ウィーンのリンク道路沿いにある公園のひとつに国会議事堂の前にあるバラが多く咲いているVolksgarten (フォルクスガルテン)・・・国民庭園があります。
リンク道路沿いにある多くの公園(庭園)のひとつで、地元の人が多くくつろいでいて、いい季節には木陰に座って寝転んでいる人も多く見かけます。
バラが多く咲いているリンク道路に面した最も優雅な場所からちょっと奥に行くとテセウス神殿というミニギリシャ神殿が立っているのがわかります。
さらに奥に行った目立たない所にエリザベート皇后の像があるのを御存知ですか?
日本にも多くのファンがいるエリザベートはバイエルンのヴィテルスバッハ家出身で、1837年12月24日生まれ、自然の中で自由に子供らしい幼少時代を送り、ある意味では普通に育てられたエリザベートの運命が変わることになるのは、いとこに当たるフランツ・ヨーゼフ1世に一目惚れされ、結婚が決まってからでした。
元々エリザベートのお姉さんのヘレーネとフランツ・ヨーゼフ1世を結婚させることが決められていましたが、それに反して妹に一目惚れをしたわけで、16歳のエリザベート(愛称シシィ) がウィーンに嫁ぐこととなったのです。
ウィーンの宮廷文化は全く肌に合わず、1人でいることも多く、精神的なバランスも崩れ、宮廷を逃げ出すかのように色々な所を旅します。
2人の間からは、彼女が30歳までに4人の子供が生まれますが、3番目に生まれた長男ルドルフ皇太子はウィーンの森マイヤーリンクでピストル心中自殺をすることは有名ですね。(悲劇のマイヤーリンク 参照)
エリザベートの最後は、1898年9月10日 スイスのジュネーブでルイジ・ルッケーニによって心臓を刺されて帰らぬ人となるという、悲劇的なものでした。
エリザベートが亡くなった4年後には、この像を作るコンテストが行われています。
2012年はクリムト生誕150周年記念の年で、それをきっかけに団体ツアーの多くはベルヴェデーレ宮殿に入場観光することが非常に多くなりました。
ベルヴェデーレ宮殿はオーストリアギャラリーという美術館になっていて、19,20世紀の作品を中心に中世、バロック、現代と幅広く展示されています。
年々このオーストリアギャラリーの訪問者が増加していて、2018年の8月からはクリムトコーナーへの入場制限も導入されましたが、それは現時点では行われていません。
2019年の7月から10名以上の場合はシェーンブルン宮殿同様、時間予約制度が導入されました。
団体ツアーの場合は制約が多くなりました。
頻繁に混雑するようになり、入場するにも相当な待ち時間が必要となる場合が多くなりました。
以前と比べるとクリムトの人気も日本でもかなり高まっていると思います。
さて、今日のウィーンこぼれ話のコーナーではなぜか今まで取り上げなかったクリムトのお墓を紹介します。
こちらがクリムトのお墓です。
いかがですか?
黄金と装飾の代表作と比べるとかなりシンプルなお墓ですね。
クリムトは1862年7月14日にシェーンブルン宮殿に結構近い、現在のウィーン14区のLinzerstraße 247番地で、7人兄弟の2番目として生まれています。
クリムトの父は彫金師であり、クリムトは父の後ろ姿を見ながら育ち、芸術的な素質を受け継いだ彼は家計を助けるために工芸美術学校に14歳で入学します。
そこでラウフベルガ―のもとで7年間様々な分野を学びました。
同じ学校に入って来た弟のエルンスト・クリムトと学友フランツ・マッチュと3人でカンパニーを結成し、劇場の天井画などの仕事を請け負います。
売れていたクリムトは様々な上流中産階級から多くの注文が入り、経済的にも潤っていました。
彼は1918年2月6日に脳梗塞(脳卒中)で亡くなりました。
クリムトのお墓はヒーツィング墓地のメイン入り口から入るとかなり奥にあります。
ヒーツィング墓地はシェーンブルン宮殿庭園の隣に位置しているのですが、少し行き辛い所にあります。
一番分かりやすいのは地下鉄4号線のHiezing駅から徒歩、またはバス(56A,56B,58A,58B)でアクセスできます。
徒歩だとメインゲートまでは1.5kmもあり、25分近くかかります。
メインゲートに行く手前に第3門があるので、そこから入ればクリムトのお墓までは少し近くなります。
クリムトのお墓は名誉市民のお墓(Ehrengrab)と思われやすいのですが、実際はEhrenhalber gewidmetes Grabになるので、中央墓地にある音楽家のお墓などとはちょっと違った扱いになります。
このお墓は1962年 Josef Schagerl juniorによって製作されたもので、キャンバスを立てていることをイメージしています。
すでに再度ウィーンから離れてだいぶ時間が経ってしまいましたが、クリムトの作品をひとつ覚え書きを兼ねて掲載したいと思います。
クリムトと言えばベルヴェデーレ宮殿ですね。
このオーストリアギャラリーは世界で最も多くのクリムトの作品を所有しています。
ここは年々訪問者の数も増えていき、クリムトコーナーはいつもかなりの賑わいになっています。
そう言えば先日偶然にもここからの美しい眺めを話題にしていました。
今日のタイトルにも見られるようにこちらがアデーレ・ブロッホバウアー2です。
2があるということは1もあります。
No.1は圧倒的知名度を誇る"接吻"とほぼ同時期の1907年に描かれたクリムト黄金期の代表作品のひとつですが、このNo.2はそれより5年後に描かれたものです。
No.1もNo.2もこのベルヴェデーレ宮殿に展示されていて、私も数え切れない程案内しました。
案内しました...そうです、でも今は展示されていません....それどころか2006年2月14日に他の3枚の風景画を含めた計5枚がオーストリアから離れてしまったわけです。
オーストリア政府とブロッホ=バウアーの姪マリア・アルトマンおよびその共同相続人との間に起こった2006年までの長い法廷争いがあったからです。
あれから17年...そのアデーレ・ブロッホバウアーNo.2がメンテナンスと修復のために里帰りしていて、ベルヴェデーレ宮殿の上宮に2023年11月9日~2024年2月11日まで、ここが本来の自分の家のように展示されていたんです。
この時期にオーストリアギャラリーに行かれた方は本当にラッキーでした。
私も17年ぶりに仕事でこの絵を案内し、個人的にも数回訪れました。
案内していてまるで昨日もここに展示されていたような感覚になりました。
朝夕はかなり涼しく、人によっては寒く感じるウィーンの街ですが、今日から日中の気温がまた25℃を超えるようで、秋になりきらない気候ですね。
日中は夏の延長を感じさせ、この時期にしては暖かいですね。
昨日もお客様に黄葉を楽しみにして来たのですが、まだまだですね~・・・と言われました。
確かにもう少し秋を感じられてもいいかもしれません。
そう書き始めながら今日のウィーンの朝は深い霧が発生して、今に限っては秋を感じます。
さて、今日はこの時期の王宮庭園のモーツァルト像を掲載します。
去年の秋ぐらいのこのモーツァルト像はずっとネットがかかっていて、修復をしていました。
その時期にウィーンを訪れた方はここに来て誰もが失望したのではないかと思います。
でもそれも国会議事堂のように長い期間ではなく、数カ月で終わり、今年から綺麗になって王宮庭園で皆さんを待っています。
もともとこのモーツァルト像はオペラ座裏のアルベルティーナ広場(現在ではHelmut Zilk 広場)に立てられていたのですが戦争で被害を受け、その後修復されて現在のように王宮庭園に新たに置かれました。
ザルツブルクにあるモーツァルト像よりもこちらウィーンの方が有名ですね。
この像はヴィクトール・ティルグナーという彫刻家によるもので、19世紀終わりに制作されました。
この場所のシンボル的なト音記号を模る花の色が年間で何回変わるのでしょうか。
写真は今年9月後半のある日の光景です。
モーツァルトの曲が響いて来ませんか?
日中の気温は25℃になり、初夏の空気が漂うウィーンはより緑が多くなり"森の都"ウィーンらしくなってきました。
街中を歩くのがより楽しくなりますね。
さて、今日はこの時期の王宮庭園のモーツァルト像を掲載します。
去年の秋ぐらいのこのモーツァルト像はずっとネットがかかっていて、修復をしていました。
その時期にウィーンを訪れた方はここに来て誰もが失望したのではないかと思います。
でもそれも国会議事堂のように長い期間ではなく、数カ月で終わり、今年から以前と変わらぬ姿を見せてくれています。
ザルツブルクで生まれたモーツァルトですが、ザルツブルクにあるモーツァルト像よりもこちらウィーンの方が有名でしょう。
この像はヴィクトール・ティルグナーという彫刻家によるもので、19世紀終わりに制作されました。
もともとこの像はオペラ座裏のアルベルティーナ広場(現在ではHelmut Zilk 広場)に立てられていたのですが戦争で被害を受け、その後修復されて現在のように王宮庭園に新たに置かれました。
この場所のシンボル的なト音記号を模る花が春の訪れをアピールしていますね。
毎年花の色が変わります。
この場所はモーツァルト像を見ようという人で、頻繁に賑わっています。
今日はこれからザルツブルクの日帰りツアーで、モーツァルトに会いに行ってきます。
モーツァルトのオペラ "魔笛"は音楽に興味がない方でもいくつかの旋律は聞いたことがあると思います。
この魔笛に登場する鳥刺しのパパゲーノは魔笛の代表的なキャラクターになっています。
この魔笛が初演されたのはTheater an der Wien劇場の前衛であるFreihaustheater、もしくはTheater auf der Wieden と呼ばれ、1787年に作られ現在のOperngasse22-32番地にありました。
その後劇場は場所を変えて現在のTheater an der Wienに1801年オープンし、現在進行形の劇場ではウィーン最古の劇場となっています。
ここにはパパゲーノの門があることで知られています。
また魔笛が初演された界隈ウィーン4区の一角にはモーツァルト噴水があり、やはり魔笛に登場するタミーナとパミーナが見られます。
それ以外にも実はこんあ噴水があります。
これは誰でしょうか?
はい、御想像通り鳥刺しのパパゲーノです。
ザルツブルクに詳しい方は、これを見た瞬間にあ、これはザルツブルクにあるパパゲーノ噴水だなと思われるでしょう。
ザルツブルクのパパゲーノ噴水はモーツァルト像がある場所から南東へ190mほど歩いた所のあまり目立たない場所に立っています。
旧市街にあるのですが、旧市街の通常観光ルートから若干外れることが多いため、ここまでくる方は意外と少ないのかもしれませんね。
写真ではパパゲーノ像しか見えていませんが、実際はかなり立派な噴水にこのパパゲーノが立っています。
こちらがパパゲーノ噴水の全体像です。
でもこれはザルツブルクではなくウィーンにあるものなんですね。
そうです、ザルツブルクにあるパパゲーノ噴水のコピーです。
この噴水はウィーン10区のKurpark Oberlaaが1974年にオープンした際、ザルツブルク市から寄贈されたものですが、現在では2012年に再度製作されたものが置かれています。
ザルツブルクにあるオリジナルの噴水は1960年にザルツブルクの彫刻家Hilde Hegerによって製作されました。
オリジナルは石段が2段なのですが、ウィーンのコピーは3段あって少し豪華になっています。(笑)
先日ウィーンの美術史博物館でティツィアーノの婦人画展を鑑賞してきました。
本来多い時には1週間に3~4回行くこともある美術史博物館なのですが、コロナ禍のお陰でちょっと足が遠のいていました。
前回ここに来た時にも気づいていたのですが、今回あらたにこの大階段ホールを上った時に目立ったものがあります。
ウィーンの美術史博物館は質から言って、ヨーロッパ3大美術館のひとつにも数えられ、絵画史上とても重要な作品が目白押しです。
この美術史博物館はその素晴らしいコレクションを展示することを念頭に初めから美術館を意図として建築されたわけですから、中に入るとその素敵な空間に驚かされます。
2階の絵画コーナーに行くために大階段を上っていくわけですが、その時に素晴らしい天井画が見られるわけですが、すぐに大階段中央に置かれている堂々とした彫刻に気付きます。
この彫刻は、当時ヨーロッパでおそらく一番有名であったイタリアの彫刻家アントニオ・カノーヴァが製作したもので、英雄テセウスがケンタウルスをやっつけている場面です。
このケンタウロスは上半身が人間で、下半身が馬で、好色で粗暴です。
ラピタイ族の王ぺイリトオスの結婚式で、花嫁に襲いかかったので、テセウスが退治するという話です。
カノーヴァ(1757年イタリアのPossagnoで生まれ、1822年ヴェネツィア没)は、父も祖父も石工や彫刻家であり、父が早く亡くなり、母も別の所に嫁いだため、祖父が家業を継いでもらうため、早くからカノーヴァにスケッチの手ほどきをし、幼いころから美術をすることになり、彫刻に関心を示し、すぐに祖父を手伝うことができるようになったといいます。
ウィーンのアウグスティーナ教会にあるマリア・クリスティーナの墓石は非常に有名です。
この彫刻はカノーヴァの特徴である裸体の大理石で表現されています。
テセウスはアテナイの王アイゲウスとトロイゼンの王女アイトラの子と言われ、後に王位を継ぎます。
彼の有名な話はクレタ島の迷宮内の牛頭人身のミノタウロスを、王女アリアドネの助けで退治し、迷宮を脱出したことでしょうか。
この彫刻はナポレオンが注文したものですが、ナポレオンが失脚した後、ローマでハプスブルグ家の皇帝フランツII/I 世が入手し、1822/1823年にウィーンに運ばれました。
そして以前ここで紹介した国民庭園のテセウス神殿に置かれましたが、この美術史博物館がオープンした1891年よりこの場所に置かれています。
長くなってしまいましたが、テセウスの顔を見て下さい。
マスクを付けています。
美術館に入るためには2G規則で、館内もFFP2マスク着用が義務付けられているので、テセウスもそれに従っているんでしょうね(笑)
去年の10月5日から美術史博物館で開催されている"Tizians Frauenbild"・・・ティツィアーノの婦人画展に先日やっと行って来ました。
この特別展覧会が開催される前から、ヴェネツィア派の絵画が大好きな私は、あ、これは絶対に見ておかないとな・・・と何度も思いながらなぜか今頃になってしまって、気付いたら今日が千秋楽となってしまいました。(笑)
本来であれば週に3~4回行くこともある美術史博物館なのですが、コロナ禍・・・まだまだ観光客の皆さんが気軽に来れる状況ではありませんね。
早く以前のようになって欲しいです。
美術史博物館は現在、チケットは建物の外におかれている窓口で買いますが、特別展示会の場合は時間制限があり、美術館入場料の他に5ユーロ別途にかかります。
現在美術史博物館の入場料は大人18ユーロですから、合わせると23ユーロということになりますね。
私はオーストリア国家公認ガイドなので、有難いことにガイドのライセンスを入口で見せるだけですぐに入れてくれます。
美術館で働く多くの人とも顔見知りなので、正直ライセンスを見せることなく、顔パスで入れてくれます。
あ、でも入る前に"2G"検査はありましたよ。
目的はティツィアーノだったので、すぐに上に行きました。
特別展覧会場所はイタリアウィングの奥の部屋から始まっていて、中に入るとかなり薄暗くなっていました。
思っていたよりも多くの人がいましたし、美術館が提供しているガイドツアーも2組いましたね。
元々この美術館が所有している絵も多く展示されていましたが、それ以外の作品も並んでいました。
他から借りて来たものは撮影禁止が多かったですが、ウィーンの美術史博物館が所有しているものはフラッシュなしで問題なく撮影できます。
右は入って最初の部屋に展示してある女性のポートレートです。
ティツィアーノが主役ではありますが、彼が学んだジョバンニ・ベッリーニやちょっと先輩のジョルジョーネ、パルマ・ヴェッキオ、ティントレット、ヴェロネーゼ、ロレンツォ・ロット、パリス・ボルドーネなども多く展示されていて、美しい婦人画像、華麗な色彩60点が見られました。
館内はかなり薄暗くしてあるので、全体の写真を普通に撮影してもあまりよくわからないですね。
16世紀の前半はこのような女性の美人画が非常に流行りました。
ティツィアーノも好きですが、女性の美人画であれば私は個人的にパルマ・ヴェッキオの方が好きですね。
