こちらは最新から遡り100の「オーストリアの名所」が掲載されています。
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ウィーンのリンク道路沿いには様々な建築様式の荘厳な建物が多く並んでいますが、中でも市庁舎はこの時期ウィーンに来られた方は必ず訪れるでしょう。
建物が素晴らしいだけでなく、ヨーロッパでもっとも華やかとされるクリスマス市が開かれているからです。
フランドル風ゴシック建築の市庁舎は地元の人にとってはお役所でありながらも、生活の中での憩いの場でもあるんですね。
市庁舎の公園では常にくつろいでいる人を見かけますし、また年間を通してここではクリスマス市を始め様々なイヴェントが開かれます。
今日はおそらく地元の人でもあまり入る機会がない、しかし地元で有名なこの市庁舎の中にある"Festsaal"(フェストザール) をお見せします。
市庁舎は1883年にリンク道路時代の有名な建築家Friedrich Schmidtによって建てられました。
市庁舎の横から中に入ると美しい中庭空間に出ますが、そこまで行かずに建物の中の階段を上がって行くと2階(と言ってもかなり階段を上がって行きますが)にこの美しいFestsaal (フェストザール)があります。
19世紀終わりまでこのフェストザールはオーストリアで一番大きな空間でした。
ここに入ると内部建築の美しさに息を呑むばかりです。
市庁舎はゴシック様式ですが、内部空間ももちろんゴシック様式のアーチがふんだんに使われています。
この2階部分はヴェネツィア的ゴシックの幅の狭い窓が並んでいます。
ここには16のシャンデリアがありますが、これは建築家が自らデザインしたもので、ひとつの重さが260kgです。
当時からガスと電気の両方で機能するように注文されました。
ここでは1890年2月12日に最初の舞踏会が開かれましたが、今でもここで数種類の舞踏会が開かれています。Festsaalの大きさは長さ71m、幅20m、高さ18.5m、広さ1.450m²です。
ウィーンに初めて観光で訪れた方はまずシェーンブルン宮殿は行かれるでしょう。
シェーンブルン宮殿はヨーロッパでも重要なバロック建築であり、世界遺産にも登録されています。
ここはオーストリアのひとつの観光スポットとしては最も多くの方が訪れます。
一般団体ツアーでもシェーンブルン宮殿はたいてい観光ポイントに入っています。
ここは庭園も広くて色々な観光スポットがあり、シェーンブルン宮殿だけで余裕で1日過ごせます。
一般団体ツアーの場合は、宮殿内部の見学をした後、フリータイムを取るのが普通で、その時にほとんどの皆さんは庭園に行かれるわけですが、団体ツアーの場合は他の観光内容が詰まっているのでせいぜい30分ぐらいしか時間がありません。
庭園に行くと岡の上にはグロリエッテが見えていて、あそこまで行きたいな・・・という気持ちにさせてくれますが、宮殿見学を終わって集合時間まで30分なので、庭園に行けてもグロリエッテまでは全速力で走らない限り、とても行く時間はありません。
グロリエッテは、庭園内最後の建造物として、ホーエンベルクによって当初は栄誉神殿と素晴らしい眺めを念頭にプランしたようで、完成は1775年です。
いくつかの不条理な戦争に勝利したことにも捧げられています。
グロリエッテの中央上の部分には、単頭の鷲が置かれています。
ラテン語で、「皇帝ヨーゼフ2世とマリアテレジアの治世の下で」という意味が記されています。
全体の長さ135.3m、高さ25.95m,幅14.6mです。
下から見てる以上に大きいものです。
オーストリアにあるマウトハウゼン強制収容所(KZ Mauthausen)は御存知ですか?
KZはドイツ語のKonzentrationslagerの略で強制収容所の名前の頭に用いられます。
日本で"強制収容所"と聞けばおそらくアウシュヴィッツを思い浮かべる方が多いでしょうか?
強制収容所はミュンヘン郊外のダッハウを始め、ヨーロッパ中に作られ、基幹強制収容所(Stammlager)の他にそれらに属する外部強制収容所(Außenlager)、小さな収容所も含め、少なくとも20人以上を収容し、1カ月以上存続していた収容所の数は4万2千を超えると言われています。
オーストリアには強制収容所はMauthausenをStammlagerとして41箇所もあり、ウィーンにも4カ所ありました。
マウトハウゼン強制収容所はオーストリアでは最大の、尚且つナチス軍により最も残虐な強制収容所であるランク3に位置付けられていました。
マウトハウゼン強制収容所はこの歴史的残虐行為を後代に伝え、多くの犠牲者の慰霊も兼ねて無料で一般公開されています。
マウトハウゼン強制収容所はKZ-Gedenkstätte Mauthausenとしてウィーン中心部の国立オペラ座から車で167km、2時間程走ったリンツを州都とするOberösterreichの一角にあります。
公共交通機関の国鉄、バスを利用しても行けますが2時間半~3時間以上かかります。
ここに着いたらまずインフォセンターに行きましょう。
収容所内の地図をもらえますのでこれは絶対に必要です。
田舎道を走って収容所入り口に来ると、大きなお城のような壁が目立ち、よくイメージされる陰気で憂鬱な残虐な雰囲気はあまりありません。
アウシュヴィッツとは全然違います。
ここを歩くと分かりますが、気軽に散策を楽しめるような雰囲気に意図的に作られて演出されている気がします。
大量虐殺があった歴史的犯罪行為をしっかり後代に伝える、当時の様子を上手く残しながらしかしオーストリアの郊外にあるようなのんびり散策が楽しめるアトラクション的な要素を取り入れています。
生々しい残虐行為を精神的にケアーしながらしっかり事実を伝えるわけですね。
写真には見られませんが、右側には明らかに新しい建物があり、そこにインフォセンターがあります。
この部分はかつてのSS(Schutzstaffel...ナチス親衛隊)の領域でした。
ここで地図をもらいましょう。
有料ですがオーディオガイドも借りられ、また優秀なアプリ(iOS、Android)もあるのでここでじっくり時間を取れる方はアプリをインストールしておきましょう。
ただ、どちらも日本語はありません。
見学のお勧めルートはアプリや地図にある通り、まず壁の外側を歩いて行きましょう。
この位置からだと収容所の門みたいなものが見えるので、ここから入りたくなってしまうかもしれませんが、ここは出口になるので入ることは出来ても入らずに外側を壁沿いに歩いて行きましょう。
この壁は強制収容所とSS領域を分けていたもので、囚人たちはこの壁の中に保護拘禁されていました。
残虐な行為がくり返し行われたのはほぼこの中です。
左側の緑地帯には木が植えられていますが、そこは大量殺人があったかつてのSanitätslagerです。
壁の終わりまで歩くとルートが右に折れます。
すると記念像のようなものがたくさん並んでいる広々とした空間に出ます。
この空間はDenkmalparkで、ここに閉じ込められていた囚人達の国が、様々な慰霊碑を立てています。
オーストリア、ドイツ、オランダ、ポーランド、イギリス、かつてのソ連、スペイン、イタリア、かつてのユーゴスラヴィア、ハンガリー、ブルガリアなど国際的です。
この領域はのんびり散策をしながらそれぞれの国が建てた慰霊碑を見てみましょう。
この領域から囚人たちが強制労働を強いられた石切り場(Wiener Graben)が見られ、有名な死の階段も生々しく残っています。
50kgもの花崗岩を背負ってこの階段を上らされたわけです...。
Denkmalparkを抜けて行くと収容所に入る入り口が見えます。
この右側には司令部の建物が当時のまま残されています。
ここに連行された囚人達はこの入り口から収容所内に入り、持っているものを全て置き、並ばされて最初の嫌がらせが行われながら建物の地下に行かされました。
そこでは髪の毛などを全て剃られて、シャワーを浴びせられ、用意された囚人服に着替えてブロックに連れて行かれるわけですね。
マウトハウゼン強制収容所でよく紹介される光景です。
囚人たちのブロックが左側に並び、右側には洗濯ブロック、厨房、刑務所、病棟、この大きな真ん中の広場が有名なApellplatzで、毎日3回は囚人達が無意味に並ばされて点呼が行われました。
囚人達のブロックは5戸x5列分の24戸ありましたが、現在残されているのは2戸で、右側同様中に入ることができます。
いじめ、嫌がらせは毎日のこと、そしてもちろん殺人も頻繁に行われました。
解放前の数か月だけで45.000人が命を奪われ、1日200人のペースで殺されて行きました。
左側奥はかつてのブロックは壊されていて、緑地帯になっていますが、どこに建物があったかハッキリ分かり、ユダヤ人が閉じ込められていた場所、遺体を火葬炉で焼き、そこからから出てきた灰をまいた場所、後に作られたテント領域も見られます。
ここに見られる当時を再現した電気有刺鉄線(380V)も生々しさを物語っています。
囚人ブロックの奥は囚人達が今でも埋葬されているお墓であるLager2、Apellplatz奥の行き止まりの壁の奥はLager3です。
右側置くのかつての病棟は1階、地階が博物館になっていて、ここでマウトハウゼン強制収容所についてもっと深く知ることができます。
ここでは必ず地階に行きましょう。
この病棟と隣接している刑務所の地階に火葬炉が3つ(No.2はナチス軍が証拠隠滅のため取り外した)、ガス室、死刑場などが今でも生々しく残り、多くの慰霊が捧げられています。
また”Raum der Namen” という空間があり、ここで、もしくはここに属するGusenなどの外部収容所で亡くなった人の名前がぎっしり書かれています。
Mauthausen強制収容所は1938年8月8日~1945年5月5日にアメリカ軍に開放されるまでに190.000人が収容され、90.000人以上が虐殺されています。
ここはゆっくり見学することをお勧めします。
前述したように日本語は残念ながら全くありません。
ウィーンからの日帰りツアーが可能で、お勧めは専用車との観光で7時間全日観光で、3時間弱ここに滞在できます。
電車を利用した公共交通機関だと9時間~10時間あった方がいいでしょうか。
私が御案内しますので御興味ある方はお問い合わせ下さい。
ウィーンに来られて大観覧車に乗ったことはありますか?
ウィーンを象徴するものはたくさんありますが、この「大観覧車」もそのひとつです。
何と言っても往年の映画「第三の男」に登場し、映画に素晴らしい効果を与えていました。
この大観覧車は、映画よりも古く、1897年イギリスの技師 Walter Basset によって作られました。
最高点が約65m、ゴンドラの数は15台、一周約20分、材質は鉄、木、ガラスです。
このゴンドラは一台20~25人まで乗ることができるとても大きなゴンドラです。
私は今まで、計24人で一台のゴンドラに乗ったことがあります。
でも現在では安全性のことも考えられ、一台10人前後までとなっています。
映画「第三の男」は、1949年にウィーンで撮影され、キャロル・リード監督、オーソン・ウェルズとジョゼフ・コットンが主役として登場します。
オーソン・ウェルズが映画ではハリー・ライムという悪役で登場し、彼はペニシリンを水増しさせ、闇で儲けていて指名手配中になっていました。
そこへ長年の親友である、ジョゼフ・コットン(映画ではホリー・マーチンス)が親友に会うためにウィーンへやって来て、ハリーに会う・・・という話です。
ウィーンに来てみると、親友のハリー・ライムが亡くなっていると聞かされショックに陥るマーチンス・・・でも話を聞いていくうちにおかしい・・・誰か別の人間がいるな・・・そこで映画のタイトルは「第三の男」です。
最初はハリー・ライムが中々姿を見せないんですね。
でもハリーはこっそりマーチンスを尾行します。
ハリーが生きてることがわかり、この2人がウィーンで再会するのが、この大観覧車の前だったんです。
そこで2人がこの大観覧車に乗り込んで、ハリーがマーチンスに悪の道に誘います。
この時大観覧車はもちろん回っていて、しかもハリーが、ゴンドラの内側から扉を開けて、ここから飛び降りるか・・・何てシーンも登場します。
もちろん現在の大観覧車はゴンドラ内側から扉を開けることはできません。
この映画では、ウィーンの街が万華鏡のように登場し、今見ても十分楽しめる白黒映画です。クライマックスはウィーンの街の地下下水道の迷路が効果的に登場し、本当のラストシーンは中央墓地の並木道です。
当時のオーストリアは第2次世界大戦が終わって、連合国の占領時代でした。
そのため映画の中には、瓦礫の山、また冒頭に一台のジープに4ヵ国の兵士が乗っているというシーンも見られ、この映画にまた別の効果を与えています。
この大観覧車がある場所は、地元で有名なプラター公園です。
ここはウィーンの森を除いて、ウィーン市では一番緑が多い場所で、6km²という広さで、直線約4.5kmの並木道があることでも知られています。
そこにはかなり楽しめる遊園地も作られていて、その中に堂々と、この大観覧車が動いています。
復活祭が終わって一挙に春になった気がします。
それどころか日中の気温が27℃にも達し、夏になったようなウィーンです。
緑がどんどん多くなり、色々な所に出かけたくなります。
でも今日のウィーンは曇りで気温も14℃と下がっていて風が強く吹き荒れています。
うちのお気に入りのスポットのひとつに"Blockheide" (ブロックハイデ)があり、ここは毎年数回は行きますが最近今年になって初めて行ってきました。
BlockheideはNiederösterreichのWaldviertel(ヴァルトフィアテル)の一角にあるオーストリアの自然公園のひとつで、チェコとの国境に隣接するオーストリアのGmünd(グミュント)の目と鼻の先にあります。
ウィーンからは車で約140kmと結構離れていますが歴史的にも重要な場所で、新石器時代からの跡が確認されていて地元でも有名です。
ここは入口が2ヵ所ありますが、うちはいつもこの写真に見られる入口から入りますが、車はここから数百メートル歩いた所の駐車場に止めます。
こちらからの方が自然公園内にあるInfoセンターや展望台に近いんですね。
上の写真はこのBlockheideの見取り図で4つの散策コースがあります。
GRANIT-TOUR (2,9 km)
MYTHOlogieTOUR (3,5 km)
LANDSCHAFTSkulTOUR (2,8 km)
MARIENKÄFERWEG (5,6 km)
上からそれぞれ花崗岩コース、神話コース、風景コース、てんとう虫コースです。
中に入ると草原地帯、池、森、そして一番重要なこの自然から形成された巨大な石の塊をいくつも見ることができます。
この巨石は写真で見ると簡単に登れるように思えますが、巨石が垂直に近い勾配であり、足場がないためほとんどの人は上ることができません。
長閑な自然の中を歩き、ちょっと森っぽくなっている所に足を踏み入れると、巨大な石がたくさん置かれているのに驚かされます。
これらの巨石はもちろん自然に置かれたもので、人工的に置かれたものではありません。
この辺りは"Bömische Masse"(ベーミッシェ・マッセ)と呼ばれ、現在ではオーストリアの国境界隈からチェコを含む地域です。
古生代(約5億4200万 - 約2億5100万年)に形成された山脈の残りとなっています。
つまり、この巨大な石はそれだけの年月が経っているということになります。
豊かな緑、森林地帯がコースになっていて大きな池もあります。
巨大な石は一箇所に集中してわるわけではなく、それぞれ散らばってたくさん横たわっています。
うちはいつもおにぎりを持って行きこの自然公園のどこかで食べる習慣があります。
自然公園内にはくつろげるベンチやテーブルなどが多く設置されていて、自然保護地域としてよく手入れされています。
ここは自然と歴史、特に地質学的にも非常に面白い所です。
今回ここに掲載したBlockheideの写真は2024年3月29日に撮影したものです。
"森の都"とも形容されるウィーンの街は緑が多いことで知られていますが、その緑を囲むもっと広大な緑がウィーンの森です。
ウィーンの森には重要な見所が多く点在していますが、"悲劇のマイヤーリンク"として知られるマイヤーリンクは、ルドルフ皇太子の一番のお気に入りの場所であり、彼が狩猟の館として入手していました。
その場所で1889年1月30日、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とピストル心中自殺をしてしまうショッキングな出来事がありました。
息子が自殺した後、父親のフランツ・ヨーゼフ1世が、皇太子が自殺をしたと言われる場所を中心に取り壊し、礼拝堂を作らせました。その礼拝堂は今もひっそりと立っていて、礼拝堂に隣接してちょっとした博物館になっていました。
そのマイヤーリンクも改装されて2014年10月9日からリニューアルオープンし、今年で10年を迎えます。
(ちなみに改装中も礼拝堂の見学はできました)
改装前のマイヤーリンクへは1日に2回行くことも多く、今でも当時の様子をはっきり覚えています。
改装以前は直接礼拝堂に行って係に扉を開けてもらっていたのですが、改装後は駐車場の前に新しく建てられたインフォセンターがあり、そこで入場料を払って見学が始まります。
見学はもうこのインフォセンターから始まっていて、当時の資料や、かつて、上の礼拝堂の横の建物に展示されていた写真などがここに移されています。
そのインフォセンターを抜けていよいよ上にある礼拝堂へ向かって歩いて行きます。
ちなみにこのインフォセンターを出るとすぐ左側に無料で使えるトイレが設置されました。
以前ここにはトイレがなかったので、そういう意味ではとてもありがたいです。
綺麗に整備された道を礼拝堂に向かって上って行きます。
礼拝堂の扉は閉まっていますが、鍵はかかってないので勝手に扉を開けて中に入ります。
礼拝堂内は以前と何も変わりませんが、主祭壇に向かって左側の空間を仕切るガラスが外されて、エリザベートの祭壇などは直接見られるようになっています。
主祭壇に向かって右側から・・・つまり礼拝堂を出るとすぐに博物館が始まります。
上の写真に見られる空間に入ります。
当時の狩猟の館の模型や皇太子の写真、皇太子の親しい御者のブラート・フィッシュや執事のロシェックの写真、
またマリー・ヴェッツェラやマリーのお母さんのヘレーネ、マリーと皇太子の間を取り持ったラリッシュ侯爵婦人の写真などが展示されています。
その奥に行くと、右上の写真に見られるように、真ん中のガラスケースには、皇太子が自殺した時に使用した同じモデルのピストルが展示され、その中には、狩猟の館時代に皇太子の自殺した2階の寝室に敷かれていたオリジナルじゅうたんが展示されています。
そこを出るとこの悲劇を描いたクロード・アネの小説、フランツ・ヨーゼフの肖像画などがあり、途中にカルメル会に寄付できるスペースが作られています。
ここに出口があるので外に出られますが、もっと奥まで進みましょう。
そこにはマリーの柩や、興味深い資料が展示されています。
マリー・ヴェッツェラのお墓も御覧下さい。
先程の出口から出てもいいですし、礼拝堂から出てもいいです。
短いですが先日このマイヤーリンク動画編を掲載しているので御興味があればどうぞ。
いよいよ今日がクリスマスですね。
例年通り今年もやっぱりクリスマスは気温が高めで、日中12℃ぐらいになりそうです。
ここ数日は雨も多く強風が吹き荒れてるウィーンですが、クリスマス・イブの今日も風が強く吹いています。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の昼過ぎには部屋に入れてネットを外して飾ろうと思います。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イブの話題にしたいと思います。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後
「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
皆さんも良いクリスマスを!
Frohe Weihnachten!
最近はオーストリア国立図書館のPrunksaal(プルンクザール)をよく訪れます。
一般ツアーで定番な観光場所以外に色々開拓しようという試みを感じます。
国立図書館と言っても本を貸し出ししているわけではなく、ハプスブルク家の膨大な書物を一カ所にまとめておこうという発想で作られたもので王宮の一角にあります。
このオーストリア国立図書館に属する「Prunksaal」(プルンクザール)は世界でも最も美しい図書館のひとつということで近年訪れる方が急増しています。
Prunkは、豪華、華麗という意味のドイツ語です。
このプルンクザールは建築家フィッシャー・フォン・エアラッハのプランにより、その息子のヨーゼフ・エマヌエルによって1723~1726年に作られ、皇帝図書館の最も重要な空間です。
ここに書物をまとめようという発想はマリア・テレジアのお祖父さんのレオポルド1世の治世からありましたが、
完成はもっと後であるマリア・テレジアの父、カール6世がスペイン継承戦争とオスマントルコ戦争後に作らせました。
ちなみにカール6世はオーストリアバロック時代の全盛期の皇帝で、カールス教会も彼が作らせた重要な建築です。
この空間に入った瞬間に時が止まり、驚きの18世紀バロックの宇宙空間が広がります。
全体的に長方形で、中心にバロック特有の楕円ドームが置かれ、素晴らしいフレスコ画が施されています。
その空間の中央にカール6世の像が置かれています。
長さ77.7m,幅14,2m,高さ19.6m,楕円空間部分は18m×29.2m,高さ29.2mです。
この豪華図書館の左右にはいわゆる本棚があり、1730年から19世紀に至るまでの手書きや印刷された本や地図、楽譜、貿易書、グラフィックなどの王宮図書館に所有されている書物や地球儀が置かれています。
約200.000冊の蔵書で、その中には約15.000冊のプリンツ・オイゲンが所有していた蔵書もあります。
この素晴らしい楕円空間の天井フレスコ画はダニエル・グランによって1730年に完成しています。
中央には右手に長細いピラミッドを手にした栄誉をを表す人物像が見えます。
ピラミッドは栄誉不滅を意味しています。
その下にはヘラクレスとアポロがカール6世のメダルを持って描かれています。
このプルンクザールの入口は王宮のヨーゼフ広場に面した所で、若干分かりにくいかもしれません。
入ると入場券売り場があり、左側の奥の階段を上り日本式の2階にあります。
ここは必見です!
