona
(ヴィンドボナ)と
呼ばれていた頃の姿です。
この写真に見られる赤い部分が
ローマ時代の駐屯地でしたが、
そこから見つかった物について
少し書きたいと思います。
それはこの一見何の変哲もない
ただの石です。
RÖMISCHE RIESENQUADERN
(レーミッシェ・リーゼン
クヴァーデルン)
と記されています。
"ローマ時代の巨大な切り石"
という意味で、前述したローマ時代の領域から発見された石です。
この切り石は、この石が現在飾られているSterngasseの5番地の
建物を1962年に解体する際に
見つかったものです。
ローマ時代、この辺りには
Badeanlage
(バーデアンラーゲ)・・・いわゆる浴場があり、その施設に使われていた切り石です。
全く意味がないように路傍に置かれている石でしたが、大変貴重な石だったんですね。
ちなみにこのSterngasseにはトルコ軍の貴重な砲弾も見られます。
以前このコーナーで、"何のためのねじ" というタイトルで、壁から飛び出しているネジについて書いていますが、今回も同じような壁から飛び出しているネジです。
これはウィーンのある店の入り口ですが、入り口右側のちょっと低い位置に何やら飛び出しているものが見えます。
一見何だろうと思ってしまいますが・・・
実はこのネジ、犬を繋いでおくためのものです。 こちらは犬も社会の一員であり、家族の一員です。
レストランに連れて行くこともできれば、地下鉄や路面電車にだって
一緒に乗ることができます。公園には犬専用のゾーンも多く作られています。
しかし、スーパーや特定の店など、中には連れて行けない店もあるので、そのため飼い主が中で買い物をしている間は外で待っているわけです。そのためのネジです。
以前紹介した完全に丸いネジではなく、かなり歪んだ形をしていて引っ掛け易くなって
います。
この写真のように、犬の絵がちゃんと描かれている場合もあれば、ネジだけがある場合も
あります。
ウィーンの街中には普通に歩いていたらまず気付かないような所に、歴史を感じさせる貴重な物がよく残されています。
6月12日付に王宮にある
紹介しましたが、そこは
現在でもアウグスティヌス修道会が活動しています。
そのアウグスティーナ教会の裏側にこのようなゴシック様式の古い部分を見ることができます。
これは2011年壁を綺麗に
する作業をしている時に
発見された部分で、14世紀の1341年に奉納された、アウグスティヌス修道会の修道院回廊の最後の名残りです。
(ちなみにアウグスティーナ教会奉納は1349年です)
ゴシック様式の回廊であったことが想像できます。
この壁の向こうはLorettokapelleで、ハプスブルグ家の心臓が収められた銀の壺が置かれています。
この場所は外からは全くわからないAugustinerhofと呼ばれている中庭に入ると見ることができます。
ウィーンのシェーンブルン宮殿はオーストリアで最も観光の皆さんが訪れるスポットで、初めてウィーンに来る方は絶対と言っていいほど
ここを訪れると思います。
このシェーンブルン宮殿は宮殿内部見学を始め、美しい庭園、動物園など様々な見所があり、ここだけで
余裕で1日過ごせます。
さて、そのシェーンブルン宮殿に普通ではまず気付くことがないSchloßkapelle
(シュロスカペレ)という礼拝堂があります。
この礼拝堂はシェーンブルン宮殿内に
組み込まれていて、外からはまず見ることができませんし、まして礼拝堂があるとも気づきません。
宮殿正面に向かって、左右対称に前方に
せり出している部分の、左側にあります。
この礼拝堂は、シェーンブルン宮殿が
ほぼ現在の姿になる1700年頃、
フィッシャー・フォン・エアラッハによって作られました。マリア・テレジア女帝の祖父レオポルド1世の時代です。
その後マリア・テレジアがシェーンブルン宮殿を改築する際に、同時にこの礼拝堂にも手を加えさせています。
1743年頃この礼拝堂はかなり質素だったようですが、マリア・テレジアがによって内部が立派になりました。
1745年4月29日にマリア・テレジア女帝や家族立会いの下、献堂されました。
この写真に見られるメイン祭壇は大理石で、おそらくニコラウス・パッカシのものとされていて、祭壇上部には三位一体を見ることができます。
祭壇画はメルク修道院でも活躍するパウル・トローガーによるもので、マリアの結婚が
描かれています。
ここは残念ながら常に開いているわけではありません。
基本的に毎週日曜日の10:00にミサが行われるので、その時に見ることができます。
このぐらいの規模の宮殿には、習慣的に必ずと言っていいほど礼拝堂や小さな教会が作られていますので、シェーンブルン宮殿に限ったことではありません。
ウィーンの街は緑がとても多く、リンク道路沿いだけでも5つ公園があり、それ以外にも色々な所に公園、またちょっとした街路樹が植えられている芝生の空間がたくさんあり、
同時に様々な花、木が植えられています。
この緑や花はウィーン市が管理をしていますが、雨が年中降るわけではありませんから、
水撒きも当然必要になるわけです。
公園や街路樹の芝生がある所も、以前はホースの先にスプリンクラーを取り付けて水を撒いている光景をよく目にしました。
最近はホースではなく、自動スプリンクラーが多くなっています。
この写真のように、自動スプリンクラーが芝生の敷地の端数か所に設置されていて、
天候との兼ね合わせで定期的に水を撒いています。
特に天気がいい日の朝方によく見られます。
この写真の場所はコンツェルとハウスのすぐ前、ベートーヴェンの像がすぐ近くにある場所での自動スプリンクラーです。