ティツィアーノの場合は理想の女性像と言う感じで、何となく現実から離れているのですが、パルマ・ヴェッキオの肖像画は身近な美しさを感じるからです。
ティツィアーノはヴェネツィア派最大の巨匠と言われ、1488年にヴェネツィア共和国のピエーヴィ・ディ・カドーレで生まれたとされいますが、正確な年代はわかっていないようです。
10歳~12歳ぐらいの時に画家の弟子になるためヴェネツィアに送られたようです。
ヴェネツィア派の創始者とも言われるジョバンニ・ベリーニの工房で修行し、そこでジョルジョーネとも出会い、彼の未完成の作品をティツィアーノが完成させていく過程で独自のスタイルを身につけていきました。
ベリーニが1516年、ジョルジョーネが1510年の亡くなってからはその後60年間はヴェネツィア派最大の巨匠であり続け、ハプスブルグ家のカール5世やその後のフィリップ2世からの庇護も受けてハプスブルグ家の宮廷画家としても数々の作品を残しまし、1576年のヴェネツィアで亡くなっています。
ティツィアーノの"ヴィオランテの肖像"は1515年~1518年に描かれ、美人画と呼ばれる16世紀前半のヴェネツィア絵画の特徴を見ることができます。
Violante・・・ヴィオランテはイタリア語のviola、ドイツ語のVeilchen(すみれ)から由来した名前で、この絵の彼女にとっての左の胸元にすみれの花が見られます。
大胆な色使いに対し、金髪の細かいタッチや美しい肌の描写も見事で当時の理想の女性像を表しています。
この女性は高級娼婦と言われていますが、そんな人物に理想の美しさを見出しているおもしろさがあります。
オーストリアの郊外には美しい街がたくさんあります。
ウィーンはオーストリアで最も人口が多い184万の街ですが、2番目に人口が多いグラーツですら29万1.000人しかいません。
人口数万人から数千人単位の美しい街が国内にはたくさん点在しています。
その中で今日はクラーゲンフルトからの話題です。
オーストリアの南に位置するケルンテン州の州都Klagenfurt am Wörtherseeは(クラーゲンフルト・アム・ヴェルターぜー)は私が大好きなWörtherseeのすぐ東に位置した人口101.000人の小さい街ですが、中心部はオーストリア典型的な明るさと美しさがあります。
クラーゲンフルトのシンボルと言えば"Lindwurm" (リントヴルム)です。
"Lindwurm" (リントヴルム)は日本語でもリントヴルムと呼んでもいいと思いますが、伝説上の生き物で翼があるドラゴンです。
クラーゲンフルトのNeuer Platzにはこの"Lindwurmbrunnen"という有名な噴水があります。
1583年にケルンテン等族からの命令によりが伝説上の生き物の記念碑を作ることになりました。
このLindwurmはこのクラーゲンフルトの地元の山であるKreuzberglから切り出された単体のクロライト(緑泥石)から作られています。
製作者は長く Ulrich Vogelsangだと思われていましたが、どうやら違っているようで無名の彫刻家だどうということに現在ではなっています。
非常に攻撃的なLindwurmはマニエリスム的な要素も見られ、しかしロマネスク的な部分も感じられます。
1593年にこの600トンもあるLindwurmが300人の白の服を着た若者達によってこの場所に運ばれました。
当初このLindwurmは頭を北に向けていて、噴水はありませんでしたが、(プランには描かれていましたが)1624年には噴水が作られ、現在の向きに動かされたようです。
1634年にはGeorg Tillitzniよって後期ルネッサンス様式の花の模様を伴った囲いが噴水に作られました。
1636年にはヘラクレスの像が追加されていますが、彼の持っているこん棒こそこのクラーゲンフルトの街ができたことと、このLindwurmに大きな関係があります。
1972年にこの広場の下には地下駐車場が作られましたが、その際にLindwurm噴水は現在の位置に移されました。
こちらがLindwurm噴水の全体です。
ここにはヘラクレスは写っていません。
しっぽに特徴があり、恐怖感が漂っていますね。
クラーゲンフルトのLindwurm伝説
Karast公爵の時代、この辺りはWörtherseeからDrau河まで湿った苔が多くあり、野生の木々や茂みがある地域でした。
山側は放牧地域になっていたので人々や家畜はいましたが、逆にこの地帯には誰も人が立ち入ることがありませんでした。
稀に人が入ると、その不気味な暗闇からは誰も戻っては来ませんでした。
また牛なども消えてしまい、羊飼いなどがいくら探しても見つかりませんでした。
この地域はいつも深い霧に覆われていたので、人間や動物を殺すような殺人鬼を誰も見ることがありませんでした。
さて、公爵は大勢の中から勇気ある者に、この殺人鬼のいる場所を突き止めて、退治する命令を出しました。
しかし、恐怖から勇気ある者達も退いてしまいます。
ある策略だけがこの殺人鬼をおびき出すことができたのです。
その後まもなくこの沼地の端に頑丈な塔が作られ、その塔の中から相手に悟られることなく遠くを見渡せることができるようにしました。
勇気ある少人数の下男たちが退治した時の報酬に引かれて戦いに挑みました。
その報酬とは策略と力で殺人鬼を退治した勇気ある者には川からのこの土地、十分なお金、
もし奴隷であれば自由を与えることでした。
肥えた雄牛を鎖でつなぎ、そこに釣り針のような鉤を取り付けました。
雄牛の鳴き声がこの一帯にこだまし、まもなく沼地から水しぶきが立ち上がり、羽としっぽを持った巨大な生き物がまるで槍のように飛び出してきました。
そして雄牛を飲み込むために大きな口が開かれます。
その時魚を釣るように鉄の鉤がドラゴンに口の中に刺さり、ドラゴンは怒りからしっぽを振り回してさらに尖った足で雄牛を深くつかみます。
その時素早く下男達が飛び出し、鉄のこん棒でドラゴンをやっつけてこの場所はドラゴンから解放されました。
このドラゴンと戦った場所に平和な村ができ、塔が立っていた場所には公爵によってお城が作られます。
この村とお城が時と共に発展して現在のクラーゲンフルトが生まれることになります。
ウィーンは4度目のロックダウインが5月2日で終わり、昨日3日からは商店など営業を開始していますが、カフェ、レストランは5月19日以降となっています。
さて、今日はモーツァルト像が立っているこの時期の王宮庭園のワンシーンをお届けします。
ウィーンの街は荘厳な建造物が建ち並ぶ上品で優雅な街・・・現在でもかつての帝国の都を偲ばせます。
王宮庭園にある有名なモーツァルト像です。
ザルツブルクで生まれたモーツァルトですが、ザルツブルクにあるモーツァルト像よりもこちらウィーンの方が有名でしょう。
この像はヴィクトール・ティルグナーという彫刻家によるもので、19世紀終わりに制作されました。
もともとこの像はオペラ座裏のアルベルティーナ広場(現在ではHelmut Zilk 広場)に立てられていたのですが戦争で被害を受け、その後修復されて現在のように王宮庭園に新たに置かれました。
写真は2021年4月23日の12:00頃の撮影です。
この場所のシンボル的なト音記号を模る花が春の訪れをアピールしています。
左側には新王宮、右側はアウグスティーナ教会の塔が見えています。
余談ですがこのモーツァルト像を是非近くで見て下さい。
多くの発見があります。
ウィーンの街は旧市街を含め、かなりの広さが世界遺産となっていて、荘厳な建造物が多く建ち並ぶ上品さと優雅さを備えたかつての帝国の都を今でも感じることができます。
言ってみれば街全体が博物館みたいですね。
観光客の皆さんにとって重要なものはガイドブックなどにもある程度紹介されていますね。
今日は、地元では非常に有名ですが観光的にはまず知られていない中世のモニュメント的なものを紹介します。
こちらは"Spunnerin am Kreuz"(シュピンネリン・アム・クロイツ)と言われる地元で知られたゴシック様式の記念像みたいなものです。
これはウィーン中心部から離れた10区のTriester Sstraßeの通り沿い、Wienerbergに立っています。
ここはウィーンの街中ではウィーンの森を除いて最も標高が高い所で、ここからまた南へ向かって下り坂になっています。
通常の市内観光でここを通ることは多くありませんが、ウィーンの森の南側などに行く時にはよく通りますので、私もここを通る時には必ずと言っていい程これを御案内しています。
これは14世紀の終わりにMichael Knabによって作られたことになっていますが確かではありません。
もともとここには質素な木で作られた十字架があったようです。
その後15世紀にこれを新しくした後から記録で確認することができます。
1452年にシュテファン大聖堂の北塔を手掛けるHans von Puchsbaumによって現在の形になりました。
高さ16m、土台の部分を含めて5層構造のゴシック様式の教会の塔のように見えます。
真ん中の高さにはそれぞれ4方向に、磔刑、むち打ち、茨の冠、エッケ・ホモを表した大きな像が立っています。
こちらはこのSpinnerin am Kreuzの2ヵ所に見られる年号です。
プレートのように見えますが、これ自体に刻み込まれています。
左上は1452年にこれが作られたこと、右上はこれが修復された年を表しています。
今まで数多く修復されてきました。
<Spinnerin am Kreuzの伝説>
このSpinnerin am Kreuzには、700年以上も前から伝わる若い女性の絶望の伝説があります。
レオポルド公爵の使いが、聖地を征服したオスマントルコを倒すため、若い男性達が十字軍に召集されるという御触れが出されました。
その若い女性の夫がすぐに志願します。
この女性は自分の夫のために赤い十字架を彼の服に縫い付けますが、その際に彼女の涙が服にしみ込んだといいます。
3週間後に時は来ました。
若い女性は夫をこのWienerbergまで送って、2人はここで別れました。
別れの際に彼女は「私はあなたがここに戻ってくるまで、ずっとこの場所であなたを待っています」と夫に約束しました。
この場所には木でできた質素な十字架があり、この場所から南をずっと遠くまで見下ろせました。
夫は妻の言葉を真剣に聞かず、頭の中はこれからの戦いでいっぱいだったようです。
彼女はこの場所に座り、夫が去って行くのを日が暮れるまで見ていました。
次の日の朝、彼女はもうこの場所に座っていました。
彼女は自分の生活のために糸を紡ぐための巻き棒を持参し、糸を紡ぎながら遠くの聖地で戦っている夫の事ばかりを考えていました。
何日も何日も時が経つにつれて、彼女のこの姿はこの界隈に住む人達にとっても日常光景となりました。
当初人々は家で糸を紡ぐようにと説得したのですが、彼女は言うことを聞かず、どんな天候の時でも毎日欠かさず、街の門が閉められるまでここに居続けました。
彼女が織った織物を買う人も多く、彼女が言った価格以上を支払う人も多かったそうです。
そこで"Spinnerin am Kreuz" (シュピンネリン・アム・クロイツ)と言われるようになりました。
彼女は時間はたっぷりあったので、この木でできた十字架を、より立派な石で作り変えようという考えが生まれました。
それが完成したら、きっと自分の夫が戻って来るだろうと確信しました。
そこで名が知られていた親方Michael Knabを訪ね、いくつかの案を見た所、そのひとつが大変気に入りました。
親方から言われた価格は、彼女がその半分ですら支払うことができない価格だったそうですが、親方はこの若い女性の事情を知っていたようで、残りの支払いは後で少しずつでいいからと言って早速作業に取り掛かりました。
石の埃なども全く気にせず、この場所で彼女は今まで以上に熱心に仕事を続けました。
1年後に石の素敵なモニュメントが完成しました。
ここに来るお客さんに今にも夫が戻って来ると言っていたそうですが、聖地の状況がこちらにとって良くないことを誰も彼女に話すことは出来なかったそうです。
人々は彼女の気が狂ったのではないかと思うようになり、彼女は3回目の冬を越しました。
3年の月日が流れ、毎日南を見て夫の帰りを待っていたSpinnerin am Kreuzがある日、ついに大きな群衆を見つけました。
ついに十字軍が戻って来た!・・・この彼女の叫びを聞いた人々がどんどん集まって来てこの場所は大変な人だかりになりました。
本当だ、十字軍が帰って来た!
多くの人々は再会を喜んでいましたが、彼女の夫はいませんでした・・・。
十字軍が帰国し、人々がここからいなくなって静かになり、彼女は神が自分の夫を聖地で死なせたこの運命を受け入れることができませんでした。
日が沈んで行きます。
気を取り直して、紡ぎ車を持って家に帰ろうとした時、暗くなった所から松葉づえをついて大変そうに歩いている男性が見えました。
彼に自分の夫の安否を聞いて、夫が亡くなっていたらもう二度とこの場所には戻ってこないと思いました。
長い髭を生やし、長いもつれた髪のその男性に話しかけようとしたら、彼が頭を上げたので顔を見ることができました。
彼は目を輝かせて言いました。
「私の愛する人よ!」その瞬間に彼は別れの時に言った彼女の言葉を思い出しました。
「お前は本当にここでずっと私のことを待っていたのか?」と静かに涙を浮かべて聞きました。
「はい」とささやき、続けて「あなたが無事に生きて帰って来てくれて本当にうれしい、よかった!」と言い、お互いに抱き合いました。
夫は「ごめん、私は人質となり、怪我のため皆の後について行くことが出来なかったんだよ」
彼女は「あなたは今ここにいるわ、もう何も私達を引き離すことができないわ」と言い、2人は暗闇の中をゆっくり家に向かいました。
それからまもなく"Spinnerin am Kreuz"の夫が戻って来たことが知れ渡りました。
ウィーン美術史博物館では10月15日からカラヴァッジョ&ベルニーニ展が開催されています。
去年の今頃は人生最初で最後のブリューゲル展が開催され、前売り入場チケットが売り切れになるほどの大盛況でした。
今回のカラヴァッジョ展はどうでしょうか?
今日はその模様をちょっとお届けします。
今回のカラヴァッジョ&ベルニーニ展もブリューゲル展同様、入場時間制度の5ユーロの特別料金となっていて、美術史博物館前のチケット売り場、館内のカラヴァッジョ展の入口、インターネット上で購入できます。
今回はもともと美術史博物館でカラヴァッジョが展示されている空間に特別展の入口が設けられ、そこから内側の展示スペース全てを利用し、最後の空間は正面階段奥の空間にショップを設置しています。
外側の細い回廊的な空間は通常の展示スーペースになっていて、カラヴァッジョ展とは完全に切り離されています。
暗い空間に、展示されている絵画にスポットを当てるというカラヴァッジョのテネブリズムを意識したような演出となっています。
カラヴァッジョは(1591年~1610年)は徹底来な写実性、強烈で劇的な明暗を特徴としたバロック絵画の先駆者であり、後のバロック画家に多大な影響を与えています。
もともとウィーンの美術史博物館にはカラヴァッジョの作品が3点あり、(ロザリオの聖母、茨の冠をかぶったイエス・キリスト、ゴリアテの首を持つダヴィデ)今回の特別展示会ではそれを含めて計10点が見られます。
個人的には去年のブリューゲル展を上回るとは思えませんが、それなりに入場者数が多く、館内の特設券売り場ではそれなりに並んでいることが多く、そこでもらえる入場時間が1時間~2時後であることが多いです。
このカラヴァッジョ展も見ようとする方で、ここに来る時間がある程度決まっている方は、美術史博物館のサイトから事前購入するのがお勧めです。
日時、入場時間を指定できます。
自転車はヨーロッパのひとつの文化と言ってもいいでしょう。
ウィーンの街も多くの人が自転車で走っています。
リンク道路を歩けば自転車専用ゾーンがしっかり作られているのがわかります。
Citybike(シティーバイク)のようなシェアリングも人気があり、旅行者でも簡単に利用できます。
私もプライベートでは子供とよく自転車に乗りますが、街中を走ることはあまりなく、マルヒフェルト運河やドナウ河沿いのコースもいいですが、一番のお気に入りはEuro Velo(ユーロ ヴェロ)で、ここは最高に気持ちいいサイクリングコースです。
さて、私が自転車でよく走るこのEuro Velo9号には、所々おもしろい物が見られます。
今日はそのひとつを話題にします。
こちらは何でしょうか?