先日久しぶりにリンツで仕事をして、その後ライブオンラインツアーVol.170もリンツから行いました。
リンツにはザルツブルクほどではありませんが、仕事でもプライベートでも何回も来ているのですが改めていい街だと思いましたね。
今更ですが振り返るとリンツについてはなぜかあまり話題にしていませんでした。
先日中央広場を紹介しましたが、今日は新大聖堂についてお話しましょう。
リンツ(Linz) はOberösterreichの州都でウィーンから西に直線距離で150km(車だと185km)に位置し、ドナウ河に面した歴史ある美しい街で、オーストリアではウィーン、ザルツブルクに次いで3番目に人口が多い街です。
Oberösterreich (OÖ)全体では約150万人、リンツは21万人(2023年現在)の人口です。
紀元前400年ケルト人が現在のリンツやその周辺に集落を築き、ケルト人達はLentos、古代ローマ時代にはLentiaと呼ばれました。
基本的な見所は旧市街で、国鉄ÖBBリンツ中央駅から2kmの所にあります。
新大聖堂は中央広場から少し駅側の方に離れた所に立っています。
新大聖堂はNeuer DomとかMariä-Empfängnis-Domとも呼ばれていて、1855年にリンツの司教Franz Joseph Rudigierにより12月8日のMaria Empfängnis...無原罪の御宿りの感謝に意を添えて建設が決定されました。
新大聖堂ということは旧大聖堂も存在していて、そちらの方は中央広場に近い所にあり、歴史も古いです。
1862年に建設が始まり、1924年5月1日に聖母マリアに捧げられた教会として奉納されました。
最終的な完成は1935年で、プランは建築家Vincenz Statzによるもので、フランス風ではなく、ベルギー・オランダ風ゴシック建築です。
リンツの新大聖堂はオーストリア最大の教会であり、ウィーンのシュテファン大聖堂よりも大きいです。
しかし、塔の高さは135mと、シュテファン大聖堂よりも2mほど低くなっています。
全長130m、メインの屋根の高さ44m、幅27.5m、身廊の幅13.5m、翼廊の長さは60m、窓の数は142枚、柱の数は54本です。
この場所に来るとわかりますが、あまりにも大きくて全体がかろうじて映せる場所が限られています。
街の中心ではありませんが、とにかく荘厳で物凄い存在感を示しています。
塔の部分がライトアップしているように見えるかもしれませんが、朝陽に照らされています。
この日は早朝にウィーンの中央駅からrailjetでリンツに向かい、6:43にはもうリンツに着きました。
夏時間であったためまだ暗かったので軽く朝食を食べた後、街を散策しました。
この日は朝から青空が広がるいい天気で、この角度で朝陽が当たることが分かっていましたからそれに合わせてここに来ました。
大聖堂の中も圧巻の大きさで、20.000人収容できます。
美しいゴシック様式のバシリカ建築です。
ステンドグラスもとても美しく、1日中光が教会内に差し込みます。
この大聖堂の光の入り方は他の教会とちょっと違います。
それは教会が南向きに建築されているからです。
写真に見られる主祭壇は南向きであり、左が東なので右の西に向かって太陽の光が1日中教会の長い部分を照らします。
そのためここのステンドグラスは非常に美しいです。
特に有名なステンドグラスはLinzer Fensterと呼ばれるリンツの歴史をテーマにしたものです。
リンツに来たらここは外せません。
かつての帝国の都であったウィーンの街は荘厳で優雅な建造物に囲まれています。
街を普通に歩くだけで十分楽しめます。
中心部や周辺地域は世界遺産にも登録されて、言ってみれば街全体が博物館のようです。
それでいて今のウィーンがあり、地元の人が生活を営んでいます。
昔と今が交差する街・・・それがウィーンなのです。
普通に現在の生活があるわけですから、中心部でも商店街、スーパーなどももちろんあります。
今日はこのスーパーを見て下さい。
こちらはリンク道路沿いのSchttentorにあるSchottengasseにある建造物です。
この界隈に来るとひときわ目立ちます。
これはErnst Gothilf とAlexander Neumannによってセセッション的新古典主義様式で1912年に建てられました。
もともとこの場所にはリンク道路時代に建てられた別の建物がありましたがそれを取り壊してこの大きな建物が建てられました。
この建物は2016年までBank Austriaの本店でしたが、今は違います。
この1階の所にスーパーマーケットのINTERSPARが入っているんですね。
大きく書いてあるわけではないので外からはあまり目立ちません。
この建物の入り口付近であっ! ここがINTERTSPARなんだと分かります。
以前の銀行だったこともあり、入り口にセキュリティーのような係もいて、え、入って大丈夫なの?という空気が漂います。
もちろん堂々と入って下さい。
美しい洗練された空間にスーパーが広がっています。
ウィーンの日常生活を垣間見ることができますね。
この立派な建造物とスーパーというギャップが面白いです。
この界隈に来たら是非立ち寄って見て下さい。
建築様式を見るだけでも十分価値があります。
昨日久しぶりにリンツに行きました。
仕事の後にライブオンラインツアーVol.170もリンツから行いました。
何回もリンツに行ったことはあるのですが、ここからライブをしたことがなかったので、昨日はいい機会で参加者の皆さんからも好評を頂きました。
リンツ・・・今までザルツブルクほどではありませんが、仕事でもプライベートでも何回も来ているのですが、改めていい街だと思いましたね。
このコーナーではどうしてもウィーンのことが多くなりますが、せっかくリンツに行ったので今日はリンツを話題にします。
リンツ(Linz) はOberösterreichの州都でウィーンから西に直線距離で150km(車だと185km)に位置し、ドナウ河に面した歴史ある美しい街で、オーストリアではウィーン、ザルツブルクに次いで3番目に人口が多い街です。
Oberösterreich (OÖ)全体では約150万人、リンツは21万人(2023年現在)の人口です。
紀元前400年ケルト人が現在のリンツやその周辺に集落を築き、ケルト人達はLentos、古代ローマ時代にはLentiaと呼ばれました。
基本的な見所は旧市街で、国鉄ÖBBリンツ中央駅から2kmの所にあります。
リンツを観光する上でまず目指したいのがHauptplatz...中央広場です。
この中央広場(Hauptplatz)は220m x 60mの圧巻の大きさで、ヨーロッパでもっとも大きくかつ美しい広場のひとつとして知られています。
この広場に来たら思わずカメラを向けたくなると思います。
この広場は1230年頃に中世から中心になっていた場所が十分な広さではなくなったため、東側に拡張されて置かれたものです。
南北のSalzstraßeと東西のドナウ河の水路が交差する重要な広場となりました。
奥の方に2つのBrückenkopfgebäudeという1938-1943 Roderich Fickによるネオ新古典主義の建物(もの)がありますが、その奥にドナウ河が流れています。
この広場の真ん中にはAntonio Beduzzi(おそらく)のプランによる三位一体像が立てられています。
これはウィーンのグラーベンにあるペスト記念柱を参考にしたと言われています。
現在でも歩行者、自動車、路面電車も走るリンツの街の中心です。
広場を眺めるだけでなく、是非時間をかけてゆっくり歩いてみましょう。
歴史を感じる重要な建物が多くありますよ。
ヴァッハウ渓谷は全長2.800km以上あるドナウ河の最も美しい所であり、船下りの名所として人気があり、また世界遺産にも登録されています。
ここには色々な街がありますが、やっぱりヴァッハウ渓谷の定番の街と言えばデュルンシュタインでしょうか。
デュルンシュタインと言えばこのかつての聖堂参事会修道会、古城ホテル、そして廃墟のお城であるクエンリンガー城がひとつに収まる光景は有名ですね。
このアングルは船下りをして船がここの船着き場に停まる時にしか見ることができません。
この時は船の進行方向右側最後尾から写真を撮るといいでしょう。
こんな角度からも見ることができます。
これは1枚目の写真とは正反対で、街の少し高い所から見ています。
ここからだと古城ホテルはほとんど見えませんが、右側に塔のようなものが見えていますが、ここが古城ホテルの一角です。
この眺めを見ようと思ったら、廃墟のお城に向って少し上って下さい。
ここまでなら短時間で来ることができます。
ちょっと時間が経ってしまいましたが、今年のゴールデンウイークに久しぶりにモーツァルトのお墓に行きました。
前回ここに来たのは冬でしたかね・・・。
ウィーンでお墓と言えばたいてい中央墓地が最初に挙がります。
ここはたくさんの作曲家が眠っていますので音楽に興味がある方にとってはとても重要な場所です。
また中央墓地は映画「第三の男」のラストシーンに登場する並木道があることでも有名です。
モーツァルトのお墓は聖マルクス霊園にあり、中央墓地よりも中心からは近いですが、かなり行きにくい場所にあります。
中央墓地の開放的な雰囲気とは違い、ここは人も少なくこじんまりしています。
聖マルクス霊園(St.Marx)は1784年から約90年間墓地として使われました。
1874年に中央墓地ができるにあたって、周辺墓地と同様に閉鎖されるはずでしたが、当時のヨーロッパで貴重な
「ビーダーマイヤー様式の墓地」ということから残されました。
しかし墓地の機能はなく、墓石がそのまま並べられた公園としてウィーン市が管理しています。
中に入ってマロニエが植えられている中央並木道を上に歩いて行くと、両側にはたくさんの墓石が並んでいるのがわかります。
途中、右上の写真に見られるようにウィーンの森のような雰囲気です。
並木道の上り坂をしばらく歩くと左手奥の方に右上の写真に見られるようにモーツァルトのお墓がひっそりと置かれています。
今年の復活祭は4月9日でしたが、その日まで天気も良くありませんでしたが、翌日の月曜日は青空も広がったので、久しぶりにヒルシュシュテッテン花壇庭園に行ってきました。
意識しなかったのですが、ここもイースターマーケットが出るんです。
ウィーンでのイースターマーケットとしてはシェーンブルン宮殿やFreyungなど知られていますね。
復活祭の次の日の月曜日もOstermontagで祝日です。
青空も見られ、天気も良かったのでかなりの賑わいを見せていました。
駐車場もいっぱいで、かなり遠くに止めなければいけませんでした。
このヒルシュシュテッテン花壇庭園は言ってみれば広大な植物園のようで、広さは60.000m²もあり、24の文化小屋、温室、大きなグラスハウス3つを始め至る所にありとあらゆる植物が植えられています。
ここに掲載した写真にはあまり見られませんが、花壇庭園の至る所に復活祭のうさぎやイースターエッグが飾られていて、屋台も並んでいます。
子供達のための公園や迷路、動物達も飼育されていて実際は植物園、動物園、公園がいっしょになっているような花壇庭園です。
ウィーンの街に飾られている春咲きの花36万株、夏の花150万株、秋咲きの花6万株、そして球根花100万株がこのヒルシュシュテッテン花壇庭園で栽培されています。
ウィーン市内では味わうことができない雰囲気があり、うちはちょっと散歩をしたい時に車でよく出かけています。
ここはウィーン22区の一角に位置し、ウィーンの中心からは非常に行きづらいのですが、訪れる価値大です。
ウィーンの王宮は、それぞれの時代に様々な増改築が繰り返されてとても複雑な建築様式から成り立っているわけですが、その王宮の一角にオーストリア国立図書館に属する「Prunksaal」(プルンクザール)という、世界でも最も美しい図書館のひとつがあることで有名です。
Prunkは、豪華、華麗という意味のドイツ語です。
去年の秋から改修工事をしていてクローズになっていて、ちょうどその時期にウィーンに来られた方で、ここを訪れたい方は結構いらっしゃいました。
今年の1月1日より再びオープンしています。
このプルンクザールは、有名な建築家フィッシャー・フォン・エアラッハのプランにより、その息子のヨーゼフ・エマヌエルによって1723~1726年に作られ、皇帝図書館の最も重要な空間です。
マリア・テレジア女帝の父、カール6世がスペイン継承戦争とオスマントルコ戦争後に作らせました。
ちなみにカール6世はオーストリアバロック時代の全盛期の皇帝で、カールス教会も彼が作らせた重要な建築です。
このプルンクザールのプランは、カール6世の父皇帝レオポルド1世の時代17世紀からすでにありました。
この空間に入った瞬間に時が止まり、驚きの18世紀バロックの宇宙空間が広がります。
全体的に長方形で、中心にバロック特有の楕円ドームが置かれ、素晴らしいフレスコ画が施されています。
その空間の中央にカール6世の像が置かれています。
長さ77.7m,幅14,2m,高さ19.6m,楕円空間部分は18m×29.2m,高さ29.2mです。
この豪華図書館の左右にはいわゆる本棚があり、1730年から19世紀に至るまでの手書きや印刷された本や地図、楽譜、貿易書、グラフィックなどの王宮図書館に所有されている書物や地球儀が置かれています。
約200.000冊の蔵書で、その中には約15.000冊のプリンツ・オイゲンが所有していた蔵書もあります。
いつ見ても素晴らしい楕円空間の天井フレスコ画です。
このフレスコ画はダニエル・グランによって1730年に完成しています。
このプルンクザールの入口は王宮のヨーゼフ広場に面した所で、若干分かりにくいかもしれません。
入ると右側に入場券売り場があり、左側の階段を上り日本式の2階にあります。
ここはオペラ座からもすぐそばですし、絶対にお勧めしたいスポットのひとつです。
観光でシェーンブルン宮殿に行けば真っ先に宮殿内部を見学しますが、地元の人達は小学校の頃に行ったっきり・・・とか一度も入ったことがない、なんて方も多いです。
しかしシェーンブルン宮殿の庭園にはよく行く地元の方は多いですし、毎日来ている人もいるでしょう。
ここの庭園はゆったりとしていて、豊かな緑が広がっています。
有名なグロリエッテからの眺めや動物園などと余裕で1日過ごすことができます。
その庭園内には色々な物がありますがここに行ったことはありますか?
こちらはシェーンブルン宮殿の庭園の一角にある"ローマの廃墟"です。
このかなりスケールが大きな廃墟は、Johann Ferdinand-Hetzendorf vonHohenbergによって1778年に作られた人口的なローマの廃墟です。
この廃墟はGiovanni Battista Piranesi (1720-1778,イタリアの画家、建築家) が表現したローマにあるウェスパシアヌスとティトゥス神殿がベースになっていて、最初はカルタゴの廃墟と呼ばれていました。
2003年にここの修復作業があった時に、当時描かれた水彩画や、石の上に少し残っていた色から判断し、当時の色と同様の色になりました。
力強い正面アーチ部分と左右のウィングから成り立っています。
長さ35,4m、奥行き20,35m、高さ15,75mという結構大きな廃墟です。
柱はコリント式の装飾が見られます。
正面アーチの下のちょっと高くなっている場所にはヘラクレスが描写され、手前の人口的な島にはモルダウ川とエルベ川を象徴する像があります。
18世紀半ば以降はこのような人口的な廃墟は非常に好まれました。
古代ローマ帝国に憧れた皇帝の夢か、古典や古代への憧れか、または南国への憧れかもしれません。
これを作るのに老朽化した宮殿の石材を使ったと言われています。
今年の冬に降った雪でほのかに覆われた雪化粧のローマの廃墟は情緒があります。
ウィーンは日中の気温が7℃前後と先週と比べると少し暖かくなっていますね。
冬至が過ぎてひと月以上経ち、日が少しずつ長くなっていることを感じます。
今日は1月31日・・・1月も今日で終わりです。
今日は青空が広がるいい天気です。
1月31日と言えばシューベルトの誕生日ですね。
ここでもすでに数回話題にしているシューベルトの生家を紹介します。
シューベルトは、1797年1月31日にウィーンで生まれました。
この写真はシューベルトの生家で、ここの日本で言う2階でシューベルトは生まれます。
シューベルトのお父さんは学校の先生でした。
この建物は全部で16世帯あったいわゆるアパートであり、シューベルトのお父さんはここで住居と学校と2つの場所を借りていました。
お父さんの学校はマンモス学校で1クラス約80人の子供達が通っていて、2クラスありましたので、160人以上の子供達がこの狭い所に通っていたわけです。
シューベルトのお父さんテオドールとお母さんマリア・エリザベート・フィーツの間には14人の子供が生まれますが、9人が5年以内に他界し、5人が成人しますが、シューベルトは4男でした。
シューベルトの兄3人は、お父さんと同様教師になります。
お父さんは、音楽の造詣もあり同様に一番上のお兄さんイグナーツも音楽の造詣あり、そんな環境からシューベルトは幼少の頃から音楽に触れていました。
この場所は居心地がよかったわけですが、学校が大きくなっていったので、引っ越しをせざるおえませんでした。
シューベルトはこの生家に4年半住むことになります。
大通りに面したこの建物の中に入ると、外とは別世界の閑静な中庭空間が見られます。
ここに初めて入った人はきとすぐにカメラを向けたくなるでしょう。
でもこの場所に16世帯も住んでいて、なおかつ学校があったということはちょっと信じられません。
この中庭空間には昔の井戸がありますが、その右にある階段を上がって行った右側の空間に係がいる窓口があります。
そこで入場料を支払い、外に出て、そのまま反対側に行くとシューベルトが実際に住んだ住居に入ります。
住居に入ると、最初はVorzimmerという玄関と一緒になった空間と台所があり、その奥にはこの右の写真に見られるちょっと大きな部屋が隣接しています。
実際にシューベルトが生まれたこの部屋と、この隣に隣接している部屋を利用しては博物館として一般公開されています。
ちょっと暗いですが、窓と窓の間によく知られたシューベルトの肖像画があります。
この窓の外が入口がある大通り(Nußdprferstraße)です。
この部屋の左側には家族の肖像画が、また右側にはシューベルトの成績表や楽譜などが展示されています。
これは生家に展示していあるシューベルトのめがねです。
シューベルトは寝る時もめがねをかけていたと言われています。
それは起きてから、すぐにひらめいた曲を書くためでした。
めがねはシューベルトのトレードマークのひとつですね。
シューベルトは対象物と目との距離が18cm以内でないと物がぼやけて見えたそうです。
こちらは「糸を紡ぐグレートヒェン」の自筆譜のファクシミリです。
とても丁寧に書かれています。
でもモーツァルトと違って、シューベルトの楽譜を見ると(他の作曲家はたいていそうですが)、かなりの訂正箇所を見ることができます。
(この写真では見られませんが)
シューベルトはウィーン少年合唱団の前衛でもあるコンヴィクトで学んでいます。
音楽的な才能はあったようで、サリエリがシューベルトの才能を評価しています。
その後、兵役から免れるため、シューベルトも17歳の時に、お父さんの学校を手伝える資格も取っています。もっともあまりやる気はなかったようですが・・・。
音楽家としては、何か重要なポストに就いたわけでもなく、作品が出版されたこともなく、しかしそれなりに彼の音楽的才能は知られ、作曲で収入もありましたが、生前中音楽家として成功したというわけではないでしょう。
ベートーヴェンが亡くなった1827年の翌年1828年にシューベルトも31歳という若さでこの世を去るわけですが、ベートーヴェンが神格化されると同時に、シューベルトの歌曲に対しての評価が高まり、「歌曲の王」として名を残すことになります。
特にドイツリート(ドイツ歌曲)をたくさん作曲しました。
でも歌曲以外にも室内楽、ピアノ曲、教会音楽、交響曲、オペラ等幅広く作曲しています。
シューベルトは発想が次々と浮かんでくる天才肌だったようですが、個々の楽器については本人がそこまでうまく演奏できたわけではなかったようで、特にピアノ曲などは技巧的にかなりくせがある・・・と言われています。
ウィーンの街中にはシューベルトの跡がたくさん残っています。
シューベルトはベートーヴェンやモーツァルトとは違った純粋なウィーン人ですね。
いよいよ今日がクリスマスですね。
例年通りクリスマスは気温が高めで、今日は朝6:30の時点で11℃もありました。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の昼過ぎには部屋に入れてネットを外して飾ろうと思います。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イヴの話題にしたいと思います。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後
「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
皆さんも良いクリスマスを!
Frohe Weihnachten!