シェーンブルン宮殿の庭園内に日本庭園があること、ウィーン19区の一角に
世田谷公園というちょっとした日本風の公園があることは知られていますが、
今日のテーマである「ミニ日本庭園」はあまり知られていません。
こちらがそのミニ日本庭園です。
このミニ日本庭園は、1999年5月にウィーン大学の"Japanologie"(日本学)という
専門学科ができた60周年記念としてここに作られたものです。
そうです、ウィーン大学では日本学を専攻することができるんですね。
私の知り合いにもここで学んで卒業し、社会で活躍している人が何人かいます。
よく見ると正面の石には日本語が彫られていますね。
枯山水スタイルの石の庭園で、源氏物語23帖の「初音」がテーマになっています。
石は水の流れを象徴しています。
奥の石は「岩の滝」で、山脈を表し、その源水が小川、川、やがては海に注がれるという
ことを表現しているそうです。
このミニ日本庭園がある場所は、Altes AKH 旧ウィーン総合病院の建物の中庭の
一角にあり、現在はウィーン大学が入っています。
時間があれば訪れて見てはいかがでしょうか。
国立オペラ座の裏のアルベルティーナ広場には、ウィーン観光案内所があることはかなり知られています。場所もいいですし、気軽に立ち寄れ、様々な情報を集めることができます。
同じようなインフォセンターで、
意外と知られていないのが市庁舎のインフォメーションセンター "Stadtinformationszentrum" です。
この場所はリンク道路沿いの有名な建造物のひとつである市庁舎の中に
あります。
中と言っても、この大きな建物の
どこにあるのだろう・・・という
ように行きにくい場所ではなく、
市庁舎の裏側中央部分に入口があり、入るとすぐこの写真のような美しいゴシックアーチ
空間が広がります。この空間がインフォメーションセンターです。
ここにはコンサート情報はもちろん、ウィーンの様々なイヴェント情報が集められ、そこらじゅうに自由に持って行けるパンフレットや小冊子などが置かれています。
ちょっとした座れる空間も用意され、自販機もあるので飲み物も買えます。
もちろんパンフレットが置かれているだけでなく、係りも常駐しています。
ここはどちらかというとウィーン市民のためのインフォセンターです。
しかし、観光の皆さんもよく訪れます。
素敵な空間なのでこの付近に来られたら是非立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
ウィーンはとても歴史がある奥が深い街で、
歴史的に言われある様々な重要な物が残って
います。
以前ここでも有名なレストラン「グリーヒェンバイスル」を紹介しましたが、今日はそのレストラングリーヒェンバイスルに属する貴重な中世からのWohnturm(住居塔)に触れたいと思います。
このレストランの界隈は歴史的にもとても
重要な地域で、この写真に見られる石畳のGriechengasseの奥に見えるオレンジっぽいのがレストランの入口です。
でもこの重要な住居塔はここからは見ることができません。
この貴重な住居塔はGriechengasse7番地の中庭に入ると見ることができます。
この塔はグリーヒェンバイスルの正面から見て裏側に位置していて、12世紀のものということになっています。
急こう配の屋根を持つこのゴシックの塔は、当時の城壁の一部であるということになっていて、同時に住居としても利用されていたことです。
つまりこれはレストランよりもはるかに古いものであり、
"住居"としてはウィーンで現存して見られるということでは最古のひとつということになりますね。
ウィーンは普通に歩いていたら見ることができない場所に、このような貴重な物がたくさん残っている・・・本当に奥が深い街です。
これも前回と同じ場所でオペラ座裏にある王宮のアルベルティーナの階段です。
今年の復活祭の時期に、このアルベルティーナ美術館の屋根の上のうさぎを紹介した時に少し書きましたが、このデューラーの野うさぎは2003年以来から10年以上ぶりで再び展示されています。
それを大きくアピールすることもかねて、この階段にはデューラーの作品が表されています。
この野ウサギは1502年、デューラーが32歳の時のものです。
奥に見えるのは、復活祭の時にピンクのうさぎが載せられていた屋根です。
スポンサーであるドロテウムのロゴも見られます。
このアルベルティーナは、マリア・テレジア女帝の成人した子では次女にあたるマリア・クリスティーナの夫であるザクセンのアルベルト公がここに18世紀終わりから住みました。
このアルベルト公はグラフィックコレクションを所有しており、それがベースになって現在のアルベルティーナ美術館になっています。
このデューラーの野ウサギが見られる展示会は、
デューラー、ミケランジェロ、ルーベンス(アルベルティーナの100の傑作)
という名称で、2014年3月14日~2014年6月29日まで行われています。
ウィーンの街は普段あまり気に留めない所に歴史的重要な場所や物があります。
でもそんな一瞬何だろう・・・と思わせる物が少し街の歴史を知っていると全く違った
貴重な物に見えてくるんですね~。
地下鉄1号線(U1)のSchwedenplatzにもそんな物があります。
こちらは砂岩で作られた双頭の鷲で、
よく見ると真ん中に紋章をみることが
できます。
ワッペンの左上と右下は旧ハンガリーを、右上と左下は旧ボヘミアを表しています。
さらにその真ん中にはオーストリアの国旗の基になったと言われる赤・白・赤の
横縞ワッペンが見られます。
この横縞ワッペンは通称「BINDENSCHILD」
(ビンデンシルト)
と言われるもので、13世紀の
