いよいよ今日がクリスマスですね。
例年通り今年もやっぱりクリスマスは気温が高めで、日中12℃ぐらいになりそうです。
ここ数日は雨も多く強風が吹き荒れてるウィーンですが、クリスマス・イブの今日も風が強く吹いています。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の昼過ぎには部屋に入れてネットを外して飾ろうと思います。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イブの話題にしたいと思います。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後
「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
皆さんも良いクリスマスを!
Frohe Weihnachten!
先月またヴァッハウ渓谷へ行ってきました。
ウィーンからヴァッハウ渓谷への1日観光の場合、一般的に午前中はメルクの修道院を見学し、昼食を食べた後は午後船下りでたいていDürnstein(デュルンシュタイン)で下船し、ウィーンに戻るという感じです。
専用バスで行く場合が多く、一般的に8時間観光、電車で行く場合は少なくとも9時間は必要です。
メルク修道院はウィーン中心部から約90km西に離れた所にあり、ドナウ河沿いの断崖の上から、まるで街を見下ろすように建っています。
この修道院は重要なバロック建築でもあり、さらにこの場所は歴史的にもとても重要な位置にあります。
この辺りのドナウ河は古代ローマ帝国時代国境でもあり、ドナウ河沿いにはウィーンのように駐屯地が多く築かれました。
このMelkもローマ時代からの集落がありました。
Melkは831年に"Medilica"という名で最初に登場しますが、ハプスブルグ家の前に栄えた中世のバーベンベルク王朝の最初の居城が置かれた場所でもあります。
これは修道院のバルコニーからの眺めで、修道院を見学しないと見ることができません。
この日は修道院見学が11:15と遅い予約だったので、先にメルクの旧市街を少し散策しました。
ここからの眺めは必見です。
先月ヴァッハウ渓谷へ2度ほど行ってきました。
ウィーンからヴァッハウ渓谷への1日観光の場合、一般的に午前中はメルクの修道院を見学し、昼食を食べた後は午後船下りでのんびりしたツアーです。
今日はメルク修道院からの眺めです。
メルク修道院はウィーン中心部から約90km西に離れた所にあり、ドナウ河沿いの断崖の上から、まるで街を見下ろすように建っています。
この修道院は重要なバロック建築でもあり、さらにこの場所は歴史的にもとても重要な位置にあります。
この辺りのドナウ河は古代ローマ帝国時代国境でもあり、ドナウ河沿いにはウィーンのように駐屯地が多く築かれました。
このMelkもローマ時代からの集落がありました。
Melkは831年に"Medilica"という名で最初に登場しますが、ハプスブルグ家の前に栄えた中世のバーベンベルク王朝の最初の居城が置かれた場所でもあります。
修道院を見学して行くと、やがて大理石の間から外に出ます。
するとこの修道院の建築構造に関係するバルコニーに出るわけですがそこからの眺めがとても印象的なんです。
ここは何回来てもいいですね。
前々回のライブオンラインツアーでウィーンのギリシャをテーマにしてウィーンにある2つのギリシャ正教の教会を登場させました。
その時ギリシャの教会が見たくなったので、先日個人的に大好きなクレタ島とサントリーニ島からギリシャ正教会をいくつか掲載しましたが、今日もちょっとギリシャに行きます。
こちらはサントリーニ島の夕陽で有名なイアです。
ここは小高い所にあるため、ビーチがないので自分はいつもビーチがある場所に滞在するのですがイアはゆっくり散策したいですね。
こちらもサントリーニ島でフィラにあるMitropolis教会は印象的です。
ここはドームの色も白です。
こちらはクレタ島にある非常に有名なArkadi修道院です。
左はクレタ島南西にあるヨーロッパ屈指のサマリア渓谷です。
ここは全長17kmで、両側に聳える絶壁の間をリビア海に向って歩くトレッキングコースです。
右は前回掲載したArsaniou修道院の教会です。
クレタ島ハニアの一角です。
クレタ島はヨーロッパで一番南に位置し、地中海では5番目に大きく、東西に細長い島です。
週末に多く降った雪も止み、だいぶ街中の雪が解けてきました。
しかし曇り空の毎日で青空が見られません。
天気予報を見ても晴れマークが出て来ないですね。
さて、年末に急遽日本に一時帰国したため、ライブオンラインツアーの間隔が少し空いてしまいましたが、先週今年初めてのライブオンラインツアーをやりました。
その時のテーマが"ウィーンのギリシャ"で、ギリシャ正教の教会を2つ登場させました。
自分も案内していて、ギリシャの教会が見たくなったので、今日は個人的に大好きなクレタ島とサントリーニ島からギリシャ正教会をいくつか掲載します。
2枚ともサントリーニ島のイアにある教会です。
ギリシャ正教会には必ずドームがあります。
この島にある教会の多くはドームが青色で、教会の壁が白です。
ギリシャの国旗をイメージしますね。
1枚目のイアの教会も有名ですが、ギリシャをイメージする最もポピュラーなのはやはり同じサントリーニのFirostefaniにあるこの教会でしょうか。
初めてサントリーニに来た時この教会を探すのに苦労したのを今でも覚えています。
目前にはエーゲ海が広がります。
こちらはクレタ島イラクリオンにあるAgios Minos 教会です。
ウィーンにあるギリシャ正教会と建築的に似ていますね。
こちらはクレタ島レティムノのそばにあるArsaniou修道院です。
ギリシャ正教会の鐘は特徴的で素敵ですね。
写真ではやはり物足りません。
近いうちにまた行きたいですね。
いよいよ今日がクリスマスですね。
例年通りクリスマスは気温が高めで、今日は朝6:30の時点で11℃もありました。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の昼過ぎには部屋に入れてネットを外して飾ろうと思います。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イヴの話題にしたいと思います。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後
「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
皆さんも良いクリスマスを!
Frohe Weihnachten!
先日ヴァッハウ渓谷の船下りの起点となるメルクの船着き場が変わったことを話題にしました。
以前の船着き場よりも修道院側から見ると少し奥になり、ドナウ側本流沿いになりました。
そうです、以前はドナウ河本流沿いではなく、本流に流れ込むメルク川の終わりにあったんですね。
せっかくメルクの船着き場を話題にしたので、今日はメルク修道院を眺めてみましょう。
メルク修道院はウィーン中心部から約90km西に離れた所にあり、ドナウ河沿いの断崖の上から、まるで街を見下ろすように建っています。
この修道院は重要なバロック建築でもあり、さらにこの場所は歴史的にもとても重要な位置にあります。
この辺りのドナウ河は古代ローマ帝国時代国境でもあり、ドナウ河沿いにはウィーンのように駐屯地が多く築かれました。
このMelkもローマ時代からの集落がありました。
Melkは831年に"Medilica"という名で最初に登場しますが、ハプスブルグ家の前に栄えた中世のバーベンベルク王朝の最初の居城が置かれた場所でもあります。
そこでバイエルンの貴族バーベンベルク一族がオットー2世皇帝から選ばれて、辺境地を守る伯爵という意味で、辺境伯(Markgraf)という皇帝のすぐ下のポジションでこの辺りを守る砦の城主の役割りを担うわけです。
メルク修道院は断崖の上に街を支配するかのように立っています。
団体ツアーの場合はバスで直接駐車場に入るので、この角度から見ることが意外と少ないのですが、個人で来られる方は是非この角度からも修道院を眺めてみましょう。
午後は船着き場に行くことがほとんどだと思いますので、その場合には必ずメルクの旧市街を通ることになりますからこの写真スポットを忘れないようにしましょう。
オーストリアはハプスブルク家がカトリックを守ってきたこともあり、国内ではローマカトリックの比率が最も高くなっています。
それでも最近は教会税を支払う割には、その見返りを感じないことから脱会する人も少なくありません。
ウィーンだとカトリックの比率は65%に達してないと思われます。
自分は宗教としては興味がありませんが、キリスト教から生まれてきたヨーロッパ文化・・・絵画、建築、音楽などは非常に興味深いものがあります。
観光的にも重要な教会が目白押しであるウィーンの街ですが、観光で知られていなくても同じように重要な教会がたくさんあります。
先日掲載したWähringer教会などもそのような教会に入りますね。
今日は中心に近い所にあるこんな教会を話題にします。
こちらはウィーン4区の一角にあるPaulaner教会です。
路面電車を使ったら早いですが、国立オペラ座からでも歩いて来られる所にあり、ファサードが美しく印象的です。
この教会は1211年にアントニウスに捧げられた教会として記録されていますが、1529年のオスマントルコによって壊されてしまいます。
1626年に反宗教改革の一環で皇帝フェルディナント2世によってパウラーナー修道会がウィーンに呼ばれます。
パウラーナー修道会はFranz von Paulaによって1474年に認められた修道会です。
ちなみに12使徒の1人であるパウロに関係する別の修道会も"Paulaner" と呼ばれますが、このFranz von PaulaのPaulanerとは違います。
1627年にはこの場所に教会と修道会を作り始めます。
1683年には再度オスマントルコの被害を受けますが、1686年には修復されました。
1717年には塔が作られ、1730年には教会正面部分が改築されました。
その後ヨーゼフ2世によって修道会が解散し、1784年には不要になった修道会の東部分が取り壊されました。
しかし教会はそのまま残されて、当時を偲ぶことが出来ます。
1963年には教会前広場が、交通を理由に小さくなりました。
そのため離れた所から見ると分かれ道にポツンと立っているように見えます。
誰によってこの教会が建築されたかは不明ですが、イタリアによく見られるルネッサンス的要素を残した初期バロック様式で、シンプルな北側正面部分です。
左にFranz von Paula、右にアッシジのフランシスコが見られ、中央には時計があります。
教会内部は外側の質素さからは想像できないバロック様式のSaalkirche...ホール空間スタイルです。
主祭壇は1718年のものですが、祭壇画は1844年にJosef von Hempelによって製作された守護天使、主祭壇両脇にはBonifatiusとVItalisが立っています。
主祭壇上の天井画はCarlo Carloneによる聖三位一体です。
交通量が多い外の世界とは違う、静寂な荘厳さが漂う教会内部空間です。
この教会を北西側から見ています。
ここからだと南側に立っている教会の塔が見えますね。
西側は路面電車の停留所が見えています。
教会を見る時には、教会に周りも可能な限り散策してみましょう。
教会の全体の形がどんな風なのか、特定の場所からしか見えない物などが見つかります。
ウィーンは様々な形容をされる中でよく"バロックの都"と言われます。
もちろんウィーンはバロック様式だけではなく全ての建築様式を見ることができますが、この街の歴史的背景から重要なバロック建築が数多く存在します。
今日は一般観光客が残念ながらあまり訪れることがない、しかし重要なバロック建築の教会を話題にします。
この教会は"Piaristenkirche Maria Treu"という名称で、ウィーンの8区の一角にあります。
ピアリステン教会は皇帝レオポルド1世によって礎石が置かれ1698年~1719年に建てられました。
Hornの建築家であるBartholomäus Hochhaldtingerのプランが一番古くそして唯一現在まで残されいる教会プランで1700年までを知ることができます。
しかし、ルーカス・フォン・ヒルデブラントによって教会は当初と全く違ったものとなりました。
ヒルデブラントと言えばべルヴェデーレ宮殿が真っ先に挙げられます。
ピアリステン教会は名前の通り、ピアリステン修道会のために建てられました。
ピアリステン修道会は、José de Calasanz (1557-1648)によって1617年にローマ教皇から認められ、ウィーンには教育を目的として1697年にやって来ました。
日本語ではエスコラピオス修道会とも呼ばれています。
その後改築なども行われて最終的に1751年に正面部分と南塔が完成し、1753年にはほぼ今の姿になっています。
教会正面部分のこちら側に凸面になっているファサードは、ローマ時代5~6世紀に建てられたSanti Luca e Martinaを思わせるウィーンでは唯一のスタイルです。
教会の名前である"Maira Treu"という文字が正面部分に見られます。
これは現在この教会の主祭壇に祭られている聖母マリアの絵が由来です。
この絵はJosef Herzによって1713年にペスト流行した時に描かれたものです。
この絵はもともとこの教会のSchmerzenskapelleという礼拝堂に置かれていましたが、あまりにも多くの巡礼者が訪れることから1721年以来から主祭壇に置かれています。
"Treu"は忠実とか誠実、貞操という意味があります。
教会内部は非常に美しいバロック様式で、ひとつの大きな空間です。
天井ドームのフレスコ画が印象的な集中式プランで、教会正面の2本の塔をイメージすると意外な構造になっていますが、教会全体ではラテン十字架形プランとちょっと複雑です。
主祭壇はマリアとヨゼフの結婚が描かれていて、その前に上述した"Maria Treu"が置かれています。
主祭壇の一番上にはピアリステン修道会のワッペンを見ることができます。
いつ来てもここは入れますが、柵が閉まっているためミサや演奏会以外ではこれ以上中に入ることができません。
天井の素晴らしいフレスコ画はオーストリアの重要な後期バロック時代の画家Franz Anton Maulbertschが1752年、当時彼が28歳の時に仕上げたものです。
特に中央の大きなフレスコ画は7月29日から始まって、12月20日に完成しています。
こちらが中央部分のフレスコ画です。
アダムとイヴ、アブラハムとイサク、モーゼとダビデが見られ、聖母マリアが天界に迎えられるシーンが描かれています。
左上に見られるのは、この教会の南側に接続されているピエタ礼拝堂です。
教会建築と同じ時期に作られています。
右側は教会前の美しい広場で、1713年に置かれたマリア像が見られます。
ここにはピアリステン修道会の幼稚園、小学校、Gymnasiumあり、たくさんの子供達が通っています。
また夕方18:00からオープンするピアリステンケラー"という地元でも有名なレストランもありますので、寄ってみてはいかがでしょうか。
ウィーン旧市街の中心にはシュテファン大聖堂が立っています。
ゴシック様式のとても印象的なこの大聖堂はウィーンのシンボルのひとつで観光に来たら必ず訪れるでしょう。
教会や修道院を訪れることは手っ取り早くヨーロッパ文化を感じることができますね。
今日はかなり外側にあるちょっと建築的にも面白い教会をお届けします。
こちらはウィーン18区の一角にあるWähringer Pfarrkirche...ヴェーリンガー教区教会です。
18区の代表的な名前になっているWähringそのままの名前が付いています。
ここには中心部Schottentorから路面電車40,41番で来ることができ、教会の目の前に停留所があります。
1213年にはここにベネディクト修道会Michaelbeuernに属する礼拝堂があったことがわかっています。
1226年には小教区になり、1232年には
聖Gertrudに捧げられいます。
現在でもこの教会の住所はGertrud広場です。
14世紀半ばには拡張されました。
1753年には新しく立て直され、その姿が現在まで見られます。
写真ではこの教会を南東から眺めています。
普通の教会のような建築構造ですね。
こちらはこの教会を北東から眺めています。
路面電車から降りるとすぐにこのアングルが見えてきますので、この教会の前が大通りです。
1934年にKarl Holeyのプランによって写真に見られるように北側に増築されました。
教会の塔が見えていますが、そちらが西側で、多くの教会がラテン十字架形で入り口が西側、祭壇が東向きに建築されるのですが、この教会も当初はそのように建てられました。
というか今でもそうなっていますね。
しかし北側に増築されたことから、十字架の向きが東西ではなく南北に変わったように感じられます。
非常に面白いですね。
塔がある教会西側入口から入ると、シンプルな後期バロック様式の非常に心地いい内部空間です。
奥にキリストが磔刑されている主祭壇が見えますね。
空間に1本も柱がないSaalkircheというホールスタイルの構造です。
これだけ見ているとしっかり東に向けられた普通の教会のように見えます。
もちろん現在でもこの空間でミサも行われています。
写真左に御注目下さい。
アーチの間にガラス張りの部分が見えていますが、この左側が増築された北側部分です。
こちらが1934年に本来の教会から増築された北側部分で、バロック空間とは全く違う洗練された空間です。
ユーゲントシュティール様式を思い起こさせますね。
こちらでもミサが行われています。
奥のステンドグラスはHeinlich Tahedlによるもので、救済をテーマにしています。
実は地形的に教会が立っているこの広場は南へ向かって高くなっていて、傾斜しているんですね。
この北側部分の増築によって一体感をもたらしています。
教会は歴史あるものばかりですが、ひとつの教会ではっきりと違う様式や構造が見られるのは面白いです。
いよいよ今日がクリスマスですね。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の昼過ぎには部屋に入れてネットを外して飾ります。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イヴの話題にしたいと思います。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
今年はまだコロナ禍ではありますが、11月22日のロックダウンまで、そしてそれが解除された12月11日以降クリスマス市も再開となり、去年よりはクリスマスの空気を楽しむことができました。
皆さんも良いクリスマスを!
Frohe Weihnachten!
今日のウィーンは6:45の時点でマイナス6℃と今年一番の冷え込みとなりました。
昨日同様太陽が見られるいい天気になりそうですが、予報では日中1℃・・・寒いですね。
昨日12月26日は特に"Stephanitag"(シュテファニーターク)とも呼ばれ、ウィーンのシュテファン大聖堂でお馴染みの聖人シュテファヌスの日でした。
クリスマスもカレンダーでは終わってしまいましたが、今日は日曜日です。
昨日はSteyr(シュタイアー)のそばにあるChristkindl(クリストキンドル)を話題にしました。
ここには知られた巡礼教会が立っていて、この時期多くの人が訪れるわけですが、ここは巡礼する人だけではなく、別のあることで多くの人を集めています。
教会を右に見ながらその横を通って行くと、すぐ裏側にはGasthaus(レストランとして食事、宿泊がいっしょにできる施設)があります。
ここの名前は"Christkindlwirt" で、この建物の中には毎年クリスマス時期に限ってオーストリアの郵便局が出張してきます。
左の写真はこの建物の中に見られる郵便局の案内板で、POSTAMT CHRISTKINDLと書かれています。
この手前の所にちょとしたコーナーがあって、そこで色々なクリスマスカードが売られています。
ここには郵便局の係が待機していて、クリスマスカード(絵葉書)を持ってない人はここで買えます。
奥へ入ると右上の写真のような空間にいくつかのショーケースが置かれていて、記念切手などが紹介されています。
ずっと奥に係が座っている窓口が設けられているので、そこで準備したクリスマスカード(絵葉書)を出します。
先日うちは何枚かここで出しましたが、最初に枚数分の切手を購入して、この空間でクリスマスカードを書いて、係に渡しました。
なぜ郵便局がここに?
こちらではクリスマス時期にはクリスマスカードを贈る習慣があります。
"クリスマスおめでとう・・・そしてまた来年いい年でありますように・・・"
というような内容で、親しい人達に贈ります。
クリスマスカードに来年のことも書くので、年賀状という習慣はありません。
そもそも新年は年の初めという感覚だけで全くと言っていい程重要性はありません。
オーストリアではプレゼントを持って来るのはサンタクロースではありませんね。
Christkind・・・子供のキリストがやって来るわけで、この街の名前は巡礼教会と同じ
"Christkindl"ですね。
ここからクリスマスカードを出せば、この街の
消印である"CHRISTKINDL"が押されます。
これを受け取った人々に、Christkindからのクリスマスカードが届いたんだな・・・と夢を与えることができるわけです。
右の写真は2017年にここで買った切手です。
オーストリア国内に出したので、68セントとなっていて、東方三博士(三賢者)がイエスを拝んでいます。
その時Christkindlで出したクリスマスカードがうちにも無事に届きました。
ちゃんと"CHRISTKINDL"の消印が押されています!
今日12月26日も第2クリスマスの日ということでお休みです。
今日は特に"Stephanitag"(シュテファー二ターク)とも呼ばれ、ウィーンのシュテファン大聖堂でお馴染みの聖人シュテファヌスの日です。
年間を通して生活の中で一番重要なのはクリスマスですが、今年は異例でした。
しかも今日から3度目のロックダウンに入ります。
本来の習慣からすれば12月23日までがクリスマスの空気を楽しみ、24日からは今までの盛り上がりが嘘のような静かな街の空気に変わります。
多くは家族とクリスマスを過ごしますので、クリスマスツリーの装飾やプレゼントの演出、食事などの準備に追われます。
もう何度も書いていますが、クリスマスにプレゼントを持って来るのはサンタクロースではなく、子供のキリスト・・・"Christkind"(クリストキント)が持って来ます。
オーストリアでは伝統的にサンタクロースは絶対に登場しません。
クリスマス市も"Christkindlmarkt"と一般的に言われます。(今年は残念ながら中止となりました)
うちにも夕食後、しばらくしてChristkindが多くのプレゼントをクリスマスツリーの下に置いて行きました。
さて、今日はここ数年この時期に話題にしているChristkindlです。
オーストリアには"Christkindl"という名の街があることを御存知でしょうか?