ウィーンの街にはドナウ河が流れています。
ドナウ河はヨーロッパでは2番目の長い河で、全長約2.860km、ドイツを水源として、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナと10ヵ国を通り、最後は黒海まで流れています。
その中でオーストリアのドナウは約350kmです。
全長2800km以上あるドナウ河の最も美しい所と言われている有名な「ヴァッハウ渓谷」は、幸いにしてこのオーストリアに位置して、私も大好きな場所です。
ギリシャ人達ももちろんドナウは知っていましたし、ローマ時代にはドナウ河が国境ともなり、そのドナウ河沿いには重要な街がいくつもあり、ウィーンはその街のひとつです。
ウィーンのドナウ河は、永年からの河川工事のおかげで、現在見られる姿になっています。
ウィーンのドナウ河は大きく分けて4つあり、本流、新ドナウ、旧ドナウ、運河です。
今日はこのAlte Donauの秋の姿をお届けします。
こちらは秋の今のAlte Donau(アルテ・ドナウ)で、旧ドナウと私はよく日本語で呼んでいますが、昔のドナウ、古いドナウ・・・なんて意味でしょうか。
中心から見た場合は一番外側にある部分で、大きくカーブしています。
Alte DonauはObere Alte DonauとUntere Alte Donauとさらに細かく地元では呼ばれています。
Obere Alte DonauはFloridsdorfer橋~Kagraner橋まで、Untere Alte DonauはKagranaer橋~Donaustadt橋までです。
Alte Donauは
標高157m、1.56km²、長さ5.2km、幅300m、最深6.8mで、本流や新ドナウとの繋がりは全くありません。
つまりどちらからも水が流れ込んでいるわけではありません。
この水の大部分は地下水なんですね。
冬に日中の気温がマイナスの日が続くと、ここは完全に凍り付いてしまいます。
行って見れば湖のようなものですから、本流などと比べると水が動いていないからですね。
地下鉄1号線(U1)には"Alte Donau"という駅があり、中心から手軽に来られ、ウィーンのちょっとしたリゾート地的な感覚になっている人気ある場所です。
ウィーンの朝は日によっては5℃前後と冷え込む日が多くなってきました。
自然を見れば葉の色が変わり、マロニエの実がたくさん落ちていて秋の街並みとなっています。
ウィーンの森を始め、豊かな自然が広がっているウィーンの郊外もこの秋の時期はいいですね。
うちは天気がいいとよく外に出かけて自然を楽しみますが、今日はその場所の秋をお届けします。
ウィーンは415km²とかなり広い街ですが、中心からちょっと離れるだけで豊かな自然が広がっていてウィーンとは思えない牧歌的な所が多くあります。
ウィーンの森がウィーンの街を囲んでいるという地形の特徴がその理由のひとつです。
ウィーンにはウィーン市が定めているStadtwanderweg (シュタットヴァンダーヴェーク)が全部で12コース(14コース)あります。
うちがよく行くコースはStadtwanderweg 5(Bisamberg)で、この行程はウィーン21区のホイリゲ街で有名なStammersdorfが起点となる全長10.3kmのコースで、全行程歩くと3~4時間かかります。
Stammersdorfは地元で有名なホイリゲ街でGrinzing(グリンツィング)のような観光化されたホイリゲとは違い、昔ならではの本来のホイリゲがたくさんあります。
ぶどう畑のそばを通る情緒あるコースで長閑な風景が広がっています。
とてもウィーンの街にいるとは思えません。
10月も半ばに入り、秋が深まっていくウィーンです。
昨日までは日中の気温が20℃を超えていましたが、今日から少し寒くなるようです。
ひと月前に今シーズンからメルクの船着き場の場所が変わったことについて書きました。
メルクからクレムス行きの船に乗ってドナウを下っていくわけですが、クレムスまでは行かず、その手前のデュルンシュタインで下船して散策を楽しみたいです。
この小さな街をぶらつくだけでも十分楽しいですが、余裕があればこの上にある廃墟のお城まで登りたいですね。
下から見ると意外と近いように見えるんですが、片道25分ぐらいかかります。
ここへの登り口はデュルンシュタインの街のメイン通りからそのまま登って行くルートと、メイン通りのちょっと外側から登って行くルートがあります。
うちがここに来るときは、メイン通りから登って、帰りは別ルートから下ります。
道は所々岩が突き出ていて、歩幅を広げる箇所もあり、また階段もかなり多くあります。
後半になると坂が結構きついです。
そしてやっと廃墟のお城が見えてきて・・・しかしまだ頂上ではなく、そこからさらに先に行き、この廃墟のお城自体に登れるようになっています。
廃墟のお城の頂上に着くと、登って来た苦労を忘れさせる、ほぼ360度の素晴らしい眺めが楽しめます。
ここから眺めるドナウ河はとても印象深いものとなるでしょう。
周辺の街やぶどう畑が絵のように目前に広がります。
オーストリアは国土の63%が山岳地帯で、ヨーロッパアルプスが大きく国内を横たわっています。
アルプスというと高い山をイメージしますが、ウィーンの街を取り囲むウィーンの森だってアルプス山脈に属します。
そのアルプスは北部石灰岩アルプス、中央アルプス、南部石灰岩アルプスと大きく分けることができますが、アルプスそれぞれの地域でローカルの呼び名があります。
私の大好きなザルツカンマーグートもアルプスの北斜面に位置する景勝地で、大小70以上の美しい湖が点在し、その湖畔には魅力的な街が多くあります。
先日話題にした白馬亭はWolfhangseeという湖のほとりにある知られたホテルです。
以前はWolfgangseeのSt.WolfgangやSt.Gilgenなどに寄るツアーが多かったですが、ここ15年ぐらいからはハルシュタットまで足を延ばすツアーも多くなっていますね。
ハルシュタットもSt.Wolfgangとはまた違った落ち着いた良さがありますね。
夏休みに白馬亭に宿泊した時にはここを拠点にしてハルシュタットにも久しぶりに行きましたが、コロナ以前には日本隣国からの観光客が占めていて、ハルシュタットのイメージがあまり良くなかった(笑)のですが、この時はハンガリーやスロヴァキアなどからの観光客が溢れていて、駐車場も空きがありませんでした。
かなりカラーが変わっていたハルシュタットでした。
ハルシュタットの岩塩鉱やダッハシュタインの巨大な氷の洞窟なども久しぶりに行ってきました。
先日ハルシュタット湖を掲載しましたが、今日は別の角度からの眺めです。
ハルシュタットを過ぎて、Obertraunに入るとダッハシュタイン山塊に属するKrippenstein(2108m)にアクセスできるロープウェイの乗り場があります。
このロープウェイに乗って最初の山頂駅から20分ぐらい歩くと、上に見られるようにダッハシュタイン巨大な氷の洞窟の入り口に着きます。
ここまではそれなりに急な坂を歩いて行きますが、しっかり舗装されているので問題ありません。
ダッハシュタインは北部石灰岩アルプス・・・アルプス全体では東アルプスに属し、DachsteingebirgeとかDachsteinmassiv、Dachsteingruppeなどとも呼ばれ、日本語ではダッハシュタイン山塊とよく言われています。
Oberöstereich、Steiermark、Salzburgの3州に跨り、東西52km、南北23km、全体で772km²の広さです。
この山塊の最高峰がHoher Dachstein(2995m)で、OberösterreichとSteiermark州に跨っているため、同時にそれぞれの州の最高峰でもあるわけです。
「ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観」として1997年に世界遺産に登録されています。
ここからの眺めは素敵です。
奥に見えるのがハルシュタット湖とハルシュタットの街で、そのずっと上にはPlassen(1953m)が印象的にそびえています。
ここでは巨大な氷の洞窟を見学して、その後ロープウェイに乗ってさらにKrippensteinまで行きましょう。
ウィーンは様々な形容をされる中でよく"バロックの都"と言われます。
もちろんウィーンはバロック様式だけではなく全ての建築様式を見ることができますが、この街の歴史的背景から重要なバロック建築が数多く存在します。
今日は一般観光客が残念ながらあまり訪れることがない、しかし重要なバロック建築の教会を話題にします。
この教会は"Piaristenkirche Maria Treu"という名称で、ウィーンの8区の一角にあります。
ピアリステン教会は皇帝レオポルド1世によって礎石が置かれ1698年~1719年に建てられました。
Hornの建築家であるBartholomäus Hochhaldtingerのプランが一番古くそして唯一現在まで残されいる教会プランで1700年までを知ることができます。
しかし、ルーカス・フォン・ヒルデブラントによって教会は当初と全く違ったものとなりました。
ヒルデブラントと言えばべルヴェデーレ宮殿が真っ先に挙げられます。
ピアリステン教会は名前の通り、ピアリステン修道会のために建てられました。
ピアリステン修道会は、José de Calasanz (1557-1648)によって1617年にローマ教皇から認められ、ウィーンには教育を目的として1697年にやって来ました。
日本語ではエスコラピオス修道会とも呼ばれています。
その後改築なども行われて最終的に1751年に正面部分と南塔が完成し、1753年にはほぼ今の姿になっています。
教会正面部分のこちら側に凸面になっているファサードは、ローマ時代5~6世紀に建てられたSanti Luca e Martinaを思わせるウィーンでは唯一のスタイルです。
教会の名前である"Maira Treu"という文字が正面部分に見られます。
これは現在この教会の主祭壇に祭られている聖母マリアの絵が由来です。
この絵はJosef Herzによって1713年にペスト流行した時に描かれたものです。
この絵はもともとこの教会のSchmerzenskapelleという礼拝堂に置かれていましたが、あまりにも多くの巡礼者が訪れることから1721年以来から主祭壇に置かれています。
"Treu"は忠実とか誠実、貞操という意味があります。
教会内部は非常に美しいバロック様式で、ひとつの大きな空間です。
天井ドームのフレスコ画が印象的な集中式プランで、教会正面の2本の塔をイメージすると意外な構造になっていますが、教会全体ではラテン十字架形プランとちょっと複雑です。
主祭壇はマリアとヨゼフの結婚が描かれていて、その前に上述した"Maria Treu"が置かれています。
主祭壇の一番上にはピアリステン修道会のワッペンを見ることができます。
いつ来てもここは入れますが、柵が閉まっているためミサや演奏会以外ではこれ以上中に入ることができません。
天井の素晴らしいフレスコ画はオーストリアの重要な後期バロック時代の画家Franz Anton Maulbertschが1752年、当時彼が28歳の時に仕上げたものです。
特に中央の大きなフレスコ画は7月29日から始まって、12月20日に完成しています。
こちらが中央部分のフレスコ画です。
アダムとイヴ、アブラハムとイサク、モーゼとダビデが見られ、聖母マリアが天界に迎えられるシーンが描かれています。
左上に見られるのは、この教会の南側に接続されているピエタ礼拝堂です。
教会建築と同じ時期に作られています。
右側は教会前の美しい広場で、1713年に置かれたマリア像が見られます。
ここにはピアリステン修道会の幼稚園、小学校、Gymnasiumあり、たくさんの子供達が通っています。
また夕方18:00からオープンするピアリステンケラー"という地元でも有名なレストランもありますので、寄ってみてはいかがでしょうか。
オーストリアは国土の63%が山岳地帯で、ヨーロッパアルプスが大きく国内を横たわっています。
ウィーンはかつての帝国の都であり、荘厳な建造物が立ち並ぶ優雅な街ですので、アルプスの高い山とは無縁のような気がします。
しかし、郊外に足を延すと長閑で美しい風景に出会えます。
アルプスというと高い山をイメージしますが、ウィーンの街を取り囲むウィーンの森だってアルプス山脈です。
そのアルプスは北部石灰岩アルプス、中央アルプス、南部石灰岩アルプスと大きく分けることができますが、アルプスそれぞれの地域でローカルの呼び名があります。
私の大好きなザルツカンマーグートもアルプスの北斜面に位置する景勝地で、大小70以上の美しい湖が点在し、その湖畔には魅力的な街が多くあります。
先日話題にした白馬亭はWolfhangseeという湖のほとりにある知られたホテルです。
ここで昼食をとる日本からのツアーも多いですね。
一般団体ツアーの場合ザルツカンマーグートはウィーンに来る際に、もしくはウィーンからザルツブルクに向かう際に半日ほど寄ることが多く、最近白馬亭ではなく、ハルシュタットでランチという行程の方が多いと思います。
時間が限られてますから、どうしても寄れる場所がある程度限られるわけですね。
でもザルツカンマーグートは数日は滞在したい所で、宿泊は1カ所でもいいですが、できれば車で色々な所を周りたいですね。
今日は世界遺産にも登録されているハルシュタットの湖をお届けします。
ハルシュタットはアルプスのダッハシュタイン連峰の北側に位置し、紀元前800年頃からハルシュタット鉄器文化が栄え、現在でも世界最古の岩塩鉱がある美しい湖畔の街です。
ここはHallstätter See(ハルシュテッター・ゼー)と呼ばれ、標高508m、広さ8.55km²、最深125m(平均65m)のアルプス一角の湖です。
行政ではOberösterreichに属し、縦7.5km、幅1.4kmの南北に少し伸びたような形をしています。
多くの方がハルシュタットの小さな街を訪れると思いますが、それだけでなくボートでの遊覧もできますし、岩塩鉱の見学、ハイキングと自然の地形をもっと身近に感じることができます。
ここに限らずザルツカンマーグートの湖は氷河から形成され、水温が低めではありますが、水質も良く、魚も泳いでいます。
コロナ以前ではあり得ませんでしたが、この時アジア人はほとんど見かけませんでした。
ウィーンは日中の気温がまだまだ25℃前後と半袖で十分な陽気が続いていますが、朝が結構涼しくなっていますね。
これも秋が近づいていることを感じさせます。
夏休みが終わり、昨日から新年度が始まりました。
なんとなく休暇ボケを引っ張りながらの社会風景です。
さて、先日久しぶりに白馬亭に宿泊したことを書きましたが、今日はその界隈の雰囲気をお届けします。
白馬亭があるザルツカンマーグートはヨーロッパアルプスの北斜面に位置し、オーストリアの宝石箱とも形容され大小70以上の氷河で作られた美しい湖が点在し、魅力的な街が数多くあります。
特にWolfgang湖に面したSt.Wolfgangが好きですね~。
St.Wolfgang(ザンクト・ヴォルフガング)は12.84km² のWolfgangsee(ヴォルフガング湖)に面している人口3.000人弱の街で、街の名になっている同名の白亜のヴォルフガング巡礼教会があることで、また映画「サウンド・オブ・ミュージック」に登場するシャフベルク鉄道の乗り場もあることで知られています。
9月に入って朝夕はかなり涼しくなり、秋の訪れを感じるウィーンです。
夏休みも残す所あと2日となり、来週月曜日から学校も始まり新年度です。
今年はコロナ禍3回目の夏休みで、過去2年と比べると多くの人が色々な所に出かけています。
うちも今年の夏は結構色々な所に行きました。
うちのお気に入りのスポットとして"Blockheide" (ブロックハイデ)があり、ここは毎年数回は行きますが最近今年になって初めて行ってきました。
BlockheideはNiederösterreichのWaldviertel(ヴァルトフィアテル)の一角にあるオーストリアの自然公園のひとつで、チェコとの国境に隣接するオーストリアのGmünd(グミュント)の目と鼻の先にあります。
ウィーンからは車で約140kmと結構離れていますが歴史的にも重要な場所で、新石器時代からの跡が確認されていて地元でも有名です。
ここは入口が2ヵ所ありますが、うちはいつもこの右側の写真に見られる入口から入りますが、車はここから数百メートル歩いた所の駐車場に止めます。
こちらからの方が自然公園内にあるInfoセンターや展望台に近いんですね。
上の写真はこのBlockheideの見取り図で、以下に示すように色分けされた4つの散策コースがあります。
GRANIT-TOUR (2,9 km)
MYTHOlogieTOUR (3,5 km)
LANDSCHAFTSkulTOUR (2,8 km)
MARIENKÄFERWEG (5,6 km)
上からそれぞれ花崗岩コース、神話コース、風景コース、てんとう虫コースです。
中に入ると、草原地帯、池、森、そして一番重要なこの自然から形成された巨大な石の塊をいくつも見ることができます。
長閑な自然の中を歩き、ちょっと森っぽくなっている所に足を踏み入れると、巨大な石がたくさん置かれているのに驚かされます。
これらの巨石はもちろん自然に置かれたもので、人工的に置かれたものではありません。
右上はインフォセンターにある展望台です。
この展望台は有料ですが、上る価値がありますね。
高さ25.8m、140段、36㎥のトウヒ、26㎥カラマツの木、12トンの鋼鉄が使われていて、2003年に完成しました。
展望台からの眺めはこんな感じで、森の一角にいることがわかります。
こちらはChristophorussteinです。
不思議な形の石の塊がこのように重なっているのです。
とにかく巨大な石です!
画面右側に女性の姿が見えますね。
この石の巨大さがわかります。
こちらはWackelsteinで、バランスをとっているかのように置かれています。
この界隈は雨がそれなりに多く降り、湿気もそこそこあるので苔が多く見られます。
この辺りは"Bömische Masse"(ベーミッシェ・マッセ)と呼ばれ、現在ではオーストリアの国境界隈からチェコを含む地域です。
古生代(約5億4200万 - 約2億5100万年)に形成された山脈の残りとなっています。
つまり、この巨大な石はそれだけの年月が経っているということになります。
豊かな緑、森林地帯がコースになっていて、大きな池もあり巨大な石は一箇所に集中してわるわけではなく、それぞれ散らばってたくさん横たわっています。
前述したインフォセンターの反対側にはちょっとしたレストランがあり、いつも賑わってますが、うちはいつもおにぎりを持って行きこの自然公園のどこかで食べる習慣があります。
自然公園内にはくつろげるベンチやテーブルなどが多く設置されていて、自然保護地域としてよく手入れされています。
ここは自然と歴史、特に地質学的にも非常に面白い所です。
今回ここに掲載したBlockheideの写真は2022年7月31日に撮影したものです。
ウィーンの街を高い所から見るにはプラター公園の大観覧車やカーレンベルクなのがすぐに思い浮かびます。
個人的にはHaus des Meeresからの眺めは素晴らしいと思います。
一番手っ取り早いのはシュテファン大聖堂の塔に上ることだと思います。
シュテファン大聖堂はウィーンの中心にありますので、移動にも時間がかかりません。
シュテファン大聖堂では大聖堂のシンボル的な南の塔とその反対側にある北の塔と両方上ることができます。
約137mある南の塔は螺旋階段で、未完成の北の塔はエレベーターで上ることができます。
どちらも眺めは素晴らしく、両方お勧めです。
巨大な屋根がせり立っているので、同じ眺めでは南塔と北塔では違っています。
体力を使わないことを考えればエレベーターの方が楽でしょうか。
団体ツアーではエレベーターで上ることがほとんどです。
北塔に上るエレベーターはシュテファン大聖堂の中に入り、一番左の側廊を奥に進んでいくと、左側に小さな空間があり、そこに係がいます。
このエレベーターは2016年に新しくなりました。
このエレベーターを降りると、目の前に巨大なモザイク的な屋根がせり立っています。
下から見るとのは全く違い、物凄い急角度であることがわかります。
この場所は北塔の周りをほぼ1周できるようになっていて、迫力ある屋根だけではなく、ウィーンの街並みを楽しむことができます。
60mの高さなのですが、ここに来るとそれ以上に感じます。
また、オーストリア最大の鐘"プンメリン"が見られるのもここです。
巨大な屋根に使われている屋根瓦は1枚がかなり細長く、1枚1枚丹念に取り付けられています。
1枚が2.5kgもあり、大聖堂の南側、北側と全部で23万枚も使われています。
しかもこの屋根の角度は80度です。
ウィーンの街並み、大聖堂の巨大な屋根、プンメリンと見所が多いこの場所は昼のミサの最中でも上ることができます。
ミサ中の大聖堂の内部見学はできませんが、エレベーターは動いています。
是非上ってみましょう!
ウィーンの街も奥が深く、様々な角度から楽しむことができますが、ウィーンの外側・・・オーストリアの郊外には地元だけで知られている面白いスポットがたくさんあります。
うちは自然が好きなので、よくおにぎりを持ってハイキング(散策)に出かけますが、面白い所がたくさんあります。
先日その面白いスポットのひとつ貝殻の山・・・Nexingに行きましたが、ここに来たらそのそばにある池のオアシス・・・Oase am Teichも歩きたいですね。
Oase am Teich...
Oaseはオアシス、Teichは池なので、"池のオアシス"ですね。
ここはNiederösterreichのWeinviertelの一角にあり、ウィーンの国立オペラ座から車で60km弱走った所のNexingにあります。
ここには14の池があり、釣りをすることができます。
私は釣りはしませんので、ここでの散策を目的として来ました。
長閑な風景を走り抜けて、ちょっと奥に行くと入口に質素な案内板が設けられています。
この辺りは閑静な地域なのですが、この場所はたいてい混んでいますね。
ここのホームページからの見取り図を上に掲載します。
14の池がこのように配置されています。
この周りを散策できるようになっています。
14の池それぞれに Mühlteich,Huberteich,Winterteich,Fritschteich, Monsterteich,Schaniteich,
Pepiteich,Relaxe-Teichといった名前がつけられています。
池全体の広さは24haです。
この場所は釣り天国で、この時も多くの人が釣りを楽しんでいました。
ここで釣をするには料金がかかります。
1日券6:00~18:00で大人26ユーロ、子供13ユーロで、18:00~18:00と24時間券もあります。
つまり夜でも釣りをすることができます。
さらに年間定期や週間定期、休暇パッケージ、釣り教室、大会など様々なスタイルがあります。
鯉や鱒など豊富に釣れるようで、みんなのんびりしていて楽しそうです。
入口の近くにはレストランもあり、新鮮な魚料理が多く提供されています。
ここに食事だけに来る地元の人が多いです。
うちもここで休んで、食事をしました。
おいしかったですね!