バーベンベルク王朝時代から
登場していました。
こちら向かって左の写真はやはり砂岩で作られたワッペンでハンガリー帝国を
表しています。
右側の写真は岸辺のマリア教会のKreuzblumeと言われる塔の先端部分で、
15世紀前半の砂岩で作られたゴシック時代の物です。
こちらはとても貴重な昔の城壁がまだあった頃のウィーンの街並みです。
目の前の城壁はGonsagabastei (ゴンザーガバスタイ)で、1646年に作られ、
リンク道路が作られる1859年に取り壊されます。
これは城壁が取り壊される直前に撮影された写真でしょうか。
この城壁には赤い数字が1,2,3と付けられていますが、この数字の場所が上で紹介した
ワッペンとKreuzblumeがあった場所です。
1.ハンガリー帝国 2.双頭の鷲 3.岸辺のマリア教会
一番手前が現在のドナウ運河です。
この歴史的貴重な物が見られる場所は、ウィーン歴史博物館によって、前述した
地下鉄1号線Schwedenplatzの実際に地下鉄に乗るホームに展示されています。
ウィーンの街はローマ時代からの街ですね。
その当時ヴィンドボナと呼ばれ、現在のリンク道路の内側よりもはるかに狭い部分が城壁で囲まれていました。
中世のバーベンベルク王朝時代の12世紀終わりに新たに城壁が築かれていき、ほぼ現在のリンク道路内側の大きさになり、更に16世紀半ばにかけてバスタイが築かれたわけです。
それが19世紀後半に取り壊されて、リンク道路が建設されます。
街中ではその貴重な城壁の名残りを何ヶ所かで見ることができるわけです。
去年11月15日付で貴重な城壁の名残り1を紹介していますが、今回はその第2弾です。
こちらは前回御紹介した城壁と比べると、とても控えめな城壁の名残です。
この場所はルペルト教会をドナウ運河側から目指していくと、現在は階段ができているそのすぐ左脇のちょっと隠れた所にあります。
このルペルト教会は当時の城壁のすぐ内側に建てられ、少し小高い所に作られています。
この城壁の名残とルペルト教会を見ると、当時の城壁があったことがこの場所にいるとよくわかります。
こちらはMölkerbastei(メルカーバスタイ)の名残りですが、以前紹介したメルカーバスタイではなく、Schottentor側の残されている部分です。
私はこのメルカーバスタイを1箇所としてではなく、名前は一緒ですが、2箇所として数えています。
この場所はメルカーホーフという現存しているメルク修道院所有の大きな建物があること
からその名前が取られています。
Schottengasse側からMölkersteigという階段を上がりすぐ右側に見られます。
この場所はルペルト教会よりも、もっと気づかれない場所にひっそりと残されています。
明日の4月20日がOstern・・・復活祭です。
今週はOsterferien(オスターフェーリエン)という復活祭時期の休暇で、幼稚園、学校は
お休みです。
それに合わせて両親も休みを取る方が多く、どこかに出かけてる人も多いです。
その復活祭については、すでに「復活祭のシンボル」、「たまごに色をぬる習慣」について書いていますが、明日歴史的背景を御紹介します。
街中の様々な所で見られる復活祭のシンボルですが、実はこんな所にもありました。
ここはオペラ座裏側のアルベルティーナ広場から見える、王宮のアルベルティーナ美術館のモダンな屋根の上にピンク色のうさぎが
乗せられています。
このせり出した印象的な屋根は、ウィーンの建築家ハンス・ホラインによって2003年に完成したもので、"Soravia Wing"と呼ばれています。
下の方から携帯のズームで撮影したものなのでクオリティがよくありませんが、
明らかにうさぎであることがわかります。
実はこのアルベルティーナ美術館では、再びドイツの画家アルブレヒト・デューラーの有名な "Feldhase・・・野うさぎ"が2003年から10年以上のブランクを経て再び展示されています。
そのアピールとこの時期復活祭のシンボルとして同時に掛けているわけです。
仕事がら空き時間には色々な博物館に散歩がてら行きますが、
よく行く博物館のひとつに古楽器博物館・武器・鎧博物館があります。
シェーンブルン宮殿、美術史博物館、シュテファン大聖堂などといった真っ先に皆さんが
訪れる場所とは正反対で、ここはテーマがテーマだけにここはいつ行っても人がほとんど
いない博物館で、なおかつ新王宮という王宮の大きな一部でもあり、内部空間がとても素敵なんですね。
その新王宮の階段ホール空間に一瞬、エレベーターとは思えない
エレベーターがあります。
新王宮の正面入り口がある側は、
外から見ると孤形がとても印象的で、
内部階段ホールは少し複雑な構造になっています。
中に入って階段を上がって行くと、
2つの博物館の実際の入口があり、
そこはその印象的な孤形をハッキリと見ることができます。
その素敵な空間の壁の一角にこのエレベーターが設置されています。
この新王宮の建築様式に相応しく、エレベーターも古典的な様式で作られています。
一見このエレベーターを見ると、扉が左か右のどちらかの方向にスライドして開くイメージですが、実はそうではありません。
この左側の写真の真ん中に、金色のドアノブがあるのがわかりますが、
利用する人が自らこのドアノブを引いて、扉を開けるわけです。
もちろんエレベーターがこの階に停止している時でなければ開けられません。
右の写真は、エレベーターが来て、扉を開けた時の様子です。
普段あまり気にしませんでしたが、改めて観察するとちょっと素敵なエレベーターです。