地元ではもちろん知られた街で、観光的にもかなり知れ渡ってきています。
"Christkindl"という街はOberösterreichの一角で、リンツからだと車で40kmぐらい南に行った美しい街 Steyr(シュタイアー)のStadtplatzからさらに4km程離れた所にあり、徒歩だと50分ぐらいかかります。
ここはSteyrの行政区に入る人口2.000人弱の小さな町ですが、ここには有名な巡礼教会とレストランぐらいしかありません。この巡礼教会ができるにあたって有名な伝説があります。
<Christkindlの伝説>
Steyrに住んでいたFerdinand Sertlはこの地域の楽団長であり、火元見回り人をしていました。
彼は癲癇(てんかん)に悩まされていたこともあり、孤独を好んでいたということです。
1695年か1696年に彼はSteyrの修道女から12cmの大きさのワックスで作られた茨の冠をかぶった子供のイエス・キリストの磔刑像(CHRISTKIND)を買いました。
それをトウヒの木の幹に彫られた空間に捧げ、毎日このイエス像の前でお祈りをしたそうです。
するとまもなく彼の病気が治ったということです。
この話がまたたく間に広がって、奇跡を求める多くの人が訪れる巡礼場所となりました。
1699年にはこのトウヒの木の周りに木製の礼拝堂が作られました。
1702年にはこの地域GarstenのAnselm修道院長が石の教会にするきっかけを作り、建築家Giovanni Battista Carloneに依頼しますが、パッサウ司教の許可が下りず、次の年には中断してしまいます。
結果的に1708年に許可が下りますが、その時にはCarloneがこの世を去っていたので、メルク修道院をバロック化したことで知られるJakob Prandtauerが引き継いで、1725年7月26日に奉納されました。
現在でもここは重要な巡礼教会として知られています。
左上の写真はこの巡礼教会で、右上はこの教会内部の主祭壇です。
教会の正面は2本の塔が印象的なバロック様式です。
真ん中にも塔があるように見えますが、これはドームになっています。
この教会を作らせた修道院長Anselmのコンセプトではローマにある有名なパンテオンをベースにしています。
この主祭壇はオーストリアでは非常に珍しいスタイルで、初期ロココ様式となっています。
それは祭壇の枠というものが全くなく、そのまま空間に置かれていて、Tabernakel(タベルナーケル)という聖櫃が黄金の球体となっています。
このタイプのものはオーストリアにはここを含めて3つしか例がありません。
この球体の上に伝説の12cmのキリスト像が奉られています。
左上の写真が伝説のChristkind像です。
これがこの巡礼教会と街の名前になっています。
右上の写真は入口部分とパイプオルガンです。
この教会の内部はひとつのホール的空間しかなく、脇にはいくつかの祭壇があります。
右の写真は天井フレスコ画で、マリア被昇天を表していて、1710年、Carl von Reslfeldによるものです。
この天井ドームの形からわかるように、教会内部空間はこの円形の一空間しかありません。
逆に言えば天からの光がこのドームを通して内部に入り込んでくるという支配性を感じます。
左の写真はこのChristkindl教会を後ろから見ています。
正面とは全く違い、ドーム部分が強調されているのがわかります。
このすぐ左に見えている建物がレストラン"Christkindlwirt"(クリストキンドルヴィルト)でここが特別に重要な意味を持つ場所となります。
右の写真はこの教会の正面左側に掲げられている記念プレートです。
さて、ここは宗教的に巡礼としてこの教会に訪れる方が非常に多いわけですが、それとは別にAdvent時期には数え切れない程多くの人が訪れます。
その続きは明日にしましょう。
先日の日曜日がAdventの第4日曜日となり、Adventkranzに4本目のロウソクが灯されました。
いよいよ今日がクリスマスですね。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の昼過ぎには部屋に入れてネットを外して飾ります。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イヴの話題にしたいと思います。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
一昨年2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
今年は新型コロナウィルスの影響でクリスマス市も中止となり、3度目のロックダウンが明後日やって来るという異例のクリスマスとなりましたが、クリスマスを祝う伝統習慣は全く変わることがありません。
皆さんも良いクリスマスを!
Frohe Weihnachten!
オーストリアは8か国に囲まれている内陸国ですので、ウィーンから車で1時間ぐらい走ればチェコ、スロヴァキアやハンガリーに簡単に入ることができます。
日本からもウィーンを観光するツアーではプラハ、ブダペスト、ブラティスラヴァを訪れるツアーがたくさんあります。
私も仕事柄、オーストリアに隣接しているチェコ、ハンガリー、スロヴァキアにはよく行きます。
日本からの一般ツアーでブラティスラヴァに寄っても、見る所はほぼ決まっていて、たいていブラティスラヴァ城と旧市街のみです。
ブラティスラヴァはスロヴァキアですが歴史はハンガリー史を語った方が早く、実際にハンガリー語が現在でも多く話されています。
それは、ブダペストが16世紀前半のオスマントルコに占領されての1536年からマリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世が1783年に再び都をブダペストに移すまでの約250年間、ハンガリー王国の首都であったというのも大きな理由のひとつです。
帝国時代はドイツ語名でPressburg (プレスブルク)と呼ばれていましたし、ここは習慣的にドイツ語が多く話されていました。
さて、そのスロヴァキアの首都ブラティスラヴァにはちょっとおもしろい教会があります。
この教会名はエリザベート教会で、街の雰囲気には似つかわしくない、お菓子の家みたいな雰囲気です。
実際にこの場所は住宅街の一角といった感じで、近くに来るまで目立ちません。
カトリックの教会で、聖人エリザベートに捧げられています。
エリザベートはドイツ騎士団の守護聖人で、13世紀前半に生きたハンガリー王女でElisabeth von ThüringenやElisabeth von Ungarnとよく呼ばれています。
この教会は、1845年にブラペストで生まれ、1914年ブダペストで亡くなったハンガリーアール・ヌーヴォーの建築家
レヒネル・エデンによって1908年に建てられました。
アール・ヌーヴォーと書きましたが、ハンガリーユーゲントシュティールです。
レヒネルはこの教会に隣接している学校も建築していて、この教会はその学校のための礼拝堂を意図として作られました。
塔が印象的ですが、元々のプランでは教会自体の上にドームがかけられるはずだったそうです。
入口はロマネスク様式っぽいですね。
レヒネルの特徴はジョルナイセラミックが多用されていること、オリエント的要素や、生きているような曲線などが特徴です。
レヒネルはセラミックにも強い関心を持っていました。
教会内部は意外とシンプルで、ひとつの空間です。
外観と合せた水色が多く使われていて、様々な宗教画が飾られています。
主祭壇は貧しい人達に物を与える聖人エリザベートが描かれています。
この教会は別名で"青の教会"とも言われています。
ブラティスラヴァを訪れたら是非寄ってみましょう。
中心の広場から850m程離れていますが、10分強で歩いて行くことができます。
余談ですがおもしろい教会のひとつとしてオーストリアにはフンデルトヴァッサーが手掛けたバルバラ教会という有名な教会があります。
今日12月26日も第2クリスマスの日ということでお休みです。
今日は特に"Stephanitag"(シュテファー二ターク)とも呼ばれ、ウィーンのシュテファン大聖堂でお馴染みの聖人シュテファヌスの日です。
年間を通して生活の中で一番重要なのはクリスマスです。
宗教的には復活祭ですが、クリスマス習慣を楽しむ期間はクリスマス市が出る時から数えればひと月以上もあるわけです。
市庁舎やシェーンブルン宮殿のクリスマス市は12月26日まではやっていますが、場所的に観光産業もひとつの理由になっています。
しかし、本来の習慣からすれば12月23日までがクリスマスの空気を楽しみ、24日からは今までの盛り上がりが嘘のような静かな街の空気に変わります。
多くは家族とクリスマスを過ごしますので、クリスマスツリーの装飾やプレゼントの演出、食事などの準備に追われます。
もう何度も書いていますが、クリスマスにプレゼントを持って来るのはサンタクロースではなく、子供のキリスト・・・"Christkind"(クリストキント)が持って来ます。
オーストリアではサンタクロースは絶対に登場しません。
クリスマス市も"Christkindlmarkt"と一般的に言われます。
うちにも夕食後、しばらくしてChristkindが多くのプレゼントをクリスマスツリーの下に置いて行きました。(笑)
さて、オーストリアには"Christkindl"という名の街があることを御存知でしょうか?
地元ではもちろん知られた街で、観光的にもかなり知れ渡ってきています。
"Christkindl"という街はOberösterreichの一角で、リンツからだと車で40kmぐらい南に行った美しい街Steyr(シュタイアー)のStadtplatzからさらに4km程離れた所にあり、徒歩だと50分ぐらいかかります。
ここはSteyrの行政区に入る人口2.000人弱の小さな町ですが、ここには有名な巡礼教会とレストランぐらいしかありません。
この巡礼教会ができるにあたって有名な伝説があります。
<Christkindlの伝説>
Steyrに住んでいたFerdinand Sertlはこの地域の楽団長であり、火元見回り人をしていました。
彼は癲癇(てんかん)に悩まされていたこともあり、孤独を好んでいたということです。
1695年か1696年に彼はSteyrの修道女から12cmの大きさのワックスで作られた茨の冠をかぶった子供のイエス・キリストの磔刑像(CHRISTKIND)を買いました。
それをトウヒの木の幹に彫られた空間に捧げ、毎日このイエス像の前でお祈りをしたそうです。
するとまもなく彼の病気が治ったということです。
この話がまたたく間に広がって、奇跡を求める多くの人が訪れる巡礼場所となりました。
1699年にはこのトウヒの木の周りに木製の礼拝堂が作られました。
1702年にはこの地域GarstenのAnselm修道院長が石の教会にするきっかけを作り、建築家Giovanni Battista Carloneに依頼しますが、パッサウ司教の許可が下りず、次の年には中断してしまいます。
結果的に1708年に許可が下りますが、その時にはCarloneがこの世を去っていたので、メルク修道院をバロック化したことで知られるJakob Prandtauerが引き継いで、1725年7月26日に奉納されました。
現在でもここは重要な巡礼教会として知られています。
左上の写真はこの巡礼教会で、右上はこの教会内部の主祭壇です。
教会の正面は2本の塔が印象的なバロック様式です。
真ん中にも塔があるように見えますが、これはドームになっています。
この教会を作らせた修道院長Anselmのコンセプトではローマにある有名なパンテオンをベースにしています。
この主祭壇はオーストリアでは非常に珍しいスタイルで、初期ロココ様式となっています。
それは祭壇の枠というものが全くなく、そのまま空間に置かれていて、Tabernakel(タベルナーケル)という聖櫃が黄金の球体となっています。
このタイプのものはオーストリアにはここを含めて3つしか例がありません。
この球体の上に伝説の12cmのキリスト像が奉られています。
左上の写真が伝説のChristkind像です。
これがこの巡礼教会と街の名前になっています。
右上の写真は入口部分とパイプオルガンです。
この教会の内部はひとつのホール的空間しかなく、脇にはいくつかの祭壇があります。
右の写真は天井フレスコ画で、マリア被昇天を表していて、1710年、Carl von Reslfeldによるものです。
この天井ドームの形からわかるように、教会内部空間はこの円形の一空間しかありません。
逆に言えば天からの光がこのドームを通して内部に入り込んでくるという支配性を感じます。
左の写真はこのChristkindl教会を後ろから見ています。
正面とは全く違い、ドーム部分が強調されているのがわかります。
このすぐ左に見えている建物がレストラン"Christkindlwirt"(クリストキンドルヴィルト)でここが特別に重要な意味を持つ場所となります。
右の写真はこの教会の正面左側に掲げられている記念プレートです。
さて、ここは宗教的に巡礼としてこの教会に訪れる方が非常に多いわけですが、それとは別にAdvent時期には数え切れない程多くの人が訪れます。
その続きは明日にしましょう。
一昨日の日曜日が、Adventの第4日曜日となり、Adventskranzに4本目のロウソクが灯されました。
クリスマスが年間を通して最も重要なイベントです。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の午前中には部屋に入れてネットを外して飾ります。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
こちらではクリスマスには魚を食べる習慣があります。
魚はイエス・キリストのシンボルのひとつです。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イヴの話題にします。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
去年2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
ヨーロッパ文化を知る上でキリスト教なくしては語れません。
キリスト教があったからこそ、絵画、建築、音楽などが様々なスタイルで発展していきました。
キリスト教本来の性格を担っているのはギリシャ正教などの東方正教会ですが、芸術的に素晴らしいものが見られるのはローマカトリックですね。
オーストリアもローマカトリックの比率が80%以上と圧倒的に多い国ですから、素敵な教会が星の数ほど存在します。
このコーナーでも多くの教会を取り上げました。
さて、今日はウィーン郊外にある小さな教会です。
こちらはウィーン19区のハイリゲンシュタットにあるヤコブ教会です。
そうです、この教会のすぐそばにはベートーヴェンの遺書の家があり、またこの教会の横にはベートーヴェンが住んだホイリゲがあるため、この界隈を訪れる方の多くはこの教会を見ていると思います。
ハイリゲンシュタットは古くからキリスト教信仰がしっかりした組織的に存在していて、このヤコブ教会の始まりは5世紀頃まで遡ることができます。
パッサウのRüdiger司教の1243年に記述によれば、1246年にクロスターノイブルクの姉妹教会であった聖マルティン教会から切り離され、1263年には病院と聖職者住居がこの聖ヤコブ礼拝堂の横にあったことが古文書で確認できます。
1307年にはクロスターノイブルク修道院の管轄となり、ハイリゲンシュタットはアウグスティヌス聖堂参事会修道会がこの地域のGrinzing, Sievering, Salmannsdorf, Nußdorf, Ober- Unterdöblingなどと共に宗教的に活躍します。
1529年のオスマントルコの襲来で、この教会は壊されましたが、1534年には再建されています。
1683年2回目のトルコ軍では、再び教会と病院も壊されましたが、今度は教会だけが再建されました。
1752年には塔が追加されました。
1952/1953年には考古学的な発掘調査が行われ、ローマ時代の部分が発見されています。
教会内部には初期キリスト教時代と思われる墓石があります。
教会の北側はローマ時代の墓地だったようです。
1980年にはその墓地のそばでアヴァール時代の墓石も見つかっています。
教会内部は質素な1空間のホール構造で、ロマネスク様式、12世紀の姿です。
左側には3つの窓がありますが、右側は2つです。
教会左側のアーチから奥に入ると中々雰囲気のいい空間が見られます。
そこにはちょっとした演奏会や講演などができる建物があります。
写真右は別の角度からこのPfarrplatzを見ています。
左には赤白の旗が壁に掲げられていますが、この場所はベートーヴェンが1817年の夏。2か月間だけ滞在した場所で、地元で有名なホイリゲとなっています。
この界隈にはベートーヴェンにもゆかりある別の教会もあります。
昨日の日曜日が、Adventの第4日曜日となり、Adventskranzに4本目のロウソクが灯されました。
クリスマスが年間を通して最も重要なイベントです。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、これから部屋に入れてネットを外して飾ります。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
こちらではクリスマスには魚を食べる習慣があります。
魚はイエス・キリストのシンボルのひとつです。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のこのサイトの伝統としてこの曲をクリスマス・イヴに取り上げます。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
すでに お気付きだと思いますが、今年2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念です。
2月25日の日曜日から今年の冬初めて日中の気温がマイナスとなりました。
それから1週間はずっとマイナスの気温で、今まで暖かかっただけにとても寒く感じました。
この1週間にウィーンに来られた方はウィーンってこんなに寒いのんだ・・・と思われたかもしれませんが、この期間は周辺どこに行っても寒かったと思います。
この寒い時期に学生の皆さんとウィーンの森へ行きました。
団体ツアーの場合は予め観光する場所が決まっている場合がほとんどですから、天気が良かろうと悪かろうと天気に関係なく観光します。
もっとも個人で旅行されても、現地での観光内容は自由に変えられても、旅行日程はたいてい予め決まってますから、天気は運と言うことになりますね。
ウィーンの森に行ったのは3月2日の午前中で、この日は雪がぱらついていて、ウィーンの街中はちょっと白くなり始めていましたが、ウィーンの森はウィーンよりも標高が高いので、真っ白だろうな・・・と思いながらバスを走らせました。
ウィーンの森の観光では、南方面に行くことが多いですね。
見所が点在し、個人で行くにはあまりにも不便だからです。
今回はヨーロッパ最大の地底湖ゼーグロッテ、ハイリゲンクロイツ修道院、ルドルフ皇太子の悲劇のマイヤーリンクの定番3か所見学でした。
高速道路でウィーンを離れた辺りから雪が多くなっていき、学生の皆さんはまるでスキー場に来たみたい・・・と言われてましたが、本当にそんな感じです。
冬のウィーンの森は陽気がいい時とはまるで違って見えます。
こちらはキリスト教ローマカトリックの中でも重要なハイリゲンクロイツ修道院で、ウィーンの森の南ルートではたいてい訪れる所です。
修道院や教会は歴史がありますから、時代に合わせたヨーロッパの建築様式を見るには手っ取り早い場所のひとつです。
このハイリゲンクロイツ修道院は個人では教会内部の柵までしか入ることができず、内部見学するにはここのガイドツアーに参加するか、オーストリア公認ガイドと見学します。
右上の写真は回廊で、シトー修道会のカラーが見られます。
右は修道院の中庭です。
ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど中世~近世のスタイルが勢ぞろいです。
雪のせいか、見学者は私達以外にはほとんどいませんでしたが、数人の修道士と会いました。
私達に笑顔で挨拶をしてくれました。
寒かったこの日ですが、訪れる価値大であった雪化粧のウィーンの森です。
今日がクリスマス・イヴであり、アドヴェントの第4日曜日となり、Adventkranzに4本目のロウソクが灯されます。
クリスマスが年間を通して最も重要なイベントです。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、これから部屋に入れてネットを外して飾ります。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
こちらではクリスマスには魚を食べる習慣があります。
魚はイエス・キリストのシンボルのひとつです。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれました。
今年も私のこのサイトの伝統としてこの歌をクリスマス・イヴに取り上げます。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
ヨーロッパ文化はキリスト教なくしては語れません。キリスト教は絵画、建築、音楽、工芸品、人々の考え方など様々な分野に影響を与えています。手っ取り早くヨーロッパを感じるのは街中の教会に入ることもお勧めです。
日本では見ることができない建築様式の中に2000年の歴史を持ったキリスト教が現在に至って、なお健在であることが意識でき、外とは異なった時間の流れを感じます。
教会と言えば建築様式がつきもので、その時代を感じる色々な様式をみることができ飽きることがありません。
私は無宗教なので"信仰"ということにあまり興味がありませんが、キリスト教の世界はとてもおもしろいと思っています。絵画、建築、音楽などがキリスト教の歴史とリンクしていることがわかると興味が尽きません。
このコーナーでも時間を見つけて色々な教会を話題にしていますが、今日の教会は重要でありながらも場所柄あまり日本からの観光客が訪れることがない教会を取り上げます。
こちらは印象的なイタリア的バロック様式の正面構造を持つアム・ホーフ教会です。名前の通りウィーンの歴史ある広場のひとつAm Hofにあります。
Am Hof はローマ時代から存在し、中世のバーべンベルク時代の12世紀半ばにここに居城が置かれていたことに名前の由来がある重要な場所です。
この広場に来ればこの教会を見落とすことは絶対にありません。
ここにはバーベンベルク王朝時代にはロマネスク様式の宮廷礼拝堂が建てられていました。
1386年~1403年にカルメル会が3層構造のゴシック様式のHallenkircheスタイルで教会を作ります。
その後、宗教改革の波に巻き込まれてこの教会はかなり荒れてしまいます。
その後、後の皇帝フェルディナント1世が1554年に、反宗教改革の担い手であるイエズス会に引き渡しました。
イエズス会はその3年前の1551年にはフェルディナント1世によってウィーンに呼ばれていました。
1607年の火災の後、イエズス会は1610年までに3層構造のゴシック様式の教会をイエズス会バロック様式で再建しました。1625年には教会入口が改築され、1662年にフェルディナント3世の3人目の妻であるエレオノーラ・マグダレーナ・ゴンザーガによって初期バロック様式の正面部分とその舞台のような印象的なバルコニー的部分が寄贈されました。この部分はこのAm Hof広場を支配しているように見えます。
1773年にはイエズス会は解散を強いられ、1783年には教区教会となります。
1789年には主祭壇の領域が新古典主義で改築されます。
この舞台のような正面バルコニー部分でフランツ2世皇帝によってが1804年12月7日、"Kaisertum Österreich"(オーストリア帝国)が宣言されています。
1814年~1852年は再びイエズス会の管理となり、1852年にはウィーン大司教区に渡されました。
現在はクロアチア人が多く集まる教会として使われています。
内部はかなり広い空間で、教会正面のバロック様式からは想像できないしっかりしたゴシック様式の構造となっています。
3層構造で、側廊部分は大きな2階建て構造ですが、1階と2階の間には美しい装飾に囲まれた窓を伴った低い空間が配置されています。
側廊の壁にはバロック装飾を見ることができます。
東側正面奥には主祭壇が見えます。
ゴシック様式のアーチの奥に、新古典主義で改築された空間が奥行きが広がっているように見えます。
この部分だけは教会部分に属していないような印象を与えます。
シンプルに見える空間にある主祭壇には聖母マリアが描かれていて、9人の天使に囲まれています。