ここには前述したように休暇パッケージがあるので、宿泊ができます。
例えば月曜日6:00~水曜日18:00までの2泊、釣り、朝食付きで135ユーロです。
釣りをせず、部屋だけでも1泊35ユーロ朝食込みで宿泊できます。
釣りができて、宿泊もできるという他にはあまりないスタイルなので、その世界に興味ある方には人気スポットとなっています。
釣りに興味がなくてもこの界隈に来る価値はありますね。
ウィーンはかつての帝国の都であり、ヨーロッパ文化が凝縮した街で、荘厳な建造物が立ち並ぶ上品で奥が深い街です。
ウィーンだけにいるとオーストリアはアルプスが大きく横たわっている国だとは想像し難いと思います。
有名なウィーンの森だってアルプスの一角で、しかもヨーロッパアルプスの一番東にあるのが観光でお馴染みのカーレンベルクなどがある北の森です。
チロル、ケルンテン、ザルツブルク州には3.000mを超えるオーストリアアルプスの絶景が見られますが、そこまで足を延ばさなくてもウィーン近郊にSchneeberg(シュネーベルク)などの有名なアルプスの山を楽しむことができます。
このSchneebergのすぐそばにあるRax(ラックス)もお勧めなので、今日はRaxについて少し紹介します。
Raxはヨーロッパアルプスの北部石灰岩アルプスに属し、オーストリアアルプスの一角であると同時に南アルプスやウィーンアルプスとも呼ばれています。
前述したSchneebergのそばにあり、Steiermarkの北側とNiederösterreichの南側に跨っています。
国立オペラ座からだと車で南へ100km程走った所にRax-Seibahn...ラックスロープウェイの乗り場があります。
もちろん下から歩いて行く人もいるでしょうが、多くはロープウェイを利用して上まで行って、Raxアルプスのハイキングを楽しみます。
Schneebergと合わせてRax-Schneeberg-Gruppeとも呼ばれていて、Raxアルプスでの一番高い山は標高2007mのHeukuppeです。
A2の南高速道路からWiener Neustadtを過ぎてからS6に入ると長閑な山の風景に変わっていきます。
Gloggnitz、Reichenau an der Raxを過ぎるとロープウェイに乗る駐車場に着きます。
この辺りの景色もすでに絵になり、ウィーンとは全く違くオーストリアの山岳風景です。
ロープウェイが約8分で標高1600m地点まで運んでくれます。
山頂駅から出ると下とは違う世界が広がっています。
余談ですがこのロープウェイは100年近く前に建設されたもので、オーストリアでは人を運ぶロープウェイとしては最初のロープウェイです。
この日は35℃ぐらいになる暑い日でしたが、上に行けばきっと涼しいだろうという期待を持って、ゆっくり麓駅の方へ向かっていたら、ロープウェイの係が「上に行きますか?それなら急いで下さい! さもないと次は30分待ちですよ!」と言ってきたので急いで向かいました。
ロープウェイには数人しか乗ってませんでしたが、すでに上はかなりの人出があるということでした。
基本的に麓駅で帰りのロープウェイの時間帯を予約しますが、上でのんびりしたければ帰りのロープウェイは3時間以上後を予約しましょう。
しかし実際は時間が読めないこともあるので山頂駅では混雑状況にもよりますが臨機応変に対応してくれます。
山頂駅を降りたらすぐに広がる風景です。
標高1600mぐらいでも結構高く感じます。
ここ一帯はRax Plateauと呼ばれ、広大な平地が広がっていて、いくつかのハイキングが出来るようになっています。
本格的なハイキングをする人は2日間のコースもありますが、日帰りで軽く楽しむのであればOttohausまでの片道40分コース、そこからさらにJakobskogelに上るのがいいかもしれません。
下から登ってくる場合は別として、ロープウェイの山頂駅からOttohausまでは1本道で、そこから先が枝分かれしています。
Ottohausまででも十分に楽しめます。
コースの途中で向こう側に見られるSchneebergの絶景が楽しめます。
Schneebergをこの角度から見るにはここに来るしかありません。
ちなみにSchneebergの一番高い地点はKlosterwappenで標高2076mで、Niederösterreichの最高点です。
Ottohaus界隈から歩いてきた道を振り返ると上に見えるような景色です。
このOttohausで休むのもいいでしょう。
ここからの眺めも素晴らしいです。
Ottohausが1644m地点で、そこからもう少し上に行くと標高1737mのJakobskogelです。
この頂上には右に見られるように十字架が立っています。
Ottohausからここまではちょっと急ですから、それなりに疲れます。
車があれば便利ですが、ウィーンから公共交通機関で来ることもできます。
ウィーン中央駅からÖBBでセンメリング鉄道と同じルートであるPayerbach-Reichnauで下車し、341のバスに乗ってHirschwang-Raxseilbahnで下車、そこから徒歩6分で麓駅に来ます。
乗り継ぎが良ければ2時間強ですから、1日プランになりますね。
Raxはウィーン近郊でハイキングを楽しみたい方にお勧めです。
オーストリアは8月1日より陽性者の隔離もなくなり、感染していても健康と感じられればFFP2マスク着用で出歩くことも、仕事もできるようになっています。
コロナウィルスとの共存という空気が強くなっていますね。
今年の夏は観光客は以前のようにまだまだ戻って来ていないものの、多くの人が色々な所へ出かけています。
うちも今年の夏はザルツカンマーグートを始め、かなり色々な所に出かけています。
最近家族でブルゲンラント州にある知られたお城とそのそばにある爬虫類博物館に行ってきました。
今日はそのお城を少し紹介します。
ブルゲンラント州は1921年にオーストリアに組み込まれたかつてのハンガリー領だった所で、ウィーンから南東に位置したアイゼンシュタットを州都とする細長い州です。
この州とNiederösterreichの境にあるロサーリエン山脈のふもとにあるちょっとした小高い所に右の写真に見えるようにフォルヒテンシュタイン城が立っています。
ここに近づくときに下からのこのお城の眺めはかなり印象的です。
Burgenland州で重要なこのお城はハンガリーの大貴族エスターハーズィー家によるもので、元々14世紀にGrafen von Mattersdorf-Forchtensteinによって建てられました。
1450年頃に彼が亡くなり、ハプスブルク家が約170年所有します。
この期間はあまりお城に変化はありませんでした。
1622年Nikolaus Esterházyは皇帝フェルディナント2世からこの城を入手し、かなり荒れていたこの城を要塞に改築させ、17世紀半ばにその息子Paulもここを拡張しました。
現在のお城の姿は大きく拡張された当時の時代からバロック様式と言ってもいいのかもしれません。
Paulが亡くなるとこのお城の利用目的がエスターハーズィー家の武器、様々な資料、時計などの工芸品などを収める場所に変わります。
第2次世界大戦後の4カ国占領時代の時も、収集品は秘密のルートからしか入れない所に保管されていたため、発見されず当時のまま残されています。
現在アイゼンシュタットにあるエスターハーズィー城と同様に、エスターハーズィー家のプライベート財団が管理していて、博物館として一般公開されています。
入り口は当時の濠を渡って、ルネッサンス様式の門から入りここをくぐった左側にショップと窓口があり、ガイドツアーに参加しなくても個人で見学ができます。
右は年1度だけ入ることができる塔が見える中庭です。
博物館としての公開スペースは2階と1階で、少しハプスブルク家も登場しますが、ほぼエスターハーズィー家がテーマとなります。
工芸品が非常に充実していて、当時のお城の建築など綺麗に保存されています。
部屋も非常に多くあります。
エスターハージー家の祖先のギャラリーと彼らが集めた豪華な銀製家具などのコレクション、
ハプスブルク家側につきオスマントルコと戦った時のトルコ・コレクション、
エスターハーズィー家の宝物館、武器コレクションなど豊富です。
Burgenlandはアルプス山脈が横たわってないので、高い山はなく平地が多く、ワイン産業も盛んな地域です。
ハンガリー領だったこともあり、オーストリアにありながらもマジャール的な空気を感じ、見所も非常に多いです。
オーストリアに何回も来られているオーストリアファンの方にはお勧めしたい地域です。
Burgenlandと言うドイツ語はBurg ”城”と、Land ”国”、そのBurgが複数形になるとBurgen(ブルゲン)になるので、日本語に直訳すると「城の多い国(州)」と思われている方が多いと思いますが、Burgenlandの名前の由来はそうではありません。
先日久しぶりにザルツカンマーグートへ行ってきました。
いや、厳密にはザルツカンマーグートには最近行きましたが、コロナ禍ですので宿泊したのが久しぶりだったんですね。
ザルツカンマーグートはヨーロッパアルプスの北斜面に位置し、オーストリアの宝石箱とも形容され大小70以上の氷河で作られた美しい湖が点在し、魅力的な街が数多くあります。
仕事柄数えきれないほどザルツカンマーグートに来ていますが、プライベートでもよく来ます。
特にWolfgang湖に面したSt.Wolfgangが好きで、ここにはWeisses Rössl(白馬亭)という有名なホテルがあり、プライベートで来たらたいていここに宿泊しています。
今回も白馬亭に直接メールを書いて少し広めのFamilienzimmerにしました。
個人的には湖に面したバルコニー付の部屋がいいのですが、今回は子供のいとこが日本から来たこともあり、ホテルでゆっくりするより、色々な所へ出かけるので湖側の部屋にはしませんでした。
St.Wolfgang(ザンクト・ヴォルフガング)は12.84km² のWolfgangsee(ヴォルフガング湖)に面している人口3.000人弱の街で、街の名になっている同名の白亜のヴォルフガング巡礼教会があることで、また映画「サウンド・オブ・ミュージック」に登場するシャフベルク鉄道の乗り場もあることで知られています。
このヴォルフガング教会のすぐ横にあるのが有名なホテル WEISSES RÖSSL (ヴァイセスレッスル)・・・白馬亭です。
余談ですがこの教会にはオーストリア三大ゴシック祭壇のひとつに数えられているミヒャエル・パッヒャーの祭壇がありこれは必見です。
もともとこの場所は15世紀後半の1474年から巡礼客が泊まるペンションのようなものがありました。
"白馬亭"としては、1878年、Wolfgang Grömerがここの湖沿いの3つの古い民家を改築することから始まっています。
その後所有者が変わり、1912年にPaul Peterがここを入手し、現在に至るまでPeterファミリーによる経営が続いています。
2012年が、一族経営の100周年という記念の年になりました。
今回ここで朝食を食べる時にここのオーナーの女将さんがテーブルに案内してくれましたので、久しぶりに話すことができました。
またこのホテルが舞台となったRalph Benatzky のSingspiel (オペレッタ)「白馬亭」も知られています。
これは1930年にベルリンで初演されています。
ちなみにBenatzky は自らの希望で、このSt.Wolfgangに埋葬されています。
個人的にお勧めなのは、この白馬亭はSPAというサウナや室内プールがあるリラックスできる空間がとても充実していて、しかもこの写真のように湖の上に年中泳げるプールが設置されています。
このプールから湖に飛び込んで泳ぐこともできます。
ザルツカンマーグートの湖は氷河から形成されましたので、水温が低めです。
水質はとても良く、特にこのWolfgang湖は太陽と空の度合いによっては、水が青や緑色に見えます。
建物の中から通じていて、ここに来ると完全な休暇モードですね。
今回はハンガリーやスロヴァキアからの滞在客が非常に多く、やたらとハンガリー語が飛び交っていました。
アジア人は日本も含めてこの時は誰もいませんでした。
偶然このSt.Wolfgangの年一度のお祭りの時期に来たので、この街の音楽隊がこの教会前の広場で1時間程の演奏会がありました。
私はこれを白馬亭の中から窓を開けてしばらく眺めていました。
現在はこの広場に白馬亭のメインエントランスがあります。
ここは食事だけによる方も多いですが、絶対滞在型で宿泊したいホテルです!
ウィーンには変わった博物館が多く存在する中で、今日話題にする病理・解剖学博物館も結構おもしろい!?博物館ではないかと思います。
ここは2012年から自然史博物館の管轄になり、それ以来建物の修復と改装が行われてきて、2020年には再度オープンしました。
この博物館は一見変わった建物の中にあり、開館時間が限られていることや、全くウィーンらしくない内容でもあることから一般の人はまず行かない博物館でしょうか。
この一見不思議な円柱の建物がNarrenturm (ナレントゥルム)で、"Narr"は愚か者、たわけ、あほう、変物なんて辞書には出ています。
Turmは塔ですから変人塔とか狂人塔、もしくはきちがい塔なんていう日本語になるのでしょうか。
ここはいわゆる現在で言えば精神病院で、当時、精神病の人々をここに隔離しました。
マリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世皇帝が、妹のアントワネットを訪ねた時にフランスの様々な福祉施設を訪れました。
その後、ウィーンのAlsergrundにあった身体障害者施設を改築させ、ヨーロッパで当時一番モダンで大きな一般が通院できる病院を作り、病院、産院、精神病院の3つの部門に分かれていました。
このNarrenturmはヨーゼフ2世が自ら投資してJosef Gerlという建築家によって1784年に作られました。
目的は精神病患者の治療でした。
ヨーゼフ2世が亡くなった後、外で冷やかす人々から守るために壁が築かれました。
1852年からは治療困難で直ることのない人々がここにまわされ、1869年にここは病院としての機能はなくなりました。
その後は何にも使用されずいわゆる空き家であり、1920年に看護婦の住居や、ウィーン大学病院の倉庫としても使用されていました。
ちなみに19世紀後半から20世紀初頭にかけてウィーン大学の医学部は世界第一水準を誇っていたので医学の世界はドイツ語が主流でした。
1971年より病理学・解剖学博物館として公開され、2012年からは自然史博物館の管轄で引き継がれています。
今日、このNarreturmは重要文化財となっています。
Narrenturmは5階建ての円柱形をしていて真ん中に中庭があります。
それぞれの階には28の部屋があり、1階に玄関があるので、それを除いた全部で139の部屋があります。
部屋の大きさは奥行き3m,幅2.25m、高さ2.5mとかなり狭い大きさです。
各部屋には寝台とトイレがあり、200~250の患者が収容されていたようです。
このNarreturmは通称Altes A.K.H (アルテス・アー・カー・ハー)という今のウィーン総合病院が以前あった場所で、現在ではウィーン大学の"Campus"になっている広大な敷地の一角に立っています。
見学時間は
水曜日10:00~18:00、木、金10:00~15:00、土曜日の12:00~18:00です。
オーストリアで最も多くの方が訪れる世界遺産シェーンブルン宮殿は、やはり宮殿内部見学は絶対にして頂きたいですね。
それ以外にこのシェーンブルン宮殿は庭園もとても充実していて、ここでまる一日過ごすこともできます。
シェーンブルン宮殿のシンボル的な存在であるグロリエッテからの目の覚めるような風景、地元の人達で賑わう世界最古の動物園、のんびりした美しい庭園内の散策コース、シェーンブルンの言われとなった美しい泉など、見どころが多く、地元ではこの庭園内でのんびりする方が多いですし、ジョギングやノルディックウォーキングをする方も大変多いです。
以前ウィーンの別の場所の知られていないミニ日本庭園を紹介しましたが、
今日はそのシェーンブルン宮殿の庭園内にある日本庭園をお届けします。
シェーンブルン宮殿の美しい庭園の一角に、ぽつんと佇んだように置かれている日本庭園は宮殿からは少し遠い所にあります。
もちろん宮殿からでも歩いて行けますが、わかりやすいのは宮殿の正門ではなくHietzingtorから入り、温室を左手に見ながら動物園の入口まで行くと、その動物園の券売り場のすぐそばにこの日本庭園を見ることができます。
この日本庭園は1913年に、去年2014年が100周年であったサラエボの銃弾事件で倒れることになるフランツ・フェルディナント大公によって造営されたものとされています。
フランツ・フェルディナント大公はフランツ・ヨーゼフ1世の甥で日本にも来たことがあり、帰国後オーストリアの庭師にそれらしく見えるように作らせたようです。
帝国崩壊後、ここはアルプス庭園などと地元では呼ばれてきましたが、そのまま知られずに時が経ち、荒廃していきました。
その後、1996年に新たにここが見いだされ、調査が行われて日本庭園であったことが判明しました。
その後、荒廃していたこの庭園が日本ガルテン協会の御蔭もありここが1999年に再生されることとなりました。
日本の伝統的技術で再現するのではなく、1913年の写真などを資料としてなるべく当時の庭園に近づけるようにしたそうです。
この庭園は既存部分、その両側に枯山水様式と茶庭様式と3つの部分から成り立っています。
枯山水庭園にはオーストリアと日本の友好を深める意味がこめられています。
3つの異なる庭園は様式的に異なっていても、全部がつながっていて、一体感を演出しています。
1枚目の写真は既存の部分、2枚目は茶庭、こちらの写真が枯山水です。
ここに佇んでいると、ウィーンにいることを一瞬忘れます。
この日本庭園はちょっと行きづらい所にありますが、日本人として興味深いのではないでしょうか。
オーストリアはヨーロッパアルプスが大きく横たわっているという地形の特徴があり、その中を多くの川が流れ、その多くがヨーロッパで2番目に長い、オーストリアを西から東に流れるドナウ河がに注がれています。
オーストリアの国歌が"Land der Berge, Land am Strome" ・・・山岳の国、大河の国という名前であることは御存知でしたか?
かつての帝国時代にはアドリア海のヴェネツィアやクロアチアはオーストリアに属していたので、オーストリアには海軍が存在していましたが、現在では海はありませんので、海軍もありません。
氷河から形成された美しい湖はたくさんありますので、水は豊富です。
その氷河から形成された美しい湖水地帯であるザルツカンマーグートは私も大好きです。
そこには世界遺産のひとつであるハルシュタットがあり、現在でも世界最古の岩塩抗が機能していて、塩の採掘が行われています。
アルプスの中に塩の塊があるのは、ここが3億年前には海の中であったからです。
アルプス山脈が現在の姿に形成される前の話です。
オーストリアには、それを教えてくれるところがたくさんあります。
今日のテーマにする場所もそのひとつです。
ウィーンの中心部から北へ車で60km程走ったNiederösterreich Weinviertelの一角にNexingという人口49人の小さな街があります。
ここに"Nexinger Muschelberg"という歴史的、地質学的に有名なものがあります。
Muschelbergですから"貝の山"というような日本語になりますが、名前の通り、無数の貝殻からなる地層で形成された大きな岩などがたくさん見られます。
右の写真はここの入口で、土、日、祝日の9:00~18:00であれば誰でも中を散策することができます。
Muschelbergという名前ですが、そんなに高い山ではありません。
入口の門を抜けるとすぐに森の中に入ったような感じです。
少し歩いて行くと左上に見られるようにもうひとつの入り口があり、ここの扉を開けて奥に歩いて行きます。
古代遺跡のような岩の塊などが見えてきますが、もう貝の山です。
遠くから見ると普通の岩肌のように見えますが、無数の貝が岩全面を覆っていることがわかります。
貝がそのまま年月とともに岩の一部となっています。
右上の写真は入口から少し入った所で、人1人がやっと通れるぐらいの狭い通路を人工的に作ったのでしょうか。
両側に絶壁のように貝殻が無数に入った岩を見ることができます。
上の写真に見られるように、貝殻が無数に入った石灰岩が至る所に見られます。
固いもので削れば、貝殻が取れます。
これは1250~1350万年前のものと推定されています。
もちろんアルプスが現在の地形になってからですが、形成はもっと前からでしょう。
何十億もの数え切れない貝が、岩と一緒になっています。
石灰岩ですが、貝殻も石灰原料ですね。
岩を近くで見ると、岩に貝が刺さっている感じですね。
19世紀の時には、家の壁や地下に利用するための石灰岩が焼かれ、また貝殻だけを別にして鶏のエサにもしたそうです。
古代の海を感じながら、ちょっとした散策を楽しめます。
ここの一角から左上の写真に見られるOase am Teichが見下ろせます。
この貝の山を散策した後は、下に戻ってこの池の周りも散策しましょう。
多くの人が釣りをしていて、魚料理が食べられるレストランもあります。
オーストリアにはこのような面白いお勧めスポットがたくさんあります。
7月に入り昨日で学校も終わり、休暇シーズンに突入しました。
Ferien・・・夏休み、社会人はUrlaub・・・休暇です。
今年はコロナ禍3回目の休暇シーズンとなりましたが、多くの人が色々な所出かけるでしょう。
自分のそばでも3年ぶりに日本に帰る人も多いです。
必ずしも外国に行かなくても、オーストリアには訪れる価値大のスポットが無数に点在しています。
今日は地元で知られているFreilichtmuseumのひとつを紹介します。
こちらはFreilichtmuseumのひとつであるMuseumsdorf Niedersulzです。
Freilichtmuseumとは野外博物館ですね。
ここはウィーン中心部・・・国立オペラ座からだと北北東へ車で52km程走ったNiederösterreichのWeinviertelの一角Niedersulzにあります。
野外博物館ですから展示物や建築物が屋外にあり、見たり触ったりと実際にその場所で当時の人々が今でも生活しているようなリアリティーな感覚を楽しめます。
ヨーロッパでの多くのFreilichtmuseumはその当時の人々の暮らし、文化などが分かる民俗学的な博物館であることが多いです。
この野外博物館の起源はこのNiedersulzに住んでいたJosef Geisslerという人物が、このWeinviertelにあった廃校を利用して1977年にWeinviertler Dorfmuseumという博物館をオープンさせ、民俗学コレクションを展示したことから始まっています。
こちらは野外博物館に入口ですが、周りには何もない自然の一角にあります。
この野外博物館の広さは22ha、80の農家風の建物が並び、30の中庭があります。
それぞれの建物にはテーマが決まっていて、この地域の人々がどんなことを営んで、どういう生活スタイルであったかなどを視覚的に見ることができます。
建物ひとつひとつが博物館ですから、物凄い情報量ですね。
80の建物のひとつを紹介します。
こちらは実際に使われていた小学校です。
Weinviertelの典型的なスタイルで1900年頃に建てられました。
当時は生徒数も70~90人と多く、相当賑やかだったことが想像できます。
当時の授業で使われていた物や成績表、オルガンなどが展示されています。
いわゆる校庭がありましたが、運動とかではなく、授業でも利用する果物や野菜などを植えていた菜園でした。
そしてここには先生一家も住んでいたんですね。
自然の中にあるのでハイキングではありませんが、それに近い感覚で自然を堪能しながらこの地域の文化に触れられます。
また羊、山羊、豚、ロバ、鶏なども飼われていて、直接触れることもできます。
敷地が広いだけでなく、それぞれの建物に入れますので、結構歩きます。
疲れたらレストランやカフェテラスなどもあるのでのんびりできます。
入場料は大人12ユーロですが、18歳までの子供は無料です。
もちろん一般観光向けではありませんが、ここはお勧めです。
オーストリアにはガイドブックなどでは紹介されない、しかし地元では有名な場所がたくさんあります。
興味ある方はこちらをご覧下さい→Museumsdorf Niedersulz
ウィーンに初めて観光で訪れた方はまずシェーンブルン宮殿は行かれるでしょう。
シェーンブルン宮殿はヨーロッパでも重要なバロック建築であり、世界遺産にも登録されています。
ここはオーストリアのひとつの観光スポットとしては最も多くの方が訪れます。
一般団体ツアーでもシェーンブルン宮殿はたいてい観光ポイントに入っています。
ここは庭園も広くて色々な観光スポットがあり、シェーンブルン宮殿だけで余裕で1日過ごせます。
一般団体ツアーの場合は、宮殿内部の見学をした後、フリータイムを取るのが普通で、その時にほとんどの皆さんは庭園に行かれるわけですが、団体ツアーの場合は他の観光内容が詰まっているのでせいぜい30分ぐらいしか時間がありません。
庭園に行くと岡の上にはグロリエッテが見えていて、あそこまで行きたいな・・・という気持ちにさせてくれますが、宮殿見学を終わって集合時間まで30分なので、庭園に行けてもグロリエッテまでは全速力で走らない限り、とても行く時間はありません。
宮殿の後ろに回り込むと美しい庭園が広がっています。
奥の丘の上に堂々と立っているのがグロリエッテです。
もともとこの丘の上に宮殿の本館が建てられるはずでしたが、残念ながらそれは実現しませんでした。
ここに宮殿の本館ができていたら物凄い規模になっていたでしょう。
ここから見てもグロリエッテは決して近くなく、坂になっていますからかなり遠いことがわかります。
頑張って坂道を上って行くと、思っていたよりもグロリエッテがかなり大きく見られます。
グロリエッテは、庭園内最後のものとして、ホーエンベルクによって当初は栄誉神殿と素晴らしい眺めを念頭にプランしたようで、完成は1775年です。
いくつかの不条理な戦争に勝利したことにも捧げられています。
グロリエッテの中央上の部分には、単頭の鷲が置かれています。
ラテン語で、「皇帝ヨーゼフ2世とマリアテレジアの治世の下で」という意味が記されています。
全体の長さ135.3m、高さ25.95m,幅14.6mです。
下から見てる以上に大きいものです。
宮殿と庭園の眺めが美しいのは、グロリエッテの手前、芝生の終わりから眺める方がいいです。
この芝生とグロリエッテの間には池があります。
グロリエッテから眺めると池が邪魔して、宮殿の庭園部分は隠れてしまいます。
池を後ろに見て、宮殿側を眺めて下さい。
ウィーン中心部は宮殿正面に向かってずっと右側になります。
是非、グロリエッテまで行きましょう!