これは鉄でできた円盤のような物がいくつも重なっています。
これは"Die Europasäule" (オイローパゾイレ)というモニュメントのようなものです。
"ヨーロッパの柱"なんていう日本語になるでしょうか。
鉄の円盤のように見えるこの物は、電車の車輪だったのです。
ここには23個の車輪が重ねられて、塔のように立っていて、遠くからでもかなり目立ちます。
Euro Velo9号のこの辺りは、1903年からウィーンのホイリゲで有名なStammersdorf~Auersthal間22kmを蒸気機関車が走っていました。
まるでそれを意識させるかのようです。
こちらがこのEuropasäuleの全体像です。
全部で23個も車輪が重ねられていて、四角い土台とその上にある円形の石にはめ込まれているように見えます。
これは煙突をイメージしていて、産業革命のシンボル的な意味を持っています。
このWeinviertel辺りには産業革命の時代、煉瓦工場の煙突が立っていました。
古代では石の板状の物を重ねていましたが、ここでは鉄です。
柱は古代を総括的に思わせます。
よく見れば、この車輪の土台はギリシャ神殿の柱のようです。
これはStammersdorf出身のStephan Fischerによるもので、"ヨーロッパ文化はギリシャの柱の上にあり、急速な技術の進歩は鉄の線路の上を転がって行く"と言う意味があります。
Europasäuleは大陸が一体となることのシンボルです。
ウィーン美術史博物館で10月2日からブリューゲル(父)特別展が始まって早いものでもう2ヵ月が過ぎ、あとひと月足らずとなりました。
来年2019年がブリューゲル(父)没後450年祭にあたり、美術史博物館がこのブリューゲル特別展示会について、"Once in a Lifetime"と言う見出しで大々的に宣伝しています。
最初はそんなに多くの人が訪れませんでしたが、宣伝と評判がどんどん訪問者を増やし、今は常にブリューゲル展は混雑していて、当日入場券も完売になるほどの大盛況です。
この時期ウィーンに来られた方は行かれましたか?
私もすでに何回もブリューゲル展は御案内していますが、平日の開館直後でもかなりの混雑状況です。
美術史博物館のホームページでは、ブリューゲル(父)全体で、絵画約40点、60のデッサン、80のグラフィックが世界で知られているということになっていますが、その内約半分が今回見られます。
ウィーンの美術史博物館はブリューゲル(父)の作品を世界で最も多く所有していて(12~13点)、さらに世界の色々な美術館からの契約を取り付けて、全体の3/4(約30点)の絵画が展示されています。
こちらは6連作月暦画で、もともとこの美術史博物館は雪中の狩人を含めた3枚を所有していますが、今回は2作目の干し草の収穫を含めた4作が並んでいます。
農民の結婚式と農民の踊りは、通常この美術史博物館で見られます。
去年2017年日本に来たオランダのロッテルダム ボイマンス美術館からのバベルの塔(通称小バベル)と、もともとこのウィーンの美術史博物館が所有するバベルの塔(通称大バベル)が同じ部屋にあります。
個人的にはウィーンの常設展で見られるバベルの塔の方が迫力があって好きで、こちらの方が人気があるでしょうか。
今回ここに掲載した写真はたまたまちょっと空いている時間帯に撮影しました。
近くでゆっくり鑑賞することができました。
小バベルの前に誰もいないというのはあり得ないことです。
今日はモーツァルト像が立っている王宮庭園の秋のワンシーンをお届けします。
ウィーンの街は荘厳な建造物が建ち並ぶ上品で優雅な街・・・現在でもかつての帝国の都を偲ばせます。
ウィーンの街の至る所に見られる木々の色が黄色やオレンジになるこの秋の時期、ウィーンの街のどこの風景を切り取っても絵になりそうです。
王宮庭園にある有名なモーツァルト像です。
ザルツブルクで生まれたモーツァルトですが、ザルツブルクにあるモーツァルト像よりもこちらウィーンの方が有名でしょう。
この像はヴィクトール・ティルグナーという彫刻家によるもので、19世紀終わりに制作されました。
もともとこの像はオペラ座裏のアルベルティーナ広場に立てられていたのですが戦争で被害を受け、その後修復されて現在のように王宮庭園に新たに置かれました。
写真は2018年11月6日の12:45頃の撮影です。
この場所のシンボル的なト音記号を模る花がこの数日前に移されましたので、ト音記号の土の跡だけを見ることができます。
左側には新王宮、右側はアウグスティーナ教会の塔が見えています。
余談ですがこのモーツァルト像を是非近くで見て下さい。
多くの発見があります。
芝生の上には落ち葉が見られ、木の葉の色も秋です。
ウィーン美術史博物館で先月10月2日からブリューゲル(父)特別展が始まってちょうどひと月経ちました。
来年2019年がブリューゲル(父)没後450年祭にあたり、美術史博物館がこのブリューゲル特別展示会について、"Once in a Lifetime"と言う見出しで大々的に宣伝しています。
ウィーンの美術史博物館はブリューゲル(父)の作品を世界で最も多く所有していて(12~13点)、さらに世界の色々な美術館からの契約を取り付けて、全体の3/4(約30点)の絵画が現在展示されています。
確かに人生で一度だけの大展示会かもしれません。
私もこのひと月の間に仕事で何回も行きましたが、午前と午後の仕事の合間にプライベートでも数回見に行っています。
昨日も高校生のツアーで美術史博物館に行きました。
もちろんブリューゲル(父)展も含まれていました。
昨日はAllerheiligen(万聖節)という祝日であり、今週は長い週末ということもあってか、美術史博物館はかなりの混雑でした。
こちらは昨日の16:30頃の美術史博物館前のチケット売り場です。
この時間でもかなりの行列です。
ここには建物を正面に見て、左と右にチケット売り場が設置されていて、ここで常設展の入場チケットとブリューゲル展のチケットを両方販売しています。
右側の売り場には一般とグループ用の窓口があります。
美術史博物館は本来建物の中にチケット売り場があるのですが、ブリューゲル展の混雑を想定して、そこは閉じられ、外に券売り場が設置されています。
美術史博物館の一般入場料は15ユーロですが、ブリューゲル特別展はさらに5ユーロの特別料金が設定されています。
ブリューゲル(父)特別展を見る場合は、通常の入場券とブリューゲル展の入場券と2枚渡されます。
ブリューゲル展は団体ツアーの場合は事前に予約されるので、その時間に行けばいいですが、一般の場合は窓口で入場時間が決められます。
00~20, 20~40, 40~00の20分ごとの入場時間となっていて、その時間内に入場することになります。
昨日のように混雑している時は、すぐにブリューゲル展に入ることは難しいと思いますので、先に常設展を見ていて、時間が来たらブリューゲル展に入ることになります。
昨日はここのカフェのかなりの長蛇の列でした。
実際ブリューゲル(父)展はどうだったかというと、入場時間と入場者数を制限しているため、かなり混雑していましたが、全ての作品をちゃんと見の前で鑑賞できます。
日本ではあり得ないことだと思います。
ウィーンの夜の街並みもお勧めです。
多くの建物や記念像などがライトアップされます。
昼間見る荘厳な建造物もライトアップされてちょっと幻想的な雰囲気さえ醸し出します。
中世を偲ばせる路地にも街灯がともされて、タイムスリップしたような感覚になります。
今日はライトアップシリーズです。
前回の美しいライトアップ11では、国会議事堂を話題にしました。
こちらは王宮庭園にある有名なモーツァルト像です。
このモーツァルト像はヴィクトール・ティルグナーという有名な彫刻家によるもので、19世紀終わりに制作されました。
もともとこの像はオペラ座裏のアルベルティーナ広場に立てられていたのですが戦争で被害を受け、その後修復されて現在のように王宮庭園に新たに立てられました。
辺りは真っ暗で、ほんの少しだけ背景に植物が見られますが、このモーツァルト像だけはライトアップされています。
暗闇から浮かび上がるような印象で、昼間見るモーツァルト像とは全く違った印象を受けます。建物を照らし出すようなライトアップがされるので、高い所から見てもそんなに明るい街並みには見えませんが、近くに来るととても幻想的です。
ちょっと正面から眺めてみました。
モーツァルトが指揮をしているはずなのですが、何か聖母マリアの被昇天のような宗教的モニュメントのようにも見えます。
夜の街並みはまた色々な発見があります。
ウィーン美術史博物館は絵画の質から言ってヨーロッパ3大美術館のひとつに数えられています。
14世紀~18世紀の絵画が主流です。
つまりゴシック~ルネッサンス~バロックというように絵画がいかに発展していったかということを系統立てて見ることができます。
ブリューゲルやルーベンスは世界最大のコレクション、ラファエロ、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ、カラバッチョ、ベラスケス、フェルメール、レンブラント、デューラー、クラナハ、ホルバイン、ウェイデン、メムリンク・・・などなど重要な画家が目白押しです。
仕事でも頻繁に訪れるこの美術史博物館で先日10月2日からブリューゲル展が始まっています。
ブリューゲルは画家の家系で、ここではもちろん一番知られたブリューゲル(父)です。
美術史博物館のホームページでは、ブリューゲル(父)全体で、絵画約40点、60のデッサン、80のグラフィックが世界で知られているということになっていますが、その内約半分が今回見られます。
ウィーンの美術史博物館はブリューゲル(父)の作品を世界で最も多く所有していて(12~13点)、さらに世界の色々な美術館からの契約を取り付けて、全体の3/4(約30点)の絵画が展示されています。
今日はその様子をちょっとお届けします。
ブリューゲル展は2018年10月2日~2019年1月13日の約3ヶ月間、美術史博物館の本来ブリューゲルが展示されていた空間を利用して開催されています。
来年はブリューゲル没後450年にあたり、その記念の大特別展示会で、大変話題になっています。
この準備のために9月はブリューゲルの作品が全く見られなかった日もあり、その時ここを訪れたお客様は気の毒でした。
私もオープン次の日にはこのブリューゲル展を限られた時間ですが訪れました。
美術史博物館の一般入場料は15ユーロですが、ブリューゲル特別展はさらに5ユーロの特別料金が設定されています。
開催期間中は混乱を避けるため、美術館の外に簡易券売り場が設置されていて、一般窓口やグループなだどと分かれています。
そこでブリューゲル展も含めた入場券を購入できます。
ブリューゲル展の入口には特別窓口が設置されていて、そこでもチケットを購入できます。
入場者数を制限しているので、その時の混雑状況によって待ち時間が発生することがあります。
チケットに時間が記されているので、その時間に合わせて特別展に入って下さい。
中は一方通行となっているので、通常のようにまたこちら側から出て来ることはできませんので、出口は反対側の方に設けられています。
もちろん、ブリューゲル展内は自由に行き来することができます。
ちなみに私のような国家公認ガイドが案内する団体ツアーの場合は、有難いことに別の入口が設置されていて、そこから入ることができるようになっています。
展示内容はブリューゲルの絵画、グラフィックだけでなく、細かい描写をしたブリューゲルをさらに感嘆させる拡大図、ブリューゲルがどのようにしてキャンバスを制作し、色を生み出していたか・・・などの技術的な面も強調されて展示されています。
また、彼が絵の中に描き込んだ実物の物も展示されています。
これは時間をかけてじっくり見たいです。
左上は目録です。
右上は細部にわたる拡大図が見られるコーナーです。
去年2017年日本に来たオランダのロッテルダム ボイマンス美術館からのバベルの塔もあります。
個人的にはウィーンの常設展で見られるバベルの塔の方が迫力もあって好きです。
右はイエスを拝みに来る聖三王です。
農民シリーズの空間です。
これはウィーンでいつも見られます。
こちらはバベルの塔2作で、左が上に掲載したロッテルダムから、右はウィーン美術史博物館の大バベルです。
2つのバベルの塔をこのように同じ空間で見られるのは、人生の中で最初で最後かもしれません。
実際ウィーンの美術史博物館はこのブリューゲル特別展示会について、"Once in a Lifetime"と言う見出しで宣伝しています。
私も時間を見つけて何回も足を運びたいと思っています。
是非、この機会をお見逃しなく!