これは天軍九隊(聖歌隊天使)と呼ばれ、天使の9つの階級を表します。
採光の窓もゴシック様式で、ステンドグラスではありませんが明るい外からの光が入って来ます。
天井のリブ構造もしっかり残されています。
右上の写真は主祭壇を背にして西側入り口を見ています。バロック様式のアーチの上にはパイプオルガンが見られます。これは1763年に制作されたものですが制作者は不明です。パイプオルガンの型阿智も印象的で、正面部分が低く、左右対称に高くなっています。
イタリアバロック様式の正面部分とゴシック様式の内部空間の違いが非常におもしろいです。
教会は色々な建築様式が見られますね。
ウィーンに来られる団体ツアーの場合、平均的に2泊、忙しい場合は1泊、もっと忙しい場合はウィーンの外から来て観光後ウィーンには泊まらずに移動・・・という3つのパターンが多いでしょうか。ウィーンに数泊するツアーもあるのでそのような時には数日間に渡ってウィーンだけを観光する場合もありますが数から言えば前述したケースよりも遥かに少ないです。
団体ツアーでウィーンに来たらとてもよかったのでもっとウィーンをゆっくり深く楽しみたい・・・と言う方が多く、再び個人旅行でウィーンを訪れる方がとても多いです。
団体ツアーの忙しい限られた時間の中でもウィーンの魅力が少しでも伝わって、再度ウィーンを訪れる方が多くいらっしゃるのはガイドとしてとてもうれしい限りです。
団体ツアーの場合はまずシェーンブルン宮殿は外せません。
ここ数年はベルヴェデーレ宮殿のクリムトを鑑賞することもとても多くなりました。大型バスが使えますからリンク道路を車窓から・・・というのも一般的です。
また、シュテファン大聖堂を近くで見るということも大変に多くなりました。
個人旅行される方からは信じられないと思いますが団体ツアーでウィーンに来て、シュテファン大聖堂を見ない方はとても多いんですね。
理由のひとつはシュテファン大聖堂へはバスが横づけできないので、ちょっと歩かなければいけません。
4年前までは横づけできましたが、でもそこから乗車はできなかったので、結局バスが止まれる所までは歩いたわけですが、現在では全くバスが入れませんので歩いて大聖堂へ行くわけですから時間がかかります。
そのため多くの旅行会社はシュテファン大聖堂を外しての内容を多く提供していますが、ここ数年は他社との価格競争もあって観光箇所を詰め込むパターンが多いので、忙しい観光でもシュテファン大聖堂を近くで見ることが多くなってきています。
ウィーンの歴史が一番詰まっているのは世界遺産の要である旧市街地ですからそのほぼ真ん中に立っているシュテファン大聖堂はとても重要です。
ある晴れた日の早朝のシュテファン大聖堂です。青空とシュテファン大聖堂のゴシック様式がとても印象的です。
左の写真はグラーベン側からシュテファン大聖堂を眺めていますが、普段はこの辺りはたくさんの人が歩いたり、観光している人が多いですがこの時間は閑散としています。奥のアイーダにもたくさんの人が座っていますがもちろん誰もいません。
今でこそこのシュテファン大聖堂は街の真ん中ですが、ウィーンがローマ時代のヴィンドボナだった頃はその外側にこの場所は位置していました。
最初からこのような素晴らしいゴシック様式で建築されたわけではありません。
ちょっと別の角度からシュテファン大聖堂を見てみましょう。
左は北側からの眺めで、こちらには未完成である北塔があり、この上にはオーストリア最大の鐘「プンメリン」がありますね。ここから見られる高い南の塔もとても印象的です。
右は高い塔の真下から見ています。
この塔はオーストリアで一番高くヨーロッパでは3番目の約137mです。
ここから見ている限りではそこまで高いとは感じません。
青空に突き刺すようなこの塔はとても美しいです。
普段見慣れているシュテファン大聖堂ですが改めて見るとまた美しいです。
私はオーストリア国家公認ガイドとして年間を通してお客様に様々な場所を御案内しています。もちろんウィーンが圧倒的に多いですが、オーストリア国家公認ガイドのライセンスはオーストリア全土を案内できますから、ザルツブルク、インスブルック、グラーツ、ヴァッハウ渓谷、ウィーンの森、アイゼンシュタットなど色々な所に出かけます。
ウィーンだって御案内するグループや個人旅行のお客様によって観光場所は様々ですから、毎日同じ場所に行って同じことを話しているわけではありません。何日も御一緒させて頂くお客様から半日でお別れするお客様まで様々で、日本だってそれなりに広い国ですし、様々な分野のお客様と出会うわけですね。その時のお客様が何に興味があるか、どのくらいヨーロッパ文化を知っていらっしゃるか、今までどこに行って来たかなどを考慮して、つまりその時のお客様の空気を感じ取って案内しています。
そういう意味ではバラエティーに富んだ非常に奥が深い仕事だと思っています。
さて、今日書きたかったテーマとはちょっとずれた内容から始まってしまいましたが、よく行く観光場所にウィーンの森があるわけです。先日ウィーンの森の観光をした時に修道院のステンドグラスの反射がちょっと印象的だったのでここに書き留めておきます。
ここはウィーンの南の森にある有名なハイリゲンクロイツ修道院です。この修道院はシトー修道会で、ドイツ語ではZisterzienserと呼ばれ、ベネディクト会から枝分かれし、フランスのシトー(Saint-Nicolas-lès-Cîteaux・・・ブルゴーニュ地域の街) に1098年に設立された、ベネディクト会の改革宗派です。
この修道院は個人で見学することはできず、公認ガイドと見学するか、ここのガイドツアーに参加する必要があります。Kreuzgang(回廊)の建築様式が印象的で、中庭を囲んだ美しいスタイルです。
この回廊からそのままKapitelsaal(カピテルザール)という集会室に入ります。そこは左上の写真に見られる空間でバーべンベルク家のフリードリヒ2世のお墓が中央にあります。その奥には美しいステンドグラスがはめ込まれている丸い窓と細長い窓が2つあり、外が明るい時には美しく見えます。
右の写真はそのステンドグラスを通った外からの光が木の床に反射しています。
この日は午前中10:30頃で、青空が広がるとてもいい天気でした。この時間帯だけ太陽からの光がこのように差し込んで来るので、普段よりも美しく見えます。
ステンドグラスと言うとゴシック様式の教会をすぐ思い起こさせますが、ここのステンドグラスは19世紀に制作されたものですが、芸術性が高いことで評価されています。
上の2枚の写真は太陽の光がステンドグラスを通して、手前の石の壁に美しい色を反射していますね。
ステンドグラスは外が明るければ教会内ではそれなりの効果で見られますが、このように壁にまでステンドグラスの綺麗な色が反射するためには太陽の光が強く直接の角度で当たる必要があります・・・ということは時間が限られているわけですから当たり前のように頻繁には見られません。
シュテファン大聖堂の中世のステンドグラスもどうぞ。
オーストリアで最も多くの方が訪れる観光スポットはシェーンブルン宮殿ですが、ここはマリア・テレジアの時代に現在の姿のなったわけですから、マリア・テレジア以降の人達が登場します。
歴史的に遥かに古いのは中心部にある王宮です。王宮は"Hofburg" (ホーフブルク)と一言で呼ばれていますが様々な時代の建築様式から成り立ち、とても複雑な構造になっています。
シェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿のようにひとつの大きな宮殿が美しい庭園と共にあるという離宮スタイルではなく、街中に増改築された都市宮殿です。
是非こちらも参考にして下さい。
ウィーンの王宮1、ウィーンの王宮2、ウィーンの王宮3、ウィーンの王宮4、ウィーンの王宮 5、
市内観光でも皆様にも頻繁に御案内する王宮ですが、この王宮にはウィーン少年合唱団がミサで歌う王宮礼拝堂があることでも知られていますが今日はその礼拝堂について少しまとめておきます。
王宮礼拝堂はBurgkapelle (ブルクカペレ)と呼ばれていて、王宮の一番古い部分であるスイス宮にあります。
このスイス宮自体が外からは全く見えないため、ここを最初に訪れる方にとってはちょっと探しづらい場所になると思います。王宮は前述したように様々な時代の増改築から成り立っているので非常に複雑な構造になっています。しかも、一番古いこの部分の隣に建築された部分が2番目に古いというような順番ではなく、あちこちに建築されてそれが時と共に接続されていったのです。
王宮はハプスブルグ家が始まる前の、バーベンベルク王朝の君主レオポルド6世によって、13世紀前半にはおそらく最初に建築され、その後ボヘミア王オットカル2世が拡張したとされています。
このスイス宮の中庭に来ると右の写真に見られるように階段があり、よく見ると壁には十字架マークが見られ、上を見ると教会の塔らしきものが見えています。
ここがBurgkapelleです。
度重なる増改築のおかげで外からは全く教会とは思えない雰囲気となっています。
ちなみにこの下の部分は宝物館があります。
このBurgkapelleが古文書で最初に登場するのは1296年となっていて、スイス宮の南部分に位置していました。
ハプスブルグ家のアルブレヒト1世が、1287年~1288年にここを後期ロマネスク様式で建築させたようで、その後1423年~1426年にアルブレヒト5世が増築をさせています。
その後フリードリヒ3世が1447年~1449年にゴシック様式に改築させ、現在見られる姿になっています。
中庭に面した階段を上がって建物の中に入るとすぐに教会内部に出るわけではありません。ここにはウィーン少年合唱団のミサのチケットを販売するカウンターがあるちょっとしたスペースになっていて、そこの左手の扉から中に入ると御覧のようなゴシック様式の内部空間が広がっています。
この扉が開いている時にはいつでも中に入れますが、時間によって閉まっていることも多いですよ。
中に入った印象はとてもせまい空間であり、カトリックの教会ではありますが意外と質素に感じるかもしれません。
教会はゴシック様式ですが、マリア・テレジアは当時の流行に合わせてここを後期バロック様式で改築させていますが、その後新古典主義の到来により1802年に再びゴシック様式に戻されました。
教会はひとつのホール構造で、Kirchenschiffと呼ばれる1階部分から見て左右は3階構造で、後方Emporは4階構造となっています。
教会内部には木彫りの聖人達13人が当時から残されていて、1470年~1480年頃のものです。
正面にはイエス・キリストの磔刑の像が目立ちますが、"フェルディナントの十字架"と言われ、マリア・テレジアが宝物館からこちらに運ばせたもので、フェルディナント2世に因んでいます。
左右はこのような3階構造になっていて、後期ゴシック様式の模様が印象的ですね。
この窓の中にも空間があって、ウィーン少年合唱団のミサを聞く時の座席があります。
こちらは正面祭壇とは正反対の後方部分で、こちらは御覧のように4階構造になっています。
左の写真では下からUntere Empore、その上がMittlere Empore、一番上がOrgelemporeとなっていて後期ゴシック様式の模様がとても印象的ですね。一番上のOrgelemporeはウィーン少年合唱団とウィーンフィルがミサ中に演奏する空間です。そのため、彼らが演奏している姿は本当に限られた所からしか見ることができません。
もちろん、音は素晴らしい響きとして全体に行き渡ります。
この王宮礼拝堂は隠れた所にあることもあり、見学できる時間帯でもほとんど人がいません。
ウィーン少年合唱団の王宮礼拝堂座席表もどうぞ。
ヨーロッパ文化を知る上でキリスト教なくしては語れません。
キリスト教があったからこそ音楽、建築、絵画など素晴らしいものが生まれることになるわけです。
特にカトリックの教会に入ると手っ取り早くヨーロッパを感じることができます。
オーストリアは歴史ある国で、ウィーンを始め国内には歴史的重要な教会や修道院がたくさんあります。
このコーナーでも時間を見つけて色々な教会について書いていますが、今日はヴァッハウ渓谷で一番古い教会について少しまとめてみたいと思います。
ヴァッハウ渓谷は2.800km以上あるヨーロッパで2番目に長い川であるドナウ河の最も美しい所です。シーズン中は船下りの名所であり、バロックの素晴らしいメルク修道院と組み合わせて頻繁に観光で訪れる世界遺産地域です。
ミヒャエル教会はメルクから船で下り、途中Spitzの街を出るとすぐに左側に見える印象的な教会です。
右の写真は船から撮影したミヒャエル教会です。
St.Michael (ミヒャエル教会)は今のゴシック様式になる前からすでにこの場所にありました。
この場所はケルト時代のOpferstätte(オプファーシュテッテ)であり、そこに800年にカール大帝がミヒャエルの聖なる場所を作りました。
Opferstätteとはいけにえを捧げる場所や祭壇のことです。
教会の歴史としては987年という記録が最初です。
12世紀の半ばにはフローリアン修道院の所有となり、14世紀終わりの1395年にはゴシック様式の交差リブ構造を持った納骨堂が作られました。
1523年にそれまであったロマネスク様式の石の教会は後期ゴシック様式で改築されました。
その頃から要塞として5つの塔と跳ね橋なども作られ、それらは17世紀まで繰り返し強化されました。
1630年に火災があり、身廊のアーチが焼け落ち、その後まもなく初期バロック様式で手が加えられました。
現在ではWösendorfとの姉妹教会になっています。
ミヒャエル教会はドナウ河沿いの一部人工的に整えられた少し高い所に立っています。
印象的な西側の要塞塔はうさぎの耳のような形をした装飾が見られ、教会の隣には納骨堂がありこれらが15世紀に作られてよく保存されている城壁に組み込まれています。
要塞城壁は7mほどの高さがあり、現在でもRundturmと言われる円柱状の塔が見られますが当時は隣の納骨堂と橋で結ばれ行き来することができました。
教会内部は3層構造のHallenkircheに近い構造で、PseudobasilikaとかStaffelhalleと呼ばれる後期ゴシック時代に流行ったスタイルです。
この2つのスタイルはBasilika様式とHallenkircheの間に位置し、Basilikaほどは身廊が高くなく、Hallenkircheのように天井全てが同じ高さではありません。
また、Basilika様式のように身廊の上の部分には原則的に採光のための窓がありません。
主祭壇は1690年のもので、1748年にSteinの教区教会から運ばれて来たもので、聖母マリアが中央に見られます。
祭壇の一番上にはこの教会の名前にもなっている大天使ミヒャエル(ミカエル)が立っています。
さらに1400年頃とされるSchmerzensmannや16世紀前半のピエタなど古いものが残されています。
現在は結婚式やコンサートなどの文化的なイヴェントにも使われています。
ヴァッハウ渓谷にはこのような歴史ある教会が多く立っています。
以前このコーナーで"ピアリステンケラー"という地元でも有名なレストランについて書きましたが、そのレストランがある所には美しくかつ重要な教会が立っています。
その教会は"Piaristenkirche Maria Treu"という名前で、今日の話題はこの教会です。
ピアリステン教会は皇帝レオポルド1世によって礎石が置かれ1698年~1719年に建てられました。
Hornの建築家であるBartholomäus Hochhaldtingerのプランが一番古くそして唯一現在まで残されいる教会プランで1700年までを知ることができます。
しかし、ルーカス・フォン・ヒルデブラントによって教会は当初と全く違ったものとなりました。
ヒルデブラントと言えばべルヴェデーレ宮殿が真っ先に挙げられます。
ピアリステン教会は名前の通り、ピアリステン修道会のために建てられました。
ピアリステン修道会は、José de Calasanz (1557-1648)によって1617年にローマ教皇から認められ、
日本語ではエスコラピオス修道会とも呼ばれています。
その後改築なども行われて最終的に1751年に正面部分と南塔が完成し、1753年にはほぼ今の姿になっています。
教会の名前である"Maira Treu"という文字が正面部分に見られます。
これは現在この教会の主祭壇に祭られている聖母マリアの絵が由来です。
この絵はJosef Herzによって1713年にペスト流行した時に描かれたものです。
この絵はもともとこの教会のSchmerzenskapelleという礼拝堂に置かれていましたが、あまりにも多くの巡礼者が訪れることから1721年以来から主祭壇に置かれています。
"Treu"は忠実とか誠実、貞操という意味があります。
教会内部は非常に美しいバロック様式で、ひとつの大きな空間です。
天井ドームのフレスコ画が印象的な集中式プランで、教会正面の2本の塔をイメージすると意外な構造になっています。
主祭壇はマリアとヨゼフの結婚が描かれていて、その前に上述した"Maria Treu"が置かれています。
主祭壇の一番上にはピアリステン修道会のワッペンを見ることができます。
天井の素晴らしいフレスコ画はオーストリアの重要な後期バロック時代の画家Franz Anton Maulbertschが1752年、当時彼が28歳の時に仕上げたものです。
特に中央の大きなフレスコ画は7月29日から始まって、12月20日に完成しています。
こちらが中央ドームのフレスコ画です。
アダムとイヴ、アブラハムとイサク、モーゼとダビデが見られ、聖母マリアが天界に迎えられるシーンが描かれています。
この教会がある場所はちょっとした広場になっていて美しい空間です。
今でもピアリステン修道会の幼稚園、小学校、Gymnasiumあり、たくさんの子供達が通っています。
今日12月24日はクリスマスイヴです。今年はクリスマス市が11月11日とかなり早く始まり、当初はアドヴェントの雰囲気を長く楽しめるんだな・・・と思っていましたが今振り返るとあっという間でした。
シェーンブルン宮殿のクリスマス市は毎年12月26日までで、今年から市庁舎のクリスマス市も12月26日まで開かれるようにはなりましたが、基本的にクリスマスの雰囲気で盛り上がるのは12月23日まででしょう。
今日の午前中にクリスマスツリーの飾り付けをする人が多く、午後からは街がとても静かになります。
街中を歩く人が少なくなり、交通量がぐっと減り、お店もいつもよりも早く閉店し、皆がクリスマスイヴに吸い込まれていくような感じです。
こちらは家族とクリスマスを祝うのが一般的です。
地元の人が家族と祝う今日のクリスマスイヴで必ず歌われる歌があります。
毎年12月24日はこの歌をテーマにしていますが、今年も私のこのサイトの伝統としてこの歌を取り上げます。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
ウィーンは"バロックの都"と形容されている通り、ヨーロッパでも重要なバロック建築が多く存在します。中でも最もポピュラーなのはシェーンブルン宮殿でしょうか。世界遺産にも登録されていてひとつの観光スポットとしてオーストリアでは最も多くの人が訪れます。ウィーンに始めて来てこのシェーンブルン宮殿に行かない人はまずいないのではないでしょうか。しかし、"バロック建築"という観点から見た場合はこのシェーンブルン宮殿以上に
ベルヴェデーレ宮殿の方がオーストリアバロックの全盛期に建築されているため、装飾が豊かでより美しいことで評価されています。その他にウィーンの街中を歩けばたくさんバロック建築に出会えます。実際にはウィーンはかつての帝国の都だったのでバロックだけではなく全ての建築様式を見ることができます。
さて、そのバロック建築の重要な建築のひとつとしてカールス教会があります。カールス教会は国立オペラ座からとても近い位置にあるにもかかわらず、日本の団体ツアーではなぜか訪れる機会がとても少ないのが残念です。
カールス教会はペストの守護神カール・ボロメウスに捧げられ、この聖人と同名の皇帝カール6世の命で巨匠建築家フィッシャー・フォン・エアラッハ親子により1737年に完成しています。カール6世はマリア・テレジアのお父さんにあたり、彼の時代がオーストリアバロックの全盛期です。彼が1740年にこの世を去ってオーストリアでのバロック時代が終わるとされています。中央にあるドームとその手前にある2本の柱が印象的で、バチカンを意識したバロック建築です。この2本の柱に施された新約と旧約聖書のレリーフは目を見張る芸術作品で、ローマのトラヤヌス記念柱をモチーフにしています。この教会は通常、正面から見て右側が入口となっていて、階段をを上がると係がいる窓口があります。つまりこの教会に見学として入るのには入場料がかかりますが、それでもここに入る価値は十分にあります。バロック様式の楕円形教会構造がよくわかり、素晴らしい天井フレスコ画が見られます。余談ですが楕円形構造というとグラーベンそばのペータース教会をすぐに思い出します。カールス教会内には3年半近く前にもこのコーナーで話題にしましたが、修復用のエレベーターが設置されていて、そのエレベーターで天井フレスコ画がある高さまで上ることができます。個人のお客様には私はよくここを御案内しています。
エレベーターが真上に向かって設置されていて、教会内部を見下ろしながら上って行きます。楕円形ドームの天井フレスコ画が描き始めらている高さでエレベーターが止まります。この高さが35m地点です。左の写真で白いネットに包まれた空間が見えますね。ここがその35m地点で、ここを歩き回ってフレスコ画を近くで見ることができます。おもしろいのは、そこからさらに階段が設置されていて、もっと上まで上って行くことができるようになっています。右の写真はエレベーターの終わりの高さから設置されている階段で、この天井ドームのフレスコ画と平行して高くなっているのがわかります。
フレスコ画はオーストリアのミヒャエル・ロットマイヤーによるもので、彼は前述したペータース教会の天井フレスコ画も手掛けています。
かなりの段数があるこの階段を上がって行くと一番上の空間まで行くことができるようになっています。1枚目の教会の写真を御覧下さい。ドームの上にちょっと飛び出した小さな楕円形の空間がありますね。この空間まで行ってそこからウィーンの街の眺めが楽しめます。その小さな一番上の楕円形空間の天井には右の写真に見られるように聖霊を表す鳩が描かれています。
この階段を一段ずつ上って行くごとにこの天井フレスコ画の素晴らしさに圧倒されます。
カールス教会の高さは72mですから、エレベーターの終わりから倍ぐらいの高さを階段で上ることになります。
左は階段の途中から下を眺めています。フレスコ画がほぼ垂直に描かれていることがわかり、ドームの楕円形窓も下の方に見えています。右はフレスコ画のワンシーンで、神とイエス・キリストです。
通常教会の中に入って天井フレスコ画を見上げてすごいなぁ~と思うわけですが、このカールス教会は目の前で天井フレスコ画が見えることやまたこのバロック教会建築の構造がわかってとてもおもしろいです。
3年前にここを紹介した時に、後1~2年程度で修復が終わってエレベーターが取り外されると教会側が言っていたことを書きましたが、思ったよりも修復に時間がかかり、この前聞いたらあと1年から2年はかかるだろうということでした。
ウィーンに来られたらこのチャンスを生かして是非ここを訪れてみて下さい。
オーストリアはローマカトリックが圧倒的な割合を占めるカトリックの国です。
これはハプスブルグ家がずっとカトリックを守ってきたことによることが大きな理由です。ウィーンを始め、オーストリアには様々な教会があり、カトリックと一言で言っても色々な建築様式で見られ個性豊かです。
教会に入ればすぐにヨーロッパ文化を見て感じられますね。
昨日はWolfgangseeを話題したので、今日はザルツブルクの街にある教会をテーマにします。
ザルツブルクの旧市街地の一角にあるフランシスコ会の教会です。
もちろんフランシスコ会修道会が所有しています。
フランシスコ会はアッシジのフランシスコが13世紀初頭1209年にローマ教皇から認められた修道会です。
ウィーンにも美しいフランシスコ会の教会があります。
ザルツブルクのフランシスコ会教会は建築的にもおもしろく美しい教会で、主に2つの部分から成り立っています。
ひとつはもともとロマネスク様式の
身廊部分とそれと同じ幅を持つ後期ゴシック様式の内陣部分です。
フランシスコ教会の最初は"Zu Unserer Lieben Frau"という聖母マリアに捧げられおそらくザルツブルク大聖堂よりも古い頃からあったと言われています。
ザルツブルク大聖堂はヴィルギル司教のもと774年に完成していますが、それよりも前の8世紀前半にフランシスコ会教会はそのヴィルギル司教の時代に存在していました。
当初は洗礼と教会会議に利用されていました。
1130年~1583年まではベネディクト会のペーター修道女の所有となり、1189年から1628年までは同時にザルツブルクの街の司教区教会の役割もありました。
このすぐそばにペーター修道院のペーター教会があります。