写真は2022年5月5日12:50頃の撮影ですが、この時ライブオンラインツアーVol.95をここからお届けしました。
ウィーンの街にはドナウ河が流れています。
ドナウ河はヨーロッパでは2番目の長い河で、全長約2.860km、ドイツを水源として、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナと10ヵ国を通り、最後は黒海まで流れています。
その中でオーストリアのドナウは約350kmです。
全長2800km以上あるドナウ河の最も美しい所と言われている有名な「ヴァッハウ渓谷」は、幸いにしてこのオーストリアに位置しています。
ドナウ河は昔から重要な役割を担ってきました。
ギリシャ人達ももちろんドナウは知っていましたし、ローマ時代にはドナウ河が国境ともなり、そのドナウ河沿いには重要な街がいくつもありました。
ウィーンもその街のひとつです。
ウィーンのドナウ河は、永年からの河川工事のおかげで、現在見られる姿になっています。
ウィーンのドナウ河は大きく分けて4つあり、本流、新ドナウ、旧ドナウ、運河です。
ウィーンは歴史的にドナウ河の氾濫に悩まされてきました。
雨が降ったり、雪解け水が入り込むとすぐに水が溢れてきたのです。
そこで、河川工事が何回も行われては流されて・・・そんな繰り返しでした。
昔の地図を見ると、ウィーンのドナウ河は、網の目のようにぐにゃぐにゃになって、広範囲にわたって流れていました。
現在の姿になったのは、リンク道路建設時代に、昔の中心に流れ込んだラインを運河とし、さらに本流として、そのぐにゃぐにゃをほぼ直線的に川幅をたっぷりとり整備しました。
その100年後の1987年に、2回目の大きなドナウ治水工事を行った結果、新ドナウが作られます。
これは、本流と並行して流されています。
さらに昔の支流が、新ドナウのずっと奥に残されていて、大きく全部で4本あるわけですね。
ウィーンに入る直前で、ドナウは本流と新ドナウに分かれ、その後本流から街の中心に行く運河が枝分かれしていきます。
ちなみに新ドナウを作る際、本流の隣に作ったわけですから、真ん中が盛り上がった部分が生じ、そこを「Donauinsel」ドナウインゼルという人口の島にしました。
全長20km以上にわたってウィーンを横たわっています。
この写真はウィーンのドナウ河のNeue Donau (ノイエ・ドナウ,日本語では新ドナウと呼んでいます)です。
下流方面に向かっての光景です。
左側奥には現代建築が多くある国連都市界隈とドナウタワーが見えています。
右岸は人口の島ドナウインゼルです。
写真ではとても人口の島とは思えませんね。
新ドナウには水門が設置されていて、同時に水を濾しています。
本流に水を流しきれなくなると新ドナウの水門を調整し、新ドナウにも水を流します。
その時新ドナウの水はもちろん濁りますが、時間と共にまた綺麗になります。
美しき青きドナウをイメージできるのは新ドナウで、天気のいい時には本当に水は青く見えます。
この写真は何の加工もしていませんが、青く見えますね。
新ドナウは通常、飲料水に匹適すると言われるぐらい水質がいいです。
こちらは上流方面に向かっての眺めです。
左側にはウィーンの森のレオポルズベルクがちょっとだけ見えていますね。
これがヨーロッパアルプスの東側の一番端っことなります。
ウィーン市を流れるドナウ河の本流の幅は長い所で約350m
新ドナウの幅は長い所で約210m
Alte Donauは幅約300m、長さ5.2km
ドナウ運河は幅約50m、長さ17.5km
ドナウ河は現在でも水が溢れ、オーストリアの郊外では水害がありますが、ウィーンの街はこれだけ水を分散させることによって水害から守られているわけです。
写真は2枚共2022年4月30日15:50頃に撮影しました。
昨日から強い風が吹き荒れているウィーンです。
数日前と比べると少し暖かく、今日は9℃弱、明日からは6℃ぐらいと予報が出ています。
今週の月曜日から学校も始まり、コロナに関する規定が少し厳しくなっています。
外でも他人との間隔を2m保てない場所では、FFP2マスクを着用したり、一般店舗に入るためには2G規則のコントロール強化など行われています。
定期的にライブオンラインツアーをやりながら街の様子を観察していますが、あまり厳粛なムードは感じませんね。
街中もそれなりに人は出ていますが、自然の中を散歩する人が増えています。
今日は大晦日に散歩したウィーン郊外の・・・と言っても(ウィーン市ですが)Marchfeldkanal(マルヒフェルト運河)の様子です。
ウィーンの有名なホイリゲ街であるStammersdorfの界隈はStadtwanderwegと呼ばれるウィーン市が定めているハイキングコースの5号線があったり、またEuro Vero(ユーロヴェロ)というヨーロッパのサイクリングコースもあるので私は時間ある時に散歩をしたりサイクリングなどを楽しんでいます。
そこに非常に近い所にMarchfeldkanal(マルヒフェルト運河)があります。
マルヒフェルト運河は、Niederösterreichから、ウィーンの北側を通り、再びNiederösterreichのRußbachに流れ込んでいる全長約18kmの川のような水路です。
ちなみにRußbachは、Niederösterreich のWeinviertelを流れ、Hainburgでドナウ河に流れ込む約71kmの川です。
マルヒフェルト運河はマルヒフェルト運河システムの一部です。
マルヒフェルト運河システムはドナウ河の水をマルヒフェルト地域に流し、自然地下水の維持と農工業の水使用の持続確保、水害防止、自然の中でのくつろぎを主な目的とした、国とNiederösterreichのプロジェクトです。
運河と言っても実際にここを歩くとわかりますが自然の川のようです。
この川の両側に散策コースが整備されていて、のんびり散歩している人や自転車で走っている人が多くいます。
ここには様々な鳥や魚なども生息していて、ホタルやビーバーも見られます。
大晦日のこの日は結構暖かくて、青空が広がるいい天気でした。
外に出ている人が多くいましたね。
左の写真奥に見えている山はカーレンベルクで標高484mです。
ここからだとウィーン中心部から見るよりも違った感じです。
マルヒフェルト運河には全部で45の橋が掛けられていて、その橋を渡ってそれぞれの反対側に行くことができるようになっています。
散歩している人や自転車で走る人、ノルディックウォーキングやジョギングなどここを歩くと地元の様々な人に出会います。
とてもウィーンとは思えない長閑な風景です。
2021年最後の散歩でした。
いよいよ今日がクリスマスですね。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の昼過ぎには部屋に入れてネットを外して飾ります。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イヴの話題にしたいと思います。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
今年はまだコロナ禍ではありますが、11月22日のロックダウンまで、そしてそれが解除された12月11日以降クリスマス市も再開となり、去年よりはクリスマスの空気を楽しむことができました。
皆さんも良いクリスマスを!
Frohe Weihnachten!
ウィーンは今週も毎日いい天気が続いています。
気温は日中12℃前後、秋の青空の下で多くの人が散歩を楽しんでいます。
本当に気持ちがいいです。
今日はうちがよく散歩するMarchfeldkanal(マルヒフェルト運河)の秋をお届けします。
ウィーンの有名なホイリゲ街であるStammersdorfの界隈はStadtwanderwegと呼ばれるウィーン市が定めているハイキングコースの5号線があったり、またEuro Vero(ユーロヴェロ)というヨーロッパのサイクリングコースもあるので私は時間ある時に散歩をしたりサイクリングなどを楽しんでいます。
そこに非常に近い所にMarchfeldkanal(マルヒフェルト運河)があります。
マルヒフェルト運河は、Niederösterreichから、ウィーンの北側を通り、再びNiederösterreichのRußbachに流れ込んでいる全長約18kmの川のような水路です。
ちなみにRußbachは、Niederösterreich のWeinviertelを流れ、Hainburgでドナウ河に流れ込む約71kmの川です。
マルヒフェルト運河はマルヒフェルト運河システムの一部です。
マルヒフェルト運河システムはドナウ河の水をマルヒフェルト地域に流し、自然地下水の維持と農工業の水使用の持続確保、水害防止、自然の中でのくつろぎを主な目的とした、国とNiederösterreichのプロジェクトです。
運河と言っても実際にここを歩くとわかりますが自然の川のようです。
この川の両側に散策コースが整備されていて、のんびり散歩している人や自転車で走っている人が多くいます。
ここには様々な鳥や魚なども生息していて、ホタルやビーバーも見られます。
マルヒフェルト運河には全部で45の橋が掛けられていて、その橋を渡ってそれぞれの反対側に行くことができるようになっています。
散歩している人や自転車で走る人、ノルディックウォーキングやジョギングなどここを歩くと地元の様々な人に出会います。
とてもウィーンとは思えない長閑な秋の風景です。
先日久しぶりにシェーンブルン宮殿に仕事で行きました。
まだまだコロナ禍ということで空いていましたね。
昨日シェーンブルン宮殿からメールが来て、今年のクリスマス市は3G規則の下、開かれることになりました。
まだひと月ほど先ですがどうなるでしょうか。
さて、ウィーンに初めて観光で訪れた方はまずシェーンブルン宮殿は行かれるでしょう。
シェーンブルン宮殿はヨーロッパでも重要なバロック建築であり、世界遺産にも登録されています。
ここはオーストリアのひとつの観光スポットとしては最も多くの方が訪れます。
一般団体ツアーでもシェーンブルン宮殿はたいてい観光ポイントに入っています。
ここは庭園も広くて色々な観光スポットがあり、シェーンブルン宮殿だけで余裕で1日過ごせます。
一般団体ツアーの場合は、宮殿内部の見学をした後、フリータイムを取るのが普通で、その時にほとんどの皆さんは庭園に行かれるわけですが、団体ツアーの場合は他の観光内容が詰まっているのでせいぜい30分ぐらいしか時間がありません。
庭園に行くと岡の上にはグロリエッテが見えていて、あそこまで行きたいな・・・という気持ちにさせてくれますが、宮殿見学を終わって集合時間まで30分なので、庭園に行けてもグロリエッテまでは全速力で走らない限り、とても行く時間はありません。
宮殿の後ろに回り込むと写真に見られる美しい庭園が広がっています。
奥の方に堂々と立っているのがグロリエッテです。
もともとこの丘の上に宮殿の本館が建てられるはずでしたが、残念ながらそれは実現しませんでした。
ここに宮殿の本館ができていたら物凄い規模になっていたでしょう。
ここから見てもグロリエッテは決して近くなく、坂になっていますからかなり遠いことがわかります。
ここからの眺めだって絵になりますが、やっぱり近くに行って見たいですね。
グロリエッテは、庭園内最後のものとして、ホーエンベルクによって当初は栄誉神殿と素晴らしい眺めを念頭にプランしたようで、完成は1775年です。
いくつかの不条理な戦争に勝利したことにも捧げられています。
グロリエッテの中央上の部分には、単頭の鷲が置かれています。
ラテン語で、「皇帝ヨーゼフ2世とマリアテレジアの治世の下で」という意味が記されています。
全体の長さ135.3m、高さ25.95m,幅14.6mです。
下から見てる以上に大きいものです。
世界遺産のひとつであるヴァッハウ渓谷はドナウ河の一番美しい所として知られています。
このヴァッハウ渓谷のハイライトがDÜRNSTEIN(デュルンシュタイン)です。
ここは仕事でも個人的にもよく行く所で、私も大好きです。
前回は先日家族と散策に出かけた時に撮影したデュルンシュタインの一角、その2を動画でお届けしましたが、今日はこの街にある廃墟のお城からの眺めを掲載します。
デュルンシュタインの街から30分弱で登って来られますが、結構な急坂でそれなりに息が切れます。(笑)
今日までは日中25℃ぐらい、秋の青空が広がるいい天気ですが、明日からは雨マークが登場していて、気温もかなり下がりそうです。
10月1日から新型コロナウィルス対策措置が厳しくなっているウィーンですが、街中は多くの人が繰り出していて、この気持ちいい陽気を満喫しているようでコロナ禍であることを忘れてしまいそうです。
ウィーンは街中を歩くだけでも楽しいですが、外側にも魅力的な所が数多くあります。
今日はうちがよく散歩するウィーン21区のMarchfeldkanal(マルヒフェルト運河)をお届けします。
ウィーンの有名なホイリゲ街であるStammersdorfの界隈はStadtwanderwegと呼ばれるウィーン市が定めているハイキングコースの5号線があったり、またEuro Vero(ユーロヴェロ)というヨーロッパのサイクリングコースもあるので私は時間ある時に散歩をしたりサイクリングなどを楽しんでいます。
そこに非常に近い所にMarchfeldkanal(マルヒフェルト運河)があります。
ここでも上の写真に見られるようにウィーンとは思えない長閑な風景に出会えます。
"Kanal"は運河です。
ウィーンの中心部にもDonaukanalがありますね。
マルヒフェルト運河は、Niederösterreichから、ウィーンの北側を通り、再びNiederösterreichのRußbachに流れ込んでいる全長約18kmの川のような水路です。
ちなみにRußbachは、Niederösterreich のWeinviertelを流れ、Hainburgでドナウ河に流れ込む約71kmの川です。
マルヒフェルト運河はマルヒフェルト運河システムの一部です。
マルヒフェルト運河システムはドナウ河の水をマルヒフェルト地域に流し、自然地下水の維持と農工業の水使用の持続確保、水害防止、自然の中でのくつろぎを主な目的とした、国とNiederösterreichのプロジェクトです。
運河と言っても実際にここを歩くとわかりますが自然の川のようです。
この川の両側に散策コースが整備されていて、のんびり散歩している人や自転車で走っている人が多くいます。
ここには様々な鳥や魚なども生息していて、ホタルやビーバーも見られます。
マルヒフェルト運河には全部で45の橋が掛けられていて、その橋を渡ってそれぞれの反対側に行くことができるようになっています。
散歩している人や自転車で走る人、ノルディックウォーキングやジョギングなどここを歩くと地元の様々な人に出会います。
ウィーンのこのような所も素敵です。
ウィーンに来たら絶対に見逃すことができないシェーンブルン宮殿は、本来であれば毎日たくさんの人で賑わっています。
先日仕事でシェーンブルン宮殿に行き、宮殿内部見学以外にも庭園を散策しましたが、かなり空いていました。
シェーンブルン宮殿に来たら、たいてい宮殿の内部見学をされると思いますが、ここはできれば時間をとって庭園をゆっくり見て頂きたいと思います。
ここシェーンブルン宮殿は余裕で1日過ごすことができます。
時間がなくてもせめて丘の上にあるシェーンブルン宮殿のシンボル的なグロリエッテには行って頂きたいです。
さてこのシェーンブルン宮殿の庭園一角に、シェーンブルン宮殿の名前になっているSchöner Brunnen (シェーナー ブルンネン)・・・美しい泉があります。
こちらがシェーンブルン宮殿の謂れになっている「美しい泉」です。
このシェーンブルン宮殿とハプスブルグ家は、もともとカッターブルクと呼ばれていたこの場所を1569年に皇帝マクシミリアン2世が入手することから始まっています。
一般的にこの泉は、マティアス皇帝(マクシミリアン2世の息子のひとりで在位1612~1619)が狩猟の最中に発見し、「何と、美しい泉だ!」と表現したと言われていますが、最近の研究ではマクシミリアン2世の時代の1569年以降の古文書で確認されていて、1573年には泉を保護する木材が調達されています。
この場所にはAdrian van Steckhovenが作った泉の家がありましたが、1771年ヴァンセンヌ生まれでウィーンで亡くなる宮廷建築家Isidore Canevaleの設計により、現在見られるように新しくされました。
小さなパビリオンのようで、前と後ろにはアーチが施されています。
この写真ではわかりませんが、鳥が入って来ないように網が張られています。
このパビリオンの中にある美しい彫刻は、Wilhelm Beyerによって1780年に作られたものです。この人物は泉のニンフ(精霊)のエゲリアで、彼女の右手の壺から水が流れ出ています。
エゲリアはローマ神話に登場する、同名の泉(水)の精霊です。
この水はかつてシェーンブルン宮殿で、重要な飲料水として、ウィーンの上水道が引かれるまで使用されていました。
パビリオン内部の壁は、鍾乳石模様と花の模様が施されています。
この「美しい泉」は2年越しで修復され、2014年の5月に完了しました。
修復費用は、285.000 ユーロということです。
この庭園のグロリエッテを見て正面に見られる泉が、よく「美しい泉」と思われる方がいらっしゃいますがそうではありません。
「美しい泉」はローマの廃墟の近くで、グロリエッテを正面にして、時計の針10:30ぐらいの方向に行った、ちょっとわかりにくい場所にあります。
世界遺産のひとつであるヴァッハウ渓谷はドナウ河の一番美しい所として知られています。
このヴァッハウ渓谷のハイライトがDÜRNSTEIN(デュルンシュタイン)です。
ここは仕事でも個人的にもよく行く所で、私も大好きです。
前回は先日家族と散策に出かけた時に撮影したデュルンシュタインの一角を動画でお届けしましたが、今日はその続編で、ここのメイン通りとその界隈をお届けします。
世界遺産のひとつであるヴァッハウ渓谷はドナウ河の一番美しい所として知られています。
このヴァッハウ渓谷のハイライトがDÜRNSTEIN(デュルンシュタイン)です。
ここは仕事でも個人的にもよく行く所で、私も大好きです。
今日は先日家族と散策に出かけた時に撮影したデュルンシュタインの一角を動画でお届けします。
下から見ると意外と近いように見えるんですが、片道25分ぐらいかかります。
ここへの登り口はデュルンシュタインの街のメイン通りからそのまま登って行くルートと、メイン通りのちょっと外側から登って行くルートがあります。
道は所々岩が突き出ていて、歩幅を広げる箇所もあり、また階段もかなり多くあります。
後半になると坂が結構きついです。
そしてやっと廃墟のお城が見えてきて・・・しかしまだ頂上ではなく、そこからさらに先に行き、この廃墟のお城自体に登れるようになっています。
廃墟のお城の頂上に着くと、登って来た苦労を忘れさせる、ほぼ360度の素晴らしい眺めが楽しめます。
ここから眺めるドナウ河はとても印象深いものとなるでしょう。
周辺の街やぶどう畑が絵のように目前に広がります。
船下りをして少し街を散策してからウィーンに向かうというパターンが圧倒的に多いわけですが、時間が許せる方は、是非、このクエンリンガー城に登ってみて下さい。
絶対にお勧めです!
私が大好きなヴァッハウ渓谷は全長2.800km以上あるドナウ河の最も美しい所であり、船下りの名所として人気があり、また世界遺産にも登録されています。
ヴァッハウ渓谷は仕事ではもちろんですが、個人的にもよく出かけていまして、先日も家族と散策楽しみました。
ここには色々な街がありますが、やっぱりヴァッハウ渓谷の定番の街と言えばデュルンシュタインでしょうか。
デュルンシュタインはドナウ河沿いにある人口900人弱のおとぎ話に出て来るようなとても可愛らしい小さな街で、少し高い所に位置しています。
1002年に皇帝ハインリヒ2世によってこの辺りはTeegernsee修道院に贈られ、そこからAzzo von Kuenring (クエンリンガーの先祖)がここを入手しました。
クエンリンガーは11世紀初頭にバイエルン=ザクセン地域からこの辺りに住み始め、14世紀半ばまで支配します。そのクエンリンガーの時代の12世紀半ばにはここにお城が作られています。
デュルンシュタインという名は1192年の初めて登場したようです。
1192年12月21日~1193年3月までイギリスのリチャード獅子親王がオーストリアバーベンベルクのレオポルド5世によって幽閉され、多額の身代金をイギリスからもらった・・・
王の到着が遅れ、心配した家臣のブロンデルが王の好きな歌を歌いながら王を探し歩いた・・・という有名な出来事です。その幽閉されていたお城が現在では廃墟となっているクエンリンガー城ということになっています。
クエンリンガー城がこの街のもっと上の方に見えています。この廃墟からのお眺めはとても素晴らしいものがあります。廃墟のお城クエンリンガー城を参照して下さい。
この街は1476年に皇帝フリードリヒ3世から権利をもらい、紋章を受け取りました。
16世紀半ばには大火災があり街が全焼しました。そこから10年間ここの住人は税金を使用して街を復興させることが許されました。
クエンリンガー城は30年戦争の時にスウェーデン軍によって廃墟になりました。
1902年の帝国時代にはすでにここの船着き場がオープンしています。
街はメイン通りが1本しかなく、他にはちょっとした脇道とクエンリンガー城への道があるだけです。
昔の城門や城壁が残り、山の斜面に街ができています。
船着き場からメイン通りに来るには船着き場から一番近い洞窟的な階段ルートと、数本の坂道ルートがあります。
ここは聖堂参事会修道会として当時使われた青と白の独特な教会があることで知られています。
小さなホイリゲや有名な古城ホテルもあり、ドナウ河沿いをのんびり散策することもできますので、ここは十分1泊する価値がある街です。
雨が多かったせいで、ドナウ河がかなり濁っているように見えますね。(笑)
ウィーンの街は旧市街を歩いているだけだと狭いと思われる方が多いと思いますが、この街はとても広いです。
東京と同じ23区で成り立ち、街の面積は415km²もあり、見所も中心以外に多く点在しています。
東京は市がたくさんありますが、ウィーンはStadt Wienですからウィーン市です。
ウィーンを高い所から眺めようと思えば多くの可能性があります。
中心ではシュテファン大聖堂の塔に上るのが手っ取り早いですね。
大観覧車から見るというのもいいでしょう。
どちらも街中ですから素敵な眺めを楽しめても、街全体というわけではありません。
天気が良くて時間があればウィーンの北の森カーレンベルクに行って見ましょう。
カーレンベルクはウィーンの北の森の一角にあり、観光で最も行き易いウィーンの森でしょうか。
ここから見るとウィーンの街がヨーロッパアルプスの一番の東側であるウィーンの森に囲まれていることがよくわかり、ドナウ河が街を流れているのもしっかり見られます。
ライブツアーVol.38でここからの眺めを御案内していますが、その1週間後にもカーレンベルクに来ました。
その時に撮影した動画をお届けします。
ウィーンは森の都・・・ヨーロッパの街の中では街の広さに対し緑の比率が最も高いです。
ウィーンの街を歩けばここは緑が多いな・・・ということを実感できます。
この時期のウィーンは緑が溢れていますね
でもいくら森の都ウィーンでも"豊かな自然を感じられる"と言えば公園以外では中心部ではほとんど見ることができませんね。
公園だって前からあった木などは残したかもしれませんが人工的に作ったわけですから、そういう意味では本当に自然とは言えないのかもしれません。
本当に自然を感じようと思えばやはり郊外に行くことになります。
観光レベルで手っ取り早いのはウィーンの森でしょう。
しかし観光で行くウィーンの森は言われある有名な決められた場所のみで、実際に地元の方々は有名所はさることながら様々な場所で自然を楽しんでいます。
オーストリアはウィーンを離れると長閑な美しい風景が広がっている国で、ウィーンの郊外を始め、国内には豊かな自然が広がっています。
そんな自然の中に小さな美しい街が点在しているのがオーストリアのまた魅力のひとつです。
私も時間がある時には家族と色々な所に出かけています。
うちのお気に入りのスポットとして"Blockheide"(ブロックハイデ)があり、ここは毎年数回は行きますが、先日おにぎりを持って出かけてきました。
BlockheideはNiederösterreichのWaldviertel(ヴァルトフィアテル)の一角にあるオーストリアの自然公園のひとつで、チェコとの国境に隣接するオーストリアのGmünd(グミュント)の目と鼻の先にあります。
ウィーンからは車で約140kmと結構離れていますが歴史的にも重要な場所で、新石器時代からの跡が確認されていて地元でも有名です。
ここは入口が2ヵ所ありますが、うちはいつもこの右側の写真に見られる入口から入りますが、車はここから数百メートル歩いた所の駐車場に止めます。
こちらからの方が自然公園内にあるInfoセンターや展望台に近いんですね。
上の写真はこのBlockheideの見取り図で、以下に示すように色分けされた4つの散策コースがあります。
GRANIT-TOUR (2,9 km)
MYTHOlogieTOUR (3,5 km)
LANDSCHAFTSkulTOUR (2,8 km)
MARIENKÄFERWEG (5,6 km)
上からそれぞれ花崗岩コース、神話コース、風景コース、てんとう虫コースです。
中に入ると、草原地帯、池、森、そして一番重要なこの自然から形成された巨大な石の塊をいくつも見ることができます。
こちらはChristophorussteinです。
不思議な形の石の塊がこのように重なっているのです。
とにかく巨大な石です!