街中でまず気づくことがない・・・でもシュテファン大聖堂のすぐそばにあり、地元ウィーンではとても知られている歴史的遺産のひとつとして、Stock-im-Eisen (シュトック・イム・アイゼン)があります。
Stock-im-Eisen・・・「鉄の中の切り株」なんていう日本語の直訳でしょうか。
このシュトック・イム・アイゼンは、
その名の通り、Stock im Eisenplatzという広場があります。でもここはケルントナー通りとグラーベンの交差する所なので、そのような広場の名称があることすらあまり意識させません。
そのStock im Eisenplatz 3番地・・・ケルントナー通りとグラーベンが交差する角にPalais Equitableという
立派な建物があり、その角にこの写真に見られるようなものがあります。
よく見るととても古そうな木に無数の釘が打ちつけてあります。
この木は1400年頃から1440年まで生きていたトウヒ(樫の木という説もある)です。2.19mあり、土台の上に据えられています。
記録ではStock im Eisenは1533年と挙げられています。
これはどういう意味なのでしょうか?
実は様々な言われがあってどれも不確かです。
ある説では、錠前屋や鍛冶屋の修行旅行で、その場所に自分が来たことを永遠化するために釘を打ち込んだという同業者組合の習慣によるものですが、
でもこの習慣は18世紀前半に登場するので、これは16世紀ですからそれ以前ですね。
別の説では、錠前屋の貧乏な若い弟子が自分の親方から、ウィーンの森に聖人レオポルドの狩猟の館に使用するはずだった釘を盗み、彼は帰る途中森で迷ってしまい、そこには特別な木があり、そこに何回も出てしまうということでした。
彼は疲れ切り、泣きながら盗みを犯したことを反省し、その特別な木に釘を打ち込んだ・・・。
また別の説では、悪魔と契約を結んだ錠前屋がいました。
悪魔に特別な力を授けられた彼は、その木にリングと絶対に開けることができない錠前をつけることができた・・・そして日曜日のミサを怠ったら、悪魔の犠牲になるということでした。
実際にその数年後に彼は悪魔の犠牲になったそうです。
ちなみにこのStock im Eisenがある建物Palais Equitableの上方を注意してよく見ると、
この写真に見られるような像が置かれています。
木に釘を打ち込んでいるシーンが描写されています。
ケルントナー通りとグラーベンが交差する場所に
あるにもかかわらず、おそらくほとんどの人はこの像に気づくことなく通り過ぎて行くでしょう。
ウィーンの街を歩いていると車道や歩道の至る所に道路標識が立っています。
これらも街の景観に完全に溶け込んでいるため、通常はあまり目立ちませんし、その標識が立てられている界隈で何かしようとしなければ意識しません。
私も車を運転しますが、車に乗っているドライバーからの立場と、歩行者での立場が違う
ことは車を運転する人であれば誰でも理解できることです。
様々な標識があり、日本でもお馴染みの標識ももちろん多くあるわけですが、
それと同時にウィーンの街は補助標識が多いんだな・・・と改めて思います。
その例をひとつ見てみましょう。
こちらの標識は「歩行者専用道路」(Fußgängerzone)を示しています。
その下を見ると、何やら色々なことが書かれている補助標識があります。
最初には
「ausgenommen Mo.-Sa.(wekt) v.6-13h」
もちろんドイツ語を知らなければ、数字しか理解できませんが、地元ではこの表示はとても重要です。
ausgenommen(アウスゲノンメン)は、以前「一方通行」でも書いていますが "例外"を意味します。
(後ろにEINBAHN標識が見えますね)
これは「月曜日~土曜日の平日6時~13時までは例外で・・・」ということですね。
更にその下には何が例外であるかと記されています。
荷物の搬入、タクシー、身障者の乗り降り、そして自転車です。
つまりこの標識全体の意味は
「月曜日~土曜日の平日6時~13時までの、
荷物の搬入、タクシー、身障者の乗り降り、そして自転車を除いた歩行者専用道路」ということになります。
このような補助標識はとても多く見られます。
なんかややこしいですね。
ウィーンの街には様々石作りの建物が並んでいます。
それが歴史的重要な建造物であったり、一般的な集合住宅であったりと、ありとあらゆる様式と装飾を見ることができます。
観光案内をしている時、装飾的な石積みで作られている建物は、本当に石がそのまま切られて積まれているように見えるので、初めから石を積んで作っているんですか・・・という質問をお客様から受けることがあります。
確かに外から見ると、建物も綺麗に並んで隙間なく建てられていて、
まるで綺麗な石が積まれているように見えます。
でもたいていは煉瓦で作られています。
この写真のように、建物の壁が
一部壊れていたりして、中の様子が見える所がよくあります。
そこをよく見るとたいてい
このように煉瓦が綺麗に積まれています。 その上に化粧漆喰
(スタッコ)が施されているわけです。 この写真の場合かなり厚めの化粧飯喰層ですね。
こちらはまた別の場所で、
化粧漆喰が剥がれている
建物です。
化粧漆喰は、伝統的には、石灰、砂、水から作られます。
現在は石灰、セメント、砂、水で、日本では化粧漆喰とか
スタッコとはあまり言われず、
モルタルともっぱら呼ばれているでしょうか。
荘厳な建造物も、外から見ると綺麗に切られた石がそのまま積んでいるように見えますが、 建物自体は煉瓦で作られているわけです。 街中をちょっと外壁に注意して歩くと、
このように煉瓦が見える所がたくさんあります。
ウィーンのリンク道路の最初の大建造物として、有名な国立オペラ座があります。