ウィーンは"バロックの都"ともよく形容され、ヨーロッパで重要なバロック建築が多くあります。
特にシェーンブルン宮殿とベルヴェデーレ宮殿はウィーンの2大バロックの宮殿として重要な観光スポットとなっています。
バロック宮殿には庭園がつきもので、庭園にはBrunnen(ブルンネン)と呼ばれる泉が多く作られています。
シェーンブルン宮殿の美しい泉、ベルヴェデーレ宮殿のKaskadenbrunnenなどは以前もこのコーナーで話題にしています。
シェーンブルン宮殿の美しい泉に行く方はあまりいらっしゃらないと思いますが、逆にシェーンブルン宮殿のネプチューンの泉は誰もが目にするものではないでしょうか。
シェーンブルン宮殿のネプチューンの泉は宮殿裏側の庭園にあり、宮殿からだと正面奥に見える泉です。
左上の写真は庭園からネプチューンの泉を見ています。
右上の写真は逆にネプチューンの泉から宮殿を見ています。
このネプチューンの泉はマリア・テレジアのもと庭園を改造する際、1780年に作られました。
その4年前に先立って、宮廷建築家Johann Ferdinand Hetzendorf von Hohenbergのもとで水盤が発掘されたことから始まっています。
この泉はマリア・テレジアが亡くなる前に完成しています。
設計はほぼ前述したHohenbergであろうということになっていて、彫刻群はWilhelm Beyerによるものです。
池のような大きな泉の中央にネプチューン群像が配置されていて、大きく3段構造になっています。
中央に立ちはだかっているのが海の神ネプチューンで、彼はフォークのようなものを持っています。
そこから滝のような勢いで水が流れ出し、下に注がれていきます。
ネプチューンの左側にはニンフが、右側には海の女神テティスがいます。
ニンフは海の豊かさの象徴で、テティスはネプチューンに自分の息子アキレウスがトロイアに向かう海の道のりを容易にするように頼んでいます。
周りにはネプチューンを引っ張る4体のトリトンが馬と共に表されていて、海を渡って行きます。
彫刻群は南チロルSterzing産の白大理石です。
長さ101.6m、幅44.8m、高さ7.4mです。ネプチューンは16世紀~18世紀には非常に好まれたテーマとしてよく登場します。
是非近くに行って見て下さい。
昨日は美術史博物館の大階段ホールに見られるクリムトの壁画を話題にしましたが、今日はその続編です。
こちらは "エジプトI,II"です。
生きてる間に死後の人生を考える文化というのはこのエジプト文化をおいて他にないのではないでしょうか。
実際にクリムトは"生と死"というテーマでも描いています。
ここでは左の裸体の女性が産婦を表現してたエジプトIです。
クリムトらしい女性の裸体像です。彼女の右手にはAnch (Ankhともアンク)と呼ばれるエジプト十字を見ることができます。
柱の間には死を表現したエジプトIIである女性像を見ることができます。
静かに立っていることがわかりますね。
一番右にいる男性は"Altitalienische Kunst"(古いイタリア芸術)です。
こちらは"Altitalienische Kunst"(古いイタリア芸術)の続きで14世紀から15世紀初頭を表しています。
フィレンツェ、ピサ、シエナといったイタリアの街でジョットやドナテッロなどが活躍します。
フィレンツェは有名な詩人ダンテを生み、彼は神曲を書いています。
ここでは1枚目の写真に見られる一番右側の男性がダンテ、上の写真に見られる女性が神曲に登場するベアトリーチェかもしれません。
今回2回に分けて書いた美術史博物館のクリムトは、1891年の彼が29歳の時に手掛け、彼のカンパニー時代に描かれたものです。
カンパニーは弟のエルンスト・クリムト、学友のフランツ・マッチュの3人で運営され、劇場の天井などの仕事を請け負いました。
そのため、この大階段ホールの残り3面の同じアーチの上には、エルンスト・クリムト、フランツ・マッチュ、3人の共同作品をさらに見ることができます。
この時代はクリムトのスタイルは初期であり、リンク道路時代に見られる保守的で、過去の様々な様式が重んじられた時代でした。
そのため彼の初期の作品と同様、とっても写実的ですが、十分クリムトの特徴を見ることができます。
2012年がクリムト生誕150周年記念の年で、クリムトに関係する場所では多くの特別展示がありました。
日本でも年々クリムトファン、もしくはクリムトはどんな絵を描いたのか興味を持つ方が増えていることを実感します。
クリムトと言えば真っ先にベルヴェデーレ宮殿の上宮でしょう。
ここにはクリムトの代表作である接吻を始め、肖像画、風景画が多く見られます。
ベルヴェデーレ宮殿と言えば、観光では写真ストップが当たり前で、入場することはそう多くはありませんでしたが、2012年以降からは頻繁に入場観光するようになって、きつい観光時間でも"接吻"だけは見るということが多くなっています。
そんなクリムトの今年2018年は没後100年であり、それに合わせた特別企画として美術史博物館のクリムトを2回にわたって話題にしたいと思います。
美術史博物館はヨーロッパ3大美術館にも数えられ、絵画史上とても重要な作品が多く見られます。
ハプスブルグ家が所有していたそれぞれの地域での円熟した作品だけを収集したので、いい意味で他の美術館とは全く違ったカラーとなっています。
ここは絵画に興味がない方でも行く価値大です。
素晴らしい絵画を展示するためには、それなりの空間が必要というコンセプトから当時考えられる最高の素材や建築家、芸術家を迎えて建築され、1891年には一般公開されています。
この美術館は14世紀~18世紀、つまりゴシック~ルネッサンス~バロックの絵画を発展しててきた流れの重要所が集まっているわけです。
クリムトはもっと新しい時代ですから彼の作品がここにあるわけではありません。
彼は工房でこの美術史博物館の内装に携さわり、中央大階段ホールのアーチの壁画を手掛けています。
美術史博物館ではこの壁画を近くで見てもらおうと、特設の足場を設けて、クリムトの壁画を目の前で見られるようになっています。
実はこの企画は2012年に最初に行われ、大好評で連日多くの人が訪れましたが、あれから6年経った今年も登場しました。
美術史博物館に大階段ホールを上ると、素晴らしい天井画が目に飛び込んできます。
この正方形空間の後ろ側に足場が組まれていることがすぐわかります。
実際は足場の下を通って階段を上ることになります。
こんな感じで足場が組まれていて、クリムトが描いた壁画をかなり近くから鑑賞できるようになっています。
写真では見られませんが、足場中央奥に特設階段があり、そこからこのスペースに来られます。
この場所は自由に動き回れますが、ここに上がる特設階段は一方通行となっていますので、
写真では向かって左側から上って、右側へ降りて行くという感じです。
こちらは"ローマとヴェネツィアのクワトロチェント"です。
この壁面を正面から見て、一番左側です。
描かれている女性がエクレシアです。
Ecclesia(エクレシア)は、古代ギリシャでは人々の集まりという意味で使われ、そこから転じて信者の集まりを意味し、中世の頃には教会やキリスト教を象徴します。彼女は十字架を持っています。
左の人物はLeonardo Loredan(レオナルド・ロレダン 1436~1521)で、ヴェネツィアの総督です。
前述したエクレシアの反対側に描かれていて、この人物像は、ヴェネツィア派の創始者とも言われるジョバンニ・ベリーニが1501年に描いた彼の肖像画を思い起こさせます。
ローマはローマ教皇がいるローマカトリックの総本山、そのローマに対して色彩が豊かな芸術風景のヴェネツィアがここではテーマになっています。
2人の女性は"古代ギリシャ"です。
古代ギリシャのクラッシック時代は紀元前5世紀が全盛期です。
ここで描写されているのは古代ギリシャアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神でギリシャ神話の女神アテナを祭るパルテノン神殿に置かれたアテナ像です。
アテナは智恵と戦争芸術を司る女神です。
左の女性がAthena Promachos(アテナ・プロマコス)、右の立像女性がAthena Parthenos(アテナ・パルテノス)です。
これは両方共Phidas (ペイディアス・・紀元前5世紀終わり)というパルテノン神殿建設の総監督を務めたとされる人物が製作したもので、現在では大理石のコピーしか残されていません。
クリムトは自らの作品にもこの古代ギリシャスタイルをよく用いています。
早いもので昨日から2月が始まりました。
ウィーンはこの時期にしては暖かく、木々を観察するとつぼみなどが多く見られます。
去年の1月はとても寒かったので、今年は正反対です。
さて、昨日ベルヴェデーレ宮殿からの美しい眺めを話題にしましたが、偶然にも昨日はそのベルヴェデーレ宮殿から仕事が始まりました。
昨日は開館前の特別入場が予約されていましたので、8:30前には上宮に入りました。
この時間帯は予約をしての特別料金となりますので、一般は入ることはできません。
入口で顔見知りの係が「今の時間はちょっと大変だぞ~」という話があったので、もうすぐに何が起こっているか察知しました。
ここはクリムトの絵画を見に来ることが圧倒的に多く、次にエゴン・シーレやオスカー・ココシュカ、印象派やビーダーマイヤー時代の作品、バロック絵画や中世宗教画など多くの重要なものがあります。
すでに年の初めにここに来た時に知らされていましたが、上宮は新しいコンセプトが導入されて、1月8日から大きな模様替えが行われことになっていました。
ここは今年になってもう何回も来ていますが、来るたびに絵画がなくなっていたり、場所が変わっていたりということがよくありました。
しかし、昨日は大掛かりでしたね。
大階段ホールの入口から多くの絵画が運ばれていました。
本来ここが開かれることはありません。
クリムト自体が、正反対の空間に引っ越しをしている状況でした。
右上の写真は1月31日までクリムトが展示されていた空間ですが、もう全く絵は見られまず、作業場となっています。
ここだけでなく、多くの空間で作業が行われ、立ち入ることができない部屋が多かったです。
一般入場前の見学だったので、私達がここに入った当初は、ちょうどクリムトの絵が、反対側から引っ越しをし終わった時で、この空間に立ち入ることができませんでしたので、奥から眺めるだけでした。
クリムトは1月31日から2月1日の朝にかけて引っ越しをしたことになります。
ここはだいぶ前ににクリムトが展示されていた空間で、ここに再び戻って来ました。
しばらくしてベルヴェデーレ宮殿からの許可が下りたので、この空間に入り、近くで絵を見ることができました。
本当によかったです。
まだ作業している人が見られますが、彼は照明の調整をしています。
クリムトの"接吻"の前では子供達の特別ガイドツアーも行われていますね。
ここを訪れる人にとってクリムトが見られないのは意味がないと言っても過言ではありません。
美術館も当然そのことはわかっていますので、他がごたごたしていても、クリムトは常に見て頂こうという姿勢であることがわかります。
これからベルヴェデーレ宮殿の上宮はもっと変っていきます。
オーストリアは北海道よりちょっと広い小さな国にもかかわらず、この国がヨーロッパに与えた文化的、歴史的な影響は計り知れないものがあり、そして旅の全ての魅力を持っている美しい国です。
ウィーンを始めとしてオーストリア9つの州、それぞれに個性があり見所が点在しています。
かつての帝国の都ウィーンは荘厳な建造物に囲まれた華やかさと上品さが漂うとても奥が深い街です。
ウィーンの郊外にちょっと足を延ばすとウィーンの森、アルプス山脈に長閑な美しい風景が広がっています。
ウィーン以外にも訪れたい所は星の数ほどありますが、個人的にクレムスの街もお勧めです。
自分が好きな街にもかかわらず、このホームページではクレムスのことをあまり話題にしていないのがなぜか自分でも不思議に思っているのですが、ヴァッハウ渓谷の有名な街デュルンシュタインも素敵ですが、そこよりももっと活気があり、街も大きくて中世の小路などがたくさん残っている情緒ある古い街です。
ここは歩いているだけで楽しいですよ。
今日はこのクレムスの一角にある知られたひとつの建物を話題にします。
スグラフィットはイタリア語のsgraffiare・・・ドイツ語ではkratzen (ひっかく)から由来し、壁などに見られる装飾技法の名称です。
上の写真に見られるように壁に刻まれたような装飾模様が特徴で、平面に描かれているわけではありません。
16世紀のルネッサンス時代にイタリア、ボヘミア地方で特に好まれて用いられた装飾スタイルです。ルネッサンス時代にこのスグラフィットがイタリアで流行っている時に、ルネッサンス時代建築の親方などによってこのオーストリアや現在のドイツにもたらされ、驚きと感動をもって受け入れられました。
スグラフィットは対照的な色の漆喰を2層で塗ります。
1層目は、鉄分や木炭などを含んだ黒とか赤などの漆喰で、その上の2層目は白の漆喰を塗り、その2層目の表面を引っ掻き落とし、1層目の濃い色が現れて模様や絵ができるというものです。
このタイプの素朴な技法はすでに13世紀ぐらいから現在のドイツにあったことが確認されています。
この場所はクレムス旧市街の一角にあるMargarethenstraßeとAlthangasseの間にあります。
この建物は16世紀半ばに市民であるHans Draghが所有していて、このスグラフィット装飾は1553年~1559年に画家であるHans Pruchによるものです。
スグラフィット装飾は視覚的にも独特の効果を与える美しいものです。
クレムスのSteinertorも御覧下さい。
ウィーンの街には7つもの代表的な美術館があります。
その中でヨーロッパ3大美術館のひとつにも数えられている美術史博物館に行く人は多いでしょう。
ここは他の美術館とは全く違う内容で、ハプスブルグ家が所有していた地域の円熟した作品だけが集められていて、15世紀~18世紀の絵画・・・ゴシック~ルネッサンス~バロックの素晴らしい絵画が楽しめます。
その他にはベルヴェデーレ宮殿のオーストリアギャラリーの特に上宮に行く人も多いでしょう。
ここはクリムトやシーレ、印象派などで有名です。
私も絵画は好きなので、仕事でも個人的にも頻繁に訪れます。
これらの作品を見ているとウィーンの街の歴史的な立場というのがよく理解できます。
さて、今日はその7つの美術館のひとつであるレオポルド美術館について少しまとめます。
Leopold Museumは美術史博物館や自然史博物館があるマリア・テレジア広場の奥にあるMuseumsQuartier(MQ)という博物館地区があります。
MQは1725年馬小屋として建てられたバロック建築ですが、ここは2001年にこの建物を残し、その中庭空間を大きく改築し、モダンなスポットに生まれ変わりました。
その中庭空間には白のMuschelkalkで建てられた建物があり、これがLeopoldmuseumです。
Muschelkalkとは貝類化石を伴う石灰岩で、この空間に洗練された雰囲気を与えています。
この美術館の名前になっているRudolf Leopoldと彼の妻であるElisabethのプライベートコレクションがベースになっていて,現在では年間350.000人が訪れています。
この建物はオーストリアの建築家Ortner&Ortner(Laurids und Manfred Ortner)のプランによるもので40m x 46m、高さが24mです。
入口は小さくてチケット売り場やクロークのスペースも細長く決して広くはありませんが、奥に入ると左の写真に見られるように非常に明るい洗練されたくつろげる空間になっています。
ここは1階、3階、4階、地下1階、地下2階が展示フロアとなっていて、2階にミュージアムショップがあります。
ここがオープンした2001年からは日本からもこのレオポルド美術館を訪れる多くのツアーがあり、最初の数年間はかなり頻繁にここを御案内しましたが、やはり美術史博物館やオーストリアギャラリーに行くことが圧倒的に多いので、最近残念ながら日本からのツアーでは行くことがとても少なくなりました。
でも私は個人的にこのレオポルド美術館は好きです。
ここはたいてい空いていて、とても静かで自分のペースでのんびりと絵画を鑑賞することができ、展示内容もとても面白いです。
4階にはクリムト、オスカー・ココシュカ、コロマン・モーザ、ウィーン工房などの展示が充実しています。特にベルヴェデーレ宮殿とは違った左上に見られる死と生やウィーン大学からの医学の下絵などとても興味深いものがあります。
3階はエゴン・シーレです。
このレオポルド美術館はエゴン・シーレ世界最大のコレクションを所有していて、シーレの油彩、デッサンなどがとても充実しています。
シーレファンの方はここは必見でしょう。
Rudolf Leopoldさんはとにかくシーレを多く収集しました。
彼の職業は医者ですが、1950年代からは絵画を積極的にコレクションしてきました。
この3階シーレのフロアは彼の生い立ちから28歳で亡くなるまでの系統立てた展示内容となっていて、多くの写真や資料なども見られます。
(シーレは以前地下1階に多く展示されていましたが、現在は3階に移っています)
地下1階、2階は特別展示コーナーとなっていて、定期的に斬新なモダン芸術などが展示されています。
このレオポルド美術館は有難いことにフラッシュなしでの写真撮影がOKです!