こちらはPilzsteinで、名前の通りキノコの石ですね。
人影が見えてますが、この石がどれだけ巨大かがわかります。
この辺りは今年、かなり雨が多く降っていると思われます。
いつもよりも苔の色が新鮮で湿気が感じられました。
この辺りは"Bömische Masse"(ベーミッシェ・マッセ)と呼ばれ、現在ではオーストリアの国境界隈からチェコを含む地域です。
古生代(約5億4200万 - 約2億5100万年)に形成された山脈の残りとなっています。
つまり、この巨大な石はそれだけの年月が経っているということになります。
豊かな緑、森林地帯がコースになっていて、大きな池もあり巨大な石は一箇所に集中してわるわけではなく、それぞれ散らばってたくさん横たわっています。
自然公園の中には売店も兼ねたインフォセンターがあり、そこには2003年に作られた展望台があります。
今回は展望台の写真はここに掲載しませんが、ここに上ってみることもお勧めします。
前述したインフォセンターの反対側にはちょっとしたレストランがあり、いつも賑わってますが、うちはいつもおにぎりを持って行きこの自然公園のどこかで食べる習慣があります。
自然公園内にはくつろげるベンチやテーブルなどが多く設置されていて、自然保護地域としてよく手入れされています。
ここは自然と歴史、特に地質学的にも非常に面白い所です。
今回ここに掲載したBlockheideの写真は2021年7月20日に撮影したものです。
オーストリアの郊外には美しい街がたくさんあります。
ウィーンはオーストリアで最も人口が多い184万の街ですが、2番目に人口が多いグラーツですら29万1.000人しかいません。
人口数万人から数千人単位の美しい街が国内にはたくさん点在しています。
その中で今日はクラーゲンフルトからの話題です。
オーストリアの南に位置するケルンテン州の州都Klagenfurt am Wörtherseeは(クラーゲンフルト・アム・ヴェルターぜー)は私が大好きなWörtherseeのすぐ東に位置した人口101.000人の小さい街ですが、中心部はオーストリア典型的な明るさと美しさがあります。
クラーゲンフルトのシンボルと言えば"Lindwurm" (リントヴルム)です。
"Lindwurm" (リントヴルム)は日本語でもリントヴルムと呼んでもいいと思いますが、伝説上の生き物で翼があるドラゴンです。
クラーゲンフルトのNeuer Platzにはこの"Lindwurmbrunnen"という有名な噴水があります。
1583年にケルンテン等族からの命令によりが伝説上の生き物の記念碑を作ることになりました。
このLindwurmはこのクラーゲンフルトの地元の山であるKreuzberglから切り出された単体のクロライト(緑泥石)から作られています。
製作者は長く Ulrich Vogelsangだと思われていましたが、どうやら違っているようで無名の彫刻家だどうということに現在ではなっています。
非常に攻撃的なLindwurmはマニエリスム的な要素も見られ、しかしロマネスク的な部分も感じられます。
1593年にこの600トンもあるLindwurmが300人の白の服を着た若者達によってこの場所に運ばれました。
当初このLindwurmは頭を北に向けていて、噴水はありませんでしたが、(プランには描かれていましたが)1624年には噴水が作られ、現在の向きに動かされたようです。
1634年にはGeorg Tillitzniよって後期ルネッサンス様式の花の模様を伴った囲いが噴水に作られました。
1636年にはヘラクレスの像が追加されていますが、彼の持っているこん棒こそこのクラーゲンフルトの街ができたことと、このLindwurmに大きな関係があります。
1972年にこの広場の下には地下駐車場が作られましたが、その際にLindwurm噴水は現在の位置に移されました。
こちらがLindwurm噴水の全体です。
ここにはヘラクレスは写っていません。
しっぽに特徴があり、恐怖感が漂っていますね。
クラーゲンフルトのLindwurm伝説
Karast公爵の時代、この辺りはWörtherseeからDrau河まで湿った苔が多くあり、野生の木々や茂みがある地域でした。
山側は放牧地域になっていたので人々や家畜はいましたが、逆にこの地帯には誰も人が立ち入ることがありませんでした。
稀に人が入ると、その不気味な暗闇からは誰も戻っては来ませんでした。
また牛なども消えてしまい、羊飼いなどがいくら探しても見つかりませんでした。
この地域はいつも深い霧に覆われていたので、人間や動物を殺すような殺人鬼を誰も見ることがありませんでした。
さて、公爵は大勢の中から勇気ある者に、この殺人鬼のいる場所を突き止めて、退治する命令を出しました。
しかし、恐怖から勇気ある者達も退いてしまいます。
ある策略だけがこの殺人鬼をおびき出すことができたのです。
その後まもなくこの沼地の端に頑丈な塔が作られ、その塔の中から相手に悟られることなく遠くを見渡せることができるようにしました。
勇気ある少人数の下男たちが退治した時の報酬に引かれて戦いに挑みました。
その報酬とは策略と力で殺人鬼を退治した勇気ある者には川からのこの土地、十分なお金、
もし奴隷であれば自由を与えることでした。
肥えた雄牛を鎖でつなぎ、そこに釣り針のような鉤を取り付けました。
雄牛の鳴き声がこの一帯にこだまし、まもなく沼地から水しぶきが立ち上がり、羽としっぽを持った巨大な生き物がまるで槍のように飛び出してきました。
そして雄牛を飲み込むために大きな口が開かれます。
その時魚を釣るように鉄の鉤がドラゴンに口の中に刺さり、ドラゴンは怒りからしっぽを振り回してさらに尖った足で雄牛を深くつかみます。
その時素早く下男達が飛び出し、鉄のこん棒でドラゴンをやっつけてこの場所はドラゴンから解放されました。
このドラゴンと戦った場所に平和な村ができ、塔が立っていた場所には公爵によってお城が作られます。
この村とお城が時と共に発展して現在のクラーゲンフルトが生まれることになります。
ウィーンの眺めを高い所から楽しもうと思うと一番手っ取り早いのはシュテファン大聖堂の両方の塔に上るのがいいでしょう。
ウィーンのちょっと珍しいアングル15で紹介したような眺めが楽しめます。
また、ちょっと中心から離れた所ではプラター公園の大観覧車もお勧めです。
また時間があればカーレンベルクなんかもいいでしょう。
でも今日紹介するここからの眺めは私個人的にはとても素敵だと思っています。
ウィーンの街を360℃の大パノラマで見渡せます。
上の写真のほぼ中央に先が尖った塔が見えています。
あそこがシュテファン大聖堂でウィーンの旧市街地ということになります。
シュテファン大聖堂のすぐ左側に見えている黒くて細長い建物はDCタワーです。
どちらかと言うと北の方へ向かっての眺めです。
こちらは1枚目の写真から少し左に動いた眺めです。
手前に見える印象的な教会はマリアヒルファー教会で、正面側の2本の塔と後ろにある塔が見えています。
その教会の向かって左側の塔のすぐ左側に見られる四角い黒い2つの建物はウィーンの総合病院AKH (アルゲマイネス・クランケンハウス)です。
写真右側奥にうっすらと見えている手前の塔は市庁舎、その右側には実は2本の塔があるヴォティーフ教会です。
画面の一番奥に見られる山がウィーンの森です。
こちらは2枚目の写真からさらに左に移動した所からの風景です。
建物がどのように建っているかや、屋根裏部屋などが印象的です。
ずっと多くにはウィーンの森が見えています。
こちらは3枚目の写真からもっと左側に動いています。
一番右に見えているドームはMaria vom Siegeという教会でその教会のすぐ後ろ側がウィーンの西駅になります。
ウィーンの森の南方面への視界が広がっていますね。
いかがですか?
かなり印象的だと思います。
この続きはまた数日後に掲載しますので、その時にどこからの眺めか分かります。
今日は朝4:30の時点で2.7℃だったウィーンです。
今週は先週よりもかなり暖かくなりそうです。
もっともウィーンは広い街ですから、場所によって気温の違いが生じます。
ウィーンの森に近い緑が多い地域だと気温は中心部より低いことが多いです。
今日は街中の一角にあるちょっとした場所を紹介します。
ウィーン9区の一角に地元でよく知られたStrudlhofstiege(シュトゥルードゥルホーフシュティーゲ)という、Pateurugasse と階段の名前と同じStrudlhofgasseの高低差を結ぶ絵になる美しい階段があります。
こちらがそのStrudlhofstiegeです。
Währingerstraßeから現在のこの階段に向かって1808年から通りがありました。
このちょっと小高い所をPeter Strudel というオーストリアの彫刻家・画家が所有していました。
彼はここに1690年にStrud(e)lhofという名のプライベートの絵の学校を設立します。
この学校は評判がよく、1705年には皇帝アカデミーに格上げされ、Strudel が亡くなる1714年まで運営されていました。
1907年、当時のウィーン市長カール・ルエーガーの時代に、この小高い場所から、現在のLiechtensteinstraßeに向かって階段を伴った歩行者用の通路を建設することが決められました。
この階段はTheodor Johann Jaegerのプランによるもので、
Mannersdorf (ブルゲンラント州のライタ山脈にある街)からの石灰岩が使われています。
ちなみにウィーンのリンク道路上の荘厳な建造物にもここからの石灰岩が多く使われています。
1910年11月29日にこのStrudlhofstiegeのオープニングセレモニーがありました。
今年で110年目にあたるわけです。
このStrudlhofstiegeはユーゲントシュティール様式のとても重要な建造物です。
歩行者用通路が、右へ左へと作られていて徐々に坂を上れるような構造です。
2つの泉も組み込まれ、全体的にシンメトリーに作られています。
この周辺空間にとても自然に、そして美しく溶け込んでいます。
1946~1948年に、Heimito von Doderer (ハイミート・フォン・ドーデラー)によって書かれた小説「Die Strudlhofstiege :oder Melzer und die Tiefe der Jahre」は1951年に出版され、とても知られています。
ここはウィーンの中心部からはちょっと離れていますが、見る価値は十分にあります。
私はオーストリア国家公認ガイドとして毎日様々なお客様にウィーンを、オーストリアを御案内しています。
ウィーンはヨーロッパ文化が凝縮したとても奥が深い街ですから観光箇所がいつも同じわけではなく、多くの組み合わせがあってバリエーションが豊富です。
ウィーンだけではく、ウィーンの森、ザルツブルクやヴァッハウ渓谷、グラーツ、チロル地方など色々な所にも出かけます。
様々な御案内をする仕事ですから、常に人と接しているわけですね。
時として1人になることも必要で、次の仕事までの空き時間などに街並みを見ながらぶらぶら歩いたり、カフェに入ってくつろいだり、近くの公園などに行ったりしますが、それ以外でよく訪れる場所がBotanischer Gartenです。
コロナ禍であるため、以前のように頻繁に訪れることは現時点ではありませんが、昨日家族と散歩に行って来ました。
Botanischer Garten (ボターニッシャー・ガルテン)・・・植物庭園です。
Botanischer Garten は結構中心から近い所、でも観光の皆さんにはあまり気づかれない、しかもウィーンの観光ポイントとしては絶対に外せない有名なベルヴェデーレ宮殿の真横に位置しています。
このBotaischer Gartenはウィーン大学の管轄で、1754年マリア・テレジアの時代から存在していて、80.000m²という市立公園よりも広い敷地には約9500種類もの様々な植物が植えられています。
3月のこの時期は暖冬傾向ということもありたいてい多くの花が咲き始めていて、天気も良かったこともあり多くの人が歩いていましたね。
ここにはベンチも置かれていて、くつろぐことができます。
ウィーンの街中にいるとはとても思えません。
ウィーンの森や郊外にいるような気持ちにさせてくれます。
隣には観光で重要なベルヴェデーレ宮殿があり、本来であればたくさんのツーリストがいて賑やかですが、ここは逆にとても静かで観光で来る人はほとんどなく、地元の人が多く散策しています。
マツユキソウやクロッカスなどが多く咲いていて、春を感じましたね。
もちろん他にも多くの花が咲いていまいた。
この週末のちょっと暖かめの春の空気を多くの地元の人が楽しんでいました。
コロナ禍とは思えませんでしたね。
右の写真ではベルヴェデーレ宮殿が見られます。
簡単にベルヴェデーレ宮殿の庭園に入れるようになっています。
時間がある時にこのBotanischer Gartenの一角に座って、青空と緑を見つめながら気持ちをリフレッシュすることがよくあります。
オーストリアは色々な映画に登場しますが、日本では特に知られている「サウンド・オブ・ミュージック」を知らない方は結構少ないのではないでしょうか。
ドレミの歌、エーデルワイス等、小学校で歌う名曲はこの映画で使われました。
オーストリアの雄大なアルプスの北斜面に位置するザルツカンマーグートとモーツァルトが生まれた街ザルツブルクで撮影され、マリアとトラップ大佐、また大佐の前妻との7人の子供が繰り広げる家族愛をテーマに、オーストリアの美しい風景が至る所に登場します。
この映画は1965年、ロバート・ワイズ監督、ジュリー・アンドリュースがマリア役で登場するミュージカル映画で、アカデミー賞5部門を受賞しています。
映画の中で、大佐の長女リーズルと、郵便配達人のロルフが「もうすぐ17歳」を歌うわけですが、そのシーンに使われたのがこのあずまやです。
夕食中に席を立って、密かにロルフに会いに行くリーズル。
外で待っていたロルフといっしょに踊りながら歌います。
その時に何気なくこのパヴィリオンが登場しますね。
これは撮影当時はレオポルズクロン宮殿にありました。
現在は水仕掛けで有名なヘルブルン宮殿に移されています。
このパヴィリオンはその後、大佐とマリアが「何かいいことが」を歌うシーンでも登場します。
ちなみにこちらはレオポルズクロン宮殿です。
映画では、トラップ邸として使われました。
舞踏会のシーンではマリアが大佐と踊り、外のテラスではカクテルを飲むシーンも出て来ますね。
この宮殿はもともと1736年 Fürsterzbischof von Salzburg Leopold Anton Freiherr von Firmian が自分の家族の居城として建築させました。
1744年、完成間近に彼が亡くなったため、彼は自らの心臓をこの宮殿の礼拝堂の床下に埋めさせたそうです。
現在はホテルとして機能しています。
ザルツカンマーグート、ザルツブルク、ザルツブルク近郊にはサウンド・オブ・ミュージックのロケ場所がたくさんあります!
ウィーンはヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ王朝の居城があり、そのハプスブルグ家の下に歴代神聖ローマ帝国の皇帝や王様の称号が長くあったことから他のヨーロッパの街とは歴史的立場が違っているかつての帝国の都です。
そこでウィーンは様々な人々や色々な物が集まり、ヨーロッパ文化が凝縮したとても奥深い街となったわけです。
さて、ウィーンの王宮界隈には多くのアンティークショップがあり、そこには帝国時代を思い起こさせる多くの物が売られています。
ドロテウムは特に有名ですね。
アンティークショップ以外にも、ウィーンの街中の多くの場所で定期的にのみの市が開かれ、賑わっています。
のみの市と言えばナッシュマルクトの延長上にあるFlohmarktを真っ先に思い出します。
観光の皆さんにもここが開かれる土曜日に重なれば頻繁に御案内をしていますが、ここは早朝から賑わっています。
こののみの市は地下鉄4号線(U4)のKettenbrückengasseの駅舎のすぐ後ろにあり、毎週土曜日の朝6:30~14:00まで開かれています。
写真は2月27日土曜日の11:20頃で、週末ということもありかなりの賑わいを見せていました。
地元の人、観光客からアンティークのプロまで様々な人が訪れます。
使える、使えないは別にして、あらゆる分野のありとあらゆる物が売られています。
アンティーク商品、絵画、おもちゃ、衣料品、レコード、蓄音機、オーディオ関係、ゲーム、置物、書籍、手紙、看板・・・きりがありません。
ウィーンで一番最初のみの市は1972年Am Hofから始まり、すぐに多くの人が集まりました。
その5年後の1977年にこの場所に移ってきたわけです。
つまりここののみの市はウィーンでもっとも古い歴史を持っているわけですね。
ガラクタばかりではなく、それなりにまともな物もあり、その業界の方は朝早くにここに来る・・・というのが定説です。
この"のみの市"は、毎週土曜日朝6:30~14:00までで、土曜日が祝日でもオープンしてます。
12月24日と12月31日が土曜日となった場合は6:30~12:00までです。
唯一の例外は、12月25日が土曜日となり、たまたまその時にここでイベントがある場合のみ開かれません。
実はこの "のみの市"は誰でも店を開くことができるんです。労働許可証は要りませんし、オーストリアに住んでいなくてもいいので、旅行者でもOKです。
ただし1年に3回までと決められています。
これは年度を跨がずにということですので、今から来年の今までということではありまん。
営業場所は大きな場所と小さな場所があり、大きな場所は123個3.2mx2m、小さな場所は246個1.6mx2mで、計369個の営業場所が確保されています。
ウィーン市に払う場所代は、大きい場所が€43,60-,小さい場所が€21,80- です。
申し込みはWiener Marktamt für den 4. bis 6. Bezirk (ウィーン4区、6区の市場役所)に遅くても6週間前までに個人的に行い、場所のチケットは支払い後、すぐにもらえます。
場所チケットは自分が店を出す前日の金曜日12時までには取りに行かなければいけません。
この場所は地下鉄U4の"のみの市"がある駅Kettenbrückengasseのすぐ前にあります。
ここの営業時間は以下の通りです。
月 8:00~12:00, 木 8:00~12:00、13:30~17:30、金 8:00~12:00、土 6:00~12:00
申し込みに必要なものは写真付きの身分証明書が必要です。
以下ウィーン市のホームページです。(ドイツ語)
http://www.wien.gv.at/amtshelfer/wirtschaft/maerkte/markt/flohmarkt/naschmarkt.html
早いもので今日から3月ですね。
コロナ禍のオーストリアでは2月25日に現在の外出規制等措置を3月9日(火)まで延長するオーストリア保健省令が公布されています。
さて、ウィーンの街にはドナウ河が流れています。
ドナウ河はヨーロッパでは2番目の長い河で、全長約2.860km、ドイツを水源として、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナと10ヵ国を通り、最後は黒海まで流れています。
その中でオーストリアのドナウは約350kmです。
全長2800km以上あるドナウ河の最も美しい所と言われている有名な「ヴァッハウ渓谷」は、幸いにしてこのオーストリアに位置して、私も大好きな場所です。
ギリシャ人達ももちろんドナウは知っていましたし、ローマ時代にはドナウ河が国境ともなり、そのドナウ河沿いには重要な街がいくつもあり、ウィーンはその街のひとつです。
ウィーンのドナウ河は、永年からの河川工事のおかげで、現在見られる姿になっています。
ウィーンのドナウ河は大きく分けて4つあり、本流、新ドナウ、旧ドナウ、運河です。
一昨年の春には春の美しき青きドナウについて書きました。
今日はAlte Donauについて少し紹介します。
こちらはAlte Donau(アルテ・ドナウ)で、旧ドナウと私はよく日本語で呼んでいますが、昔のドナウ、古いドナウ・・・なんて意味でしょうか。
中心から見た場合は一番外側にある部分で、大きくカーブしています。
Alte DonauはObere Alte DonauとUntere Alte Donauとさらに細かく地元では呼ばれています。
Obere Alte DonauはFloridsdorfer橋~Kagraner橋まで、Untere Alte DonauはKagranaer橋~Donaustadt橋までです。
Alte Donauは
標高157m、1.56km²、長さ5.2km、幅300m、最深6.8mで、本流や新ドナウとの繋がりは全くありません。
つまりどちらからも水が流れ込んでいるわけではありません。
この水の大部分は地下水なんですね。
冬に日中の気温がマイナスの日が続くと、ここは完全に凍り付いてしまいます。
行って見れば湖のようなものですから、本流などと比べると水が動いていないからですね。
地下鉄1号線(U1)には"Alte Donau"という駅があり、中心から手軽に来られ、ウィーンのちょっとしたリゾート地的な感覚になっている人気ある場所です。
ウィーンはヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ王朝の居城があり、そのハプスブルグ家の下に歴代神聖ローマ帝国の皇帝や王様の称号が長くあったことから他のヨーロッパの街とは歴史的立場が違っているかつての帝国の都です。
そこでウィーンは様々な人々や色々な物が集まり、ヨーロッパ文化が凝縮したとても奥深い街となったわけです。
さて、ウィーンの王宮界隈には多くのアンティークショップがあり、そこには帝国時代を思い起こさせる多くの物が売られています。
ドロテウムは特に有名ですね。
アンティークショップ以外にも、ウィーンの街中の多くの場所で定期的にのみの市が開かれ、賑わっています。
のみの市と言えばナッシュマルクトの延長上にあるFlohmarktを真っ先に思い出します。
観光の皆さんにもここが開かれる土曜日に重なれば頻繁に御案内をしていますが、ここは早朝から賑わっています。
こののみの市は地下鉄4号線(U4)のKettenbrückengasseの駅舎のすぐ後ろにあり、毎週土曜日の朝6:30~14:00まで開かれています。
写真は朝7:20頃で、この時間でもかなりの賑わいを見せていました。地元の人、観光客からアンティークのプロまで様々な人が訪れます。
使える、使えないは別にして、あらゆる分野のありとあらゆる物が売られています。
アンティーク商品、絵画、おもちゃ、衣料品、レコード、蓄音機、オーディオ関係、ゲーム、置物、書籍、手紙、看板・・・きりがありません。
ウィーンで一番最初のみの市は1972年Am Hofから始まり、すぐに多くの人が集まりました。
その5年後の1977年にこの場所に移ってきたわけです。
つまりここののみの市はウィーンでもっとも古い歴史を持っているわけですね。
ガラクタばかりではなく、それなりにまともな物もあり、その業界の方は朝早くにここに来る・・・というのが定説です。
この"のみの市"は、毎週土曜日朝6:30~14:00までで、土曜日が祝日でもオープンしてます。
12月24日と12月31日が土曜日となった場合は6:30~12:00までです。
唯一の例外は、12月25日が土曜日となり、たまたまその時にここでイベントがある場合のみ開かれません。
実はこの "のみの市"は誰でも店を開くことができるんです。労働許可証は要りませんし、オーストリアに住んでいなくてもいいので、旅行者でもOKです。
ただし1年に3回までと決められています。
これは年度を跨がずにということですので、今から来年の今までということではありまん。
営業場所は大きな場所と小さな場所があり、大きな場所は123個3.2mx2m、小さな場所は246個1.6mx2mで、計369個の営業場所が確保されています。
ウィーン市に払う場所代は、大きい場所が€43,60-,小さい場所が€21,80- です。
申し込みはWiener Marktamt für den 4. bis 6. Bezirk (ウィーン4区、6区の市場役所)に遅くても6週間前までに個人的に行い、場所のチケットは支払い後、すぐにもらえます。
場所チケットは自分が店を出す前日の金曜日12時までには取りに行かなければいけません。
この場所は地下鉄U4の"のみの市"がある駅Kettenbrückengasseのすぐ前にあります。
ここの営業時間は以下の通りです。
月 8:00~12:00, 木 8:00~12:00、13:30~17:30、金 8:00~12:00、土 6:00~12:00
申し込みに必要なものは写真付きの身分証明書が必要です。
以下ウィーン市のホームページです。(ドイツ語)
http://www.wien.gv.at/amtshelfer/wirtschaft/maerkte/markt/flohmarkt/naschmarkt.html
今日のウィーンは6:45の時点でマイナス6℃と今年一番の冷え込みとなりました。
昨日同様太陽が見られるいい天気になりそうですが、予報では日中1℃・・・寒いですね。
昨日12月26日は特に"Stephanitag"(シュテファニーターク)とも呼ばれ、ウィーンのシュテファン大聖堂でお馴染みの聖人シュテファヌスの日でした。
クリスマスもカレンダーでは終わってしまいましたが、今日は日曜日です。
昨日はSteyr(シュタイアー)のそばにあるChristkindl(クリストキンドル)を話題にしました。
ここには知られた巡礼教会が立っていて、この時期多くの人が訪れるわけですが、ここは巡礼する人だけではなく、別のあることで多くの人を集めています。
教会を右に見ながらその横を通って行くと、すぐ裏側にはGasthaus(レストランとして食事、宿泊がいっしょにできる施設)があります。
ここの名前は"Christkindlwirt" で、この建物の中には毎年クリスマス時期に限ってオーストリアの郵便局が出張してきます。
左の写真はこの建物の中に見られる郵便局の案内板で、POSTAMT CHRISTKINDLと書かれています。
この手前の所にちょとしたコーナーがあって、そこで色々なクリスマスカードが売られています。
ここには郵便局の係が待機していて、クリスマスカード(絵葉書)を持ってない人はここで買えます。
奥へ入ると右上の写真のような空間にいくつかのショーケースが置かれていて、記念切手などが紹介されています。
ずっと奥に係が座っている窓口が設けられているので、そこで準備したクリスマスカード(絵葉書)を出します。
先日うちは何枚かここで出しましたが、最初に枚数分の切手を購入して、この空間でクリスマスカードを書いて、係に渡しました。
なぜ郵便局がここに?