1223年に新しく奉納されて、すでにあった部分に接続されたようですが、現在の身廊部分は12世紀に遡ることができます。
1267年には街の大きな火災があり、この教会の大部分が壊されました。
1408年以降に大きく改築され、1592年、ヴォルフ・ディートリッヒ・ライテナウ大司教が新たにこの地に呼ばれたフランシスコ修道会に捧げました。
この教会にはフランシスコ会修道会が上の部分で接続されています。
1635年に大聖堂が司教区教会の役割を担ったことからフランシスコ会教会は今までの重要性を失い、長い間ロマネスク様式とゴシック様式も当時の様式に相応しくないと考えられていました。
そのためルネッサンスやバロック、ロココが好まれました。
ザルツブルクの最後の大司教コロレドがこの当時美しくないと思われたフランシスコ教会の取り壊しを考えていましたが、人手不足と環境問題を考えてやめました。
ゴシック様式の印象的な塔は1498年、ニュルンベルクのある親方によって建てられますが、1670年に塔の先が大聖堂より高いのはよくないとして取られてしまいました。
現在見られる塔は1867年に新たに建築されたネオ・ゴシックです。
西側正面入り口はバロック様式で、1700年頃に改築されました。
しかし、ロマネスク時代の赤と白の大理石で作られたアーチが残されています。
内部は非常に美しい空間です。
3層構造の狭い身廊部分はこの教会ができた当時の後期ロマネスク様式のバシリカ構造です。
内陣は後期ゴシック様式です。
身廊側の薄暗い雰囲気と全く対照的で非常に明るくなっています。
天井に見られるゴシック様式のリブ模様もとても印象的です。
ここの主祭壇はウィーンのシェーンブルン宮殿やカールス教会でもお馴染みのバロックの巨匠建築家フィッシャー・フォン・エアラッハによる1710年のものです。
その主祭壇に見られるのはマリアとイエスでこのマリアはゴシック時代に作られたミヒャエル・パッヒャー当時の見開き祭壇からのものです。
ミヒャエル・パッヒャーと言えばザルツカンマーグートのSt.Wolfgang教会の素晴らしい祭壇を思い出させます。
イエス・キリストは1890年に追加されたものです。
当時のパッヒャーのゴシック祭壇は1498年に制作され、当時中央ヨーロッパでは最大で最も豪華なものでした。
主祭壇の前には1790年に制作されたロココ様式の柵があります。
主祭壇を囲むようにしてそれぞれ印象的なアーチ構造を持った9つの礼拝堂があり、ほとんどが17世紀初頭から18世紀初頭に作られたものです。
説教壇は後期ゴシック時代のもので赤大理石です。
このフランシスコ会教会はロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックと様々な様式を見ることができ、しかしそれぞれが時代の個性を主張しながらも統一性を生み出している美しさが見られる非常におもしろい教会です。
ザルツブルクに行ったら是非立ち寄って下さい。
今日は久しぶりにウィーンから離れて郊外のバーデンという街に行きましょう。
バーデンはウィーンの森の南に位置し、ローマ時代に温泉が発見されてから今でも温泉療養地として有名で、なおかつハプスブルグ家のフランツII/I世皇帝の避暑地であり、また様々な音楽家が滞在した緑豊かな街です。
ウィーンの森の観光でもよく訪れる場所です。バーデンのことは今までも数回話題にしています。
ベートーヴェン第九交響曲の家、第九交響曲の家 2、第九交響曲の家 3、
バーデンのユニークな街の紋章、ラウエンシュタインの廃墟のお城などです。
そのバーデンの街のメイン広場からちょっと歩いた所に有名な教区教会があります。
遠くからでも目立つこの特徴的なたまねぎ型の塔を持ったこの教会は Stadtpfarrkirche St. Stephanとも呼ばれ、ローマカトリックの教会でバーデンの街の教区教会です。
"St.Stephan"という名前からもわかるようにここは長らく宗教的中心地であった現在ドイツのパッサウに属していました。
ウィーンの街中にも有名なシュテファン大聖堂が立ってますね。
バーデンの司祭がすでに1220年、この教会のことを挙げています。
この教会は長らくバーデンの近くにあるTraiskirchenの姉妹教区教会でしたが、ここがメルク修道院の管理下になった1312年に切り離されました。
教会の外側は15世紀終わり頃ということが確認できますが、納骨堂は1258年です。
実際には12世紀終わり頃にこの場所に教会建築が始まったようです。
その当時ですからもともとロマネスク様式で、2つの今よりも低い塔がありました。
1400年頃からゴシック様式に改築されて、身廊は15世紀半ばに建築されていて、その頃に2つの塔の上にメインの塔が作られました。
この改築はおそらくハンガリー民族が押し寄せて教会が部分的に壊されたことからの措置だと思われます。
現在のこのバロック様式の塔は、1697年、オスマントルコの戦いで壊された後に作られたものです。
1827年には今日見られる姿になっています。
67mのこの塔には20世紀まで納宝係が住んでいました。
また、棟には5つの鐘があり、それぞれに名前が付けられていて、一番大きい鐘は2.000kgの重さがあります。
こちらは教会内部です。とても明るい印象です。
3層構造のゴシック様式であることは明らかです。
ロマネスク時代やゴシック時代の物は残念ながらほとんど残されていません。
しかし、身廊のアーチに埋め込まれた動物の頭はロマネスク時代で、洗礼盤や壁に見られる天使像などはゴシック時代のものです。
2回にわたるオスマントルコの戦いで教会はかなりの被害を受け、その後内部はバロック様式で改装されました。
18世紀には多くの脇祭壇が作られました。
1880年頃からバロック様式が取り除かれ、再び当時のゴシック様式に戻されました。
こちらは教会正面入り口部分で、
2階部分にはパイプオルガンが見られます。
このオルガンは1744年、有名なオルガン製造のJohann Henckeによるもので、モーツァルトやベートーヴェンも弾いたと言われています。
これは1787年にこちらに運ばれ設置されました。
この角度から見ると教会のゴシック様式の内部構造が美しいです。
この教会で重要なもののひとつとしてモーツァルトの記念プレートがあることです。
この教会でモーツァルトは彼のミサをいくつか初演しています。
その関係でここの合唱団長のAnton Stollとは親しい間柄でした。
そこでモーツァルトは彼のために"Ave verum" KV.618 を作曲し献呈しています。
上の2枚の写真は教会内部に見られる記念プレートと自筆譜のファクシミリです。
この曲は1791年6月17日に作曲され、アヴェ・ヴェルム・コルプスとして日本でも親しまれているモーツァルト晩年の傑作です。
非常に美しいハーモニーで、とても印象的な曲です。
ヨーロッパは古い建物を修復しながら残していきますから街並みが美しいです。
ウィーンの街はかつての"帝国の都"を現在でも十分感じることができる歴史的に重要な荘厳で美しい建造物がたくさん見られます。
歩いているだけで楽しくなるウィーンの街並みですが、ヨーロッパ文化を手っ取り早く感じるためには街中の教会に行くのもひとつの方法ですね。
ウィーンにも歴史的に重要な教会がたくさんあります。
ウィーンの街は、街全体に歴史があるので中心から離れても歴史的に重要な建物がたくさんあります。
今日は郊外にある教会についてちょっとまとめてみます。
この教会はベートーヴェンが遺書を書いたことで知られるハイリゲンシュタットにある教会で、地域の名前からハイリゲンシュタット教会とか、宗教的にミヒャエル教会とも呼ばれています。
この教会から歩いて2~3分の所にハイリゲンシュタットの遺書で有名な遺書の家があります。
現在ではウィーン19区の一角に位置しているこの教会はこの地域では重要な教区教会です。
13世紀の1234年、有名なクロスターノイブルク修道院の姉妹教会としてすでに登場していることが記録されています。
14世紀には司教区教会になりますがこの時ハイリゲンシュタットだけではなく、周辺の
Nußdorf,Grinzing,Oberdöbling,Unterdöbling,Sievering,Salmannsdorf,Neustift am Wlade といった現在19区に入る地域もこの司教区に属していました。
しかし、周辺地域にも時と共に教区権利が与えられてこの教会の重要性が少しずつ失われていきました。
1348年にSieveringに教区が設立されたことにより、西側地域の多くが離れていきます。
結果的にGrinzingとNußdorfだけがヨーゼフ2世の時代までここに属します。
当初ゴシック様式で建築された教会は2回のトルコ軍の包囲によって壊されました。
1723年にはバロック様式で改築されますが、その後19世紀終わり1894年~1898年には傷んでいたことから内陣と基本構造を残して取り壊されました。
その後、当時のようにまた修復されています。
ベートーヴェンの遺書の家にはこの教会が登場している水彩画が4枚あります。
そこには玉ねぎ型の教会の塔が描かれていて、当時のバロック改築を知ることができます。
ベートーヴェンは当時バロック改築されていた塔を彼は毎日のように見ていました。
でも現在では当初のようにゴシック様式の塔になっています。
教会内部空間は美しいネオ・ゴシック様式ですが、正面の主祭壇がある内陣は当時のゴシック時代のものです。
この内陣をよく見ると、しっかりした直線上にないことがわかります。
この理由は、土地の性質でそうなった・・・、もしくは
イエス・キリストが十字架上で命を落とした時に顔がうな垂れたことによる・・・と考えられています。
主祭壇の中央にいる人物はこの教会の何もなっている大天使ミヒャエル(ミカエル)です。
天井の後期ゴシック様式を思わせる模様も印象的です。
この教会の内部構造はPseudobasilika (プソイドバシリカ)と呼ばれる様式です。
PseudobasilikaはStaffelhalleと並んで後期ゴシック時代に非常に流行った様式です。
この2つの様式はHallenkircheとBasilika様式の中間に位置し、バシリカ様式のように真ん中が高くなく、しかしHallenkircheのように天井が平らではありません。
Basilika様式と比べるとかなり真ん中の部分は低くなっていますが、側廊よりは高くなっているのが特徴です。
ベートーヴェンはこの教会のそばにあった温泉療養に通い、耳の回復に希望を持っていましたが、この教会の鐘の音が徐々に聞きづらくなってきたということにも絶望したはずです。
そこは当時の面影はなく、静かな公園になっています。
ウィーンの旧市街はウィーン歴史地区として丸ごと世界遺産に登録されていて大変奥が深い部分です。
本当はこの旧市街地をゆっくり気の向くままに歩いて頂きたいですね。
様々な発見があります。
その旧市街地の一角にFleischmarktという通りがあり、そこにはウィーン最古のレストランであるグリーヒェンバイスルがあります。
この界隈はGriechenviertel (グリーヒェンフィアテル)と言われ、「ギリシャ人街」的な意味でしょうか。
この地域には17世紀中頃からオリエント貿易を営むギリシャ人の商人が多く住み始めたことからGriechenviertelと呼ばれました。
ここにはウィーンで有名なギリシャ正教会が建っていますが、実はそのそばにもうひとつのギリシャ正教会が目立たないように建っています。
このギリシャ正教会はGeorgskirche(ゲオルグ教会)という名称で、前述したFleischmarktから分かれたGriechengasseを経由し、そこの階段を降りてきたHafnersteigにあります。
あまり教会っぽくないのでおそらくこの建物の前を歩いても教会とは気づかないと思います。
しかしこのHafnersteigを少し歩いて離れた所から観察すればちゃんと教会であることがわかります。
ここはオーストリアギリシャ正教会においてのコンスタンティノープル総主教(エキュメニカル総主教)の代表教会です。 エキュメニカル総主教はカトリックのローマ教皇に当たるわけですが、ローマ教皇のように絶対的権力はなく、名誉的なものです。
教会の名になっているSt.Georgという教区があり、1709年には小さなギリシャ礼拝堂が建物の中に作られていました。
1723年にSt.Georgは皇帝からの許可をもらって教会を作る権利を得ました。
ここには"Küss den kleinen Pfennig"というガストハウスがあり、そこを1802年になってやっと入手することができ、その場所に1806年にオーストリアの建築家でウィーンで亡くなったFranz Wipplinger(1760~1812)によってこの教会が建てられました。
FleischmarktにあるGriechenkirche zur Heiligen Dreifaltigkeitはハプスブルグ家に関わる多くの信者がいましたが、こちらのSt.Georgはオスマン帝国とむしろ関係がありました。
1898年多く寄付が集まったおかげて、オーストリアの建築家Ludwig Tischlerによって改築が行われ、鐘楼が追加されました。
第2次大戦で少し被害がありましたが、それも修復されて現在に至ります。
教会の入口は写真で見られるこの正面のように見えますが、実はここは一般の店が入っていてこのHafnersteig側ではありません。
この教会の三角の屋根の部分はまさしくギリシャ神殿を思わせるスタイルで、ドラゴンをやっつけている聖ゲオルグが描写されています。
教会内部の雰囲気です。
ギリシャ正教を知っている人であればごく当たり前の内部空間ですが、知らない人から見れば外から見た教会の姿からはちょっと想像できない内部空間です。
教会の入口はHafnersteigではなく、Griechengasseです。
1空間構造で天井ドームが印象的な典型的ギリシャ正教会です。
ギリシャ正教会ではカトリック教会とは違い祭壇がなく、完全に仕切られています。
ギリシャ正教では立ってミサを行います。パイプオルガンもなく椅子もありません。
聖人の像も全くなく、"イコン"といわれる聖人画がたくさん見られます。
ギリシャ正教は、原始教会から枝分かれし、前述した4つの都市が東方教会の
ベースを作り、4~5世紀頃にかけて形成されました。
カトリック以上に神秘主義的傾向が強く、教義として聖書と聖伝を遵守するわけですが、聖伝は1世紀以来の原始教会やその後の初期キリスト教から継承されたとされています。
つまり正統にキリスト教の伝統を受け継いでいる・・・なので正教会というわけです。
では最後におまけとしてサントリーニ島の夕日に照らされたフィロステファ二です!
サントリーニと言えば夕日で有名なイアの街があります。
この場所のこのアングルはイアではありませんが、ギリシャやサントリーニ島を宣伝するポスターなどであまりにも有名です。
以前に飛行機で休暇に行く時のストレスというタイトルで書いた最後に3枚のギリシャでの写真を掲載していますのでそちらも御覧下さい。
かつての帝国の都であるウィーンの街は様々な歴史的に需要なものが交差しています。
その中で"音楽の都"と形容されるにふさわしく様々な作曲家の跡が数え切れないぐらいに街中に点在しているウィーンですが、今日テーマにするこの教会はベートーヴェンの葬儀があったにもかかわらず訪れる方は意外と少ないと思います。
今日3月26日はベートーヴェンの命日です。
2本の塔が印象的なこの教会はAlser教会(アルサー教会)と現在では呼ばれていますが、三位一体教会とも、またかつては白のスペイン人とも呼ばれていました。
もともとこの場所に1688年Trinitarier(トリニタリア・・・三位一体)修道会が修道院を作り始めました。 当時彼らは白のスペイン人とも呼ばれていました。
1689年には聖三位一体の絵と共に小さな礼拝堂が作られました。
1692年には修道院が完成し、1704年には教会が完成しました。
1784年、皇帝ヨーゼフ2世はもともとミノリーテン広場のミノリーテン教会界隈で活動していたミノリーテンをこの修道院にと移させました。
新しくここに移ったミノリーテンはヨーゼフ2世によって設立された当時このすぐそばにあったウィーン一般総合病院やそこに属する出産施設、また後には刑務所などでの精神的なケアーを担当しました。
1784年~1938年までここの教区は現在のお役所のような機能もありました。
当時独身の女性や匿名希望の女性、貧困な女性などがこの近くの出産施設で子供を産むことができたことや病院があったことから、いわゆる出生届け、死亡届、洗礼届などの名簿が残されていて、これはヨーロッパで最大規模です。
教会は初期バロック様式で作られていて、前述した2本の塔が印象的です。
正面入り口には三位一体が施されています。
教会内部は教会建築でよくあるパターンであるラテン十字架構造をしています。
主祭壇に向かっての身廊が十字架の長い棒の部分です。
左右の脇にはいくつもの礼拝堂が作られています。
バロック全盛期の様式ではないので、ウィーンのペーター教会やメルク修道院の付属教会のような豪華な装飾は見られませんので結構シンプルに見えます。
Vierung (フィールング)とドイツ語で言われる十字架形の交差部分は日本語でクロッシングと呼んでいますが、そこの天井には小さなドームが見られます。
主祭壇も聖三位一体がテーマになっていてますが、これはJosef von Hempelというウィーン生まれの画家によるもので、1826年のものです。
さて、この教会の正面入り口の左右をよく見ると重要な作曲家のレリーフがあります。
教会の入口右側には左上の写真に見られるベートーヴェンの記念プレートがあります。
ベートーヴェンはこの教会から近い所にあった最後の住居で1827年3月26日に亡くなり、
この教会で3月29日に彼の遺体と共にここで葬儀があったことが記されています。
また、右側にはシューベルトの記念プレートがあり、1828年9月、彼が亡くなる数週間前に
この教会の鐘の奉納のために、聖歌 "信仰、希望、愛 "(D.954)を書いたということが記されています。
ちなみにシューベルトはベートーヴェンの葬儀にも参列していました。
ベートーヴェンに関して
ハイリゲンシュタットの遺書の家、ベートーヴェンのデスマスク、第9交響曲の家、
第9交響曲の家 2、第9交響曲の家 3、交響曲第6番田園の小川、ベートーヴェンの記念像、
ヘレーネ渓谷のベートーヴェンの跡、ウィーン21区のベートーヴェンの滞在場所、
ベートーヴェンの最後の住居、中央墓地、ウィーンのベートーヴェンの散歩道にあるベートーヴェンの像も参照して下さい。
シューベルトに関しては
中央墓地のシューベルトのお墓、シューベルトの生家、ますの泉、シューべルトの泉
なども御覧下さい。
ウィーンはよく音楽の都と言われています。音楽に興味がある方にとってはウィーンという街は夢のような街でしょう。
これだけの音楽家が滞在した所はないと思います。
そのため"音楽"だけをテーマにしてもウィーンは見切れません。
オーストリアのクラッシックの3大作曲家といえば、モーツァルト、シューベルト、
そしてハイドンです。
今日1月31日はそのシューベルトの誕生日になりますね。
そのシューベルトの葬儀が行われた教会について少し書きたいと思います。
シューベルトは31歳であった1928年11月19日午後3時頃、兄のフェルディナントの家で(おそらく)腸チフスで亡くなりました。(死因にはいくつかの説もあります)
その後11月28日にこの教会で葬儀が行われました。
この教会はウィーン5区マルガレーテンにある聖ヨゼフ教会です。
ここは地下鉄4号線のPilgramgasseから歩いてすぐの所にあります。
その教会の入口右横に写真に見られるような記念プレートが掲げられています。
"フランツ・シューベルト 1828年11月21日、この教会で彼の亡骸が聖別された、
ウィーン シューベルト連盟" と記されています。
ここには、マルガレーテン城と50の住居がありましたが、トルコ軍2回目のウィーン包囲で壊され、その残った部分を利用してFreiherrn von Oppelが "Sonnenhof" という病院と
貧しい人のための家を建てさせました。
そこの住人のために1749年に木で作られていた礼拝堂の場所に、Franz Duschingerのプランによって、1765年Sonnenhof 教会として今度は石で建てられました。
教会は1769年に完成し、1771年に聖ヨゼフに捧げられた教会として、マリア・テレジアや
長男のヨーゼフ2世の立会いのもとで奉納されました。
貧しい人達の住居は1784年でなくなりました。
教会の入口には18世紀に砂岩で作られた4人の聖人が立っています。
左からシュテファヌス、セバスティアン、ロクス、ネポムックです。
教会内部の主祭壇の祭壇画はバルトロメオ・アルトモンテのよる聖家族です。
シューベルトが亡くなった場所は、この教会からは徒歩で700mぐらいです。
御興味があれば以下もどうぞ
シューベルトの生家、シューベルトますの泉、シューベルトの泉、中央墓地
今日12月24日はクリスマスイヴです。
11月半ばから街を盛り上げたクリスマス市も一部を除いて昨日で終わり、今までの盛り上がりがまるでうそのような静かな時がやってきます。
今日の午前中にクリスマスツリーの飾り付けをする人が多く、仕事をしている人がいても一部の業界を除いてたいてい昨日までか今日の午前中までです。
毎年12月24日と言えば"きよしこの夜"をテーマにしたくなります。
この名曲はこのオーストリアから生まれた曲だからです。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle
(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・
それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、このきよしこの夜の詩は、1816年にすでに
書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、もちろん宗教的にも使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後
「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
ウィーンのシュテファン大聖堂は街の真ん中に立っているので、観光の皆様だけでなく、
このウィーンの地元の人にとっても重要な意味を持っています。
1147年から歴史を見続けて来ています。
そのため、シュテファン大聖堂だけでもしっかり見たら、大変時間がかかります。
今までもシュテファン大聖堂の有名な説教壇、当時のステンドグラス、記念プレート、
涙を流す聖母マリア、プンメリン、ローマ時代の墓石、モーツァルト最後のお別れの場所、
祝福と幸運を授かるコロマニ石などとシュテファン大聖堂を話題にしていますが、
今日は普通の人が気づかないちょっとしたシュテファン大聖堂の宝物館です。
シュテファン大聖堂の宝物館は"DOM SCHATZ" (ドームシャッツ)と言われ、入口が全く
目立たない所にあるわりには、内容は中々おもしろいです。
DOM SCHATZは2012年から再びオープンしています。
再びと言うのは、第2次世界大戦で屋根が焼け落ちる被害を受けたシュテファン大聖堂は
その後地元の力で急いで修復され、1948年にはすでにミサを行うことができました。
そして1952年4月26日に新たにオープニングがあったわけですが、2012年と言えばそこから60年後ということになります。
つまり60年後に再びこの大聖堂の宝物が一般公開されるようになったわけです。
このDOMSCHATZの入り口は灯台下暗しで、西側正面入り口から入り、通常はすぐ右側に
行くようになっていますが、そのまま大聖堂内に入ってしまったら永久に見つかりません。
正面入口から右側に行って、大聖堂内に入る手前にちょっとした案内板が立っていて、
そのすぐ右横にエレベーターがありそれに乗って上に行きます。
エレベーターを降りると、係りが座っている窓口があり、そこでここの入場料を払います。
現時点では大人4ユーロです。
外から見た異教徒の塔の右側の塔が入口というわけです。
そこからこのシュテファン大聖堂の歴史的な様々な物が展示されている空間が始まります。
聖遺物、宗教的な衣装、宗教画、聖体顕示台など歴史的貴重な物がかなり多くあります。
同時に所々に見られるシュテファン大聖堂の歴史的建築も興味深いものがあります。
途中に螺旋階段もあって、いくつかの空間に分かれています。
実際には大聖堂の西側2階部分がDOMSCHATZとして利用されているため、下段右に見られる写真のように、大聖堂内部を上から見ることができます。
この写真の手前に見えているのはパイプオルガンのパイプです。
DOMSCHATZは南側の異教徒の塔から始まって、最後は反対側にある北側の異教徒の塔の
螺旋階段で降りてきます。
DOMSCHATZは結構おもしろいですから御覧になってはいかがでしょうか?
