ウィーンはかつての帝国の都ですから、様々な歴史上の有名人達が足跡を残しました。
街中を歩いていると色々な場所に記念の銘板が見られ、それが現在の生活の中に自然に溶け込んでいます。
今日はこんな人もウィーンに住んでいたのかという例でアンデルセンを話題にします。
アンデルセンと言えば幼い頃にたくさん聞いた童話を思い出す人が多いと思います。
はだかの王様、人魚姫、みにくいあひるの子、マッチ売りの少女、もみの木、親指姫、
空飛ぶトランク、ひなぎく・・・様々な名作があります。
そんなアンデルセンもウィーンに少し住んでたことがあるんです。
ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)は1805年4月2日に
デンマークのオーデンセで、貧しい靴屋の息子として生まれました。
彼が11歳の時に父親が亡くなってしまい、学校を中退します。
小さい頃から夢想家で、創造力を発揮し、人形芝居などで遊んでいたといいます。
その後、ますます空想と芝居の世界への興味が膨らみ、1819年、14歳の時に演劇の道を
進もうとコペンハーゲンへと向かいました。
その後1820年~1822年に演劇学校で役者を目指して舞踏や歌も学び、同時に脚本も書くようになります。
俳優は挫折することになりますが、脚本の方は続け、劇作家を志すようになります。
様々な作品を劇場幹部宛てに送り続け、そこで見い出されますが、それまで満足の教育を
受けていなかった彼の文章力が浮き彫りにもなって、劇場幹部の紹介で語学学校へ入学することになります。
その時期に本来持っていた豊かな空想力を文章で伝える力が身についたようです。
その後も劇作家として執筆を続けて行きますが、「即興詩人」、「親指姫」などを発表するとデンマークだけでなく、ヨーロッパ、そして世界中に知られるようになりました。
この2作は1835年に刊行されていて、即興詩人はアンデルセンの出世作です。
これが刊行される1年前に彼はウィーンに滞在していました。


これはグラーベンに近い所にあるアンデルセンが住んでいたという銘版です。
ここには19世紀終わりまで"Bognergasse 315"という建物があり、"この家の2階の所に1834年6月9日~1834年7月9日まで、デンマークの童話作家アンデルセンが住んでいた"
・・・オーストリア・デンマーク協会存続50周年記念によせて・・・と記されています。
アンデルセンは1833年4月~1834年8月にかけてイタリア、ドイツ、イギリス、スペイン、オスマン帝国までと旅行し、その際にウィーンにも来て1ヵ月滞在しました。
彼は多くの旅行記を書いていて、旅行はかれにとってに学校だったようです。
その後彼は童話を書き続け、70歳で肝臓癌で亡くなりました。
彼が書いた童話の数は156と言われています。
ウィーンとアンデルセンとは意外な結びつきだったと思いますが、当時フランスから始まった2月革命がヨーロッパ中に火の粉を振り掛ける前までのヨーロッパはウィーン会議後からは平和な時代が続いていました。
そんな時にアンデルセンは色々な所を旅していたわけです。
せっかくアンデルセンをテーマにしたので、次回はアンデルセンの生家も話題にしたいと
思います。