こちらではクリスマス時期にはクリスマスカードを贈る習慣があります。
"クリスマスおめでとう・・・そしてまた来年いい年でありますように・・・"
というような内容で、親しい人達に贈ります。
クリスマスカードに来年のことも書くので、年賀状という習慣はありません。
そもそも新年は年の初めという感覚だけで全くと言っていい程重要性はありません。
オーストリアではプレゼントを持って来るのはサンタクロースではありませんね。
Christkind・・・子供のキリストがやって来るわけで、この街の名前は巡礼教会と同じ
"Christkindl"ですね。
ここからクリスマスカードを出せば、この街の
消印である"CHRISTKINDL"が押されます。
これを受け取った人々に、Christkindからのクリスマスカードが届いたんだな・・・と夢を与えることができるわけです。
右の写真は2017年にここで買った切手です。
オーストリア国内に出したので、68セントとなっていて、東方三博士(三賢者)がイエスを拝んでいます。
その時Christkindlで出したクリスマスカードがうちにも無事に届きました。
ちゃんと"CHRISTKINDL"の消印が押されています!
今日12月26日も第2クリスマスの日ということでお休みです。
今日は特に"Stephanitag"(シュテファー二ターク)とも呼ばれ、ウィーンのシュテファン大聖堂でお馴染みの聖人シュテファヌスの日です。
年間を通して生活の中で一番重要なのはクリスマスですが、今年は異例でした。
しかも今日から3度目のロックダウンに入ります。
本来の習慣からすれば12月23日までがクリスマスの空気を楽しみ、24日からは今までの盛り上がりが嘘のような静かな街の空気に変わります。
多くは家族とクリスマスを過ごしますので、クリスマスツリーの装飾やプレゼントの演出、食事などの準備に追われます。
もう何度も書いていますが、クリスマスにプレゼントを持って来るのはサンタクロースではなく、子供のキリスト・・・"Christkind"(クリストキント)が持って来ます。
オーストリアでは伝統的にサンタクロースは絶対に登場しません。
クリスマス市も"Christkindlmarkt"と一般的に言われます。(今年は残念ながら中止となりました)
うちにも夕食後、しばらくしてChristkindが多くのプレゼントをクリスマスツリーの下に置いて行きました。
さて、今日はここ数年この時期に話題にしているChristkindlです。
オーストリアには"Christkindl"という名の街があることを御存知でしょうか?
地元ではもちろん知られた街で、観光的にもかなり知れ渡ってきています。
"Christkindl"という街はOberösterreichの一角で、リンツからだと車で40kmぐらい南に行った美しい街 Steyr(シュタイアー)のStadtplatzからさらに4km程離れた所にあり、徒歩だと50分ぐらいかかります。
ここはSteyrの行政区に入る人口2.000人弱の小さな町ですが、ここには有名な巡礼教会とレストランぐらいしかありません。この巡礼教会ができるにあたって有名な伝説があります。
<Christkindlの伝説>
Steyrに住んでいたFerdinand Sertlはこの地域の楽団長であり、火元見回り人をしていました。
彼は癲癇(てんかん)に悩まされていたこともあり、孤独を好んでいたということです。
1695年か1696年に彼はSteyrの修道女から12cmの大きさのワックスで作られた茨の冠をかぶった子供のイエス・キリストの磔刑像(CHRISTKIND)を買いました。
それをトウヒの木の幹に彫られた空間に捧げ、毎日このイエス像の前でお祈りをしたそうです。
するとまもなく彼の病気が治ったということです。
この話がまたたく間に広がって、奇跡を求める多くの人が訪れる巡礼場所となりました。
1699年にはこのトウヒの木の周りに木製の礼拝堂が作られました。
1702年にはこの地域GarstenのAnselm修道院長が石の教会にするきっかけを作り、建築家Giovanni Battista Carloneに依頼しますが、パッサウ司教の許可が下りず、次の年には中断してしまいます。
結果的に1708年に許可が下りますが、その時にはCarloneがこの世を去っていたので、メルク修道院をバロック化したことで知られるJakob Prandtauerが引き継いで、1725年7月26日に奉納されました。
現在でもここは重要な巡礼教会として知られています。
左上の写真はこの巡礼教会で、右上はこの教会内部の主祭壇です。
教会の正面は2本の塔が印象的なバロック様式です。
真ん中にも塔があるように見えますが、これはドームになっています。
この教会を作らせた修道院長Anselmのコンセプトではローマにある有名なパンテオンをベースにしています。
この主祭壇はオーストリアでは非常に珍しいスタイルで、初期ロココ様式となっています。
それは祭壇の枠というものが全くなく、そのまま空間に置かれていて、Tabernakel(タベルナーケル)という聖櫃が黄金の球体となっています。
このタイプのものはオーストリアにはここを含めて3つしか例がありません。
この球体の上に伝説の12cmのキリスト像が奉られています。
左上の写真が伝説のChristkind像です。
これがこの巡礼教会と街の名前になっています。
右上の写真は入口部分とパイプオルガンです。
この教会の内部はひとつのホール的空間しかなく、脇にはいくつかの祭壇があります。
右の写真は天井フレスコ画で、マリア被昇天を表していて、1710年、Carl von Reslfeldによるものです。
この天井ドームの形からわかるように、教会内部空間はこの円形の一空間しかありません。
逆に言えば天からの光がこのドームを通して内部に入り込んでくるという支配性を感じます。
左の写真はこのChristkindl教会を後ろから見ています。
正面とは全く違い、ドーム部分が強調されているのがわかります。
このすぐ左に見えている建物がレストラン"Christkindlwirt"(クリストキンドルヴィルト)でここが特別に重要な意味を持つ場所となります。
右の写真はこの教会の正面左側に掲げられている記念プレートです。
さて、ここは宗教的に巡礼としてこの教会に訪れる方が非常に多いわけですが、それとは別にAdvent時期には数え切れない程多くの人が訪れます。
その続きは明日にしましょう。
先日の日曜日がAdventの第4日曜日となり、Adventkranzに4本目のロウソクが灯されました。
いよいよ今日がクリスマスですね。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の昼過ぎには部屋に入れてネットを外して飾ります。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イヴの話題にしたいと思います。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
一昨年2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
今年は新型コロナウィルスの影響でクリスマス市も中止となり、3度目のロックダウンが明後日やって来るという異例のクリスマスとなりましたが、クリスマスを祝う伝統習慣は全く変わることがありません。
皆さんも良いクリスマスを!
Frohe Weihnachten!
ウィーンの真ん中に建つシュテファン大聖堂はウィーンのひとつのシンボルであり、歴史的にもとても重要です。
場所的にもケルントナー通りとグラーベンという重要な歩行者天国のほぼ交差した所に位置しているため観光の皆さんの目印にもなり、旧市街を歩けば何度となく通るでしょう。
このシュテファン大聖堂は1147年からずっとこの場所で歴史を見つめてきましたし、大聖堂自身にも様々な重要なものが目白押しです。
このコーナーでも知らない間にシュテファン大聖堂の色々な物について書きました。
今日ここで紹介する物もそのシュテファン大聖堂にあって、しかしあまり知られていない重要な物です。
シュテファン大聖堂の有名な説教壇、当時のステンドグラス、記念プレート、
涙を流す聖母マリア、プンメリン、ローマ時代の墓石、モーツァルト最後のお別れの場所なども是非御覧下さい。
シュテファン大聖堂に入ると、ずっと左側にこの写真に見られるDom Shopがあり、ここは司教の門と言われています。
ここには絵葉書やガイドブックなどが売られている大聖堂の小さなショップになっています。
このショップの入口には左右2つの扉がありますが、この右側の扉側の柱のちょっと上辺りに今日のテーマである"コロマニ石"がはめ込まれています。
コロマニ石はこの写真のように柱の中に真鍮の枠と共に埋め込まれていて、人間の右手のような形に色が変色しています。
コロマンはアイルランド人のいい所の出の巡礼者で(一説には王様の子とも)1012年ウィーン近郊のStockerauで不審な身なりや外国語を話したことからスパイの容疑をかけられ、拷問され、ニワトコの木に絞首刑となりました。
伝説によればコロマンの遺体は2年経っても腐らず、しかもその枯れていたニワトコの木が再び緑を吹き返したということからバーベンベルクのハインリヒ1世がコロマンの遺体を1014年にメルクに運ばせました。
聖コロマンがこの石の上で殉教したとされ、このコロマニ石は1361年にここに埋め込まれました。この石の後ろには鉛でできた聖遺物を入れる箱があり、たくさんの聖遺物が埋め込まれているとされています。
この石に触れる者は、祝福と幸運を授かると言われています。
9月も半ばに入りましたがウィーンは日中の気温が25℃前後で過ごし易い陽気です。
明らかに秋がそこまで来てるのを感じるのですが、夏がまだここに居たいようです。
ウィーンの中心部は荘厳な歴史的建造物が多く建ち並び、かつての帝国の都を思わせる上品な街なので、街中を歩くだけでも十分楽しいですが、豊かな自然を感じようと思えば郊外へ行くことになります。
郊外と言ってもウィーン市内にもウィーンの森の一部がありますから手軽に自然を満喫することができます。
ウィーンは"森の都"とも言われ、ヨーロッパの街では街の広さに対して緑の比率が最も高い街と言われていますので、ウィーンの街に来れば緑豊かであることがすぐにわかります。
オーストリア自体がヨーロッパアルプスを横たえて持っているという地形の特徴があり、ガイドブックだけでは想像できない長閑で美しい自然が国内に広がっています。
多くは観光的にはあまり知られていない、でも地元では非常に有名な場所が本当にたくさんあります。
私はオーストリアが大好きですから、時間を見つけては家族と色々場場所に出かけています。
今日は比較的ウィーンから近い、地元で有名なスポットをひとつお届けします。
こちらは"Wildpark Ernstbrunn"(エルンストブルン 野生公園)です。
今年8月終りに子供同士が友達である知り合いの家族と出かけてきました。
ここはNiederöeterreichのWeinviertelに位置していて、ウィーン中心部から北へ50km程走った所にあり、Ernstbrunnの行政地区になりますが、Dörflesにあります。
公園と言っても、日本語からイメージする公園とは全く違い、豊かな自然の中に作られています。
Wildpark Ernstbrunnは1975年、重要文化財に登録されているErnstbrunn城の庭園の北側にオープンしました。
広さ40haもあり、園内は赤コースと青コースの2種類のルートがあり、オーストリア地元の動物達が多く放し飼いされています。
左はAlpensteinbock・・・アルプスアイベックスです。
アルプス山脈に生息するヤギ属で、アルプス高地に見事に適応した哺乳類でこちらでは非常にポピュラーです。
右は鹿で、非常に多く放し飼いされています。
この鹿の領域に入ることができ、窓口で販売しているえさをあげられます。
ここにはひつじ、やぎ、ロバ、ポニー、シャモア、アイベックス、赤しか、ダマジカ、うさぎ、イノシシ、ムフロン(野生の羊)、二ホンジカ、オオカミなどが放し飼いされていて、触ったりエサをやることもできます。
自然の中にある動物園みたいな感覚です。
ここは火~日曜日 9:00~17:00、11月3日より冬季営業で土、日、祝日の10:00~16:00の開園時間です。
月曜日は休園です。
このような豊かな自然の中にいると気持ちがリフレッシュでき、生きていることが実感できます。
オーストリアにはこのような所が数え切れない程あります。
もう何回も書いていますが今年のウィーンは6月13日に日中の気温が初めて30℃を越え、6月は合計3日、7月は30℃を越えた日が合計で8日ありました。
7月28日が今年で一番暑く日中35℃を越えた猛暑日となり、その週は8月2日までは毎日30℃を越えた真夏日となりました。
8月3日から気温がぐっと下がり、日中20℃前後と雨の多い、どんよりした天気となりました。
夜は14℃と物凄く涼しく(?)なりました。
その暑い時の週末、うちのお気に入りのスポットであるMYRAFÄLLE(ミラフェレ)に出かけてきました。
MYRAFÄLLEはウィーンの中心部から車で70km弱南へ1時間ぐらい走った所のNiederösterreichの一角Muggendorfにあり、Myrabachという川沿いにある滝を上がって行くハイキングコースです。
この地域は歴史的にも妙味深く紀元前2000年頃から人類が住み始めています。
500年に渡ってここの水力が利用され、水車小屋や製材所が多く存在していました。
ここの入口の岩には銘板がはめ込まれていて、皇帝フランツII/I世とその皇后のマリア・テレジアがここを訪れたことが記されています。(あの女帝マリア・テレジアではありません)
1885年にÖsterreichischer Touristenklubによって、19の橋と8つの階段が設置されてオープンしています。
MyrabachはMyraluckeという洞窟が水源で、MyraluckeはNiederösterreichの標高1342mのUnterbergにあり、Gutensteinerアルペンと呼ばれてる地域にあります。
水源から8kmしか離れていない所に貯水池があり、そこから勢いよく水が落ちて行きます。
自然が形成した岩肌に水がぶつかり、豊かな水の音がこだまする14の滝があります。
Myrabachの高低差は520mです。現在橋の数は26個あり、滝全体の長さは600m程で、高低差は70mです。
滝の上にその貯水池があります。
この画像を見てるだけでも少しは涼しくなりますね。
音が聞こえないのが残念ですが、豊かな水の音が暑さを吹き飛ばします。
この日は8月1日でウィーンは30℃を越える暑い日でしたが、ここは予想通り快適でした。
水もとても澄んでいて、至る所に魚が見られます。
靴を脱いで、水の中に入っている人も多くいます。
さて、ここはMyrabach沿いの滝を楽しむコースと、60mの絶壁のHaussteinという遠くからでも目立つ岩が突き出した所にある素晴らしい展望台にアクセスするコースと主に2つありますが、実際には2つのコースは繋がっています。
滝を上って貯水池経由でHaussteinを楽しんでも2時間もあれば戻ってきますが、でもここは景色も素晴らしいですからのんびり行くべきです。
右上の写真に見られるような草原にも出会えます。
うちはここでよくおにぎりを食べますが、今回はこの草原ではなくHaussteinで食べました。
Haussteinからの眺めがとても素晴らしく、オーストリアアルプスNiederösterreichの最高峰であるSchneeberg(シュネーベルク)が見られます。
Haussteinの標高は664mです。
こちらはHaussteinからの眺めです。
こちらはHaussteinからSchneebergが見られる有名なアングルです。
このMyrafälleは自然保護地域に指定されているため入場料がかかりますが、大人は5ユーロです。
朝8:00~日没までと長くオープンしています。
しかも夜はライトアップされますから、また幻想的ですね。
子供達の遊び場やレストランもあり、日帰りで十分楽しめ、オーストリアの自然に触れることができます。
ウィーンからは車がないとちょっと行きづらいですが、公共交通機関でも行けます。
ウィーン中央駅から国鉄でPernitzまで1時間42分、そこからバス5分でMYRAFÄLLEにアクセスできます。
ウィーン周辺のハイキングでは物足りない方に是非お勧めのスポットです。
ウィーンの街は森の都とも言われ、ヨーロッパでは街の広さに対し緑の比率が最も高い街と言われています。
街を歩けば公園や庭園、街路樹など、緑が多いことがすぐに実感できます。
しかし、その豊かな緑をもっと外側から囲むウィーンの森があります。
ウィーンの森・・・何か魅力的な言葉ですね。
ウィーンの森として観光レベルで一般的に行き易いのは、北の森でしょう。
こちらにはウィーン市の公共交通機関を使って行けるカーレンベルクや近くにはベートーヴェンの遺書の家やベートーヴェンの散歩道などとも組み合わせて手軽にハイキング、散策が楽しめます。
団体ツアーなどでは見所が点在している南の森に行くことが多いですね。
さて、今日は観光では訪れない、しかし地元で人気あるMaurer Wald(マウラー・ヴァルト)を紹介します。
Maurer Wald(ちなみにMaurerwaldとも書かれます)はウィーン市23区Liesingに位置する 4 km²ほどの森です。
Mauerはかつてのこの地域の名前ですが、ウィーン23区の一角でも地元の人は今でもMauerと呼ぶ人が多いです。
ウィーン市を全体で見ると南西、左下端っこのウィーン市とNiederösterreichの境界線に位置しています。
実際、ウィーンの森の一部になっていて、ある意味では始まりでもあります。
上の案内図の緑が濃くなっている地域です。
ここの標高は260m~371mで、一番高い山がWilder Bergです。
ウィーン市の南側からウィーン市を眺められ、ウィーンの南の森方面への視界も広がっています。
ウィーンの北方面よりは広くないですが、ここにもブドウ畑が広がっていて長閑な風景が楽しめます。
ここもとてもウィーンとは思えません。
Maurer Wald内はいくつかの散策路が縦横していて、多くの地元の人が歩いています。
このような草原も数か所あって、リラックスできますね。
天気が良ければ寝転がっている人、ピクニックをしている人が必ずいます。
写真には登場させてませんが、子供達の遊び場もあります。
左上の写真には長い壁が見えますね。
これはラインツ動物公園を囲む有名な壁です。
最初の案内図を見て頂くと分かりますが、このMaurer Waldはラインツ動物公園に一部が接しているんです。
また、ここは"Stadtwanderweg"というウィーン市が定めた街のハイキングコースの6号線にも入るんですね。
ウィーン中心部から来るには遠くて不便ですが、ガイドブックにはまず掲載されないウィーンの自然とローカルな空気が楽しめるお勧めスポットです。
ウィーンは森の都・・・ヨーロッパの街の中では街の広さに対し緑の比率が最も高いです。
ウィーンの街を歩けばここは緑が多いな・・・ということを実感できます。
この時期のウィーンは緑が溢れていますね
でもいくら森の都ウィーンでも"豊かな自然を感じられる"と言えば公園以外では中心部ではほとんど見ることができませんね。
公園だって前からあった木などは残したかもしれませんが人工的に作ったわけですから、そういう意味では本当に自然とは言えないのかもしれません。
本当に自然を感じようと思えばやはり郊外に行くことになります。
観光レベルで手っ取り早いのはウィーンの森でしょう。
しかし観光で行くウィーンの森は言われある有名な決められた場所のみで、実際に地元の方々は有名所はさることながら様々な場所で自然を楽しんでいます。
オーストリアはウィーンを離れると長閑な美しい風景が広がっている国で、ウィーンの郊外を始め、国内には豊かな自然が広がっています。
そんな自然の中に小さな美しい街が点在しているのがオーストリアのまた魅力のひとつです。
私も時間がある時には家族と色々な所に出かけています。
うちのお気に入りのスポットとして"Blockheide"(ブロックハイデ)があり、ここは毎年数回は行きますが、今年は新型コロナウィルスの影響でいつもよりも遅い6月におにぎりを持って出かけてきました。
BlockheideはNiederösterreichのWaldviertel(ヴァルトフィアテル)の一角にあるオーストリアの自然公園のひとつで、チェコとの国境に隣接するオーストリアのGmünd(グミュント)の目と鼻の先にあります。
ウィーンからは車で約140kmと結構離れていますが歴史的にも重要な場所で、新石器時代からの跡が確認されていて地元でも有名です。
ここは入口が2ヵ所ありますが、うちはいつもこの右側の写真に見られる入口から入りますが、車はここから数百メートル歩いた所の駐車場に止めます。
こちらからの方が自然公園内にあるInfoセンターや展望台に近いんですね。
上の写真はこのBlockheideの見取り図で、以下に示すように色分けされた4つの散策コースがあります。
GRANIT-TOUR (2,9 km)
MYTHOlogieTOUR (3,5 km)
LANDSCHAFTSkulTOUR (2,8 km)
MARIENKÄFERWEG (5,6 km)
上からそれぞれ花崗岩コース、神話コース、風景コース、てんとう虫コースです。
中に入ると、草原地帯、池、森、そして一番重要なこの自然から形成された巨大な石の塊をいくつも見ることができます。
下にいくつか有名な石を掲載します。
こちらはChristophorussteinです。
不思議な形の石の塊がこのように重なっているのです。
石の右側に映っている人物を御覧下さい。
とにかく巨大な石です!