ウィーンには様々な教会があります。教会それぞれに色々な建築様式を見ることができ、
深い歴史を持っています。
教会や修道院は芸術の宝庫とも言えるでしょうか。
"教会史"をベースにすれば、建築様式が違う教会でもひとつの統一性が見えてくるのも非常におもしろい所です。
今日はウィーン中心にあるハプスブルグ家にとっても重要な教会、カプツィーナー教会に少し触れたいと思います。
カプツィーナー教会はケルントナー通りからちょっと入ったNeuer Marktに位置していて、そこはハイドンが皇帝讃歌を作曲した場所でもあり、広場の中央にはドンナーの泉があります。
そこに行くとこの写真に見られる三角の形が印象的な教会が建っています。
カプツィーナ修道会は1528年にフランシスコ会から枝分かれしました。
1209年に設立されたフランシスコ会のおおもとが小さき兄弟会で、これが今のフランシスコ会で、そこから1517年枝分かれし、いわゆる今のミノリーテンが成立し、
その後1528年にはさらに枝分かれしたカプツィーナ会も成立しています。
現在のミノリーテンはフランシスコ会、カプツィーナ会よりも規模が小さくなっています。
(日本語ではカプチン会と言われる場合が多いと思いますが、
ここではドイツ語の通りカプツィーナーという名称を使います)
ウィーンにカプツィーナ会は1599年に入って来ました。
当初はこの場所ではなく、別の場所で活動を始めましたが、ハプスブルグ家のマティアス皇帝の皇后アンナが1617年、"自分が亡くなったら、自分達のお墓をここに作るように"ということを遺書に残し、現在この場所をカプツィーナ会に提供しました。
その直後、アンナ皇后が1618年、その3ヶ月後1619年にマティアス皇帝が亡くなった時にはまだ教会は作られていませんでした。
その後皇帝フェルディナント2世の時代1622年に建築が始まり、1633年に完成しました。
その後多くの改築がありますが、結構質素な正面入り口には当時の歴史的資料に準じて1936年にハンス・フィッシャーによって描かれたフレスコ画が見られます。
教会内部も質素な雰囲気で、たったひとつの空間しかありません。
正面には大理石から作られた主祭壇があり、
Peter Strudelのものです。
祭壇画は"Maria Schutz"という、キリストにひざまずく聖母マリアが描かれています。
この教会は"Heilige Maria von den Engeln"とも呼ばれています。
またカプツィーナ修道会の修道士も祭壇画に登場しています。
内部空間の左と右には対照的に礼拝堂が作られています。
主祭壇に向かって左がKaiserkaplleという皇帝礼拝堂で、上の左の写真で、ハプスブルグ家のメンバー4人の像が見られます。
この礼拝堂に4年前に亡くなった、ハプスブルグ帝国時代最後の皇帝カール1世の長男である
オットーの柩がしばらく置かれていました。
右上の写真に見られるのは右側の礼拝堂で、Pietakapelleと呼ばれるピエタ礼拝堂です。
象牙色的な大理石の素晴らしいピエタのシーンを表す彫刻が印象的です。
ここにはMarco d' Aviavoというウィーンで1699年に亡くなったカプツィーナ会の有名な
修道士のお墓があります。彼は皇帝レオポルド1世と親しい関係でもありました。
このカプツィーナー教会の地下に"Kaisergruft"(カイザーグルフト)という有名な皇帝の地下墓地があり、150体近くのおびただしい柩が並べられていることで知られています。
特にマリア・テレジアの豪華なひつぎは見応えがあります。
ここは入場料がかかりますが、教会自体は無料で入ることができます。
ウィーンで一番古い教会はルペルト(ルプレヒト)教会です・・・とたいていのガイドブックでは紹介されています。
しかし厳密には"現存している"という意味で一番古い教会であって、歴史的にウィーンで
一番古い教会はペータース教会です。
だいぶ前に塩の守護聖人の話で登場したこのルぺルト教会について今日は少しまとめようと思います。
ルぺルト教会はドナウ運河沿いにあるSchwedenplatzから歩いてすぐのちょっとした小高い所にあり、しかもこの地域はローマ時代ヴィンドボナの一角に位置していて、歴史的に古い場所です。
このルペルト教会は伝説によれば8世紀の740年頃、記録で確認できるのはバーベンベルクHeinrich2世がショッテン修道会を提供する時の古文書に1200年と記されています。
Rupertはもともとラインフランク貴族の出身と言われています。彼はウォルムスの司教という宗教的に高い地位についていたとされ、バイエルンTheodo公爵がキリスト教の布教とそれを支える目的でRupertをレーゲンスブルクに呼びました。彼はそこを去って、オーストリアのエンスを経由しザルツブルクへ向かったそうです。
ザルツブルクのペーター修道会はこのルペルトによって建てられました。
ロマネスク様式の塔が印象的で、教会の壁などもいかにも古そうです。
この教会は現在の姿になるまでに何回も変えられたり、改築されたりしていますが、現在見られる一番古い部分は塔の部分と内部空間の一角で12世紀の初頭です。
教会中部は、細長い教会を2つ隣同士にしたような構造で、中央祭壇がある空間は、右側に隣接している空間よりも幅が広くなっています。
イエス・キリストの磔刑像が天井からぶら下がっています。
全体的にゴシック様式を見ることができ、ステンドグラスも印象的です。
内陣奥Apsisにある3つのステンドグラスの中で、中央のステンドグラスはウィーンで最も古く、1270年頃のものです。
その両側の2つは1949年のものです。
身廊にあるステンドグラスは1990年代初頭のものです。
1276年には大きな火災があり、その後の再建でゴシック様式になりました。
14世紀にこの教会の南側の壁が壊されて拡張されました。
内部にピンクのライトが灯されているのはJudith Huemerが手掛けたモダン芸術です。
中世から19世紀半ばまでは教会の塔の横に"Praghaus"という建物が隣接していました。
その建物は1500年~1824年までは塩の役所として機能していました。
ザルツカンマーグートから船で運ばれてきた塩はここに貯蔵されて売られました。
そこでここには塩の守護聖人のルペルトが立っているわけです。
20世紀の終わりに大きく修復され、同時に補強もされました。
このルペルト教会界隈は地元で有名なバミューダ三角地域でもあり、夜に行くとたくさんの店が営業していてとても賑やかですが、昼間は逆にとても静かです。
残念なことにこのルペルト教会はいつも長く開いているわけではなく、曜日によって午前中か午後の2時間半しか現時点では中に入るができません。
でもとても価値ある重要な教会のひとつです。
オーストリアには歴史ある修道院や教会やお城などがたくさんあります。
修道院や教会などはヨーロッパ文化の宝庫です。
ウィーンにもたくさん修道院があり、街中にもいくつもあります。
ウィーンに来る日本の皆さんと修道院として圧倒的に多く観光する所は、メルク修道院や
ウィーンの森のハイリゲンクロイツ修道院などは頻繁に行きます。
さて、今日は私が本当にお勧めしたい、そしてもちろん個人的に大好きな修道院アドモントについて少しまとめてみようと思います。
Admont (アドモント)修道院はシュタイアーマルク州のアドモントにあるベネディクト派の修道院で、
Erzbergからオーストリアアルプスの有名な一角である国立公園にも指定されているゲゾイゼ渓谷を降りてきてすぐの所にあります。
写真の背景にもアルプスが見えていますね。左手前の建物が修道院の建物です。
この修道院は大司教Gebhartによって1074年に作られました。その3年後同じ大司教によってザルツブルクのホーエンザルツブルク城も作られることになります。
実際にザルツブルクのベネディクト派ペーター修道会から当時修道士達がここにやって来ました。
シュタイヤーマルク州では最古の修道院です。
ここは修道院としてはかなりモダンな展示で、メルク修道院のように様々な修道院の歴史的遺産を見ることができ、また自然学的な展示もありとても充実しています。
この修道院が有名なのはとにかく図書館です。
ここの図書館を見るためにたくさんの方が訪れるわけです。
このAdmont修道院の図書館は修道院の図書館としては世界最大で、
長さ70m,幅14m,高さ11m,中央ドームの高さ12.7mの大空間です。
完成は1776年で、Josef Hueberによるものです。彼はウィーンで生まれて、もっぱらシュタイヤーマルク州で活躍したバロックの建築家で、ウィーンの王宮にある、世界で最も美しいと言われている国立図書館のPrunksaalを参考にしました。
この図書館のプラン自体は1764年から存在していました。
この図書館の空間は全部つながっていますが、3つの部分に分けられ、2階建て構造で、7つの天井ドーム、48個の窓が採光を取り入れています。
素晴らしい天井フレスコ画は、バルトロメオ・アルトモンテによるものです。
彼が82歳の時に仕上げたもので、キリスト教の啓示がテーマになっています。
また、Josef Satmmelによる、天国、地獄、最後の審判、死という人間の4つの終末を表す彫刻群も見逃せません。
この空間には約70.000冊の蔵書があり、修道院全体では200.000冊の蔵書があります。
手書き書だけでも1400冊以上あり、8世紀の物も存在しています。
他の修道院や閲覧室などに見られる18世紀定番の茶色の落ち着いた色合いと比べると
対照的な白と金という色調です。窓の数が多いことも重要です。
後期バロック様式ですが、ロココ様式も感じることができます。
このアドモント修道院の図書館には"秘密の扉"があります。
左上の写真に2つの本棚が見られますが、その真ん中にある柱のすぐ左側が秘密の扉です。
右上の写真は、係りの方がその扉を開けてくれています。奥に螺旋階段がありますね。
こちらは図書館の床です。
赤、白、灰色の大理石が規則的にサイコロ状で合計で7000枚以上も敷かれています。
もちろん上の写真で見られるように平面ですが、しかし、見方によってはとても立体的になっています。
このアドモント修道院の図書館は本当に必見です!!
ウィーンからは車でA1経由だと220km、A2とゲゾイゼ渓谷経由だと250kmと、かなり遠い所にあり、すぐには行けないかもしれませんが、ゲゾイゼ渓谷界隈は車で走るととても気持ちよく、美しいオーストリアアルプスを楽しむことができます。
ウィーンの街には様々な教会があり、それぞれの教会は個性があります。
でも"キリスト教史" や"教会史" などに少しでも触れると、カトリック教会としての習慣や
共通性というのが見られます。
今日はウィーンの中心部ではなく、ちょっと外側にある重要な教会に触れてみます。
この教会はマリアヒルファー教会で、現在のウィーン6区の有名なデパート街とも言われるマリアヒルファー通りにあります。
6区の名称もマリアヒルフです。
この場所はウィーン川の流れに向かって左側の岸の一番高い部分に位置し、17世紀の1660年に墓地の礼拝堂として、Philipp Friedrich von Breuner 司教によって献堂され、当時は木で作られていました。
当時の質素な礼拝堂の唯一重要なものは"Mariahülf" ・・・マリアの助けと言われるマリアとイエスの慈悲画で、ウィーンや周辺からのたくさんの巡礼者が集まりました。
巡礼者がどんどん増加してきたことからバルナバ会が1669年に石の礼拝堂にし、同時の司祭さんの居住できる住居も併設しました。
1683年にオスマントルコの襲来によってここは破壊されてしまいます。
しかしマリアの大事な慈悲画は、ここから城壁内へと避難され、守られました。
1686年~1689年に再建が行われ、マリア慈悲画も戻されました。
現在でもシュテファン大聖堂までの祈念祭行列が毎年秋に行われ、この絵もいっしょに運ばれます。
1711年から現在の教会のように改築が始まり、印象的な2本の塔は1715年に始まり、1726年には完成しています。
塔の高さは52mです。
ちなみに教会前に立っている像は音楽家のハイドンです。
内部はこの時期の建築様式を象徴する
美しいバロック空間です。
よくあるラテン十字架構造です。
正面の主祭壇は大理石で作られていて1757/58年Sebastian Haubtのプランによるものです。
この主祭壇はウィーンで最も大きな大理石の祭壇のひとつです。
この中央に前述したマリア慈悲画があります。
このマリア慈悲画は、パッサウのMariahilfer Berg にあるコピーで、インスブルックにある教会にも見ることができます。
これら3つの慈悲画は、奇跡の癒しがあるとされています。
十字架の水平部分には2つの礼拝堂、脇にそれぞれも3つの計6つの礼拝堂があります。
天井のフレスコ画も綺麗で一見の価値があります。
聖母マリアの生涯、マリアを讃えたテーマになっています。
特にVierung (十字架形の交差地点)の頭上のドーム的フレスコ画はだまし絵の効果を見ることができます。
クリプタ(地下聖堂)は地下納骨堂があり、そこは1996年以来カリタスによっていわゆるホームレスの方々の日中滞在できる場所になっています。
この界隈に来たら、訪れる価値がある教会です。
ウィーンには様々な教会が建っています。どれも個性がありながらも、キリスト教の伝統に
沿って共通性を見い出すことができます。このコーナーでも時間を見つけて色々な教会について書いていますが、今回は全くタイプが違う教会です。
こちらはDonaucity Kirche
"Christus,Hoffnung der Welt"
(ドナウシティー教会、
キリスト、世界の希望)という教会です。
十字架がなければ全く教会には見えません。でもこの教会はローマカトリックです。
この地域はウィーンのドナウ河を渡った22区に位置し、国連都市を
始め、ウィーン市が意図的にモダンな高層建築を多く建てている所で、荘厳な古典建築が建ち並ぶ中心部とは全く違った街並み
を見ることができます。
ここ20年ぐらいの間にこの地域には次々とビルが建てられています。
この写真の背景には国連都市が見えています。
1990年代、この地域に教会を建てようということが決まり、6人の知られたオーストリア人の建築家からコンペが行われ、1939年インスブルックで生まれたHeinz Teaserが選ばれ、
1999年5月から建築が始まり、翌年2000年11月26日に奉納されました。
外観はクロム鋼が使われています。
内部空間は外から見ているよりも
かなり広く感じられ、非常に明るくなっています。
素材は白樺が使用されていて、
非常に温かい感じがします。
椅子も丸くなっています。
外からの光も、壁の多くの丸い窓や四角い窓、天井からと3か所から入り、なるべく多くの太陽の光を取り入れ、より明るくそして落ち着いた雰囲気になるように考えられています。
いわゆる祭壇の十字架の交差する場所にも写真で見るとわかりますが、小さな窓が開けられています。
教会の地下にも多目的な空間が作られています。
高層建築が多いウィーンらしくない街並みのこの地域には、非常に溶け込んだ教会であると
言えます。
今日はちょっとウィーンを離れて見たいと思います。
オーストリアは8か国に囲まれている内陸国ですので、ウィーンから車で1時間弱走れば
スロヴァキアやハンガリーに簡単に入ることができます。
日本からもブダペストからスロヴァキアのブラティスラヴァを経由し、もしくは逆に
ウィーンからブラティスラヴァを経由し、ブダペストへ行くツアーもたくさんあります。
私も仕事柄、オーストリアに隣接しているチェコ、ハンガリー、スロヴァキアにはよく行きますが、スロヴァキアの首都ブラティスラヴァにはちょっとおもしろい教会があります。
たくさんの日本の皆さんがブラティスラヴァに寄っても、見る所はほぼ決まっていて、
たいていブラティスラヴァ城と旧市街のみです。
ブラティスラヴァはスロヴァキアですが歴史はハンガリー史を語った方が早く、
実際にハンガリー語が現在でも多く話されています。
それは、ブダペストが16世紀の前半のオスマントルコに占領されての1536年からマリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世が1783年に再び都をブダペストに移すまでの約250年間、ハンガリー王国の首都であったわけです。
帝国時代はドイツ語名でPressburg (プレスブルク)と呼ばれていましたし、ここは
習慣的にドイツ語が多く話されていました。
前置きが長くなってしまいましたが、そのおもしろい教会についてです。
この教会名はエリザベート教会で、街の雰囲気には似つかわしくない、お菓子の家みたいな雰囲気です。
実際にこの場所は住宅街の一角といった感じで、近くに来るまで目立ちません。
カトリックの教会で、聖人エリザベートに捧げられています。
エリザベートはドイツ騎士団の守護聖人で、13世紀前半に生きたハンガリー王女でElisabeth von ThüringenやElisabeth von Ungarnとよく呼ばれています。
この教会は、1845年にブラペストで生まれ、1914年ブダペストで亡くなったハンガリーアール・ヌーヴォーの建築家
レヒネル・エデンによって1908年に
建てられました。
アール・ヌーヴォーと書きましたが、
ハンガリーユーゲントシュティールです。
レヒネルはこの教会に隣接している学校
も建築していて、この教会はその学校のための礼拝堂を意図として作られました。
塔が印象的ですが、元々のプランでは
教会自体の上にドームがかけられるはずだったそうです。
入口はロマネスク様式っぽいですね。
レヒネルの特徴はジョルナイセラミックが多用されていること、オリエント的要素や、生きているような曲線などが特徴です。
レヒネルはセラミックにも強い関心を持っていました。
教会内部は意外とシンプルで、
ひとつの空間です。
外観と合せた水色が多く使われていて、様々な宗教画が飾られています。
主祭壇は貧しい人達に物を与える
聖人エリザベートが描かれています。
この教会は別名で"青の教会"とも言われています。
ブラティスラヴァを訪れたら是非寄ってみましょう。
中心の広場から850m程離れていますが、10分強で歩いて行くことができます。
余談ですがおもしろい教会のひとつとしてオーストリアにはフンデルトヴァッサーが手掛けたバルバラ教会という有名な教会があります。
ウィーンの街には様々な教会が建っています。
それぞれの教会は個性があり、様々な様式が見られますが、しかしキリスト教というひとつの培われてきた伝統の上に存続しているという共通性を持っています。
教会をぶらぶら見ているだけでも楽しい街歩きができます。
このコーナーでも思いつきで色々な教会話題にしていますが、この教会も素敵な空間を楽しめます。
こちらは少しルネッサンス的要素を感じられる美しいバロック様式の正面が印象的なドミニコ会の教会です。
ドミニコ会は、1216年にスペイン出身でイタリアで亡くなる聖ドミニコによってフランス南西部のトゥールーズにローマ教会から認められて設立されました。
ウィーンにはバーベンベルク王朝時代の君主レオポルド6世によって、1226年に呼ばれてきます。
伝説によれば、このレオポルド6世は南フランスのアルビジョア十字軍に参戦した時に、個人的に聖ドミニコと知り合いになったということです。
このレオポルド6世はフランシスコ会のおおもとであるミノリーテンをその2年前の1224年には呼んでいます。
修道院と接続された小さなロマネスク様式の礼拝堂は1237年には作られていましたが、その後1283年の火災により焼失し、ゴシック様式での再建が行われ、1302年には内陣が完成し奉納されています。
1529年のオスマントルコの脅威により教会の大部分が壊され、その資材がウィーンの城壁を強化するために利用されました。
1631年の皇帝フェルディナント2世により、礎石が置かれ、その3年後の1634年に献堂されましたが、まだ教会の骨組みだけだったので、その後1674年までに正面装飾やドームなどが作られていきました。
ウィーンでの代表的な初期バロック様式です。
教会の正面にはドミニコ会に属した聖人達が立っています。
内部は長さ約47m,幅21m,高さ22mのかなり広い空間で、素晴らしい バロック装飾を見ることができます。
内部装飾はイタリア出身者によるもので細かいことはわかっていませんが、アイゼンシュタットのエスターハーズィ宮殿のハイドンザールの天井画を手掛けたカルポフォロ・テンカラも活躍しています。
正面祭壇は1840年Karl Rösnerに、祭壇画はオーストリアの画家Leopold Kupelwieserのものです。
ローマ教皇グレコリオ13世による、ロザリオ祭を表し、聖母マリアが中央に描かれ、右にひざまずいている聖ドミニコが見られます。
ロザリオは聖母マリアへの祈りに使われる数珠状の用具です。聖母マリア信仰はかなり初期キリスト教時代からありましたが、
これを今の形にまとめたのは聖ドミニコとも言われています。
伝説によれば、前述したアルビジョア十字軍の戦いの前、1208年に聖母マリアが出現して、ロザリオを武器として贈ったとされています。
ドームのように見える天井フレスコ画は平らで、マリアとイエスが登場する三位一体です。
側廊の美しいアーチの中にはいくつもの美しい礼拝堂的空間になっています。
天井フレスコ画は聖母マリアをテーマにしたもので、1675年
Matthias Rauchmüllerによるものです。
美しい装飾の中にたくさんの絵を見ることができます。
奥に見えるのはパイプオルガンです。1896年に当初からあった古いオルガンがリーガー社製の
オルガンに替えられ、1990年に
修復されたロマンティックスタイルで、このタイプはウィーンでは最後のものです。
カトリック教会の反宗教改革による勝利から、かなりの教会はこのようなバロック様式が
多く見られるわけですが、そのバロックの中でもそれぞれの教会には個性があります。
このドミニコ会の教会は旧市街Stubentorから歩いてすぐの所にあります。
シュテファン大聖堂からすぐの所に、美しい中庭を持ったドイツ騎士団修道会があります。
そこには教会が付属していますが、外からでは小さな塔が見える程度で建物に組み込まれて
いるため教会らしく見えません。
そこを通る人は教会がそこにあることには気づかないかもしれません。
今日はそのドイツ騎士団教会について少しまとめてみようと思います。
ここがドイツ騎士団教会になる前には別の教会が建っていて、その頃からの一番古い部分はこのちょっと印象的な塔です。
この13世紀初頭の塔だけが当時からのものとして残されています。
いくつかの火災の後、何回かにわけて新しく建築され、1395年アドヴェントの第4日曜日に聖別式が行われました。
この時から現在の姿になています。
ドイツ騎士団は1190年に、現ドイツのブレーメンやリューベックの商人達が、
第3回十字軍の一員として参戦したドイツ出身の戦士を守るため、現イスラエル北部のアッコンに設立された、
"エルサレムの聖母マリアのドイツ人の家の兄弟会"と言われたエルサレムにあったかつての病院が前身です。
1191年にローマ教皇クレメンス3世によって公認されました。ウィーンのこのSingerstraßeには1204年~1206年に定住しました。
一種の慈善団体として現在でも存続しています。
こちらは教会内部で、ゴシック様式の意外と狭い長細い空間です。
当初からこの細長いスペースでプランされています。
バロック時代には楕円形フォームが追加されました。
主祭壇に向かって左側の壁には80以上のワッペンが目立ちます。
これは教会内で刀礼を受けた騎士が自分のワッペンを飾った習慣からのものです。
主祭壇にある絵は1667年トビアス・ポックによるもので、聖母マリアの膝の上にイエスが描かれ、さらにエリザベート、ゲオルク、ヘレーネが描かれています。
マリアの膝の上にいるイエスがエリザベートに王冠を授けていて、一番上には父なる神と精霊が描かれています。
エリザベートはこのドイツ騎士団の守護聖人で、13世紀前半に生きたハンガリー王女でElisabeth von ThüringenやElisabeth von Ungarnとよく呼ばれています。
その下の見開き祭壇は1520年、ベルギーで製作されたものです。
この教会の入口は中に入った所にあるため目立ちませんが、近くを通ったらちょっと寄ってみて下さい。
ちなみにここの中庭は知られざる美しい中庭風景1で紹介しています。
教会に足を踏み入れると、目の前に巨大な岩が浮いてるようにぶら下がっているのです。
そんなに明るくない内部空間に黒い大きな岩が目の前に立ちはだかっているようです。
これは大変なインパクトを与えます。
一体これは何なのでしょうか・・・?