この国立オペラ座はウィーンの街を歩く上で、重要な目印にもなっています。
この国立オペラ座正面からリンクを隔てて反対側には停留所があります。
そこは路面電車1,2,D,71,路線バス59A,バーデン行き360,Parndorf 行きの停留所です。
その停留所には、ちょっとした屋根がついたベンチがある場所があります。
その空間のリンク道路側が透明ガラスになっていて、何か書いてあります。
よく見るとWärmespender
(暖かさを寄付しましょう)
と大きく書かれ、その下には
Ein Euro hilft gegen die Kälte,Ihnen und Wiens Obdach.
(1ユーロで、寒さに対して、あなたとウィーンの避難所の助けになります)
と書かれています。
さらによく見ると中央右側に小さな長方形の箱が取り付けられているようです。
この小さな箱にはお金が入れられるようになっていました。
つまりこれは募金箱だったのです。
このちょっとユニークな募金箱はCaritas(カリタス)のものでした。
Caritasは全世界165ヵ国が加盟する、バチカンに本部を置いたローマカトリックの社会福祉機構で、オーストリアにも
それぞれの州に、また日本にもカリタスジャパンがあり、社会福祉の推進と募金、援助活動などを行っています。
この空間に座ってバスや路面電車を待つわけです。
屋根もあるので、雨や寒さから少しは守られる・・・
そのような環境になるように、困っている人々を助けようという発想ですね。
思わず寄付したくなります。
ウィーンの街中を歩いていると、建物の壁の至る所に下の写真のように、
まるい穴の空いたねじが見られます。
こんな物を気に留める人はあまりいないと思いますし、様々な様式でできた建物と街並みに気を取られ、そもそも気づかないのではないかと思います。
でもよく注意して見ると、建物の壁の至る所に取り付けられていることがわかります。
この穴の空いた部分は、このように引っかけるためのものです。
何が引っかけられるかというと細長い棒なんですね。
棒の先にも金具の輪があり、そこにさらに細長い開閉可能な輪が取り付けられ、それが壁にねじ込まれて
いる穴に引っかけられます。
つまり棒はぶら下がった状態というわけです。
この細長い棒は赤、白の2色で、このように
斜めに立てかけられます。
これは雪が降った後、「屋根からの雪が下に落ちて来るので気をつけて下さい」という
警告で、棒が斜めに立てかけられることによって建物の際を歩けないようにしている
わけです。
屋根からの雪を「Dachlawine」
(ダッハラヴィーネ)とこちらでは
呼んでいます。
場所によってはこの棒にDachlawineと
書かれた札をぶら下げている所もあります。
ウィーンは今年の冬、現時点で2回ぐらい
しか街が白くなる雪が降っていないので、
この棒はあまり見ることができません。
しかし雪が降った後は様々な場所で見ることができます。
ウィーンの街はバロックの都とも言われるぐらいにバロック建築が多く見られます。
2013年3月13日に「ウィーンはバロックの都」、
10月15日に「ベルヴェデーレ宮殿」でバロックのことについて触れています。
でもかならずしも建築が全てというわけではありません。
バロック曲線は色々な所に見られます。
こちらはアウグスティーナ教会の椅子に見られる装飾です。
典型的なバロック曲線を見ることができます。
バロックは16世紀終わり、イタリアから始まりました。
ここオーストリアでは1630年ぐらいからマリア・テレジアの父カール6世が亡くなる
1740年ぐらいまででしょうか。
バロックの視覚的特徴は、左右対称(シンメトリー)、豊かな装飾、歪んだ曲線、それから何と言っても楕円形です。
ウィーンで重要なバロック建築と言えば、やっぱりシェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿が最初に登場するでしょうか。
こちらはシェーンブルン宮殿の
階段です。
何気ない所にでもこのように
バロック装飾が使われています。
大きな建造物だけではなく、このような細部に至るまで、バロックの要素を見ることができるわけで、それらが全て融合し、バロックの世界を演出しているわけです。
歴史ある街を歩くということは楽しいことですね。
ウィーンの街を歩くと様々な発見があります。
一見意味がわからないものが多く見つかります。
今日はそんな物を2つほど紹介したいと思います。
これは結構分かり易いと思いますが、たいていの方はこんな所には注目しないと思います。
これはウィーンの真ん中に立つシュテファン大聖堂の外壁に見られる当時の墓地の照明です。
現在の私達の時代には考えられませんが、こちらは基本は今でも土葬です。
中世から亡くなった人を教会のすぐそばに埋葬するという習慣があり、ウィーンの、当時城壁に囲まれていた現在のリンクの
内側にもたくさんの教会がありますが、それぞれの教会には教会付属の墓地がすぐ教会の前に作られていました。
ウィーンの中心部では、最初にルペルト教会とペータース教会界隈に墓地が作られました。
その後、このシュテファン大聖堂、ミヒャエル教会やショッテン教会にも教会付属の墓地が作られていきました。
18世紀のマリア・テレジア女帝時代、やはり衛生上の問題から、城壁内の遺体埋葬を禁止させ、そして18世紀終わり長男のヨーゼフ2世の時代に中心の墓地が取り払われて、第2城壁沿いに墓地を移転させたわけです。
これは当時シュテファン大聖堂付属の墓地を照らしたいわゆる照明で、ロウソクが入れられましたが、もっと前は、獣の脂を使っていました。
こちらは何でしょうか?