ここは火曜日が休館ですが、6月~8月は火曜日もオープンしています。
10:00~18:00が通常のオープン時間、木曜日は10:00~21:00です。
※現在のレオポルド美術館は展示レイアウトが変わっています。(2020年追記)
以前Bösendorfer(ベーゼンドルファー)の工場見学に行ったことを話題にしましたが、そのBösendorferには様々なモデルがあります。
大きく分けてグランドピアノとアップライトピアノと2つのタイプがあり、ベーゼンドルファーもアップライトピアノをいくつか製造しています。
でもベーゼンドルファーのアップライトピアノが置かれているのを今まで見たことがないような気がします。ここでは工場でアップライトピアノの製造を見ることができます。アップライトピアノだったらベーゼンドルファーじゃなくても・・・と思います。ベーゼンドルファーだったらスタインウェイ同様にグランドピアノでしょうね。
さて、このベーゼンドルファーには普段製造しているモデルの他に様々な企業や個人から特別注文が入り、その希望に合わせてオリジナルのモデルも製造しています。
例えばピアノの色は黒が一般的ですが別の色にしたいとか、木目調であったりとか、バロック調であったりとかモダンなデザインであったりなど様々な特注があります。その中でちょっとおもしろかったものに"クリムトモデル"がありました。
特注と言っても形はグランドピアノですから、ピアノの構造が変わるわけでもなく、音だってそのままです。
でもピアノの譜面立ての装飾やピアノの蓋の内部に描かれている絵に注目して下さい。
これはウィーンの世紀末画家のグスタフ・クリムトがテーマになっています。
クリムトと言えば"接吻"で知られ、日本にもクリムトファンが多くなってきました。
譜面立ての所にはクリムトのサインが見られ、彼の装飾模様が譜面立てに見られます。
また、ピアノのふたの部分に描かれているのはアデーレ・ブロッホ=バウアーNo.1です。
この絵はクリムトが1907年に完成した有名な作品です。
この作品は以前、ベルヴェデーレ宮殿に展示されていましたが、オーストリア政府とブロッホ=バウアーの姪マリア・アルトマンおよびその共同相続人との間に起った2006年までの長い法廷争いがあり、オーストリアから離れてしまったという有名な出来事がありました。映画「黄金のアデーレ 名画の帰還」を見た方も多いのではないでしょうか。
この絵はベルヴェデーレ宮殿に展示されていた時に、私も数え切れないぐらい皆様にこの絵の説明をしました。
クリムトのこの絵がまさかベーゼンドルファーのピアノのふたに描かれるとは思いもしませんでした。
ベーゼンドルファーのこのふたの中には見事にアデーレ・ブロッホ=バウアーが描かれていて、光沢もあります。
光の加減によってのこの絵の見え方が素敵です。
このピアノの値段に興味があったので社長と工場長のトーマスさんに聞きました。
ベーゼンドルファーは推奨価格はあるものの、世界各国の取引先がその国の物価水準なども考慮して値段が決められるそうですので今回ここを訪れた日本に住んでいる皆様には価格は出せない・・・というのが最初の回答でした。
でも、「私が購入するとしたらいくらでしょうか?」と聞きました。「あなたはウィーンに住んでいるので私達が価格を決められますから」と言われ、2人で少し話し合われた後に150.000ユーロという金額が提示されました。
喜んで売ってくれるそうです。(笑)
このショールームには他にもヨハン・シュトラウスモデル、オスカー・ピーターソンモデルなどいくつかの特別モデルが展示されていました。
このようなものを見るとウィーンの古楽器博物館を思い出します。
そこにもベーゼンドルファーの歴史的ピアノがいくつか展示されています。
ここ数年団体ツアーの皆様とのウィーン市内観光ではベルヴェデーレ宮殿に入場することが多くなりました。
シェーンブルン宮殿は現在でも必ずと言っていい程入場観光しますが、ベルヴェデーレ宮殿は以前写真ストップが定番でした。この2つの宮殿は"バロックの都"とも言われるウィーンの街で見られる2大バロック宮殿で、ヨーロッパでも重要なバロック建築です。ベルヴェデーレ宮殿は御承知の通りオーストリアギャラリーという人気ある美術館としてたくさんの訪問者があり、特に団体ツアーでは2012年クリムト生誕150周年をきっかけに忙しい市内観光でも入場観光してクリムトの世界を見るということが増えてきています。日本にもクリムトファンの方が多くなってきたなと実感しています。このベルヴェデーレ宮殿の上宮にはクリムトの一番の代表作である"接吻"があることで知られていて、それだけを見に来る・・・と言う方も多くいます。
このコーナーでもクリムトの接吻について書いたこともありますが、そこに掲載した画像は接吻のコピーです。
ベルヴェデーレ宮殿の絵画コーナーは美術史博物館と違って写真撮影が禁止ですから私はここの絵画を一度も掲載したことはありません。しかし、おもしろいことに去年の7月終わりにここは撮影が許可されたことがありますので、今日はクリムトの接吻のオリジナルバージョンを掲載します。
※2017年6月1日からベルヴェデーレ宮殿上宮のクリムトやシーレを始め、かなりの絵画の撮影が許可されています。
こちらがベルヴェデーレ宮殿に展示されているクリムトの"接吻" (Der Kuss) のオリジナルです。
オリジナルと言ってもパソコンのディスプレイから画像を見ているので、コピーと変わらないですね(笑)
でもオリジナルの方がコピーよりも色が遥かに綺麗ですね。展示されいるこの空間が少し薄暗いのが原因のひとつかもしれませんが。
上の写真は約1年前の2016年7月の終わりに撮影したものです。
この時はポケモンGOの影響で館内の撮影が全面的に許可されていた2週間でした。その時にここを訪れた方はポケモンなんか見つけている人は誰もいなくて、展示されている絵画を撮影しまくりでした。
ウィーンは5月30日に今年になって初めて日中30℃を超え、その後28℃前後がしばらく続き、6月12日が2回目の30℃を超えた日となりました。
そして6月19日からは連日30℃を超える暑い日が続いています。
途中で2回、雷を伴った強い雨が降りました。特に昨日は午後14:30頃から雨が降り始め、その後はどしゃ降りとなりました。
昨日は午前中グループ全員の皆様と市内観光で、午後は徒歩観光のオプショナルツアーでした。
午前中から昼にかけてはかなり蒸し暑く、午後には予報通り絶対に雨が降るだろう・・・と思いましたが、午後遅くからだろうと思っていたので傘は車の中に置いたままで朝シェーンブルン宮殿に向かいました。午後王宮を歩いている時に、ポツリと雨粒を感じました。シシィ博物館、皇帝の部屋の見学して出て来ると傘なしではきついかなりの雨となっていました。
しかし、雨が降ったおかげで気温が下がってその日の夜はちょっと涼しくなりましたが、今日月曜日はまた30℃を超えることになっています。
夏の開放的な空気もいいですが、暑すぎるのも困ったものです。
開放的と言えばさて、去年この夏の時期に行われた美術史博物館のオープンエアガイドツアーは大変好評で、今年もまた行われています。
去年2016年は美術史博物館125周年記念の年でした。
その一環で行われたこのオープンエアイヴェントは"MUSEUM FÜR ALLE"(ミュゼウム・フュア・アレ)というタイトルで、皆さんのための博物館というような意味です。
ここではこの美術史博物館から選ばれた3枚の絵画をこの美術史博物館の前で学芸員が無料で解説してくれます。
でもかしこまった雰囲気は全くなく、デッキチェアが並べられ外でくつろぎながら案内を聞けるようになっています。
飲み物やアイスの販売もあって、途中で喉が渇いても大丈夫です。
ウィーンの美術史博物館は内容から言ってヨーロッパ3大美術館のひとつに数えられていて、15世紀~18世紀の絵画史上重要な作品が並んでいます。
一般観光でもここを御案内することが年間を通して非常に多く、多い時は1週間に4回来ることもあります。
仕事でここに頻繁に来ても、仕事の空き時間にプライベートで来ることも多くあり個人的にも好きな場所です。
今年選ばれた3枚は左からマルティン・ファン・マイテンスによる「マリア・テレジアとフランツ・シュテファンから生まれた16人の子供達の11人」、ルーベンスによる「自画像」、ブリューゲルの「バベルの塔」です。
今年はマリア・テレジア生誕300周年記念の年ですから、女帝のことが多く取り上げられています。
ちなみに去年はクラナハのユーディット、ブリューゲルのバベルの塔、パルミジャニーノの弓を削るアモルでした。
このMUSEUM FÜR ALLEは6月1日~9月28日の火曜日と木曜日の天気のいい時に行われます。
火曜日は14:00,15:00,16:00、木曜日は14:00,15:00,16:00,17:00です。
デッキチェアは13:00から出されていますので、ガイドツアー以外でも勝手に座ってくつろぐことができます。
個人的にこの企画はとてもおもしろいと思います。
ウィーンには主要な美術館が7つもありますが、中でもヨーロッパ3大美術館のひとつにも数えられている美術史博物館は絵画に興味がない方でも一度は見ておくべきでしょうか。
去年2016年は美術史博物館の125周年記念でした。
絵画の内容もヨーロッパの他の美術館とは違い、15世紀~18世紀に限れていて、ハプスブルグ家がおさえていた様々な土地の円熟した作品だけが集められています。
つまり、ここに並べられている絵画は全て絵画史上重要な作品ばかりです。
また、ここの内装も素晴らしいものがありますので、この美術館の中にいるだけで幸せな気分にさせてくれます。
今日は久しぶりにここから1枚の絵画について話題にします。
こちらはルーベンスの"受胎告知"です。
今日3月25日は受胎告知の日です。
受胎告知は宗教画ではポピュラーなテーマで、色々な美術館に様々な画家が描いたものが存在します。
ナザレの家にひとりでいたマリアの前に、突然天使が降り立ちました。この天使は大天使のガブリエルです。
ガブリエルは「主はあなたと共におられます」と挨拶をします。この時マリアは突然の出来事から驚きますが、取り乱すことはありませんでした。
ガブリエルは続いて「あなたは神の恵みを受けてみごもり、男の子を生むでしょう。その子をイエスと名付けなさい」・・・マリアは神を信じて聖なるお告げを慎んで受け入れます。その後、ガブリエルは去って行きました。
受胎告知の場面はマリアの生涯ではひとつの頂点としてとらえられています。そのため色々な画家が想像力を豊かにして描いたので、マリアの姿や彼女の心理的な状況、場所、大天使の様子などに個性が見られるテーマです。
受胎告知の場所は一般的にマリアの私室ですが、教会や修道院の回廊などが背景になっていることも多いです。
このルーベンスの場合は祈祷台のようなものが描かれていることがわかります。
このルーベンスの受胎告知は1609年という年代から、彼がイタリアに8年間滞在したその帰国直後にイエズス会のために描いたものです。
もともとこの絵は見開きの祭壇画だったようで、それをくっつけて1枚の絵にしているため、近くで観察すると真ん中に線が見られます。
マリアのこの防衛的なポーズは天使が突然この部屋へ乱入したことへの驚きと慎ましさを表現しています。
天使にはよく白衣が使われるますが、ルーベンスの場合は真っ白というわけではありません。
逆にマリアには赤、青、白といった定番の3色が全て使われていますが、実際に彼女が着ているのは白が使われていて純潔が表現され、ガブリエルの色とのコントラストを成しています。
ルーベンスは大変ドラマチックにこの状況を描写しています。
美術史博物館に関する話題として・・・
ウィーン美術史博物館の天井画、大階段ホールの彫刻、ラファエロ、ブリューゲル、フェルメール、クリムト 1、クリムト 2、ティツィアーノ、ティントレット、美術史博物館のカフェ・レストラン、色彩がとても美しいヴェネツィア派、ゴシックからルネッサンスがよくわかる絵、美術史博物館125周年記念、ヤン・ファンエイクなども書いています。
ウィーンの美術史博物館は私がウィーンで大好きなスポットのひとつで、ここは建物の中にいるだけで幸せな気持ちになれます。
その建物の素晴らしい内装に合う作品が目白押しなので、このコーナーでも時間を見つけて様色々な絵画を紹介しています。
今日は初期ネーデルラント絵画の創始者とも言われている画家の一枚です。
この肖像画はニッコロ・アルベルガーティ枢機卿で、100年戦争の終結に向けてローマ教皇からの使命によりイギリス、フランス、ブルゴーニュの宮廷間を行き来したカルトジオ会の修道院長です。
枢機卿の年老いた顔が非常にリアルに表現されていて、彼の落ち着いた威厳を感じ取ることができます。
この絵は34cm x 27cmという小さなサイズにもかかわらず、非常に印象的な肖像画となっています。
とても15世紀前半の1435年頃に描かれたとは思えない描写力です。
ヤン・ファン・エイクは絵画史上非常に重要な画家のひとりで、1390年頃にマースエイクで生まれたとされ、1441年にブリュージュで亡くなっています。(共に現在のベルギー)
実は幼少期のことはあまりわかっていません。
兄のフーベルトも有名で優れた画家であり、2人の合作と言われているゲント(ヘント)の祭壇画はあまりにも有名です。
ファン・エイクはバイエルン公ヨハン3世の宮廷画家であり、彼が亡くなった後、ブルゴーニュ公フィリップ3世(フィリップ善良公)の宮廷画家として1425年頃からブリュージュで活躍します。
当時の画家達が不特定多数から注文を受けて生計を立てていたにもかかわらず、ヤン・ファン・エイクは並外れた収入があったと言われています。
そのため、画家達の中でも特別な地位を占めるようになったようです。
イタリア初期ルネッサンスとは異なって、ギリシャ、ローマ時代の理想的な再現ではなく、ありのままを正確に自然に描写するというコンセプトが初期フランドルには見られます。
ヤン・ファン・エイクと言えばすぐに思い浮かぶのは油絵の技法を完全なものにしたということでも知られています。
(ファン・エイク兄弟以前にもフランドルでは油絵は描かれていました)
顔料を亜麻仁油(リンシードオイル)で溶かし、何重にも塗り重ねができ、微妙な色のニュアンスを出せるもので、写実的な表現に適していました。
この油絵の技術ががイタリアに伝わったことは有名です。
では最後にヤン・ファンエイクとフーベルト・ファン・エイクの有名な像を掲載します。
これはゲントにある(ベルギー)バーフ大聖堂の前です。
ここに神秘の子羊で知られる有名なゲントの祭壇画があります。
年間を通して美術史博物館は頻繁に訪れます。
パッケージツアーの皆様との全日観光の場合は午前中にシェーンブルン宮殿を観光し、昼食を食べた後、午後ここに来ることが多いです。
またよくお茶とケーキを組み合わせたオプショナルツアーで入ることも多いです。
観光終了がこの美術史博物館であることも多いです。
絵画の質から言ってヨーロッパ三大美術館のひつとに数えられているぐらい、絵画史上重要な作品を多く見ることができます。
今日は久しぶりにここの絵画を一枚話題にしましょう。
こちらはアルブレヒト・デューラーの聖三位一体祭壇で、ランダウアー祭壇とも呼ばれています。
ランダウアーとはニュルンベルクの豪商で「十二兄弟の家」の創立者マテウス・ランダウアーで、彼は1508年にデューラーにこの祭壇画制作を依頼しました。
この絵が飾られる礼拝堂は三位一体と全ての聖人に捧げられているので、その目的に叶うようにこのような構図になりました。
全ての聖人と信徒達によって聖三位一体が讃えられる内容となっています。
中央にいる王様のような人物が神で、虹の玉座にいます。
その前には十字架のイエス・キリスト、そして神の上には(見にくいですが)精霊の鳩が描かれています。
その聖三位一体を取り囲むかのように天使や聖人、信徒達が描かれています。
聖三位一体に最も近い所には翼をつけた頭だけの天使がいます。
それに続いて受難の道具を持つ天使が描かれています。
キリストの右側には旧約聖書の首長、預言者、列王が描かれていて、中でもモーゼ、ダヴィデ王、洗礼者ヨハネが目立ちます。
キリストの左側には聖母マリア、バルバラ、カタリーナ、ドロテア、アグネスといった聖女がそれぞれのアトリビュートと共に描かれています。
聖母マリアは洗礼者ヨハネと平行する位置に描かれています。
その下の大きな人物像は最後の審判を通過した信徒た達が描かれています。
右側は平信徒のキリスト教集団、左側は聖職者達が表されています。
聖職者集団の中にいる毛皮の縁飾りのついたコートを着ている白髪の人物がランダウアー本人と言われています。
そして一番下には現実の世界が描かれ、その一番右側には製作者デューラー本人が登場しています。
アルブレヒト・デューラーが学んだイタリア絵画の伝統や技法がこの祭壇画に重要な役割を果たしています。
ゴシック様式の伝統的な三連祭壇画スタイルではなく、イタリア様式に見られる絵画と枠組みを組み合わせた全体でひとつの作品という構想です。("最後の審判"が一番上に来ている)
このルネッサンス様式の枠組みも素敵です。
色彩もヴェネツィア派を思わせるものがあります。
アルブレヒト・デューラーは1471年、ニュルンベルクで生まれた現ドイツの画家で、版画家でも美術理論家でもあります。金細工師であった父から様々なものを学んでいます。
1494年ヴェネツィアに旅行し、ルネッサンス美術を研究しています。
1945年には帰国し、工房活動をし、まもなく全ヨーロッパ中に知られるようになります。
ドイツゴシックをルネッサンスに持っていった重要な画家で、イタリアにも大きな影響を与えることになります。
最近毎日のようにベルヴェデーレ宮殿に入場する観光が続いています。以前はベルヴェデーレ宮殿というとバスから降りて上宮の後ろからウィーンの中心に向かって見える美しい眺めを楽しんでまたバスに戻ることが普通でしたが、2012年のクリムト生誕150周年記念の年からここは入場観光することが本当に多くなりました。
ある週は7日ここに入場した時もあります。つまり毎日ですね。
日本でもクリムトを好きな方が増えてきていることがわかります。
ウィーンの何かが有名になることは嬉しいことです。
このベルヴェデーレ宮殿はエントランス、大理石の間を除いて絵画コーナーは撮影禁止であることは有名です。
しかし・・・
先週から何と!!絵画コーナーも撮影が許可されました。
でもこれからずっと・・・というわけではありません。
先週皆様にここの絵画を御案内している時にある観光客がクリムトの風景画の撮影をしていました。
私は国家ガイドとしての仕事柄、写真禁止の場所で写真を撮っている観光客を見つけたら自分のお客様ではなくてもよく注意をしています。博物館などのルールですからね。
撮影禁止の場所で撮影している人を見ている私のお客様だっていい気持ちがしませんし、自分だってそれなら撮影したいのに・・・と思われるでしょう。
でもこの日はよく見ると奥の部屋でもたくさんの人が撮影していましたからいつものようにすぐ注意はしませんでした。
係に問い合わせをした所、今週だけは撮影が許可になっているということでした。
今週だけ~? どういうことですか~? ・・・と聞いたら係は呆れながら答えました。
今、話題になっているポケモンGOの影響で館内の撮影が全面的に許可されているということでした。
ポケモンGOのことは知っていましたが、まさかベルヴェデーレ宮殿がポケモンGOの影響を受けるとは思いもよりませんでした。
しかし、館内ではポケモンGOなんかをやっている空気はなく、皆さんが絵画を撮影することに専念しているようでした。
普段、撮影禁止のこの美術館ですから皆さんはラッキーと言わんばかりにクリムトの絵画を撮影しまくりです。
上の4枚の写真はその状況をちょっと撮影してみました。
クリムトの接吻の間では撮影する人が絶えません。
私のこのコーナーでベルヴェデーレ宮殿の絵画展示空間の画像をアップしたのは今日が初めてです。
撮影禁止の場所は当然、ここにも掲載しません。
先週も数日、ここを御案内しましたがその時のお客様は皆さん喜ばれて私の説明よりも写真を撮ることに熱中されていたようでした(笑)
当然、私も個人的にここで写真が撮れるのはうれしく思いました。
私もこの美術館の主要作品を全て撮影しましたので、いつかこのコーナーで登場させたいと思います。
昨日もベルヴェデーレ宮殿の上宮を御案内しましたが、撮影は先週だけだったはずが、今週までOKということでした。もっとも流動的に規則が変わる可能性もあるかもしれませんが・・・。
その時の係は苦笑いをしていました。
今週ベルヴェデーレ宮殿に行く方はラッキーですよ。
ウィーンの美術史博物館は内容から言ってヨーロッパ3大美術館のひとつに数えられていて、15世紀~18世紀の絵画史上重要な作品が並んでいます。
一般観光でもここを御案内することが年間を通して非常に多く、多い時は1週間に4回来ることもあります。
仕事でここに頻繁に来ても、仕事の空き時間にプライベートで来ることも多くあり個人的にも好きな場所です。
何と言ってもこの建物に入った瞬間に世界が変わりますね。
この美術史博物館は今年オープン125周年記念で、大階段ホールには記念の展示が見られます。
その125周年記念の一環で美術史博物館はとてもおもしろいことをしています。
美術史博物館の前には多くのデッキチェアーが並んでいます。
デッキチェアーは美術史博物館の方へ向いていますので、写真に見える後ろの建物は自然史博物館です。
これは"MUSEM FÜR ALLE" というオープンエアでこの美術館の3つの作品の案内を無料で聞くことができます。
"みんなのための博物館"なんていう日本語訳です。
この企画は2016年6月2日~2016年9月30日までの毎週火曜日と木曜日の天気がいい時14:00から楽しめます。
絵画の案内だけではなく、アイス屋さんもここに登場し、子供達のためのワークショップも行われ、この荘厳な建造物に囲まれている空間で楽しむことができます。
美術史博物館の入口の前には3枚の重要な作品が展示されていて、火曜日は14:00,15:00,16:00,木曜日は前述した時間と17:00に学芸員が解説をしてくれます。
この3つの作品は左からクラナハのユーディット、ブリューゲルのバベルの塔、パルミジャニーノの弓を削るアモルです。
またここにはこの美術史博物館が所有している有名なサリエラが大きくなって置かれていて、ここには実際の人間が座ることができるようになっています。
サリエラは16世紀に制作された黄金の塩入れですが、この拡大バージョンには人物がいません。
たまたまこの2人の女性に写真を頼まれたのでそのまま許可をもらって私も映しました。
火曜日か木曜日の午後にウィーンにいらっしゃる方は是非、足を運んでみましょう!