これは"TO BE IN LIMBO" というタイトルで、去年2014年11月20日からここに展示されていて、2015年4月19日まで見ることができます。
これを手掛けた芸術家Steinbrener/Dempf & Huber は1959年にシュールレアリスムのルネ・マグリットが描いたピレネー城のモチーフを引用しています。
マグリットは海の上の空中に巨大な岩を浮かべています。
岩や石は聖書では頻繁に登場し、その強さ、安定さ、硬さ、頼れることなどが神と結びつけられています。
このイエズス会の教会は本来全てがフィクションであり、幻想の世界です。
その幻想世界の教会に、この巨大なプラスチックでできた岩が浮いているのです。
是非見に行って下さい!
ザルツブルクはモーツァルトが生まれた街として世界的に知られていますが、この街は早くからヨーロッパの宗教的中心地となっていました。
そのためこの狭い旧市街にたくさんの教会があるわけですが、その中で今日は歴史あるペーター修道院の教会について少し書きたいと思います。
ザルツブルクの旧市街地に入るのにザルツァッハ川を渡って行くのが一般的ですが、旧市街地に入ってもこの修道院はすぐに見ることができません。
メンヒスベルクのふもとにあって、ちょっと奥の方にあるからです。
この修道院は696年にウォルムスの司教ルペルトによって南東アルプスの布教活動の一環として建てられました。
ちなみにウィーンにはルペルト教会という古い教会があります。
おそらくローマ時代後期ぐらいからここには宗教的施設があり、ルペルトはそれを新しくしたとも言われています。
このベネディクト派の修道院はドイツ語圏では最古の修道院ということです。
その付属教会はこのペーター修道会の中庭に入るとハッキリ見ることができます。
この場所には修道院がここにできた時ぐらいからの修道院教会があり、それが壊されてBalderich修道院長によって1125~1143年にロマネスク様式で建築され、1147年に奉納されました。
写真に見られる教会の塔は典型的なオーストリアによく見られる"セイヨウ玉ねぎ"とか"セイヨウかぼちゃ"とか言われているスタイルで、古い部分は9世紀です。
一般の古い歴史を持つ教会によくあるように、古い時代から現在に至るまで、時代に合ったスタイルで何回も改築されています
教会の塔の下の部分や教会入口部分にはロマネスク様式をみることができます。
その後ゴシック化され、そして17世紀の初頭にルネッサンス様式に改築されています。
Seeauer 修道院長の時代の1756年に現在の塔の姿になっています。
モーツァルトがこの街で生まれる年ですね。
この教会の内部は外観からは想像できないとても美しい空間です。
1760~1766年に内部は豊かな
ロココ様式に変えられました。その時同時に天井画も書かれています。
しかし、当時の古い教会構造であるバシリカ様式は今でもハッキリと
見ることができます。
主祭壇はMartin Johann Schmidt
(通称Kremser-Schmidt・・・
クレムサー・シュミット)
によるもので、ペテロ、パウロ、
ベネディクトが聖母マリアにとりなしの祈りを捧げているシーンで、その上の小さい絵は、神と精霊が表されています。
右側の側廊にはルペルト祭壇画あり、そこに聖人ルペルトのお墓があります。
カトリック教会はバロック時代にはよく教会がバロック化されていますので、バロック様式の内部空間は決して珍しいものではありません。
でもこのペーター修道院の教会は外観とは全く違う印象を与える優雅な教会内部を見ることができます。ザルツブルクに行ったら絶対に旧市街地を中心に観光すると思いますので、絶対に見逃して欲しくない教会です。
オーストリアは9つの州があり、それぞれが個性を持ち、美しい風景が国内に広がっていますが、その中で映画サウンド・オブ・ミュージックでも登場し、オーストリアの宝石箱とも形容される大小70以上の氷河から生まれた美しい湖が点在するザルツカンマーグートには
有名な街がいくつもある中で、以前ここでも話題にした、私も大好きな街のひとつであるSt.Wolfgang(ザンクト・ヴルフガング)には、白亜の教会があり、有名なホテル"白馬亭"があることで知られています。
この街の名の由来になっている教会St.Wolfgangには、オーストリア3大ゴシック様式祭壇のひとつに数えられている素晴らしい祭壇があります。
こちらの教会がPfarr KircheSt.Wolfgangで、教区教会とでも日本語で言いますでしょうか。湖の反対側からでもこの教会はよく目立ち、白馬亭のすぐ横に立つこの街のシンボル的存在です。
確かな記録としては12世紀になってから登場していますが、伝説によれば聖人ヴォルフガング自身によって10世紀に作られたとされています。
聖ヴォルフガングは924年にシュヴァーベン地方の貴族ファミリーの出身で、レーゲンスブルクの司教でもあり、
994年にオーストリアのOberösterreichで亡くなりました。
その彼に捧げられています。
その薄暗い教会内部に入るとゴシック様式の構造がハッキリ見られます。
一番奥にその素晴らしい祭壇が置かれています。
この祭壇はMichael Pacher(ミヒャエル・パッヒャー)によって製作された後期ゴシック様式の傑作です。
ミヒャエル・パッヒャーは1435年にチロルで生まれ、1498年に
ザルツブルクで亡くなったオーストリアで大変重要な画家であり、木彫りの彫刻家でもあります。
この祭壇は1471年12月13日にMondseeベネディクト会修道院長のBenedikt Eck von Piburgから受注したという記録が残されています。
ミヒャエル・パッヒャーはその後、別の教会の祭壇を完成させ、その後1477年から彼の全エネルギーをこの祭壇に注ぎ、仮の工房で製作され、1481年にこの教会のこの場所に置かれることとなりました。
これは左右両側に開かれるようになっている見開き祭壇で、写真ではわかりませんが左右それぞれ2枚の扉があります。
それぞれの扉の外側と内側に宗教的な絵を描く習慣があり、完全に閉じられた時の扉の外側には計4枚、1枚目の扉が開かれた状態で、その扉自身の内側計4枚と、2枚目の扉の外側
計4枚の合計8枚、そしてこの写真のように全開した時の2枚目の扉の内側2枚の計4枚の絵が
見られるわけです。つまり合計で16枚の絵ということになります。
見開き祭壇は当時の習慣では、平日には完全に閉じられ、祝日には1枚目の扉が開けられ、
最も大事な祝日には2枚目の扉も開かれ、祭壇の中が完全に見えるようになるわけです。
今日ではたいてい、教会に置かれている祭壇は、復活祭の前以外平日でも開かれてる状態となっています。
左の写真では外側扉が開かれ、内側扉が閉まっている状態です。
木彫りに黄金が塗られていて、等身大に近い人物像がたくさん見られます。
中央には王様であるイエス・キリストの前に聖母マリアがひざまずき、2人の上には精霊のシンボルである鳩が見られます。
その2人を、天使が歌を歌っていたりと、音楽を奏でて囲んでいます。
画面一番左には聖人ヴォルフガングが教会のモデルを持って立っていて、反対の一番右には聖ベネディクトが立っています。
写真に見られる2枚目の扉の内側の絵4枚は、左上がイエス降誕、左下がキリストの割礼、右上が神殿奉献、右下はマリアの死です。
イエスは生後8日目に割礼を受けます。これによってユダヤ人社会に受け入れられることを示しています。神がアブラハムやその息子達に割礼を施すように命じています。
イエスは降誕から40日後に神殿で祭司から聖別されるわけです。
この祭壇の下をよく見るとPredella (プレデラ)と呼ばれる横に細長い飾り台があります。
そこも見開きになっていて、左の絵はマリアがエリザベスを訪問するシーン、右の絵はエジプトへの逃避を表しています。
プレデラが閉じられた状態では、3枚目の写真に見られるように、4人の教会博士が描かれています。
プレデラその中央には聖三王がキリストを拝んでいます。
17世紀の後半オーストリアにバロック様式が流行し、たくさんの教会がバロック化されていきます。その時に、このミヒャエル・パッヒャーの祭壇も別のバロック様式の祭壇に取り換えられるはずでしたが、この素晴らしい傑作の真価が認められてそのままここに置かれるようになりました。
美しいザルツカンマーグートのこの街に、大変な中世の傑作があるわけです。
是非お見逃しのないように!
ウィーンで最も美しい歩行者天国のグラーベンをシュテファン大聖堂側から歩いて行くと有名なペスト記念柱がを見ることになりますが、そのまま少し行った右側の引っ込んだ所にバロック様式のペーター教会(Peterskirche)が2本の塔を見せて立っています。
ウィーンには数多くの教会がありますが、今日はこの教会について少しまとめてみます。
ペーター教会はウィーンで最も古い教会です。たいていのガイドブックでは"ウィーンで2番目に古い教会"と書かれていますが、この教会の最初は4世紀となっているため、ウィーンでは歴史的に見て一番古い教会です。
この場所はグラーベンの北側、つまりローマ時代ヴィンドボナの一角にあたるわけです。
外観は18世紀初頭のバロック様式ですから、容姿から見た場合はウィーンで2番目に古いと言えるでしょうか。
この教会は4世紀の後半に、ヴィンドボナ時代のKaserne(兵舎とか長屋のようなもの)をバシリカ風の教会に改築したことから始まったようです。
その後の歴史の中でカール大帝が792年にここに教会を作らせたという説もあります。
最初の記録では1137年に聖人ペトロ(ペトゥルス、ドイツ語でペーター)に捧げられたということが確認できます。
その後ロマネスク様式やゴシック様式に改築されたりしていますが、12世紀の終わりにショッテン修道会の管轄に入り、1661年には火災により焼失しました。
その後、皇帝レオポルド1世の提唱により新しい教会にすることが決まり、ベルヴェデーレ宮殿を手掛ける建築家ルーカス・フォン・ヒルデブラントにより現在のバロックの姿になり1701年~1733年の間に完成しています。
教会内部は外からは想像できない素晴らしいバロック空間です。
こちらの写真は教会に入って正面奥に位置している主祭壇です。
Antonio Galli-Bibienaのプランで、Martino Altmonteによる祭壇画です。
上には聖三位一体が描かれ、エルサレム神殿前にいる12使徒のペテロとヨハネが身体障害者を治しています。
主祭壇の上には神の名"JAHWE"の栄誉が表されています。
手前にはだまし絵的ドームが見えます。
左の写真は内部空間をちょっと別の角度から見ています。
右の写真は上に設置されているロココ様式のパイプオルガンでパイプの数は2175本です。
この部分はMatthias Steinlのコンセプトです。
天井のフレスコ画はカールス教会の天井画も描いたミヒャエル・ロットマイヤーによるもので、彼がほぼひとりで2年の歳月をかけて描き、1714年に完成しています。
このフレスコ画のメインテーマはマリアの天界での神とイエスからの戴冠を表したもので、さらに上に伸びた中央には精霊の鳩が描かれています。
左の写真では中央から見て、その下にいる人がマリアです。
たくさんの宗教的重要人物や天使が描かれています。
ここまでの高さは床から56.8mです。
このペーター教会はグラーベンの雑踏からは信じられない、静けさが漂う宇宙的バロック空間を楽しむことができます。
是非お見逃しなく!
早いもので今日は12月24日のクリスマスイヴです。
こちらの各家庭ではクリスマスツリーが飾られ、そのツリーの下にプレゼントがいっぱい置いてあることと思います。街中は昼過ぎぐらいから人の数がどんどん少なくなっていき、
家に閉じこもり、家族とクリスマスを過ごすわけです。
ずっと続いてきたクリスマスの盛り上がりがうそのような静けさです。
うちも先日買って庭に置いてあったクリスマスツリーを慌ただしく飾りました。
夕食が終わった後のプレゼント交換(Bescherung)が待ち遠しいです。
イヴと言えばやっぱりこのこの話題にどうしても触れたくなってしまいます。
プレゼント交換の前に敬虔な気持ちで歌われる"きよしこの夜"オーストリアからの世界中に広がって親しまれている歌です。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐら走った所にOberndorf
(オーベルンドルフ)という
人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle
(シュティレ・ナハト・カペレ・・・
きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
1818年、当時のニコラウス教会で、ここのオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができなかった・・・
そこで・・・
この教会のヨーゼフ・モール神父が書いた詩に、ここのオルガンの代わりに、
フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ギターで伴奏された曲・・・
そしてそこで歌われた曲・・・
それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、当時のニコラウス教会もガラスに見ることができますね。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、このきよしこの夜の詩は、1816年にすでに
書かれていました。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していますね。
やはりニコラウス教会が見えますね。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂のメイン祭壇です。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、
19世紀終わりのザルツァッハ川の
何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に
取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、
当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの現在の礼拝堂が奉納されました。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後
「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
さて、うちにもChristkind(クリストキント)が来てくれたかな・・・。
ウィーンの街はヨーロッパで2番目に長い河であるドナウ河が流れているわけですが、
前にもここで紹介したように、河川工事の結果、ウィーンのドナウ河は本流、新ドナウとほぼ平行して街を流れて行きます。
そのドナウ河を渡す、車が通れる橋の中で、一番有名な橋はReichsbrücke・・・いわゆる
帝国橋で、この橋はよく市内観光の中でもバスでドナウ河を見る時に通ることが多いです。
この橋を渡る時に、もしくはその橋の下にあるウィーンの一番大きなドナウ河の船着き場
から目立って、絶対に見逃すことがない赤いとんがり屋根が印象的な教会が建っています。
その教会はFranz von Assisi Kirche・・・聖アッシジ教会です。
おとぎ話に出て来るお城のような印象を与えるこの教会は、意外と新しいもので1898年に建築が始まって、1913年に奉納されています。
1898年は、ウィーンのリンク道路を作らせ、オーストリア=ハンガリー帝国ともなる、
またエリザベートの夫である話題性たっぷりのフランツ・ヨーゼフ1世が即位してから
50周年の年に当たり、その記念として作られました。
Victor Luntz(1840-1903)というオーストリアのYbbsで生まれ、ウィーンで亡くなった建築家により、ロマネスク様式で作られました。
左の写真は教会を正面から見た姿です。2本の塔が対称に建てられています。
真ん中にはバラ窓的な窓、そしてロマネスク様式の小さなアーチが連続しています。
右の写真は内部空間で、主祭壇に向かって見ています。
ロマネスクですから、空間が閉ざされた、シンプルな構造になっています。
外から見ると一見複雑な形に見えますが、よく見ると
教会建築でよくある構造であるラテン十字架形のバシリカ様式で作られています。
十字架形の真ん中に一番高い塔が作られていて、その塔の周りにはさらに小さい塔が4つ
大きい塔を囲むように作られています。
内部空間にもたくさんのアーチが使われています。
ロマネスク様式と言っても、19世紀終わりのネオ・ロマネスク様式ですので、
中世の重々しい重厚なスタイルとは違っています。
この美しい教会は、地下鉄U1のVorgartenstraßeから近い、メキシコ広場にあります。
中央墓地はヨーロッパで2番目に大きな墓地で、ウィーンが管理している地元の墓地です。
でもここは世界的に有名な音楽家のお墓があるので、観光地としても重要で、たいていの方はをそれが目的で行かれると思います。
以下参考にどうぞ。
また中央墓地は映画「第三の男」で数回登場し、しかも映画のラストシーンがこの墓地の並木道であることは有名です。
この中央墓地に出かけたら、是非見たいのが今日のテーマである教会です。
中央墓地第2門で路面電車を降りて、
その第2門から入ると正面奥にこの写真に見られる教会が並木道を通して見られます。
これはカール・ボロメウス教会です。
この教会はかつて、
Dr.-Karl-Lueger-Gedächtniskirche
・・・ドクター・カール・ルエーガー
記念教会と呼ばれていました。
カール・ルエーガー(1844~1910)は1897年~1910年までウィーンの市長であり、
彼が1908年5月11日にこの教会の基礎石を置きました。
教会建築は、1910年10月までと数年を費やしますが、その途中でカール・ルエーガーが1910年3月にこの世を去ってしまいます。
そこでウィーン市はこの教会名を前述した名前にしました。
教会は1911年6月16日にカール・ボロメウスに捧げられで奉納されています。
教会はウィーン生まれのユーゲント・シュティールの建築家Max Hegeleによるものです。
彼は前述したこの中央墓地の第2門も手掛けています。
この中央墓地が1874年11月1日にオープンし、その後Max Hegeleが1899年のコンテストで勝ちました。
この教会は1995年~2000年に綺麗に修復され、2000年10月27日 ウィーン市長
ミヒャエル・ホイプル立会いでオープニングセレモニーがありました。
それをきっかけに、教会の名前がルエーガー教会から "Friedhofskirche zum Heiligen Karl Borromäus " (墓地教会聖カール・ボロメウス)に変えられました。
上の2枚の写真は教会の内部です。
左の写真は入ると正面に見える主祭壇、右の写真は脇の部分と天井部分です。
ユーゲント・シュティール様式で、天井ドームが印象的な集中式プラン的、正十字的円形構造で、正面、入口、右、左と4か所にアーチ構造が見られる美しい内部空間です。
同時期の1907年に作られていた、オットー・ヴァーグナーの有名な
アム・シュタインホーフ教会の影響を受けたことが明らかにわかります。
教会に入る時に階段を上がりますが、3mの高さに教会の水準があり、その教会下の空間はGruftという地下墓地になっています。
こちらは教会内の美しいステンドグラスのひとつです。
レオポルド・フォルストナーによるもので、彼はアム・シュタインホーフ教会のモザイク祭壇画も手掛けているユーゲント・シュティールのモザイクで有名な芸術家です。
中央墓地に行ったら是非この教会も訪れて下さい。
一見の価値があります!