古い建物の中に、特に日本で言う1階の入口界隈によく
見られる物です。
見た感じねずみの穴のような
雰囲気ですね。
穴の手前に鉄状の物が地面に固定されているのがわかります。
これはヨーロッパに住んでいる人にとってはお馴染みかもしれない「靴のドロ落とし」です。
今でも自分の住居の中では靴を脱がないで生活している人が多いウィーンです。
私が10年以上住んでいた住居の大家さん一家も家の中では靴をはいて生活をしていました。
靴を家の中で履く・・・ということは私にとっては絶対にあり得ない習慣です。
でもこのような物が古い住居にはたくさん見られ、実際に現在でも使ってる人がたくさんいるわけですね。
2013年11月6日付でキリスト教の成り立ちについて書きました。
ヨーロッパ文化はキリスト教なくしては考えられません。
絵画、教会建築、音楽、工芸品、生活習慣などに大変な影響を与えました。
そういう意味でもキリスト教はとにかく奥が深く重要です。
キリスト教のことが少しでも見えてくると、街はもっとおもしろく見えますね。
宗教芸術は2世紀末~3世紀初めに現れ、また同時に様々なシンボル的な要素も登場していきました。
ローマのコンスタンティヌス帝が313年にキリスト教を公認してからは、
このキリスト教芸術は様々な分野にわたって安定した地位を得ることになるわけです。
こちらはそのキリスト教でよく見る有名なモノグラムのひとつです。
これはギリシャ語の最初の文字アルファと最後の文字オメガを表します。
聖書のヨハネ黙示録に登場する
『わたしはアルファであり、
オメガである。』
から発するもので、
わたし=イエス・キリストです。
神である主、創造神としてのアルファ(Α)
万物の支配者、審判神としてのオメガ(Ω)であるイエス・キリストを表します。
このアルファとオメガは、新約聖書が書かれた後ぐらいから急速に広がって行きました。
ちなみに福音書記者ヨハネの書は、紀元90年代に書かれています。
さらにコンスタンティヌス帝の前の時代ぐらいからは頻繁に用いられ、
4世紀にはギリシャ、小アジア、アラビア、パレスティナ、イタリア、北アフリカにも
広がって行きました。
このモノグラムは教会以外に、墓石、棺、宗教的書物、工芸品、貨幣、煉瓦などやなどにも見られます。
最近オーストリア国鉄の駅構内にも地下鉄同様色分けされたゴミ箱が置かれ始めました。
地下鉄のゴミ箱よりもこちらの方が、投入口から色分けされているので視覚的にとても分かり易くなっています。
青が缶、赤が紙、黒がそれ以外、
黄色がプラスチックです。
青、赤、黄色のそれぞれの用途は地下鉄と同じになっています。
その他のゴミは地下鉄は薄い紫でした。
積極的にゴミを分別しよう・・・というウィーンの街の意識が伝わってきますね。
以前11月15日付で、ウィーンの街中に残る貴重な城壁について書きました。
それが19世紀後半の取り壊されてリンク道路が建設されるわけですが、その頃ウィーンの中心のもっと外側には「Linienwall」(リーニエンヴァル)と呼ばれたいわゆる2つ目の城壁がかなり外側を環状的に囲んでいました。
中心の貴重な城壁と同様、あまり知られていませんが、このLinienwallの名残も数か所で見ることができます。
こちらはそのLinienwallの名残です。
この場所はしかし建物の中庭に残されているため、プライベート空間なので、外からは残念ながらすぐ見られるわけではありません。
Linienwallは、皇帝レオポルド1世の下、1704年から建設されました。
ウィーンは大きく1529年、1683年と2回のオスマントルコに包囲され、
(ウィーンは落ちることはありませんでしたが)その脅威から更に中心の外側にも城壁を築こう・・・となったわけです。
こちらは、誰でも外から見られる別の場所にあるLinienwallの名残です。
Linienwallは、St.Marx(現在の3区)~Lichtental
(現在の9区)を環状的に結び、18歳~60歳の地元男性約2500人と150人の学生が建設しました。
高さ4m、幅4m、深さ3mの堀を備えたこのLinienwallは、全長約13.5km・・・
何とたった4ヶ月という驚異的な速さで建設されたと言われています。
19世紀半ば、そのLinienwallの外側に、国鉄の駅(現在のHauptbahnhofやWestbahnhof)が作られ、Linienwallの重要性が失われていき、このLinienwallは最終的に1894年に取り壊されることになります。
現在その外側には通称「Gürtel」(ギュルテル)と呼ばれる大きな環状道路が通っています。
旧市街に残る貴重な城壁もそうですが、街の歴史を知っていると、このような何の変哲もなさそうな物も、おもしろく見えてきますね。
ウィーン西駅 (Westbahnhof)は、西駅構内のエリザベート像でも書きましたが、