オーストリアの郊外には美しい街がたくさんあります。
ウィーンはオーストリアで最も人口が多い184万の街ですが、2番目に人口が多いグラーツですら28万人しかいません。
人口数万人から数千人単位の美しい街が国内にはたくさん点在しています。
その中で今日はクラーゲンフルトからの話題です。
オーストリアの南に位置するケルンテン州の州都Klagenfurt am Wörtherseeは(クラーゲンフルト・アム・ヴェルターぜー)は私が大好きなWörtherseeのすぐ東に位置した人口10万人弱の小さい街ですが、中心部はオーストリア典型的な明るさと美しさがあります。
クラーゲンフルトのシンボルと言えば"Lindwurm" (リントヴルム)です。
"Lindwurm" (リントヴルム)は日本語でもリントヴルムと呼んでもいいと思いますが、伝説上の生き物で翼があるドラゴンです。
クラーゲンフルトのNeuer Platzにはこの"Lindwurmbrunnen"という有名な噴水があります。
1583年にケルンテン等族からの命令によりが伝説上の生き物の記念碑を作ることになりました。
このLindwurmはこのクラーゲンフルトの地元の山であるKreuzberglから切り出された単体のクロライト(緑泥石)から作られています。
製作者は長く Ulrich Vogelsangだと思われていましたが、どうやら違っているようで無名の彫刻家だどうということに現在ではなっています。
非常に攻撃的なLindwurmはマニエリスム的な要素も見られ、しかしロマネスク的な部分も感じられます。
1593年にこの600トンもあるLindwurmが300人の白の服を着た若者達によってこの場所に運ばれました。
当初このLindwurmは頭を北に向けていて、噴水はありませんでしたが、(プランには描かれていましたが)1624年には噴水が作られ、現在の向きに動かされたようです。
1634年にはGeorg Tillitzniよって後期ルネッサンス様式の花の模様を伴った囲いが噴水に作られました。
1636年にはヘラクレスの像が追加されていますが、彼の持っているこん棒こそこのクラーゲンフルトの街ができたことと、このLindwurmに大きな関係があります。
1972年にこの広場の下には地下駐車場が作られましたが、その際にLindwurm噴水は現在の位置に移されました。
こちらがLindwurm噴水の全体です。
ここにはヘラクレスは写っていません。
しっぽに特徴があり、恐怖感が漂っていますね。
クラーゲンフルトのLindwurm伝説
Karast公爵の時代、この辺りはWörtherseeからDrau河まで湿った苔が多くあり、野生の木々や茂みがある地域でした。
山側は放牧地域になっていたので人々や家畜はいましたが、逆にこの地帯には誰も人が立ち入ることがありませんでした。
稀に人が入ると、その不気味な暗闇からは誰も戻っては来ませんでした。
また牛なども消えてしまい、羊飼いなどがいくら探しても見つかりませんでした。
この地域はいつも深い霧に覆われていたので、人間や動物を殺すような殺人鬼を誰も見ることがありませんでした。
さて、公爵は大勢の中から勇気ある者に、この殺人鬼のいる場所を突き止めて、退治する命令を出しました。
しかし、恐怖から勇気ある者達も退いてしまいます。
ある策略だけがこの殺人鬼をおびき出すことができたのです。
その後まもなくこの沼地の端に頑丈な塔が作られ、その塔の中から相手に悟られることなく遠くを見渡せることができるようにしました。
勇気ある少人数の下男たちが退治した時の報酬に引かれて戦いに挑みました。
その報酬とは策略と力で殺人鬼を退治した勇気ある者には川からのこの土地、十分なお金、
もし奴隷であれば自由を与えることでした。
肥えた雄牛を鎖でつなぎ、そこに釣り針のような鉤を取り付けました。
雄牛の鳴き声がこの一帯にこだまし、まもなく沼地から水しぶきが立ち上がり、羽としっぽを持った巨大な生き物がまるで槍のように飛び出してきました。
そして雄牛を飲み込むために大きな口が開かれます。
その時魚を釣るように鉄の鉤がドラゴンに口の中に刺さり、ドラゴンは怒りからしっぽを振り回してさらに尖った足で雄牛を深くつかみます。
その時素早く下男達が飛び出し、鉄のこん棒でドラゴンをやっつけてこの場所はドラゴンから解放されました。
このドラゴンと戦った場所に平和な村ができ、塔が立っていた場所には公爵によってお城が作られます。
この村とお城が時と共に発展して現在のクラーゲンフルトが生まれることになります。
ウィーンには街中や公園などの至る所に記念像が立っています。
記念像になるということは当然歴史上に名を残した人物であり、そのような人物がどんなことをしたのかということをちょっと知るだけでもその記念像に対しての見方も変わってきますね。
ウィーンの街をバスで市内観光する時に、結構頻繁に通る所場所とひとつににプラター公園
があります。
ここには映画「第三の男」で有名な大観覧車や遊園地などがあっていつも賑わっています。
ここにはPraterstern (プラターシュテルン)と呼ばれている大きなロータリーがあり、
そこに結構目立つおもしろい形の像が立っています。
この記念像は
Wilhelm von Tegetthoff
(ヴィルヘルム・フォン・テゲトホーフ)
というオーストリア=ハンガリー帝国時代の重要な海軍軍人です。
オーストリアに海軍があるの?
と思われた方はオーストリアの地形をよく知っている方ですね。
現在のオーストリアには海がないので、当然海軍は存在しません。
でも14世紀にはすでにアドリア海の現在のクロアチアの辺りはハプスブルグ家が所有していましたが、その地域の商業や治安などはそこに住む住人によって守られていました。
16世紀前半のオスマントルコの侵入をきっかけに皇帝軍の海軍という概念が生まれ、マリア・テレジアの長男であるヨーゼフ2世の時代、18世紀後半に海軍という形で組織され、帝国が解体される1918年まで存続することになるわけです。
現在のイタリアのトリエステはオーストリアの重要な軍港でした。
その海軍で重要な人物であるこのテゲトホーフは、1827年12月23日にオーストリアの
Marbug an der Drau (現スロヴェニア)で生まれ、父は陸軍中佐でしたので、元々軍人の家系でした。両親は軍人ではなく民間人を希望していたのですが、本人は海軍軍人を希望していたので、それを認めざる負えなかったということです。
1840年~1845年にはヴェネツィアにあるオーストリアの海軍学校で学びました。
そして1845年には最初の船の上での仕事をしています。
1848年の革命後、レバントや皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアン大公をブラジルに連れて行く任務なども行い、中南米などの遠距離航海も経験し早く出世をしました。
37歳で少将に、やがて中将に昇進します。
何と言っても彼が活躍した一番有名な戦いは1866年7月20日のリッサの海戦です。
当時のプロイセン=オーストリア戦争で大敗をしたオーストリアですが、(何回かの戦争があった中でケーニヒ・グレーツの戦いが一番有名)このリッサの海戦ではイタリア海軍を倒し、オーストリア海軍が勝利したことでテゲトホーフは海の英雄とみなされ、マリア・テレジア軍事勲章を授けられています。
最終的に海軍の最高司令官となりましたが1871年4月7日に43歳で肺炎で亡くなりました。
プラターシュテルンにあるこの記念像はそのリッサの海戦のちょうど20年後である1886年に彫刻家カール・クントマンと
建築家カール・フォン・ハーゼナウアーによって製作されたものです。
その年の9月21日に序幕されています。
高さ11mの代理石の柱の3か所には船の形が見られます。
それぞれの船には勝利の女神がデザインされています。
帝国時代の海の英雄を表した記念像にもかかわらず、ウィーンっ子からは当時"素朴で簡単な洋服掛け"と呼ばれていたそうです。
確かに船の所が服を引っかけるような雰囲気ですね。
台座の所にはこの写真に見られるようにリッサの海戦の記が見られます。
オーストリアでの一番有名な作曲家と言えばやはりモーツァルトでしょうね。
今日1月27日はモーツァルトの誕生日で今年2016年はモーツァルト生誕260周年ということになります。
2006年がモーツァルト生誕250周年で大々的に話題になり、あれからもう10年経ったかと思うと時の流れの速さを実感します。
ザルツブルクで生まれたモーツァルトは4回目にウィーンに来た25歳の時から最終的にこの街に住み始めて、35歳でウィーンの街の現在デパートになっている所で亡くなりました。
ウィーンの街にはモーツァルトに関する場所がたくさんありますが、一般的には王宮庭園に
あるモーツァルト像が一番最初に浮かぶような気がします。
今日は観光ではあまり知られていないモーツァルトの泉について紹介します。
MOZART-BRUNNEN
(モーツァルトブルンネン)・・・
モーツァルトの泉はウィーンの国立
オペラ座からも簡単に歩いて行ける、
中心からかなり近い所にあります。
住所はウィーン4区のMozartplatzとなっています。
"モーツァルト広場"という名前ですからモーツァルトファンの方は行ってみるべきでしょう。
写真で見られるように円形の広場の真ん中に噴水が作られています。噴水の近くには車で入ることができません。この広場はFavoritenstraße と
Wiedner Hauptstraßeという交通量が多い2つの道路に挟まれているにもかかわらず閑静な雰囲気です。
モーツァルトの泉は1905年に当時のウィーン市長カール・ルエーガーのもとでここに作られました。
その5年前の1900年に選考会あり、建築家Otto Schönthalのプランが選ばれました。
これを製作したのは
彫刻家のCarl Wollekです。
これは1791年に初演されたモーツァルトのオペラ"魔笛"を思い出させるものです。
魔笛も実はここから非常に近い所にあったFreihaustheather(もしくはTheater auf der Wieden)で当時初演されています。
この泉のブロンズ像は魔笛に登場するタミーノとパミーナです。
モーツァルトの魔笛小屋、パパゲーノの門も参照して下さい。
ウィーンには7つもの美術館がありますが、ヨーロッパ3大美術館のひとつにもよく数えられている美術史博物館は絵画に興味があれば真っ先に行く美術館でしょうか。
私も日本からの皆様に御案内するために頻繁に行きます。
その美術史博物館と並んでベルヴェデーレ宮殿のオーストリアギャラリーもここ数年ぐらいから入場観光することが大変多くなりました。
一週間に数回行くことも多くありますし、クリムト生誕150周年の時のある週は一週間毎日入場したこともあります。
ベルヴェデーレ宮殿と言えばここでもよく話題にしているバロック様式の重要な宮殿のひとつで、中の美術館に入らなくても写真ストップで寄ることが多いです。
去年にも秋晴れのベルヴェデーレ宮殿も紹介しています。
このオーストリアギャラリーは、19,20世紀の絵画が中心で、クリムト、シーレ、モネ、
マネ、ルノワール、ゴッホ、ビーダーマイヤー時代や新古典主義などの画家達や、バロック絵画コーナーもあります。
何と言ってもクリムトの接吻があることで知られ、今日はそれについて少し書きたいと思いますが、普段仕事でこの接吻を皆様に御案内する時には様々な角度からお話しをしますが、ここではあくまでもうわべだけを少しまとめています。
私のこのブログコーナーに見られる写真は、写真撮影が許可されているもののみで、
写真禁止となっている場所のものは一切掲載していません。
そのため例えばシェーンブルン宮殿の内部などは一枚も掲載していません。
このベルヴェデーレ宮殿の絵画コーナーは撮影禁止です。
でも2階の空間には接吻のコピーがありますので、それをここに掲載しています。
※2017年6月より展示の大部分がフラッシュなし、自撮り棒なしでの撮影が許可されました
これは1907年~1908年(彼が46歳になる年)に描かれたもので、本人は人物を特定していませんが、明らかにクリムトと彼の人生の伴侶であるエミーリエ・フレーゲであることがわかります。
フレーゲは絵の中では33~34歳です。
クリムトは"モザイク"を専門的に研究していて、ラヴェンナにも行っています。
彼の作品はモザイク的なものがベースとなり、作品の随所にそれを感じることができます。
モザイクは素材として石やガラスを使用することが多いため、必然的に奥行きが出にくいわけです。そのため、クリムトの作品には切り貼りしたように感じるものが多く、幾何学的遠近法などを使った作品はほとんどありません。
実際にクリムトはそのようなものには興味がありませんでした。
左がクリムトで男性の力強さを表現している直線的モザイクが、
右がフレーゲで女性らしい曲線と楕円形の装飾モチーフが至る所に見られます。
様式化されたお花畑に男女が静かにたたずんでいて、クリムトが彼女をリードする形で描かれ、まるで時間が止まっているかのようです。
実際にクリムトは大柄な女性を好み、女性に包み込まれていたいという願望があったので、
この絵でフレーゲがひざまずいていることに気づけば、彼女クリムトよりも大きい女性であることがわかります。
生命力の象徴とも言える渦巻きマークが黄金のオーラや彼の服にも見られます。
バックの色も黄金が使用されています。
キリスト教の伝統を正当に受け継いでいる東方正教会のギリシャ正教などで見られるイコンをイメージします・・・つまり男女の愛が神聖なものとして描かれているわけです。
クリムトの黄金期の作品にはかなり怪しげな模様が登場します。
生命力と関係がある美しいものとしてクリムトは描いていますが、初期のクリムトは本当に
写真のように描いた作品が多いこともあり、かなりの論争がありました。
しかし、黄金期の作品でもこの接吻だけはオーストリア国家がすぐに買い上げました。
この作品はクリムトの黄金を使用した全盛期(黄金期)の最後の作品であり、クリムトはこの後は黄金を一切使用しなくなります。
これにはいくつかの理由がありました。
クリムトと言えばやはり黄金を使用した装飾スタイルを真っ先に思い浮かべますが、
彼のスタイルは初期、黄金を使用した全盛期、黄金を一切使用していない後期、そして
風景画の4つの世界に大きく分けられます。
最近日本でもクリムトファンの方が多くなっていることを実感しています。