ウィーンの旧市街地には魅力的で美しく、また歴史的に重要な広場がたくさんあります。
その中でミヒャエル広場はローマ時代に現在のKohlmarktとHerrengasseが交差し、王宮、ロースハウス、カフェ Griensteidlなど重要な建物があります。
そこにこの広場の名前にもなっているミヒャエル教会について少し書きたいと思います。
このミヒャエル広場に来ると、ひときわゴシック様式の塔が目立つこの教会がミヒャエル教会です。
ハッキリとわかっていませんが、おそらくここには11世紀頃に、このミヒャエル教会の前衛である教会があっただろうと
推定されています。
現在視覚的に確認できることをベースにすれば、13世紀前半の1220年頃とされ、その部分は教会西側の左角に見られます。
その後1275年、1319年、1327年と度重なる火災に襲われます。
確かな記録としては1267年と、司教Gerhard von Siebenbürgenによって述べられています。
当時はシュテファン大聖堂の姉妹教会だったようです。
このミヒャエル教会は元々、どこかの修道会が所有したものではなく、ウィーン市のものだったようです。
新古典主義様式の教会正面は1792年、Ernest Kochによるもので、その上の劇的な大天使ミヒャエルは1724年、Lorenzo Mattielliによるものです。
こちらは教会内部です。
ミヒャエル教会は最初から、(1220年以降)後期ロマネスク様式の3層構造(身廊と側廊2つ)でプランされ、現在でも身廊部分に、例えば柱などに13世紀半ば頃を
確認することができます。
身廊は13世紀半ばに建設されていて、現在までその姿を留めています。
その身廊部分のアーチは1276年と時代を特定することができます。
1350年に現在でも存在しているKreuzkapelle(十字架礼拝堂)が作られ、1416年にハプスブルグ家のアルブレヒト5世により、内陣が延ばされました。
15世紀の終わりには、小さなロマネスク時代の窓が大きなゴシックの窓に取り換えられました。
たいていの教会はそうでしたが、このミヒャエル教会も墓地がありましたが、1508年に皇帝マクシミリアン1世によって閉鎖されました。
その後も教会地下にも18世紀までは埋葬されていました。
このミヒャエル教会のGruft(地下墓地)は、1560年から1784年まで使われていました。
30年戦争中の1626年にはBarnabiten(バルナバ会・・・パウロの教えに基づくカトリックの男性修道会)に管理を任され、大きく改築もされました。
バロック時代にはよくあるようにバロック化され、その後新古典主義に変えられています。
アウグスティーナ教会の次に並ぶ宮廷の教会として、歴代ハプスブルグ家の皇帝達によって
使われてきました。
ここの中央祭壇は1781年、Jean Baptiste d´Avrangeによるもので、16世紀1540年のマリアのイコン画と、1781年に製作された背景の大天使ミヒャエルが一体化している特徴があります。
この教会はゴシック様式でまとめられているように見えますが、色々な様式が混在していることがわかります。
場所的にも歴史的にも重要な教会です。
ウィーンのシェーンブルン宮殿はオーストリアで最も観光の皆さんが訪れるスポットで、初めてウィーンに来る方は絶対と言っていいほど
ここを訪れると思います。
このシェーンブルン宮殿は宮殿内部見学を始め、美しい庭園、動物園など様々な見所があり、ここだけで
余裕で1日過ごせます。
さて、そのシェーンブルン宮殿に普通ではまず気付くことがないSchloßkapelle
(シュロスカペレ)という礼拝堂があります。
この礼拝堂はシェーンブルン宮殿内に
組み込まれていて、外からはまず見ることができませんし、まして礼拝堂があるとも気づきません。
宮殿正面に向かって、左右対称に前方に
せり出している部分の、左側にあります。
この礼拝堂は、シェーンブルン宮殿が
ほぼ現在の姿になる1700年頃、
フィッシャー・フォン・エアラッハによって作られました。マリア・テレジア女帝の祖父レオポルド1世の時代です。
その後マリア・テレジアがシェーンブルン宮殿を改築する際に、同時にこの礼拝堂にも手を加えさせています。
1743年頃この礼拝堂はかなり質素だったようですが、マリア・テレジアがによって内部が立派になりました。
1745年4月29日にマリア・テレジア女帝や家族立会いの下、献堂されました。
この写真に見られるメイン祭壇は大理石で、おそらくニコラウス・パッカシのものとされていて、祭壇上部には三位一体を見ることができます。
祭壇画はメルク修道院でも活躍するパウル・トローガーによるもので、マリアの結婚が
描かれています。
ここは残念ながら常に開いているわけではありません。
基本的に毎週日曜日の10:00にミサが行われるので、その時に見ることができます。
このぐらいの規模の宮殿には、習慣的に必ずと言っていいほど礼拝堂や小さな教会が作られていますので、シェーンブルン宮殿に限ったことではありません。
今年6月の始めにメルク修道院に関してシリーズで紹介しました。
そのメルク修道院は今年2014年は、聖人コロマンのまだ腐っていなかったと言われる遺体をバーベンベルクのハインリヒ1世がこの修道院に運ばせた1000年記念の年です。
その記念の年に合わせて、普段見ることができないメルクの十字架が特別に展示されてる
わけですが、その他にも今年だけ特別に見られる物があります。
それはコロマン顕示台です。
コロマンはアイルランド人のいい所の出の巡礼者で(一説には王様の子とも)1012年メルクがあるNiederösterreichのStockerauで不審な身なりや
外国語を話したことからスパイの容疑をかけられ、拷問され、ニワトコの木に絞首刑となりました。
伝説によればコロマンの遺体は腐らず、しかもその枯れていたニワトコの木が再び緑を吹き返したということからハインリヒ1世がコロマンの遺体をこのメルクに運ばせました。
おそらくこの歴史がまだ浅いバーベンベルクの居城に聖人を置きたかったと思われます。
つまりコロマンは1633年までこの地の最初の聖人でした。
この聖コロマンの顕示台は、1752年にJoseph Moserによって製作されたもので、ニワトコの木がモデルになっています。
木の幹には、拷問道具を始め、コロマンが身に着けていたマント、巡礼ぼうしなどを見ることができます。
顕示台は、銀(部分的に金メッキ)、ダイヤモンド、エメラルド、アメジスト、トパーズなどが使用されています。
メルクの十字架と並んで、貴重な物なので普段は見ることができませんが、今年は前述したように記念の年なので展示されています。
ヴァッハウ渓谷入り口にあるメルク修道院は荘厳なバロック建築で、この辺りの風景とよくマッチしています。
すでに メルク修道院については何回かにわたって書いていますが、今年2014年は
このメルク修道院にあるとても貴重な「メルクの十字架・・・Melkerkreuz」を見ることができます。
このメルクの十字架はハプスブルグ家のルドルフ4世によって1363年に作られたもので、この十字架の中にはイエスが磔になったといわれる十字架の木片が収められています。
この木片はバーベンベルク王朝時代の3代目の君主アダルベルトによって1040年にもたらされたものということになっています。
左側の写真は素晴らしい宝石が十字架に施されていて、世俗権力を表し、
右側はその裏側で、真ん中にイエスが磔になっていて、その周りには4人の福音書記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が見えます。
ここでは宗教的権力が表されています。
この貴重なメルクの十字架は普段は展示されていませんので、映像でしか紹介されていません。
しかし、このメルク修道院にとってとても重要な記念の年にはこのように特別に展示されます。
今年2014年は、バーベンベルク王朝の2代目君主ハインリヒ1世が、このメルクの街の守護聖人コロマンのまだ腐っていなかった遺体を、1014年10月13日にこの修道院に運び込んだ日の1000年記念の年というわけです。
このメルクの十字架は是非見て頂きたい貴重なものです!
ウィーンの南の森一角にHeiligenkreuz(ハイリゲンクロイツ)という小さな街があり、
そこに街の名前の由来である歴史ある有名なハイリゲンクロイツ修道院があります。
ここは是非内部見学をしたい修道院です。
今日はその修道院の教会にあるパイプオルガンについてです。
こちらがそのパイプオルガンです。
このオルガンは、Kober Orgel
(コーバーオルゲル)と呼ばれ、中庭から修道院付属教会に入り、
ロマネスクバシリカ様式の空間に
修道士が使う聖壇があり、そこを通ったすぐ左側のゴシック空間が始まるすぐ
手前に見ることができます。
つまり北側です。
天井まで届きそうなぐらい
大きいオルガンです。
皆様を御案内する時には、私は回廊を
先に見学し、その後教会に入ります。
その方が教会がより素晴らしい印象を
与えてくれます。
このパイプオルガンは、Ignaz Koberによって、1804年に作製されたもので
今年で210年です。
そこでKober-Orgelと呼ばれています。
2つのマニュアルと55のレジスターがあり、パイプの数が2959本です。
オルガン手前にある教壇のようなものが鍵盤部分で、奏者はオルガンを背にして
演奏します。
元々このオルガンは、西側正面入り口の、バロック時代当時にロマネスク様式空間に作られたEmpore (聖歌隊席)に1950年まで設置されていました。
聖歌隊席は通常教会に入ると、正面祭壇に向かって、真後ろ側の上部分に見ることができ、たいてい立派なパイプオルガンがあります。
この聖歌隊席は、この中世の教会空間の響きを損なわせたことから、その後取り壊されましたので現在では見ることができません。
このオルガンの壁は、近くで
見ると、緑がかった大理石に
見えますが、素材は木です。
Ignaz Kober は、現在の
チェコで、1756年に生まれ、1813年に亡くなっている、
重要なウィーン宮廷オルガン
製造業者です。
モーツァルトと同じ年ですね。
このオルガンは、シューベルト、アントン・ブルックナーといった有名な作曲家にも
演奏されています。
特にシューベルトは、このオルガンのために「連弾用フーガ」も作曲しています。
オーストリアの歴史ある修道院や教会にはこういった重要なオルガンがたくさんあります。
このコーバーオルガンはこの修道院のメインオルガンとして、今でも素晴らしい音色を
出し、活躍しています。
ウィーンは魅力的な教会がたくさんありますが、今回はオペラ座のすぐそばにある
歴史的にも重要なアウグスティーナ教会について少し書きたいと思います。
アウグスティーナ教会は、国立オペラ座の裏にあるアルベルティーナ広場のすぐそばにあり、ぽつんと建物から教会の塔が突き出している所です。
この教会は王宮に組み込まれていて、1327年ハプスブルグ家の
Friedrich der Schöne(フリードリヒ・デア・シェーネ・・・ 1286~1330)・・・フリードリヒ美王によって、靴をはいていいアウグスティヌス修道会が呼ばれ、ここに教会と修道院が作られます。
1339年に教会が作られ、1349年に奉納されています。
ちなみにフリードリヒ美王は、当時のGegenkönig(ゲーゲンケーニヒ)という対立王でした。
神聖ローマ帝国では11世紀~15世紀によく対立王(自分こそが正当な王であるということを宣言する王)が本来の王様以外にも存在していました。
当初ゴシック様式のこの教会はポツンと独立して建てられましたが、後の王宮の増築によって王宮に組み込まれる形となりました。
15世紀のウィーンの街並みを参照して下さい。
1631年に皇帝フェルディナント2世は、もっと規律が厳しい、靴をはいてはいけないアウグスティヌス修道会をプラハから呼び寄せ、昔からここにいた靴をはいていいアウグスティヌス修道会はここを追い出されます。
1634年に宮廷教会に任命されています。
その後この教会はバロック化されますが、1785年フェルディナント・ホーエンベルクによってバロック様式が取り除かれ、当時のゴシックをベースにし、窓なども大きくして現在の姿になっています。
こちらは教会内部です。
ゴシック様式ですが、かなりすっきりした内部空間を感じます。身廊は長さ43m,高さ20m、
内陣は40mで高さ24m,幅10mです。
正面祭壇は、Andreas Halbigによるもので1874年から置かれています。
この教会は何と言っても1634年から1918年までの宮廷の教会だったので、ハプスブルグ家の結婚式が執り行なわれた教会としても知られています。
例えば・・・
マリア・テレジアとロートリンゲン公フランツ・シュテファンが1736年に、マリーアントワネットとルイ16世の代理人とが1770年、フランツ・ヨーゼフとエリザベートが1854年に結婚式を挙げています。
また、この教会はGeorg礼拝堂、ロレット礼拝堂や、マリア・クリスティーナの素晴らしいお墓、ハプスブルグ家の心臓が収められているHerzgruftがあることでも知られています。
この教会入口はヨーゼフ広場にありますが、1773年ニコラウス・パッカシの改築のおかげで隠されてしまいましたので、少しわかりにくいです。
1838年ここのアウグスティヌス修道会がなくなりますが、1951年から再びここにはアウグスティヌス修道会が活動を続けています。
このメルク修道院は見どころが多いので、ついつい長くなってしまいましたが、
今回が最後のページです。
メルク修道院 1、 メルク修道院 2, メルク修道院 3, メルク修道院 4、 メルク修道院 5
も是非御覧下さい。
時間があればさらに見て頂きたい場所を紹介します。
こちらは修道院正面入り口から見てすぐ右側にある庭園です。
こちらは美しいメルクの街並みです。
修道院からの眺めも素敵ですが、メルクの街並みも綺麗です。
ここは、修道院の入口そばに、下る坂道とその坂道のすぐ右側に階段があり、
どちらからでも降りて行くことができますが、階段をお勧めします。
階段を下りると、すぐこの写真の光景が広がります。
バーベンベルク時代修道院が出来てから、修道院と結びつきながら発展した街で、
1227年にMarktrechtが与えられています。
オーストリア郊外によくある美しい街並みです。
メルクの中心を抜けて、さらにドナウ河沿いへと進むと、車道に出ますが、そこにかかっている小さな橋を渡って、向こう側から修道院を眺めることもお勧めしたいです。
バルコニーと教会がまた別の角度から見られ、修道院の有名な姿です。
ここから船着き場まではもうすぐです!
メルク修道院の続きです。
メルク修道院 1、 メルク修道院 2, メルク修道院 3, メルク修道院 4 も御覧下さい。
螺旋階段を下りると、主祭壇と反対側の西側部分に入ることになります。
入ると進行方向奥には教会の出口らしきものが見えるので最初はえっ・・・
これが教会なの?・・・って思うのですが、左に広がる教会の空間を目にしたら
驚きと感動を覚え、時が一瞬止まります。
息を呑む素敵なバロック空間が広がっています。
写真の一番奥に見えるのが主祭壇です。
この写真ではあまりわかりませんが、修道院の教会部分にはドームがあります。
メルク修道院 1 に全体の写真を掲載していますので御覧下さい。
教会西側に2本の塔があり、その後ろにドームがありますね。
バロック様式の教会は星の数ほどある中で、このメルク修道院の教会は群を抜いています。
大理石の間、図書館とどれも素晴らしい空間でしたが、この教会はさらに次元が違う別世界といった感じです。
この修道院教会は、1702年から始まって最終的にThomas Pauer修道院長時代の1746年に奉納されました。
こちらは主祭壇です。
この主祭壇はGalli Bibienaによるもので、ザルツブルク産
大理石、金箔を施した木、とスタッコ装飾から成り立って
います。
中央にペテロとパウロの2人の聖人が共に手を取り合って
お互いの別れを表しています。
この2人は彼らの人生最後の戦いに向かいます。
その2人の頭上には勝利の大きな王冠がすでに準備されています。
王冠の上には父なる神が、祭壇の一番上には勝利のシンボル十字架が置かれています。
こちらはミヒャエルロットマイヤーによる素晴らしい天井フレスコ画です。
ロットマイヤーは最初に教会ドームのフレスコ画を1717年に手掛け、その後こちらの身廊のフレスコ画を1722年に完成させます。
ロットマイヤーは、 ウィーンのカールス教会の天井画や、ペータース教会の天井画も手掛けています。
これは、ベネディクトが亡くなって、天界に昇って行く場面が描かれています。
黒の衣装をまとったベネディクトがここでは3回登場し、左側から始まります。
ベネディクトが天使によって天界に向かって出発するシーンが一番左で、真ん中の部分は大きな素晴らしいじゅうたんを経由して天界に昇って行くベネディクト、精霊の鳩がシンボルとして登場し、一番右側では天界に入ったシーンが描かれています。
地上の現世界とは全く違った次元の世界がこの教会では演出されています。
この修道院付属教会では、通常昼12:00から15分間 "昼の祈り"というちょっとしたミサが行われます。その時には、パイプオルガンがこの荘厳な教会を豊かな音色で満たしてくれますので、この時間を見計らって教会に入ることをお勧めします。
教会を出ると、中庭を経由し、修道院のショップに入ります。
そこに以前も紹介した バートイシュルの時計を見ることができます。
ショップを出ると美しいアーチ構造の通路を通りながら、再び修道院の中庭に戻ります。
メルク修道院の続きです。
メルク修道院 1 , メルク修道院 2 , メルク修道院 3 も御覧下さい。
バルコニーを抜けると自動ドアがあって、そこの扉を開けると素晴らしい図書館に入ります。
ここは以前撮影が可能でしたが、現在では図書館に関しては撮影が禁止されています。
この素晴らしい図書館はバロック様式で、本棚がそれぞれローマ数字で書かれて16種類に分けられた2階建て構造です。
メルク修道院の蔵書は100.000冊以上あり、この空間には16.000冊ほどしかありません。
空間中央のガラスケースには、貴重な書物が展示されています。
蔵書の中には、手書き書も1.800冊ほどあり、古い物は9世紀初頭のものもあります。
また地球儀と天球儀も置かれ、入り口と出口には医学、哲学、法学、神学を表す2体ずつ計4体の像が立っています。
ここのフレスコ画もパウル・トローガーが手掛けています。
上の写真は図書館のフレスコ画です。
※現在は撮影禁止ですが、以前は撮影できました。これはその以前の時のものです。
彼の特徴である、パウル・トローガーブルーの色を見ることができます。
4つに分かれた人物群を見ることができますがそれぞれ正義、賢さ、勇気、中庸を意味しています。
大理石の間で、外の力の強さを象徴していましたが、こちらの図書館では人間の内なる"徳"を表しています。
それを抜けると、目の前に螺旋階段がある小さな空間です。
ここには19世紀以降の書物が置かれています。
順路に従って進むと、小さな空間にベネディクトの規律書がガラスケースの中に置かれています。この修道院見学最初の部屋の薄紫色の照明と同じ演出です。
さて、これで修道院の見学が終了し、螺旋階段を下りて、いよいよ最後の教会へと入って
行きます。
この眺めは、メルク修道院を見学しないと見ることができません。
ここに立つと改めてこの修道院が断崖の上に建てられていることがわかります。
修道院を真横から見るとわかりませんが、修道院の教会がある西側は、教会を挟むように、そしてまるで教会を守るかのように2つの回廊が崖っぷちまで伸び、それをバルコニーで結んだというヤコブ・プランタウアーの素晴らしいアイデアです。
おとぎ話のようなメルクの街並みが、真下に広がり、とても絵になります。
30歳ちょうどで修道院長に選ばれたディートマイヤーは時代の流れで、この修道院を現在の姿であるバロック様式にと改築させました。
このコンセプトに同調できる建築家を探し出し、オーストリアのチロル出身のヤコブ・プランタウアー(1660~1726)
を見つけ、彼が亡くなるまでひとりで現場監督を行い、バロック化されていきました。
この写真はバルコニーから見た印象的な教会の西側正面部分です。
この教会はペテロ・パウロ教会と呼ばれ、塔の間にイエス・キリストが十字架を持って立ち、その下にはペテロと
パウロが立っています。
このバルコニーからは、ドナウ河とメルク川も見ることができ、メルク川がドナウ河に注がれる手前にヴァッハウ渓谷の船着き場を見ることができます。
このバルコニーに立つと、時の流れを忘れさせます。
メルク修道院の見学では、真っ先にマリア・テレジア女帝と夫のフランツ・シュテファンの肖像画が私達を迎えます。その後いくつかの
部屋が見学コース になっていて、ベネディクトについて、修道院の中世の聖遺物箱や、聖人コロマン、修道院の歴史や、バロック時代について、修道院の活動状況などを見ることができます。
途中で、以前このコーナーでも紹介した、 300年以上前の金庫も見られます。
この金庫を見た後、この写真に見られるようにメルク修道院の1/100の模型があります。
この模型を見ると修道院の全景がよくわかります。
そしたその後に、このメルク修道院の4つの見所が続きます。
それは
大理石の間
メルク修道院バルコニーからの眺め
バロックの素晴らしい図書館
教会
です。
この4か所は見ごたえがあるので、是非しっかりと見て頂きたいです。
こちらは大理石の間です。
実際に大理石が使われている所は限られていて入口部分と出口部分の枠とその上の装飾がザルツブルク産の大理石です。
それ以外はStuckmarmor という化粧漆喰大理石で
作られています。
ここの天井フレスコ画は、パウル・トローガーが
1731年に手掛けました。
それに素晴らしい効果を与えているのが神殿部分で、これはゲターノ・ファンティによるものです。
力の象徴であるヘラクレスが描かれています。この時代のハプスブルグ家の皇帝はマリア・テレジアの父カール6世で、彼はギリシャ神話の強者ヘラクレスをハプスブルグ家によくあてがえています。
このフレスコ画はいわゆるだまし絵になっていて、見方によっては本当におもしろく見えます。
以前にここで メルク修道院のだまし絵のフレスコ画として紹介していますので、
御興味があれば参照して下さい。
この時期にはウィーンからの1日観光でよくヴァッハウ渓谷に行きます。
ヴァッハウ渓谷は私も大好きな場所で、世界遺産にも登録されていて、個人的にもよく出かけます。
通常の1日観光では、午前中にメルクの修道院を見学します。
このメルクの修道院に関してすでにこのコーナーでも何回か話題にしていますが重要なバロック建築です。
メルク修道院単独では世界遺産ではありませんが、ヴァッハウ渓谷のメルク~クレムスまでということで世界遺産に入っています。
メルク修道院はウィーン中心部から約90km西に離れた所にあり、ドナウ河沿いの断崖の上から、まるで街を見下ろすように建っています。