1858年に „k.k. priv. Kaiserin-Elisabeth-Bahn“「宮廷エリザベート皇后鉄道」という名でスタートしました。
残っている昔の写真を見ると、美しいルネッサンス様式の駅舎が建っていました。
その後第2次世界大戦で壊され、1954年に近代的な駅舎になりました。
その部分を残し、さらにBahnhofCity Wien West
(バーンホーフシティ・ ヴィーン ヴェスト)
という名で、2011年11月23日にオープンしています。
その1954年に建築された部分の両側に新しく駅ビルを建てた形になっています。
この駅ビルは17.000m²の広さで、3階建て構造で、スーパー、パン屋、ブティックなどを始め90の店が入り、なおかつ13.000m²の敷地に400部屋あるホテル、そしてオフィスビルとなっています。
営業時間も食事関係は毎日9:00~21:00、
ショッピング系は月~金9:00~21:00,土 9:00~18:00(日、祝祭日はクローズ)
とかなり便利で、遅くまで色々なお店が営業しています。
パン屋さんなどはもっと早くから開いています。
この西駅構内に写真のようなInfo塔があり、この駅ビル内全ての店を知ることができます。
このInfo塔はタッチパネル方式なので、使い易く表示も分かり易いです。
最近Wienerlinien(ウィーン市交通局)では、「Rücksicht hat Vorrang」を掲げている啓発広告をよく見かけます。
Rücksicht は配慮で、Vorrang は優先・・・つまり他のお客さんへの配慮が優先ですよ・・・なんて意味でしょうか。
地下鉄の車内や路面電車の車内なでに掲げられている啓発広告です。
こちらは、「好きな物を食べなさい、でもここではやめて下さい」ということで、
aber bitte の次に矢印があり、その中に
「NICHT HIER」と書かれ、その矢印は、地下鉄、
路面電車、路線バスを指しています。
好きな物を食べなさい、でもバス、路面電車、地下鉄車内ではやめて下さい・・・ということですね。
こちらは、「好きなだけ大きな音量で聞きなさい、でもここではやめて下さい」ということで、同じように矢印が
公共交通機関を指しています。
このような啓発広告が最近は多く見られ、ウィーン市交通局が公共交通機関を気持ちよく使って頂くことに力を入れてることがわかります。
シュテファン大聖堂は、7月1日の「シュテファン大聖堂の屋根」や、10月19日の「プンメリン」など、このコーナーでもよく登場しています。
シュテファン大聖堂はウィーンのシンボルのひとつですし、
1147年からずっと歴史を見つめてきましたからとても奥深く、様々な物を見ることができます。
そんなシュテファン大聖堂の外の壁にある、でもほとんどの人が気づかない記念プレートです。
これは、石の上に記念プレートが掲げられています。
ちょっと他と違って黄色っぽいこの石は、ドイツのウルムにある、「Ulmer Münster」
と呼ばれる、世界で一番高い教会の塔を持つミュンスター大聖堂の石です。
このプレートには、「15世紀のウルム大聖堂の石」と書かれており、
さらに「ゴシック建築の親方が、このシュテファン大聖堂とウルムミュンスターで仕事をした」と書かれ、「1977年6月30日 ウルムミュンスター定礎式600年記念にウルム市から贈られた」と記されています。
その親方とは、このシュテファン大聖堂の北塔のプランや内陣屋根を手掛けたHans Puchsbaum(1390以前~1454)で、彼はシュテファン大聖堂で仕事をする前に、ウルム大聖堂でも仕事をしていました。
こちらがそのUlmer Münster
(ウルマーミュンスター・・・
ウルム大聖堂)です。
1377年に定礎式が行われました。
1890年に完成したこの塔は
161,53 mで、世界で教会の塔としては
一番高いです。
塔が極端に高いので、教会自体はあまり
大きく感じません。
シュテファン大聖堂、ウルム大聖堂と
意外な所でつながりがあったんですね。
ちなみにウルムは物理学者アインシュタインが生まれた街です。
アインシュタインはウィーンにも住んでいたこともあります。
そんな路地には、よく見るとこの写真のように出っ張った石がよく見られます。
この石は、Prellstein(プレルシュタイン)とか Radabweiser(ラートアプヴァイザー)
と呼ばれていて、日本語に直せば縁石でしょうか。
これは馬車などが通る時に、建物に触れて壊さないようにということから置かれたものです。
こちらは曲がり角に置かれているものです。
かなり外側に張り出していて、まるで上に腰掛けることがきる椅子のようです。
ロマネスク時代やゴシック時代の縁石は、とてもシンプルで文字通り、ぶつかっても建物を壊さないようにという目的でしたが、ルネッサンス時代以降からは、市の建物や貴族の建物などには装飾的効果としても使われました。