クリムトは1862年7月14日にシェーンブルン宮殿に結構近い、現在のウィーン14区のLinzerstraße 247番地で、7人兄弟の2番目として生まれています。
クリムトの父は彫金師であり、クリムトは父の後ろ姿を見ながら育ち、芸術的な素質を受け継いだ彼は家計を助けるために工芸美術学校に14歳で入学します。
そこでラウフベルガ―のもとで7年間様々な分野を学びました。
同じ学校に入って来た弟のエルンスト・クリムトと学友フランツ・マッチュと3人でカンパニーを結成し、劇場の天井画などの仕事を請け負います。
売れていたクリムトは様々な実業界からの女性から多くの注文が入り、経済的にも潤っていました。
クリムトの絵には多くの女性の肖像画が存在します。
彼は1918年2月6日に脳梗塞(脳卒中)で亡くなりました。
彼は20世紀に足を突っ込んでいますが、現代絵画には入りません。
近代の終わりの世紀末芸術・・・ユーゲント・シュティールです。
こちらで"近代"とは18世紀終わりの新古典主義から19世紀の世紀末までを指しますが、
実際は第1次世界大戦終了の1918年まででしょうか。
クリムトのこの接吻を見に、多くの方がベルヴェデーレ宮殿を訪れます。
ウィーンはヨーロッパ文化が凝縮した街なので、あらゆる分野のものが交差しています。
音楽もその分野のひとつですから、この街には日本からも音楽の専門的なツアーが年間を通してたくさんあります。
様々な作曲家の住んだ家が多く残されているウィーンでは、ベートーヴェンが遺書を書いたハイリゲンシュタットに行くことが比率的には一番多いのではないかと思います。
ベートーヴェンのハイリゲンシュタット遺書の家はベートーヴェンが聴力の回復を期待して滞在した場所で、耳がが聞こえなくなっていくことで絶望して遺書を書いたというドラマがあった場所です。
このブログコーナーでもベートーヴェンに関することは結構取り上げています。
ハイリゲンシュタットの遺書の家、ベートーヴェンのデスマスク、第9交響曲の家、
第9交響曲の家 2、第9交響曲の家 3、交響曲第6番田園の小川、ベートーヴェンの記念像、
ヘレーネ渓谷のベートーヴェンの跡、ウィーン21区のベートーヴェンの滞在場所、
ベートーヴェンの最後の住居、中央墓地なども参照して下さい。
その遺書の家を見学する時には、たいていベートーヴェンの散歩道にも行くことが多いわけですが、ベートーヴェンの散歩道はそこからもっと奥に行った所にあります。
時間に余裕がある時にはそのまま歩いてEroicagasseを経由してベートーヴェンの散歩道(Beethovengang)に入りますが、時間が限られている時にはバスでBeethovengangの近くまで入って、
そこからほんのちょっと歩いて散歩道に入ります。
いずれにしてもこの散歩道の途中には
"Beethovenruhe"(ベートーヴェンルーエ・・・ベートーヴェンの休憩所)と呼ばれる所があり、そこにベートーヴェンの
記念像が立っています。
ここまで来たらやっぱりこの記念像は見ておきたいですね。
ベートーヴェンの記念像は写真で見られるようにちょっとした柵に囲まれていて、しっかりした専用の空間に立ってます。
ここはベンチも置かれていて少し休むことができます。
ベートーヴェンは散歩が日課で、この辺りに滞在した時は毎日のように散歩し、自然の中に
自分を見つめ、様々な音楽的霊感を得たと言われています。
この辺りは当時は今とは全く違うのどかな田園風景が広がっていました。
このベートーヴェンの散歩道に沿ってSchreiberbach (シュライバーバッハ)という小さな川が流れています。
それが第6交響曲の田園の小川です。
このベートーヴェンの記念像はAnton Dominik von Fernkornという彫刻家によって製作されたもので、"1863年6月15日に序幕された"と記されています。
別の記録では6月23日という説もあります。
このベートーヴェン像はウィーンで一番最初にできたベートーヴェンの記念像です。
右上の写真を御覧下さい。
これはベートーヴェンの散歩道からもっともっと上に行ったカーレンベルクから見たのどかな風景で、ぶどう畑が広がっているのが見えます。
ベートーヴェンが当時この辺りに住んでいた頃は、その地域もこのような牧歌的な風景が広がっていたはずです。
最近また頻繁に美術史博物館やベルヴェデーレ宮殿のオーストリアギャラリーを案内することが続いています。年間を通して日本からの様々なツアーをアテンドさせて頂いておりますが、観光内容はそれぞれのツアーで全く違っています。
ある週は全く美術史博物館に行かない時もあれば、逆に毎日入場観光することもあります。
仕事でしょっちゅう行く美術館ですが、ちょっとした空き時間がある時にも個人的に
美術史博物館はよく行ってます。例えば次の仕事まで1時間、時間があると思ったら、
ちょこちょこっと美術史博物館に行って、30分だけルーベンスを見て来よう・・・
なんて贅沢なことをよくやっています。
仕事で絵画を案内する時と1人で観賞する時とは全く違います。
さて、前回その美術史博物館のティントレットについて少し触れました。
ヴェネツイア派は個人的に大好きですが、今日の画家ルーベンスも大好きです。
これは1615年頃描かれたルーベンスの"四大陸"というタイトルで、私はウィーンに住む前の学生時代に東京の西洋美術館でこの絵を見たことがあり、大変に印象に残っていました。
これは男女のカップルがそれぞれの大陸とそこを流れる河を表しています。
男性は河の神を表し、女性は女神を表しています。
ヨーロッパとドナウ河、アジアとガンジス川(チグリス河と言う説もあります)、
アフリカとナイル川、アメリカとアマゾン河の4つの大陸と河です。
画面左上の男女がヨーロッパ、すぐその下がアフリカ、右から2番目がアメリカで一番右がアジアを象徴しています。
当時はユーラシアではなく、ヨーロッパとアジアが2つの大陸と考えられていました。
オーストラリアももちろんまだ知られていませんからここにはないわけです。
17世紀になると簡略化された地図が描き始められ、よく大陸は擬人化されました。
その大陸・・・いわゆる地球に全ての生命がある・・・そこで人間だけではなく、
陸の生き物や水の生き物なども描かれていることがわかります。
生命の象徴的なこの大胆な絵はルーベンスの特徴が見事に発揮された1枚でもあります。
ルーベンスは1577年に現ドイツのジーゲンで、アントワープ出身の資産家の息子として生まれ、21歳でアントワープの画家組合に加入しています。
23歳からイタリアで8年間滞在し、古代彫刻の力強さやミケランジェロを研究し、ヴェネツィア派の美しい色彩を学び、それを融合した華麗なフランドルバロックの世界を展開しました。
イタリアから帰国し、ハプスブルグ家オランダ摂政王のアルブレヒト大公とイザベラ大公女の宮廷画家でもあり、7か国語を駆使できたと言われるルーベンスは外交使節などでも活躍し、アントワープに定住します。
この写真はアントワープにあるルーベンスの家です。
この街で1640年に亡くなりました。
豊かな色彩、官能的で健康な人物表現などや大画面が特徴で、とてもドラマチックな作品が多いです。
ここ最近は美術史博物館を案内する日が結構続いています。
ウィーンに来るツアーでは圧倒的にシェーンブルン宮殿が多く含まれていますが、
全日観光などでは午後に美術史博物館に行くことも多く、またオプショナルツアーとして
美術史博物館をメインテーマにすることも頻繁にあります。
個人的に美術史博物館は大好きで、ハプスブルグ家の素晴らしいコレクションは他の美術館
にはない、独特の個性を持ち、絵画史上重要な作品だけが集められています。
最近このブログコーナーで絵画の話題から遠ざかっていたので、今日はちょっと絵画について書いてみる気になりました。
だいぶ前に色彩が美しいヴェネツィア派というタイトルで書きましたが、そこでちらっと
登場したティントレットの知られたひとつを見てみましょう。
これは"スザンナの水浴"で、絵画によく登場する旧約聖書からの話です。
裕福なユダヤ人の妻スザンナは庭で沐浴するのを日課としていました。
それを知っていた長老は、彼女がひとりになった時に言い寄って自分達と関係を持たなければ、若い男性と関係していると言いふらす・・・と脅しました。
潔白である彼女はそんなことは当然拒否しました。
長老達は言ったことをを実行し、スザンナの夫の耳にも入ります。
そこで彼女は姦淫の罪ということで死刑の宣告を受けることになります。
預言者ダニエルが2人の長老を別々に尋問し、矛盾を引き出すことに成功します。
そこでスザンナの無実が証明されるというお話です。
この主題は初期キリスト教迫害時代の人々に支持されて、カタコンベや石棺などによく描かれました。
16世紀以降は特に女性の裸体を描くいい口実にもなりました。
女性の裸体は美しく、誰もが描きたかったにもかかわらず、裸体をむやみに描くことはできなかったからです。
光と影、遠い物と近い物、女性の美しさと男性のしょうもない醜さ、穏やかな空気とこれから襲われるという危険など様々なコントラストが見られます。
ティントレットは(1518~1594)はヴェネツィアで生まれ、ヴェネツィアで亡くなった画家で、父親が染物屋であったことから染物屋の子(ティントレット)と言われます。
彼は27歳の時にローマにも赴き、ミケランジェロを模倣した多くの素描を描いています。
40歳半ばからはヴェネツィア派巨匠のティツィアーノの影響を受けた肉感的な美しい絵が多くなります。
少し後のエル・グレコ(1541~1614)の作品を予想させる、視点にも特徴があり、光と影の鮮明なコントラスが特徴的です。
ヴェネツィアにはティントレットの作品がたくさんあります。
ウィーンのかなり郊外にAspern (アスペルン)というかつての集落があります。
ここは現在ウィーン22区の一角で、この名前は地元では歴史的にとても有名です。
そこには大きなライオンの像があり、"Löwe von Aspern" (アスペルンのライオン)
と呼ばれています。
このライオンは1809年の5月20日、21日の2日間にわたって繰り広げられた"アスペルンの戦い"と言われる、オーストリア軍がナポレオン軍を初めて破ったという歴史的に有名な戦争があった場所に置かれています。
この時大活躍した有名人がハプスブルグ家のカール大公です。(Erzherzog Karl Ludwig Johann Joseph Laurentius von Österreich)
彼は1771年にフィレンツェで生まれ、1847年にウィーンで亡くなった軍人で、父は神聖ローマ帝国皇帝のレオポルド2世で、カール大公はその3男です。
つまり、マリア・テレジア女帝の孫のひとりということになります。
彼の兄がフランツII/I世皇帝ですね。
カール大公はこの時最高司令官として戦いました。この戦いでオーストリア軍は23.300人、フランス軍は27.000人の軍人を失っています。
たった2日間の戦いにもかかわらずです・・・。
このライオンはアントン・ドミニク・フェルンコルンによって1858年に製作されたもので、アスペルンの戦いで命を落とした兵士に捧げられたいわば戦没兵士追悼ライオンです。
このライオンは砂岩で作られています。
このライオンはアスペルンの戦いの約40年後1850年にアルブレヒト大公(Erzherzog Albrecht Friedrich Rudolf von Österreich-Teschen)が(このアルブレヒト大公とはカール大公の長男)当時このアスペルンの戦いで大活躍した父のことを思って製作を依頼したものです。
このライオンが置かれている場所は、アスペルンの戦いの中心であった場所で、しかもこのライオンは亡くなっています。
フェルンコルンはこの像の制作にあたり、様々なプランを考え、そしてシェーンブルン宮殿の動物園にも足を運んで自然のライオンを研究したということです。
もちろんカール大公がここでナポレオンを破ったという勝利の意味もありますが、それはライオンの前足でほとんど隠されています。
亡くなった兵士達への追悼と悲しみがメインテーマとなっています。
ウィーンの街を歩くと色々な所に記念像といった銅像が立てられていることに気づきます。
基本的には歴史上名を残した重要な人物がテーマとなっています。
このブログコーナーでもいくつか記念像については書いていますので、絵画と彫刻を参照して下さい。
今日は今更ですが、ウィーンを象徴する像のひとつについてです。
言わずと知れたこのヨハン・シュトラウスの記念像はたいていのガイドブックでは紹介され、ウィーンを代表する一場面としてよく取り上げられています。
ヨハン・シュトラウス(2世)の父であるシュトラウス1世は息子が音楽をすることを好まなかったにもかかわらず、
息子は19歳ちょっと前に楽団を結成し、ウィーンで華々しくデビューします。
父が45歳で亡くなり、その後は息子の時代となります。結果的に息子はワルツ王と言われ、父はワルツの父と言われるようになりました。
参考までにこちらもどうぞ→
市立公園にあるこのヨハン・シュトラウスは金色で、立ってバイオリンを演奏しています。
実際にシュトラウスはこのスタイルで演奏をしていました。
像の後ろの装飾的な背景は白の大理石で、ドナウの乙女と踊っているカップルが表現されていて、シュトラウス自身も大理石の台座の上に立っています。
興味深いことに、シュトラウスの特徴を示すひとつであるもみ髭が見られません。
ヨハン・シュトラウスが亡くなった5年後の1904年にこの記念像のコミッションが結成され,2年後の1906年にコンペが行われ、Edmund Hellmer(エドゥムント・ヘルマー) の案が満場一致で決まりました。その9年後にウィーン市から約束された補助金が支払われます。
第1次世界大戦のおかげで、さらに伸びて1920年にやっと実行されます。
エドゥムント・ヘルマーによって製作されたこのシュトラウス像は1921年6月26日に序幕されることになります。
当初から金色だったこのシュトラウス像は批判されて、結果的に1935年に金色が剥がされました。
ずっと文字通りの銅像となるわけですが、1991年に再び金色になりました。
余談ですが、この時の 金は 1/7000 mm という薄さでした。
2010年にこのシュトラウス像は根本的な修復のため、ここから姿を消しましたが、次の年の2011年の秋に再びこの場所に戻って来ました。
この像を見ていると美しき青きドナウが聞こえて来る気がしませんか?