街の名前もメルク(Melk)で、またMelk川がドナウの本流に注がれます。
この修道院は重要なバロック建築でもあり、さらにこの場所は歴史的にもとても重要な位置にあります。
この辺りのドナウ河は古代ローマ帝国時代国境でもあり、ドナウ河沿いにはウィーンのように駐屯地が多く築かれました。
このMelkもローマ時代からの集落がありました。
このMelkは831年に"Medilica"という名で最初に登場しますが、ハプスブルグ家の前に栄えた中世のバーベンベルク王朝の最初の居城が置かれた場所でもあります。
カール大帝時代この辺りはOstmark(オストマルク...東部辺境地)と呼ばれ、9世紀末からマジャール民族(ハンガリー民族)の襲来に備える必要があったわけです。
そこでバイエルンの貴族バーベンベルク一族がオットー2世皇帝から選ばれて、辺境地を守る伯爵という意味で、辺境伯(Markgraf)という皇帝のすぐ下のポジションでこの辺りを守る砦の城主の役割りを担うわけです。
バーベンベルク王朝は最初のレオポルド1世から最後のフリードリヒ2世まで,976年~1246年までの270年続いた王朝で、この中世の時代にウィーンを始めオーストリアのかなりの部分が発展していきました。
その最初の君主辺境伯(Markgraf)のレオポルド1世の時代からすでに、亡くなった一族に祈りを捧げる宗教的コミュニティのようなものがありました。
2代目の君主のハインリヒ1世の時代には、ドナウ河に沿いながら東へとTullnにバーベンベルクの居城が移されていき、その後クロスターノイブルク、そして12世紀半ばにはウィーンに彼らの宮廷が移され、ウィーンは飛躍的な発展をすることになります。
しかし、宗教的コミュニティはこのMelkに留まっていたようです。
そこで5代目の君主レオポルド2世の時代にこの場所を修道院とし、ベネディクト派の修道院として1089年から現在に至っています。
修道院の見学は個人で見ることも可能ですし、修道院が提供するガイドツアーに入ることもできますが、ドイツ語、英語、イタリア語、フランス語で、残念ながら日本語はありません。ここは説明があった方が遥かにおもしろいです。
現在の修道院は18世紀に改築された素晴らしいバロック様式です。
修道院の見学はこの写真に見られる中庭を通り抜け、その後すぐ左側に見られる皇帝階段を上がって始まります。ここで係りが入場券をチェックします。
たくさんのグループが待っていることがあると思いますが、個人で見学される場合は構わず追い越して行って構いません。
(ガイドツアーの場合は時間が決められています)
この中庭は広々とした空間が印象的で、意図的に台形に作られているため、かなり奥行きがあるように感じられます。
この中庭空間は縦84m×横42mです。
教会シリーズとして今日はダ・ヴィンチの最後の晩餐のモザイクがあるミノリーテン教会のついて少し書いてみたいと思います。
ミノリーテンはフランシスコ会から枝分かれした修道会です。
フランシスコ会は1209年にアッシジで設立された修道会で、ウィーンにはバーベンベルク時代のレオポルド6世によって1224年に呼ばれます。
その後まもなく王宮に近いこの場所に教会と修道院を作ります。
1275年に街の火災があり、その後プジェミスル家のオットカル2世が現在の基本となるこの教会の基礎となる石を置いています。
当時のオーストリアでの最初のゴシック建築の教会のひとつです。
当初1209年に設立されたフランシスコ会は小さき兄弟会(ミノリーテン)と言われます。
14世紀に入って会則が変わったり、緩和されたりしたことから1430年頃から枝分かれが生じ、最終的に1517年枝分かれし、ミノリーテンの改革派としてフランシスコ会が生まれます。
その後1528年にはさらに枝分かれしたカプチン会も成立しています。
現在のミノリーテンはフランシスコ会、カプチン会よりも規模が小さくなっています。
ちなみにこの最初のミノリーテンから1212年にClarissen(クラリッサ女性修道会)が設立されています。
こちらは教会内部です。
14世紀前半までに完成していますが、主祭壇は18世紀後半ホーエンベルクによって当時のゴシック様式で置かれています。
祭壇画の中央にはIgnazioUnterberger(1742-1797)によるローマのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂で崇拝されているマリア慈悲画のコピーが見られます。
現在の形としてはもう少し後の14世紀半ば頃に完成しています。
托鉢修道会の典型的な広い内部空間を見ることができます。
1529年にはオスマントルコの1回目ウィーン包囲があり、比較的城壁に近く建てられていたこの教会の塔はかなり目立つトルコ軍からの標的でした。
その時に塔の先が壊されました。
その後塔は再建されましたが、1683年2回目のトルコ軍のウィーン包囲でも壊されました。
そのためこの教会の塔は先が欠けたようなおもしろい形になっているわけです。
1782年にヨーゼフ2世の改革よりミノリーテン修道会がここを去った後、1784年6月3日から現在までイタリアKongrekationの所有となっていて、「Maria Schnee」(雪のマリア)に捧げられています。
この「雪のマリア」は432年8月5日ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が奉納されるきっかけとなった、358年の朝の「雪の奇跡」伝説から来ています。
この教会内部には詩人・オペラ台本作家のピエトロ・メタスタージオの墓石があります。
(本人はここには眠っていません)
この教会の周りの雰囲気も静かで中々素敵です。
今年2014年は今日が復活祭です。
通常の生活の中で、年間を通して一番重要な行事はクリスマスですが、
宗教的には復活祭が一番重要です。
イエス・キリストが復活したことを祝うことから「復活祭」と呼ばれていますが、
こちらドイツ語では「OSTERN」(オステルン)と言います。
このOSTERNが、イエス・キリストの復活を祝うことから日本語では復活祭と訳されているだけなので,厳密には正しい訳ではありません。
イエス・キリストが復活することをドイツ語ではAuferstehung
(アウフエアシュテーウング)という言葉が使われます。
Fasching(謝肉祭)が終わり、次の日の灰の水曜日からFastenzeit(四旬節)という、
イエス・キリストが磔になり、その後復活する前日までの厳粛な時を過ごし、
そして復活祭です。
復活祭前の週を、Karwoche (カルヴォッヘ)と呼ばれ、受難週です。
特に木曜日から土曜日までをそれぞれ、Gründonnerstag、Karfreitag,Karsamstagと呼ばれています。
Gründonnerstag(緑の木曜日)が最後の晩餐の日です。
キリスト教の成り立ち、謝肉祭(Fasching)を参考にして下さい。
復活祭は移動祝日で、今年2014年は4月20日(日)で、キリストが復活したのが日曜日ですから、復活祭は必ず日曜日になります。
カトリックでは春分の日を3月21日と固定していて、「春分の日を過ぎて、最初の満月を迎えた後の日曜日」と決められています。
そのためカトリックでは3月22日~
4月25日に復活祭がやって来ます。
ちなみに東方正教会はユリウス暦なので、カトリックのグレゴリオ暦と比べると
13日のずれがあるため、4月4日~5月8日になります。
これは325年のニケーアの公会議で定められた設定基準です。
もし満月と日曜日が一致した場合は、その次の日曜日が復活祭で、
春分の日当日が満月で、なおかつ日曜日である場合は、次の満月に続く日曜日です。
英語とドイツ語以外のヨーロッパ諸言語における「復活祭」という言葉は、
全てギリシャ語の「パスハ(Πάσχα)」に由来していて、その言葉も元を辿れば
アラム語の「パスハ(pascha)」で、これはユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」を表す
「ぺサハ」(PESACH)」というヘブライ語から来ています。
つまり、キリスト教の復活祭がユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」から派生した祝い日であることを示しています。
ドイツ語で「OSTERN」は英語で「Easter/イースター」・・・これはゲルマン神話の
春の女神(あけぼのの女神)「エオストレ(Eostre)」の名前、あるいはゲルマン人の
用いた春の月名「エオストレモナート(Eostremonat)」に由来していると
言われています。
8世紀にはゲルマン人が「エオストレモナート」に春の到来を祝う祭りを行っていたことの
記録があります。
実際、復活祭の習慣の中には、このゲルマン人の祭りに由来すると思われるものも
あります。
復活祭に登場する色をつけた卵(イースターエッグ)や、多産の象徴である
ウサギ(イースターバニー)などが復活祭のシンボルとなっています。
春の到来を祝うお祭りの習慣と復活祭は密接な関係があったわけです。
ウィーン旧市街一角にFleischmarktというよく知られた通りがあります。
その界隈は当時Griechenviertel (グリーヒェンフィアテル)と言われ、いわゆる
「ギリシャ人街」的な意味でしょうか。
グリーヒェンフィアテルはこのFleischmarkt から西側はRotenturmstraßeを超えて
ユダヤ人街区までの界隈です。
この地域には17世紀中頃からオリエント貿易を営むギリシャ人の商人が多く住み始めた
ことからGriechenviertelと呼ばれました。
この地域に19世紀に、GeorgkircheとGriechenkirche zur Heiligen Dreifaltigkeit の2つのギリシャ正教会が建てられます。
こちらがそのひとつのFleischmarktにある
Griechenkirche zur Heiligen Dreifaltigkeit
(グリーヒェンキルヒェ・ツア・ハイリゲン・ドライファルティヒカイト)で、聖三位一体ギリシャ正教会なんていう日本語になるのでしょうか。
この教会は、1782年にすでにここに建っていたStockhammersche Hausを簡素なギリシャ正教会に改築することが決まり、1781年の
皇帝ヨーゼフ2世の寛容令の恩恵を受けて1787年Peter Mollnerによって 作られました。
その後Georg Simon von Sina というギリシャ=オーストリアの企業家が、アテネからTheophil von Hansen (テオフィル・フォン・ハンセン)をウィーンに呼び、この教会の改築を依頼しました。
1856年から改築が始まり、1858年12月21日に奉納されました。
この年はウィーンのリンク道路の建設のため、城壁が取り壊される年であり、
またテオフィル・フォン・ハンセンはリンク道路時代の重要な建築家で、何と言っても国会議事堂、楽友協会ホールなどを始め、多数手掛けています。
ウィーンの教会の中では最初のビザンチン様式です。
こちらは教会内部です。
カトリックの教会とはかなり違っています。
代表的な違いは・・・
いわゆる祭壇がなく、完全に仕切られています。
肉声で歌う・・・つまりパイプオルガンはなし。
椅子もありません。
ギリシャ正教では立ってミサを行います。
原罪論は基本的になく、神は人間を善なるものとして創造したということ。
神は知ることができない。
イコンはOK、でも立体像は禁止。
聖職者の妻帯を認める。(ただし主教は独身)
カトリックの様々な様式に慣れていると、ギリシャ正教はかなり神秘的な雰囲気に包まれますね。
「キリスト教の成り立ち」でも書いていますが、ローマのコンスタンティヌス帝が313年にキリスト教を公認して、コンスタンティノープルに都が移されるわけです。
地中海沿岸に5つの総主教座がありました。
それはエルサレム、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレクサンドリア、ローマの5都市で、この中でローマを除いた4都市がギリシャ正教会のベースになっています。
日本語では神聖正統使徒伝承東方教会が正式名称でしょうか。
東西両教会が決定的に分裂するのが1054年、ある意味で直接的にはそこから東方教会の歴史が始まるといってもいいわけですが、ベースはもっともっと前からです。
両教会の相互破門が解除され、和解に至ったのは1967年です。
ギリシャ正教は、原始教会から枝分かれし、前述した4つの都市が東方教会のベースを作り、4~5世紀頃にかけて形成されました。
カトリック以上に神秘主義的傾向が強く、教義として聖書と聖伝を遵守するわけですが、聖伝は1世紀以来の原始教会やその後の初期キリスト教から継承されたとされています。
つまり正統にキリスト教の伝統を受け継いでいる・・・なので正教会というわけです。
ギリシャ正教では前述した4大総主教区のコンスタンティノープル(現イスタンブール)の総主教は、エキュメニカル総主教と呼ばれ、カトリックのローマ教皇に当たるわけですが、ローマ教皇のように絶対的権力はなく、名誉的なものです。
聖職者の名称もカトリックでは・・・
副助祭、助祭、司祭、司教、大司教、枢機卿、教皇
正教会では・・・
主教、司祭、輔祭で、このうち主教は各教庁の伝統や規模に応じて
総主教、府主教、大主教、主教と4つあります。
教会の建築様式もカトリックの教会とは全く違います。
何と言ってもドームが使用され、正十字形に作られます。
この教会でもドームが見られますね。
ここでちょっとギリシャにある正教会を見てみましょう。
こちらはギリシャエーゲ海
最大の島クレタ島のイラクリオンに建つ、アギオス ミナス教会です。
ギリシャに行けば、至る所にこのようなドーム建築の教会を見ることが
できます。
こちらはギリシャエーゲ海のサントリーニ島の内陸にあるExo Goniaの教会です。
2013年8月26日付で
「飛行機で休暇に行く時のストレス」というタイトルで書いていますが、
そこにも3枚のギリシャの写真を掲載しました。
典型的なギリシャ正教会です。
キリスト教の3大宗派と言えば、カトリック、東方正教会、プロテスタントです。
オーストリアは圧倒的にカトリックが多いわけですが、ウィーンはカトリックだけでなく、他の宗派や、またキリスト教以外の教会も見られます。
この時期は、ドイツ語でFasching (ファッシング)つまり謝肉祭の時期です。
謝肉祭はカーニバルと日本でも言われることもありますが、中世ラテン語のcarnem levare (ドイツ語ではFleisch wegnehmen・・・直訳で肉を取り上げる)、またはcarne vare(肉よさらば)から来ているという説が一般的でしょうか。
他の説としては、冬を追い払って春の到来を祝う古代ゲルマン民族の習慣に由来し、その農耕祭で船を仮装した山車carrus navalis(車・船の意)を由来とする説などもあるようです。
Fasching(謝肉祭)はFastenzeit(ファステンツァイト)、日本語で四旬節の前です。
四旬節は、灰の水曜日からイエス・キリストが磔になりその後復活する前日までの時期で、伝統的には食事の節制、祝宴などの自制をし、祈り・断食・慈善が基本となります。
ドイツ語でOstern (オステルン)これが日本語では復活祭と訳されています。
復活祭の習慣についてはまたその時に書きたいと思いますが、復活祭は移動休日です。
復活祭は今年2014年は、4月20日の日曜日です。
そこから日曜日を除いて40日間遡った日が、Aschermittwoch (灰の水曜日)で、今年で言えば3月5日です。
その前日の今日3月4日火曜日がFaschingのクライマックスです。
この40日間はイエスが荒野で断食をした長さですね。
紀元600年頃にどうやらローマ教皇グレゴリウス1世が復活祭前の断食時間を定めたようです。
そのため謝肉祭は厳粛な時がやってくるのでそれに伴って断食を・・・その前にバカ騒ぎをしようじゃないか・・・という意味があるわけです。
謝肉祭はいつから始まるかというと・・・ドイツ語圏ではたいてい1月6日の聖三王の日(Heilige Drei Könige)からというのが一般的でしょうか。
グレゴリオ1世の時代の謝肉祭は、四旬節が現在より6日遅かったようです。
11世紀終わりに四旬節の初日が灰の水曜日に定められ、12世紀には現在の長さになっていたようです。
また場所によっては11月11日11時11分から謝肉祭が始まる所もあるようですが、これは19世紀以降に登場した習慣です。
11月11日と言えばウィーンの場合クリスマス市すらまだオープンしていません。
これからクリスマスが来るまで街が盛り上がるわけで、その時に謝肉祭の雰囲気は全く感じません。
この時期には家庭内、街のレストランや店内にはちょっとした飾り付けが多く見られます。
そして謝肉祭の最終火曜日に近づくと、街中でも仮装した人を多く見ます。
スーパーの店員さんなどもその時期仮装している人も多いです。
また、幼稚園、小学校でもFaschingパーティーが行われ、子供達が仮装して登校します。
ウィーンは数多くのユーゲントシュティール様式を見ることができますが、その中でも特に重要な建築のひとつであるアム・シュタインホーフ教会があります。
この教会は、以前にもこのコーナーでも紹介したオットー・ヴァーグナーによるもので、ウィーン14区の「Sozialmedizinisches Zentrum Baumgartner HöheOtto-Wagner Spital und Pflegezentrum」という精神病院敷地内奥の小高い所に建っています。
この病院はもともと1904~1907年、低部オーストリア州立の神経・精神病患者のための治療と介護施設の「Am Steinhof」ということで建てられました。
ここは当時この分野ではヨーロッパ最大であり、最もモダンな施設でした。
オットー・ヴァーグナーは教会だけでなく、この施設のプランにも携わりました。
宗教的には聖レオポルド教会ですが、Kirche am Steinhof (シュタインホーフ教会)という名前の方がはるかに知られています。
1907年10月8日 フランツ・フェルディナント
皇太子によってオープニングが行われました。
フェルディナント大公は、ユーゲントシュティール自体に興味がなく、オットー・ヴァーグナーとはプランの段階から意見が異なっていました。
そのためオープニングセレモニーではヴァーグナーの名前も挙げられず、ハプスブルグ家
からは依頼も入らなくなりました。
金が貼られたドームが印象的で、歴史的建築様式で作られている教会とは全く異なった雰囲気です。
このドームに使われている金はたったの2kg です。
当時様々な建築様式が出揃っていた歴史主義時代から見ると、とても考えられないスタイルで作られています。
オットー・ヴァーグナーは時代に相応しいスタイルと鉄骨、ガラスといった素材を使い、
その時代19世紀終わり~20世紀初頭に相応しい芸術を考えました。
芸術は鑑賞されるだけのものではない・・・ちゃんと使われてこそ意味があるものであり、その機能性にも美しさがなければいけない・・・という画期的なコンセプトで、ウィーンの街に新しい風を吹き込ませたのです。
そのためこの教会も通常とは全く違うコンセプトで作られました。
こちらは教会内部メイン祭壇に向かっての光景です。
オットー・ヴァーグナーは精神病の患者達によって
使われる・・・という目的を念頭に置いてプランしたので、通常の教会では全くあり得ないことがこの教会ではたくさんあります。
例えば・・・
トイレ、医務室、非常口も
作られ、ミサ中などに患者が椅子にぶつけて怪我をしないよう角をまるくしたり、
衛生面を考え、聖水を常設ではなく、水道の蛇口のように水がしたたり落ちるように作り、また患者が後ろからもよく正面がよく見えるように、祭壇に向かって床が下り坂になっていたり・・・などと様々な角度から使う人の立場を考えています。
また当時の精神病分野の規定で、男性患者、女性患者は分けられていたため、この教会の入口も男性患者用、女性患者用とあります。
更に教会内の清掃も考え、床に直接水を流しても、教会椅子の木が水に触れないように工夫されています。
教会建築では、基本的にメイン祭壇が東を向き、入口が西側に作られるという特徴がありますが、このアム・シュタインホーフ教会では、メイン祭壇が北向き、入口が南側に作られています。
これは、東から登る太陽が、西に傾くまで、一日中教会内に光が入ることを考えています。
こちらは教会内部のステンドグラスです。
これはオットー・ヴァーグナーのプランにより、コロマン・モーザ―によるものです。
コロマン・モーザーは、クリムトと共にウィーンセセッションの初代設立メンバーのひとりでも
あり、1903年にはヨーゼフ・ホフマン、
フリッツ・ヴェルンドルファーと共にウィーン工房も設立した画家であり、工芸家でもある芸術家です。
このアム・シュタインホーフ教会は、ウィーン中心からはかなり離れた所にあり、しかも入場できる時間がとても限られています。
この教会は中に入って初めて、オットー・ヴァーグナーのコンセプトに驚かされます。
普通に案内無しの自由見学も時間内であればできますが、ここは案内があった方が絶対におもしろいです。
ガイドツアー
毎週土曜日 15:00 毎週日曜日 16:00
内部見学
毎週土曜日 16:00~17:00
毎週日曜日 12:00~16:00
https://www.wienkav.at/kav/ows//ZeigeText.asp?id=2273
ウィーンのシュテファン大聖堂は素晴らしいゴシック建築です。
シュテッフェルと愛称で呼ばれている、南塔は高さ約137mで、とても印象的な形で、天を突き刺すようですね。
このシュテファン大聖堂は第2次世界大戦時に屋根に火が燃え移り、この巨大な屋根が焼け落ちてしまいました。
その時に当時からあったステンドグラス、パイプオルガン等がほぼ全壊してしまいました。
そのため、ゴシック様式だから素晴らしいステンドグラスが見えるだろう・・・と期待して大聖堂に入ると中のゴシック様式の教会独特の敬虔な雰囲気には圧倒されますが、ステンドグラスに関してはちょっと悲しいものを感じます。
この素朴なステンドグラス(?)は、戦後に、オーストリアのチロル州からの寄進によるものです。
もっともゴシック時代14~15世紀のステンドグラスは、バロック時代には、時代に相応しくないということから取り外され、19世紀になってから再びはめ込まれました。
この写真はシュテファン大聖堂の初期バロック様式のメイン祭壇です。
この大聖堂に奉られている聖シュテファヌスが投石にあっている場面が描かれています。
このメイン祭壇の後ろには、中世の頃のオリジナルのステンドグラスがはめ込まれています。
現在のシュテファン大聖堂内で「中世の頃の当時のステンドグラス」
ということであればこのメイン祭壇の裏側だけに見ることができます。