よく見ると様々な形があることがわかります。
昔は砂岩などで作られるのが一般的でしたが、現在ではコンクリートが主流です。
当時は馬車が角を曲がる時に建物の角を壊さないように、また、建物に入る時にその両側の門の部分を壊さないように・・・などが一般的でした。
現在ではトラックの駐車場などにも利用されています。
ウィーンにはこのPrellsteinが至る所に見られますし、その形を比較しても
結構おもしろいですね。
オーストリアの歴史の中では、「オスマントルコの包囲」は有名で、1529年と1683年と
大きく2回ありました。
2回ともウィーンは包囲はされましたが、奇跡的に落ちることはありませんでした。
特に2回目の1683年は、ベルヴェデーレ宮殿を建築させることになる、プリンツ・オイゲンが大活躍をしてくれました。
ウィーンの街中には、その時にトルコ軍から撃ち込まれた大砲の弾(Türkenkugel---テュルケンクーゲルとこちらでは呼ばれています)を数か所で見ることができます。
旧市街の一角にある
Wiener Neustädter Hof のこの建物正面左側の約3mぐらいの高さに当時のトルコ軍が放った大砲の弾がぶら下げられています。
この場所はローマ時代駐屯地の北東部分の角にあたり、風呂がありました。
13世紀の記録ではBerghofという名で登場し、裕福な騎士の一族が所有していたとされています。
14世紀にはDietrichというウィーンの市長の家になっていたようです。
18世紀初め1708年、Wiener Neustadtのシトー修道会に渡されたことから、現在のようにWiener Neustädter Hof と呼ばれ、18世紀前半にバロック様式に改築された姿を
見ることができます。
これがその時の大砲の弾(Türkenkugel)です。
ここ中庭には、18世紀前半にバロック様式に改築される前には
40kgもある砲弾が置かれていたということです。
ここにぶら下げられたのは改築後のことです。
この砲弾は、現在ウィーンの2区である、Leopoldstadtから撃たれたものです。
この1683年のトルコ軍が放った大砲の弾によって、この建物については、壊されることもなく、けが人もなかった・・・と伝えられています。
ウィーンの街にはトルコ軍が当時放った、現在では貴重な歴史的遺産?である砲弾が見られる箇所が数か所あります。
ハプスブルグ家事実上最後の皇帝(実際は後ろから2番目)のフランツ・ヨーゼフ1世の
奥さんが、バイエルンのエリザベート(愛称「シシィ」)というのは有名ですね。
ウィーンは多くのエリザベートファンの方が訪れます。
街中には、彼女の一番知られた肖像画を使ったお土産、宣伝、お土産袋など至る所に見られます。
エリザベートの跡を辿ったり、記念像を見る方も多いわけですが、たいていの方はリンク沿いにあるVolksgarten(フォルクスガルテン・・・国民庭園)にある像を見に行かれるでしょう。
今回は意外と知られていない、ウィーン西駅構内にある
エリザベート像です。
この像はもともと昔の西駅にありました。
そもそもこの西駅は作られた当時、西駅ではなく、 „k.k. priv. Kaiserin-Elisabeth-Bahn“「宮廷エリザベート皇后鉄道」という名で、皇帝フランツ・ヨーゼフが1857年3月4日に工事許可を出し、その翌年の1858年ウィーン~リンツ間が開通しました。
そんな事情から、1860年有名な彫刻家ハンス・ガッサーによってこのエリザベート記念像が作られて、ここに置かれることになりました。
ハンス・ガッサーは1817年、オーストリアEisentratten(ケルンテン州)の出身です。
この像は大理石で作られ、エリザベートと同じ等身大です。
第2次世界大戦で西駅はかなりの被害を受け、1949年に取り壊されてしまいます。
その後、このエリザベート像はずっと国が管理する家具倉庫(Bundesmobiliendepot)
に置かれていたようで、1982年に新たに発見されて、
1985年から現在の西駅に再び
置かれています。
現在の西駅と書きましたが、その現在の西駅も最近駅ビルが追加されてかなり変わりました。1985年からはエリザベート像は日本で言う1階にありましたが、現在は2階に置かれています。
何かと話題性があるエリザベートですが、彼女は幼少時代、本当に子供らしい幼少時代を
過ごし、感覚も普通の人だったんでしょうね。
皇帝フランツ・ヨーゼフに一目惚れされ、結婚が決まってウィーンに嫁いでからは予想はしていたと思いますが、それを上回る環境変化だったわけです。
エリザベートに御興味あれば是非、王宮の「シシィ博物館」に行ってみて下さい。
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