こちらはTeifelsbettと呼ばれています。
悪魔のベット!?ですね。
こちらはPilzsteinで、名前の通りキノコの石ですね。
この辺りは今年、かなり雨が多く降っていると思われます。
いつもよりも苔の色が新鮮で湿気が感じられました。
この辺りは"Bömische Masse"(ベーミッシェ・マッセ)と呼ばれ、現在ではオーストリアの国境界隈からチェコを含む地域です。
古生代(約5億4200万 - 約2億5100万年)に形成された山脈の残りとなっています。
つまり、この巨大な石はそれだけの年月が経っているということになります。
豊かな緑、森林地帯がコースになっていて、大きな池もあり巨大な石は一箇所に集中してわるわけではなく、それぞれ散らばってたくさん横たわっています。
自然公園の中には売店も兼ねたインフォセンターがあり、そこには2003年に作られた展望台があります。
今回は展望台の写真はここに掲載しませんが、ここに上ってみることもお勧めします。
前述したインフォセンターの反対側にはちょっとしたレストランがあり、いつも賑わってますが、うちはいつもおにぎりを持って行きこの自然公園のどこかで食べる習慣があります。
自然公園内にはくつろげるベンチやテーブルなどが多く設置されていて、自然保護地域としてよく手入れされています。
ここは自然と歴史、特に地質学的にも非常に面白い所です。
今回ここに掲載したBlockheideの写真は2020年6月6日に撮影したものです。
ウィーンの街にはドナウ河が流れています。
ドナウ河はヨーロッパでは2番目の長い河で、全長約2.860km、ドイツを水源として、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナと10ヵ国を通り、最後は黒海まで流れています。
その中でオーストリアのドナウは約350kmです。
全長2800km以上あるドナウ河の最も美しい所と言われている有名な「ヴァッハウ渓谷」は、幸いにしてこのオーストリアに位置しています。
ドナウ河は昔から重要な役割を担ってきました。
ギリシャ人達ももちろんドナウは知っていましたし、ローマ時代にはドナウ河が国境ともなり、そのドナウ河沿いには重要な街がいくつもありました。
ウィーンもその街のひとつですね。
ウィーンのドナウ河は、永年からの河川工事のおかげで、現在見られる姿になっています。
ウィーンのドナウ河は大きく分けて4つあり、本流、新ドナウ、旧ドナウ、運河です。
ウィーンは歴史的にドナウ河の氾濫に悩まされてきました。
雨が降ったり、雪解け水が入り込むとすぐに水が溢れてきたのです。
そこで、河川工事が何回も行われては流されて・・・そんな繰り返しでした。
昔の地図を見ると、ウィーンのドナウ河は、網の目のようにぐにゃぐにゃになって、広範囲にわたって流れていました。
現在の姿になったのは、リンク道路建設時代に、昔の中心に流れ込んだラインを運河とし、さらに本流として、そのぐにゃぐにゃをほぼ直線的に川幅をたっぷりとり整備しました。
その100年後の1987年に、2回目の大きなドナウ治水工事を行った結果、新ドナウが作られます。
これは、本流と並行して流されています。
さらに昔の支流が、新ドナウのずっと奥に残されていて、大きく全部で4本あるわけですね。
ウィーンに入る直前で、ドナウは本流と新ドナウに分かれ、その後本流から街の中心に行く運河が枝分かれしていきます。
ちなみに新ドナウを作る際、本流の隣に作ったわけですから、真ん中が盛り上がった部分が生じ、そこを「Donauinsel」ドナウインゼルという人口の島にしました。
全長20km以上にわたってウィーンを横たわっています。
この写真はウィーンのドナウ河のNeue Donau (ノイエ・ドナウ,日本語では新ドナウと呼んでいます)です。
下流方面に向かっての光景です。
左側奥には現代建築が多くある国連都市界隈とドナウタワーが見えています。
右岸は人口の島ドナウインゼルです。
写真ではとても人口の島とは思えませんね。
新ドナウには水門が設置されていて、同時に水を濾しています。
本流に水を流しきれなくなると新ドナウの水門を調整し、新ドナウにも水を流します。
その時新ドナウの水はもちろん濁りますが、時間と共にまた綺麗になります。
美しき青きドナウをイメージするのは新ドナウで、天気のいい時には本当に水は青く見えます。
新ドナウは通常、飲料水に匹適すると言われるぐらい水質がいいです。
こちらは上流方面に向かっての光景です。
左側にはウィーンの森のレオポルズベルクがちょっとだけ見えていますね。
これがヨーロッパアルプスの東側の一番端っことなります。
ウィーン市を流れるドナウ河の本流の川幅は長い所で約350m,新ドナウの川幅は長い所で約210m ぐらいです。
ドナウ河は現在でも悪天候により雨が多く降ると水が溢れることがあり、ウィーンではないですが郊外では水害があります。
ウィーンの街はこれだけ水を分散させることによって水害から守られているわけです。
写真は2枚共2020年4月24日16:00頃に撮影しました。
ウィーンの街は旧市街を歩いているだけだと狭いと思われる方が多いと思いますが、この街はとても広いです。
東京と同じ23区で成り立ち、街の面積は415km²もあり、見所も中心以外に多く点在しています。
東京は市がたくさんありますが、ウィーンはStadt Wienですからウィーン市です。
ウィーンを高い所から眺めようと思えば多くの可能性があります。
中心ではシュテファン大聖堂の塔に上るのが手っ取り早いですね。
大観覧車から見るというのもいいでしょう。
どちらも街中ですから素敵な眺めを楽しめても、街全体というわけではありません。
天気が良くて時間があればウィーンの北の森カーレンベルクに行って見ましょう。
こちらがカーレンベルクから見たウィーンの街です。
ここから見るとウィーンの街がヨーロッパアルプスに一番の東側であるウィーンの森に囲まれていることがよくわかり、ドナウ河が街を流れているのもしっかり見られます。
ウィーンの街は"森の都"とも形容されますが、ここから見るとそれがよくわかります。
ここに来る時間帯は午後の15:00以降がお勧めです。
午前中は天気が良くてもかすんでいることがよくあります。
こちらの写真は2019年9月20日15:45頃の撮影です。
ウィーンは森の都とも言われ、ヨーロッパでは街の広さに対して緑の比率が最も高い街です。
中心部を歩いても緑が多いことがすぐわかり、外側にも多くの公園や庭園、そしてその豊かな緑を囲むもっと大きな緑がウィーンの森です。
ウィーンの森は比率的には南の森に行くことが圧倒的に多いですが、非常に不便な所にありながらも重要な見所が点在しているからです。
個人で旅行されている方は公共交通機関を利用して比較的簡単に行ける北の森に行かれることが多いでしょうか。
こちらはウィーン市の中にあります。
さて、多くの観光客が訪れるウィーンの森は北と南ということになりますが、西にもラインツ動物公園といった地元で有名な場所があります。
さて、今日はこのラインツ動物公園の中にあるエリザベート皇后ファンの方にとっては必見のヘルメスヴィラについて少しまとめておきます。
ここはウィーン市の中にあっても中心から簡単に来られる所ではありません。
前述したラインツ動物公園のLainzer Torからさらに1kmほど奥に歩いて行った所にひっそりと建っています。
この場所がウィーンの街とはとても思えません。
右の写真がヘルメスヴィラで、フランツ・ヨーゼフ1世が宮廷の煩わしい儀式などから離れたかったエリザベート皇后に贈った別荘的なとても美しい建物です。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は1881年の夏にエリザベート皇后にヴィラを贈ることを決定し、当初は"Villa Waldruh“(ヴィラ ヴァルトルー)と呼ばれていました。
日本語に直せば"ヴィラ森の静けさ" です。
Carl Freiherr von Hasenauerというウィーンのリンク道路時代の有名な建築家により、1882年~1886年にかけて建設されました。
当初のVilla Waldruhが遅くても1885年には"Villa Hermes"に変わりました。
その理由はエリザベート自身の依頼によって"Hermes der Wächter"と呼ばれる彫刻が庭に置かれることになったからです。
1886年5月24日にフランツ・ヨーゼフ1世、エリザベート、末娘のマリー・ヴァレリーの3人でこの完成したヴィラを訪れています。
その後、エリザベートは亡くなる年1898年6月まで定期的に5月、6月頃に少なくとも数日、長い時は2ヵ月はここに滞在しました。
エリザベートが一箇所にかなり長く、しかも繰り返し滞在した場所はそう多くありませんので、そういう意味でもここは重要な場所ですね。
もちろん現在はウィーン市の管轄に入っていますので、博物館として一般公開されています。
ヴィラの入口は裏側にあって、建物の真ん中にあります。
入ると正面ちょっと右側に窓口があって入場料を支払います。
このスペースにはちょっとしたショップにもなっています。
チケットを手にしたら左に進むと、左上の写真に見られる素敵な階段を上がります。
2階が展示スペースになっていて、このヴィラに実際に置かれていた調度品、この建物の歴史的背景、エリザベートに関することなど面白い内容となっています。階段を上がって左方向が順路です。
右上の写真は最初の部屋Oktgonで、正八角形の空間です。
ここには日本製や中国製の工芸品なども置かれています。
この部屋の扉やガラスは当時のオリジナルです。
次の部屋はGarderobeで、このヴィラの建設に関する資料が見られ、当時のプラン、スケッチなどがあり、フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベート皇后の肖像画が飾られています。
次の部屋はTurnzimmer・・・体操の部屋で右上の写真に見られるような内装です。
ここはエリザベートの体操部屋だった所で、古代ギリシャを思わせる人間のスポーツ的な絵が壁に描かれています。
Turnzimmerを抜けると細長い部屋がトイレだった所で、現在では1891年までの歴史的背景が展示されています。
そのれを抜けると左上の写真に見られる寝室です。
ここにはマリア・テレジア時代からの豪華なベットが置かれ、ハンス・マカルトによるシェークスピアの真夏の夜の夢の壁絵が見られます。
次の部屋はサロンで1897年までの歴史、またギリシャコルフ島アキレイオンからの調度品などが展示されています。
アキレイオンはギリシャのイオニア海にあるやはりエリザベートの別荘です。
左上は前述したサロンの天井画で、これはクリムトカンパニーによるものです。
右上の写真は次の部屋Kirchensaalで、ミサが行えるように祭壇画コーナーに設置されています。
この空間はかなり広く、1897年までの歴史的背景が展示されています。
祭壇がある部屋を抜けると、Arbeitszimmer・・・いわゆる書斎となり、フランツ・ヨーゼフ1世の空間です。
ここでは1922年までの歴史的背景とエリアべート皇后の非常にモダンな面白い肖像画が飾れています。
その次の部屋は右上の写真で見られるフランツ・ヨーゼフ1世の寝室です。
ここには1976年までの歴史的背景、祈祷台や調度品が展示されています。
興味深いことに上で紹介したエリザベートの寝室はこの空間の正反対にあります。
これはこのヴィラに限ったことではありません。
寝室を抜けるとかつてのトイレ、そこには1984年までのこの歴史、そしてその次が最後の空間で1985~2003年までのこのヘルメスヴィラでの過去特別展示会のポスターなどが展示されています。
ヴィラの正面にはここの名前になっているヘルメスの像が立っています。
これはエリザベート皇后本人からベルリンの彫刻家Ernst Herterに制作依頼したもので、 "Hermes der Wächter"(ヘルメス・デァ・ヴェヒター)と呼ばれています。
Wächterは見張り人とかガードマン、警備員といった意味があります。
ここの中庭は右上の写真に見られるように素敵な空間になっています。
せっかく時間をかけてここまで来たわけですから、このヘルメスヴィラを見学することはもちろんですが、時間をとってこのラインツ動物公園の豊かな自然を堪能して下さい。
天気がいい時に多くの地元の方が訪れています。
昨日12月26日は特に"Stephanitag"(シュテファニーターク)とも呼ばれ、ウィーンのシュテファン大聖堂でお馴染みの聖人シュテファヌスの日でした。
クリスマスもカレンダーでは終わってしまいました。
今日から平日ですが、明日からはまた週末ですからそのまま休みを取っている人は多いはずです。
昨日はSteyr(シュタイアー)のそばにあるChristkindl(クリストキンドル)を話題にしました。
ここには知られた巡礼教会が立っていて、この時期多くの人が訪れるわけですが、ここは巡礼する人だけではなく、別のあることで多くの人を集めています。
教会を右に見ながらその横を通って行くと、すぐ裏側にはGasthaus(レストランとして食事、宿泊がいっしょにできる施設)があります。
ここの名前は"Christkindlwirt" で、この建物の中には毎年クリスマス時期に限ってオーストリアの郵便局が出張してきます。
左の写真はこの建物の中に見られる郵便局の案内板で、POSTAMT CHRISTKINDLと書かれています。
この手前の所にちょとしたコーナーがあって、そこで色々なクリスマスカードが売られています。
ここには郵便局の係が待機していて、クリスマスカード(絵葉書)を持ってない人はここで買えます。
奥へ入ると右上の写真のような空間にいくつかのショーケースが置かれていて、記念切手などが紹介されています。
ずっと奥に係が座っている窓口が設けられているので、そこで準備したクリスマスカード(絵葉書)を出します。
先日うちは何枚かここで出しましたが、最初に枚数分の切手を購入して、この空間でクリスマスカードを書いて、係に渡しました。
なぜ郵便局がここに?
こちらではクリスマス時期にはクリスマスカードを贈る習慣があります。
"クリスマスおめでとう・・・そしてまた来年いい年でありますように・・・"
というような内容で、親しい人達に贈ります。
クリスマスカードに来年のことも書くので、年賀状という習慣はありません。
そもそも新年は年の初めという感覚だけで全くと言っていい程重要性はありません。
オーストリアではプレゼントを持って来るのはサンタクロースではありませんね。
Christkind・・・子供のキリストがやって来るわけで、この街の名前は巡礼教会と同じ
"Christkindl"ですね。
ここからクリスマスカードを出せば、この街の
消印である"CHRISTKINDL"が押されます。
これを受け取った人々に、Christkindからのクリスマスカードが届いたんだな・・・と夢を与えることができるわけです。
右の写真は2017年にここで買った切手です。
オーストリア国内に出したので、68セントとなっていて、東方三博士(三賢者)がイエスを拝んでいます。
その時Christkindlで出したクリスマスカードがうちにも無事に届きました。
ちゃんと"CHRISTKINDL"の消印が押されています!
今日12月26日も第2クリスマスの日ということでお休みです。
今日は特に"Stephanitag"(シュテファー二ターク)とも呼ばれ、ウィーンのシュテファン大聖堂でお馴染みの聖人シュテファヌスの日です。
年間を通して生活の中で一番重要なのはクリスマスです。
宗教的には復活祭ですが、クリスマス習慣を楽しむ期間はクリスマス市が出る時から数えればひと月以上もあるわけです。
市庁舎やシェーンブルン宮殿のクリスマス市は12月26日まではやっていますが、場所的に観光産業もひとつの理由になっています。
しかし、本来の習慣からすれば12月23日までがクリスマスの空気を楽しみ、24日からは今までの盛り上がりが嘘のような静かな街の空気に変わります。
多くは家族とクリスマスを過ごしますので、クリスマスツリーの装飾やプレゼントの演出、食事などの準備に追われます。
もう何度も書いていますが、クリスマスにプレゼントを持って来るのはサンタクロースではなく、子供のキリスト・・・"Christkind"(クリストキント)が持って来ます。
オーストリアではサンタクロースは絶対に登場しません。
クリスマス市も"Christkindlmarkt"と一般的に言われます。
うちにも夕食後、しばらくしてChristkindが多くのプレゼントをクリスマスツリーの下に置いて行きました。(笑)
さて、オーストリアには"Christkindl"という名の街があることを御存知でしょうか?
地元ではもちろん知られた街で、観光的にもかなり知れ渡ってきています。
"Christkindl"という街はOberösterreichの一角で、リンツからだと車で40kmぐらい南に行った美しい街Steyr(シュタイアー)のStadtplatzからさらに4km程離れた所にあり、徒歩だと50分ぐらいかかります。
ここはSteyrの行政区に入る人口2.000人弱の小さな町ですが、ここには有名な巡礼教会とレストランぐらいしかありません。
この巡礼教会ができるにあたって有名な伝説があります。
<Christkindlの伝説>
Steyrに住んでいたFerdinand Sertlはこの地域の楽団長であり、火元見回り人をしていました。
彼は癲癇(てんかん)に悩まされていたこともあり、孤独を好んでいたということです。
1695年か1696年に彼はSteyrの修道女から12cmの大きさのワックスで作られた茨の冠をかぶった子供のイエス・キリストの磔刑像(CHRISTKIND)を買いました。
それをトウヒの木の幹に彫られた空間に捧げ、毎日このイエス像の前でお祈りをしたそうです。
するとまもなく彼の病気が治ったということです。
この話がまたたく間に広がって、奇跡を求める多くの人が訪れる巡礼場所となりました。
1699年にはこのトウヒの木の周りに木製の礼拝堂が作られました。
1702年にはこの地域GarstenのAnselm修道院長が石の教会にするきっかけを作り、建築家Giovanni Battista Carloneに依頼しますが、パッサウ司教の許可が下りず、次の年には中断してしまいます。
結果的に1708年に許可が下りますが、その時にはCarloneがこの世を去っていたので、メルク修道院をバロック化したことで知られるJakob Prandtauerが引き継いで、1725年7月26日に奉納されました。
現在でもここは重要な巡礼教会として知られています。
左上の写真はこの巡礼教会で、右上はこの教会内部の主祭壇です。
教会の正面は2本の塔が印象的なバロック様式です。
真ん中にも塔があるように見えますが、これはドームになっています。
この教会を作らせた修道院長Anselmのコンセプトではローマにある有名なパンテオンをベースにしています。
この主祭壇はオーストリアでは非常に珍しいスタイルで、初期ロココ様式となっています。
それは祭壇の枠というものが全くなく、そのまま空間に置かれていて、Tabernakel(タベルナーケル)という聖櫃が黄金の球体となっています。
このタイプのものはオーストリアにはここを含めて3つしか例がありません。
この球体の上に伝説の12cmのキリスト像が奉られています。
左上の写真が伝説のChristkind像です。
これがこの巡礼教会と街の名前になっています。
右上の写真は入口部分とパイプオルガンです。
この教会の内部はひとつのホール的空間しかなく、脇にはいくつかの祭壇があります。
右の写真は天井フレスコ画で、マリア被昇天を表していて、1710年、Carl von Reslfeldによるものです。
この天井ドームの形からわかるように、教会内部空間はこの円形の一空間しかありません。
逆に言えば天からの光がこのドームを通して内部に入り込んでくるという支配性を感じます。
左の写真はこのChristkindl教会を後ろから見ています。
正面とは全く違い、ドーム部分が強調されているのがわかります。
このすぐ左に見えている建物がレストラン"Christkindlwirt"(クリストキンドルヴィルト)でここが特別に重要な意味を持つ場所となります。
右の写真はこの教会の正面左側に掲げられている記念プレートです。
さて、ここは宗教的に巡礼としてこの教会に訪れる方が非常に多いわけですが、それとは別にAdvent時期には数え切れない程多くの人が訪れます。
その続きは明日にしましょう。
一昨日の日曜日が、Adventの第4日曜日となり、Adventskranzに4本目のロウソクが灯されました。
クリスマスが年間を通して最も重要なイベントです。
こちらでは今日の午前中にクリスマスツリーを装飾する人が多いと思います。
うちも先日買ったクリスマスツリーを今日まで庭のテラスに立てかけておきましたが、今日の午前中には部屋に入れてネットを外して飾ります。
ウィーンの街は午後から晩にかけてとても静かになり、多くの人が家で家族とクリスマスを過ごします。
遠くに住んでいる人も実家に戻って来て、家族皆で食事をし、クリスマスを祝う人が多いと思います。
こちらではクリスマスには魚を食べる習慣があります。
魚はイエス・キリストのシンボルのひとつです。
家庭によってそれぞれの習慣があるとは思いますが、食事の前や後にBescherung(ベシェールング)と言われるプレゼント交換をするわけですが、この時に"きよしこの夜"が歌われます。
クリスマスソングとしてクリスマス時期にしょっちゅう流れているイメージがありますが、オーストリアではこのプレゼント交換のこの時、1回だけ、しかも敬虔な気持ちで歌われます。
このきよしこの夜はこの国オーストリアから生まれたことは御存知でしたか?
今年も私のホームページの伝統としてこの曲をクリスマス・イヴの話題にします。
ザルツブルク中心から車で約20kmぐらい走った所にOberndorf(オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
その街の一角に、この写真に見られるStille Nacht Kapelle(シュティレ・ナハト・カペレ・・・きよしこの夜礼拝堂)が立っています。
ここにはもともと聖ニコラウス教会が建っていました。
当時そのニコラウス教会で、1818年、ここの教会のオルガンの状態がとても悪く、弾ける状態ではなかったようです。
その年のクリスマスの12月24日にはそのオルガンをミサで使うことができませんでした。
そこでこの教会のヨーゼフ・モール神父が詩を書き、フランツ・グルーバー先生がその詩に曲をつけ、ここの壊れたオルガンの代わりにギターで伴奏されてその時歌われた曲・・・それが「きよしこの夜」(Stille Nacht) だったのです。
モール神父とグルーバー先生によって"きよしこの夜"が作られて歌われた当時のニコラウス教会は、19世紀終わりのザルツァッハ川の何回かの水害によって傷んでしまったため、最終的に1913年に取り壊されることになります。
その取り壊しから20年以上経った後の1937年8月15日、当時のニコラウス教会と同じこの場所にこの写真に見られるように現在の礼拝堂が奉納されました。
ちなみに現在でもこのOberndorfにはこのきよしこの夜記念礼拝堂から1km離れた所に新しいニコラウス教会が立っていて活躍しています。
この新しいニコラウス教会は1906年に建築が始まり、1910年に完成しています。
礼拝堂の中はシンプルな構造となっています。
上の2枚の写真は礼拝堂内部に見られるステンドグラスです。
左側がヨーゼフ・モール神父で、神父の下には当時のニコラウス教会も描かれています。
モール神父は詩人ではありませんでしたが、きよしこの夜の詩は、1816年にすでに書かれていたということです。
右側はグルーバー先生でギターを持って演奏していて、その下にはやはりニコラウス教会が描かれています。
彼ももちろん知られた作曲家ではありませんでした。
こちらは礼拝堂の主祭壇です。
この中はシンプルな小さな礼拝堂で、記念館的な雰囲気が感じられますが、現在でも宗教的に使われています。
"きよしこの夜"は、1818年・・・今から200年近く前にここで歌われ、その後「Stille Nacht! Heilige Nacht!」と呼ばれ、チロルの有名なツィラータールを経由し、ヨーロッパ全土に、そしてアメリカに・・・やがて日本にまでと、世界中に知られるようになったのです。
この曲なしのクリスマスは考えられませんね。
こちらではプレゼント交換をする前に必ずと言っていいほどこの曲が歌われます。
「きよしこの夜」は全世界330の言語で現在でも歌われ、親しまれています。
このきよしこの夜は2011年に無形文化遺産にも登録されました。
去年2018年はこの"きよしこの夜"が生まれた200周年記念でした。
オーストリア造幣局はきよしこの夜200周年記念硬貨を発行しています。
何回も書いていますが生活の中で一番重要なイベントはクリスマスですね。
ひと月以上もクリスマスの空気を楽しむことからもわかります。
冬至に近づき、日が短くなっていくこの時期・・・それを吹き飛ばすクリスマスの習慣、この時期ウィーンの街中を歩くだけで何かうきうきした気持ちになりますね。
クリスマス市、プンシュスタンド、イルミネーション・・・どれをとってもこの時期だけです。
これらはウィーンに限らずもちろんオーストリアの至る所でクリスマス市が開かれ、アドヴェントの習慣を見ることができます。
今日は地元で知られたそんなある場所を話題にしたいと思います。
こちらは "Kittenberger Erlebnisgärten"(キッテンベルガー エアレープニスゲルテン)です。
ここはウィーン中心部からヴァッハウ渓谷方面へ85km程車で走った所にある地元で知られた様々なスタイルの庭が集まった大きなテーマパークです。
広さ50.000m²以上もあるこの庭園にはクリスマス時期恒例のイルミネーションが施され、地元では毎年多くの人が訪れます。