ウィーンは外から見ていたら全く見ることができない美しい中庭空間が至る所にあります。
そんな中庭空間には以前にもここで紹介したローマ時代の壁の名残りのような歴史的にとても重要なものがあったりして、ウィーンは奥が深い街だな~とつくづく思っていますが、
今日はそのような物をひとつテーマにしてみます。
そんな中庭空間にあるこちらはANDOROMEDA BRUNNEN
(アンドロメダ噴水)で、ギリシャ神話の一部です。
アンドロメダはエチオピア王ケフェウスとその妻カシオペアの
間に生まれた大変美しい娘です。
カシオペアは、"娘アンドロメダは海の妖精ネレイス(50人とも100人とも言われる)より美しい" といったことから海の神ポセイドンの怒りに触れます。
ポセイドンは大きな怪獣を送り込んで、連日津波を引き起こし人々に被害を与えました。
神託は、王女アンドロメダを怪獣の生贄にするしか解決方法はないということで、アンドロメダが生贄にされることとなり、アンドロメダは海岸から離れた岩に鎖で繋がれました。
そこにペルセウスが登場し、"王女を自分の妻に"ということで、空中を駆け巡って剣を
振るい怪獣を倒し、鎖に繋がれた王女を助けるわけです。
ペルセウスは、神ゼウス(ユピテル)とアルゴス王アクリシウスの娘ダナエとの間から生まれた英雄です。
岩の鎖に繋がれたアンドロメダと彼女を襲おうとしている怪獣が
見えますね。空には英雄である
ペルセウスが登場しています。
このアンドロメダ噴水はウィーン生まれの有名な彫刻家
Georg Raphael Donner
(ゲオルグ・ ラファエル・ドンナー 1693~1741)
によって1740/1741年に製作されました。
ラファエル・ドンナーは大工の息子で、金細工を学びましたが、14歳からイタリアの彫刻家ジョバンニ・ジュリアーニの下で彫刻を学び、大きな影響を受けました。
鉛製作の技術を身につけて素晴らしい作品を数多く残しています。
このアンドロメダ噴水はウィーン旧市街にある旧市庁舎の中庭で見ることができます。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が一目惚れしたといわれる、バイエルン、ヴィテルスバッハ家のエリザベート・・・愛称シシィは話題性たっぷりで、世界中にファンがいますね。
日本でもウィーンオリジナルのミュージカル"エリザベート" が1996年に宝塚歌劇団などでも公演されたことなどを始め、ますます有名になっていきました。
王宮にはシシィ博物館があり、フランツ・ヨーゼフとエリザベート結婚150周年記念の
2004年4月25日にオープンし、去年の2014年4月25日でちょうど10周年を迎えました。
エリザベートファンにとってはおもしろい博物館です。
エリザベートの記念像というと、ウィーンでは国民庭園のエリザベート像が真っ先に
思い浮かぶのではないでしょうか。
意外な所ではウィーン西駅にも彼女が立っています。
意外な所と言えばこちら写真の
エリザベート像はどうでしょうか。
このエリザベート像は、ウィーン旧市街
一角にあるHotel Kaiserin Erisabeth
(ホテル カイザリン エリザベート)
の入口の所に置かれています。
Kaiserinは皇后という意味です。
このホテルの建物は歴史があり、14世紀半ばのハプスブルグ家のルドルフ4世時代には登場していて、歴史上有名人が多く
宿泊しています。
例えば、モーツァルト、クララ・シューマン、リスト、ワーグナー、ブルックナー、グリークといった音楽家、
画家のオスカー・ココシュカ、
またハプスブルグ家最後の皇帝カール1世の長男オットーさんなどが挙げられます。
このホテルはWeihburggasse3番地にありますので、シュテファン大聖堂のそばに来たら、ちょっと立ち寄ってみるといいでしょう。
こちらは "エジプトI,II"です。
生きてる間に死後の人生を考える文化というのはこのエジプト文化をおいて他にないのではないでしょうか。
実際にクリムトの絵画にはよく生と死ということが登場します。
ここでは左の裸体の女性が産婦を表現してたエジプトIです。
クリムトらしい女性の裸体像です。彼女の右手にはAnch (Ankhともアンク)と呼ばれるエジプト十字を見ることができます。
柱の間には死を表現したエジプトIIである女性像を見ることができます。
静かに立っていることがわかりますね。
こちらは"Altitalienische Kunst"(古いイタリア芸術)で14世紀から15世紀初頭を表しています。
フィレンツェ、ピサ、シエナといったイタリアの街でジョットやドナテッロなどが活躍します。
フィレンツェは有名な詩人ダンテを生み、彼は神曲を
書いています。
ここでは左の男性がダンテ、右の女性が神曲に登場するベアトリーチェかもしれません。
今回2回に分けて書いた美術史博物館のクリムトは、1891年の彼が29歳の時に手掛け、
彼のカンパニー時代に描かれたものです。
カンパニーは弟のエルンスト・クリムト、学友のフランツ・マッチュの3人で運営され、
劇場の天井画などの仕事を請け負いました。
そのため、この大階段ホールの残り3面の同じアーチの上には、エルンスト・クリムト、
フランツ・マッチュ、3人の共同作品をさらに見ることができます。
2012年はクリムトの生誕150周年記念であり、その時美術史博物館ではクリムトの壁画が
近くで見られるようにということで、足場が組まれました。
そこでこのように間近で見ることができたわけです。
この時代はクリムトのスタイルは初期であり、リンク道路時代に見られる保守的で、過去の様々な様式が重んじられた時代でした。
そのため彼の初期の作品と同様、とっても写実的ですが、十分クリムトの特徴を見ることが
できます。
ウィーンには質から言ってヨーロッパ3大美術館のひとつに数えられる美術史博物館があります。
そこは15世紀~18世紀に限った絵画史上とても重要な作品だけが見られ、絵画に興味があれば、真っ先に行きたい美術館です。
このコーナーでも、美術史博物館自体や、そこのいくつかの作品などもテーマに取り上げていますので、"絵画と彫刻" を参照して下さい。
その美術史博物館にクリムトの絵があります。
彼の作品として展示されているわけではなく、彼がカンパニー時代に仲間とこの美術館の内装として手掛けた壁画を見ることができます。
絵画コーナーに行くために、吹き抜けの大階段ホールを上がって行きます。
途中印象的なテセウス像があり、そこから向きを変えて、さらに上に上って行きます。
その時に正方形吹き抜け空間にそれぞれの辺に3つ、計12個のアーチが見られますが、そのアーチのすぐ上に注目です!
こちらは"ローマとヴェネツィアのクワトロチェント"です。向かって左の女性がエクレシアです。
Ecclesia(エクレシア)は、古代ギリシャでは人々の集まりという意味で使われ、そこから転じて信者の集まりを意味し、中世の頃には教会やキリスト教を象徴します。彼女は十字架を持っています。
右の人物はLeonardo Loredan(レオナルド・ロレダン 1436~1521)で、ヴェネツィアの総督です。この人物像は、ヴェネツィア派の創始者とも言われるジョバンニ・ベリーニが1501年に描いた彼の肖像画を思い起こさせます。
ローマはローマ教皇がいるローマカトリックの総本山、そのローマに対して色彩が豊かな芸術風景のヴェネツィアがここではテーマになっています。
こちらは"古代ギリシャ"です。古代ギリシャの
クラッシック時代は紀元前5世紀が全盛期です。
ここで描写されているのは古代ギリシャアテナイの
アクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神でギリシャ神話の女神アテナを祭るパルテノン神殿に置かれたアテナ像です。
アテナは智恵と戦争芸術を司る女神です。
左の女性がAthena Promachos(アテナ・プロマコス)、右の立像女性がAthena Parthenos(アテナ・パルテノス)です。
これは両方共Phidas (ペイディアス・・紀元前5世紀終わり)というパルテノン神殿建設の総監督を務めたとされる人物が製作したもので、現在では大理石のコピーしか残されていません。
クリムトは自らの作品にもこの古代ギリシャスタイルをよく用いています。
美術史博物館のクリムト2に続きます。
もう何回も書いていますが、ウィーンの美術史博物館は15世紀~18世紀の絵画史上重要な
作品だけが集められており、その素晴らしい美術品を展示することを目的として、つまり
当初から"美術館"を意図としてリンク道路沿いに新たに作られた建物ですから、内部空間もその美術品に相応しく、とても贅沢な空間になっています。
その美術史博物館からティツィアーノの知られた肖像画を1枚見たいと思います。
ティツィアーノはヴェネツィア派最大の巨匠と言われ、1488年にヴェネツィア共和国の
ピエーヴィ・ディ・カドーレで生まれたとされいますが、正確な年代はわかっていないようです。10歳~12歳ぐらいの時に画家の弟子になるためヴェネツィアに送られたようです。
ヴェネツィア派の創始者とも言われるジョバンニ・ベリーニの工房で修行し、そこで
ジョルジョーネとも出会い、彼の未完成の作品をティツィアーノが完成させていく過程で
独自のスタイルを身につけていきました。
ベリーニが1516年、ジョルジョーネが1510年の亡くなってからはその後60年間は
ヴェネツィア派最大の巨匠であり続け、ハプスブルグ家のカール5世やその後の
フィリップ2世からの庇護も受けてハプスブルグ家の宮廷画家としても数々の作品を残しまし、1576年のヴェネツィアで亡くなっています。
こちらはそのティツィアーノの
"ヴィオランテの肖像"は
1515年~1518年に描かれ、
美人画と呼ばれる16世紀前半のヴェネツィア絵画の特徴を見ることができます。
Violante・・・ヴィオランテは
イタリア語のviola、ドイツ語の
Veilchen(すみれ)から由来した名前で、この絵の彼女にとっての左の胸元にすみれの花が見られます。
彼女が身に着けているデコルテは
ローブ・デコルテでも知られる
首元や胸元を露にしたドレスで、
ティツィアーノはそこに意識的に
青、赤、黄色を使っています。
実はその3色が微妙に彼女が
つけているすみれに使われています。
大胆な色使いに対し、金髪の細かいタッチや美しい肌の描写も見事で当時の理想の女性像を
表しています。この女性は高級娼婦と言われていますが、そんな人物に理想の美しさを
見出しているおもしろさがあります。
この時代はこのような美しい女性の肖像画がたくさん描かれていました。
ティツィアーノは後の巨匠ルーベンスやベラスケスにも大きな影響を与えました。
ウィーンを始め、オーストリア(ヨーロッパ)にはありとあらゆる時代様式の建物があり、そのような美しい装飾がある建物が"街"の雰囲気を演出しているわけですから、街中を歩くだけで楽しいものです。
色々な様式が見られる中で、この装飾スタイルはウィーンの街中ではほとんど見ることができないもの・・・それがスグラフィット装飾です。
スグラフィットはイタリア語のsgraffiare・・・ドイツ語ではkratzen (ひっかく)から由来し、壁などに見られる装飾技法の名称です。
右の写真に見られるように、壁にまるで刻まれたような装飾模様が特徴で、平面に描かれているわけではありません。
16世紀のルネッサンス時代にイタリア、ボヘミア地方で特に好まれて用いられた装飾スタイルです。ルネッサンス時代にこのスグラフィットがイタリアで流行っている時に、ルネッサンス時代建築の親方などによってこのオーストリアや現在のドイツにもたらされ、驚きと感動をもって受け入れられました。
スグラフィットは対照的な色の漆喰を2層で塗ります。
1層目は、鉄分や木炭などを含んだ黒とか赤などの漆喰で、その上の2層目は白の漆喰を塗り、その2層目の表面を引っ掻き落とし、1層目の濃い色が現れて模様や絵ができるというものです。
このタイプの素朴な技法はすでに13世紀ぐらいから現在のドイツにあったことが確認されています。
この彫刻は、当時ヨーロッパでおそらく一番有名であったイタリアの彫刻家
アントニオ・カノーヴァが製作しています。
カノーヴァ(1757年イタリアのPossagnoで生まれ、1822年ヴェネツィア没)は、父も祖父も石工や彫刻家であり、父が早く亡くなり、母も別の所に嫁いだため、祖父が家業を継いでもらうため、早くからカノーヴァにスケッチの手ほどきをし、幼いころから美術をすることになり、彫刻に関心を示し、すぐに祖父を手伝うことができるようになったといいます。
ウィーンのアウグスティーナ教会にあるマリア・クリスティーナの墓石は非常に有名です。
この彫刻は英雄テセウスがケンタウルスをやっつけている場面で、カノーヴァの特徴である
裸体の大理石で表現されています。
テセウスはアテナイの王アイゲウスとトロイゼンの王女アイトラの子と言われ、後に王位を
継ぎます。彼の有名な話はクレタ島の迷宮内の牛頭人身のミノタウロスを、王女アリアドネの助けで退治し、迷宮を脱出したことでしょうか。
このケンタウロスは上半身が人間で、下半身が馬で、好色で粗暴です。
ラピタイ族の王ぺイリトオスの結婚式で、花嫁に襲いかかったので、テセウスが退治するという話です。
この彫刻はナポレオンが注文したものですが、ナポレオンが失脚した後、ローマでハプスブルグ家の皇帝フランツII/I 世が入手し、1822/1823年にウィーンに運ばれました。
そして以前ここで紹介した国民庭園のテセウス神殿に置かれましたが、この美術史博物館が
オープンした1891年よりこの場所に置かれています。
堂々としたこのテセウス群像はこの美術史博物館の大階段ホールを飾るのにとてもふさわしい彫刻となっています。
ウィーンには歴史的に重要な教会がいくつもありますが、そんな教会の中にも言われあるものや重要なものがたくさんあります。
今日はここでもすでに登場したアウグスティーナ教会の中にあるマリア・クリスティーナの素晴らしい墓石について少し書きたいと思います。
マリア・クリスティーナは1742年5月13日ウィーンで生まれました。
こちらがアウグスティーナ教会にあるマリア・クリスティーナのピラミッド型の墓石です。
これはAntonio Canova (アントニオ・カノーヴァー)が、1805年に製作したもので、平らなピラミッド型で、5mの高さの大理石です。
悲しみの参列を表現し、ピラミッドの入り口に松明を持った少女を先頭とし、そのすぐ後ろには、徳を意味している、壺を持った女性が続きます。
一番後ろの2人は、マリア・クリスティーナの慈善と徳を表す女性像と彼女は盲目の老人を連れています。
右側には力強さを表すライオンと夫婦のこまやかな愛情を表す精霊がいます。
入口上部にはラテン語で、Uxori Optimae Albertus 「最高の妻へ、アルベルトより」と書かれています。
一番上には精霊がマリア・クリスティーナというメダルを掲げています。
カノーヴァーはこの墓石を製作するにあたり、以前持っていたコンセプトを使いました。
すでに1790年、あるヴェネツィアの貴族がカノーヴァーにティツィアーノの名誉を表すフラーリ教会のための記念碑を依頼した時のコンセプトでしたが、依頼人が突然亡くなったので作られませんでした。
この素晴らしい墓石はアウグスティーナ教会に入り、右側に見られます。
ウィーンのリンク道路沿いにある公園のひとつに国会議事堂の前にあるバラが多く咲いているVolksgarten (フォルクスガルテン)・・・国民庭園があります。
そこには以前ここでも紹介したテセウス神殿というミニギリシャ神殿がありますが、リンク道路からもっと奥に行ったあまり目立たない所にエリザベートの像があります。
世界中にファンがいるエリザベートはバイエルンのヴィテルスバッハ家出身で、1837年12月24日生まれです。自然の中で自由に子供らしい幼少時代を送り、ある意味では普通に育てられたエリザベートの運命が変わることになるのは、いとこに当たるフランツ・ヨーゼフ1世に一目惚れされ、結婚が決まってからでした。
元々エリザベートのお姉さんのヘレーネとフランツ・ヨーゼフ1世を結婚させることが決められていましたが、それに反して妹に一目惚れをしたわけで、16歳のエリザベート(シシィ)がウィーンに嫁ぐこととなったのです。
ウィーンの宮廷文化は全く肌に合わず、1人でいることも多く、精神的なバランスも崩れ、宮廷を逃げ出すかのように色々な所を旅します。
2人の間からは、彼女が30歳までに4人の子供が生まれますが、3番目に生まれた長男ルドルフ皇太子は
ウィーンの森マイヤーリンクでピストル心中自殺をします。(悲劇のマイヤーリンク 参照)
エリザベートの最後は、1898年9月10日 スイスのジュネーブでルイジ・ルッケーニによって心臓を刺されて帰らぬ人となるという、悲劇的なものでした。
エリザベートが亡くなった4年後には、この像を作るコンテストが行われています。
ウィーンの美術史博物館はウィーンに来たら外せないスポットで、絵画に興味がない方でも是非1度は見て頂きたい素晴らしい美術館です。
このコーナーでも美術史博物館については何回か話題にしていますので、"絵画" を是非参照して下さい。
今日はこの美術史博物館からフェルメールに登場してもらいます。
ウィーンの美術史博物館にこのフェルメールの"絵画芸術"(俗に画家のアトリエ)があることはとてもありがたいことです。
フェルメールはここ30年ぐらいから日本では知られるようになったと思いますが、19世紀後半にはすでにゴッホによって賞賛されています。
フェルメールは1632年オランダのデルフトで美術商、居酒屋も営んでいた絹商人の息子として生まれています。21歳で結婚し画家組合にも入り、その後父が亡くなったここから事業を引き継ぎます。
画家ということはローカルでは知られていましたが、それで生計が立てられたわけではありませんでした。
43歳で亡くなるこの画家の作品数は約35点ぐらいしかなく、それもまだ5点ほどは彼の作品ではない・・・という意見もあってハッキリしていません。
フェルメールと言えば、牛乳を注ぐ女性などがよく知られ、そこでも登場している外からのガラスを通しての光が印象的ですが、このガラスが豊かさの象徴で、彼の絵にはよく登場します。
しかし、この絵画芸術では室内ですから外からのガラスを通しての光は登場していません。
でも代わりに地図を見ることができます。この地図がガラスと同様の役割をしています。
地図は当時誰でも持てる物ではありませんでした。
この地図はまだオランダが分割される前の17州が描かれています。
このうち7州が1648年のウェストファリア条約で独立を承認されます。
実際は地図以外にもシャンデリア、タペストリーのようなカーテン、大理石の床、金鋲が打ち付けられた革張りの椅子などとても高価なものが描かれていますね。
これはフェルメールの画家としてのプライドであり、この絵はおそらくフェルメールが名刺代わりに使っていたものという見解もあります。
彼はこの絵を彼の生前中に手放すことはありませんでした。
描かれた内容に対し、人物や物の調和のとれた完璧な構図で画面を統一するという画期的な方法でオランダ絵画に大きく貢献しています。
私達は一気にアトリエの奥へと導かれます。時代遅れの衣装をつけたおそらく画家本人が、神話に登場する歴史の象徴であるミューズのひとりであるクレイオーを描いています。
フェルメールはこの完璧な構図を作るために、当時の最新鋭の技術を駆使したカメラ・オブスクーラというものをおそらく使用したとも言われています。
このカメラは現在のように画像として定着できるものではなく、カメラが移した世界が逆さまになって2次元で投影されるというものです。
テーブルには絵画論、マスク、スケッチ帖が置かれ、キャンバスは書き始めであることがわかります。
歴史の神が画家に対してオランダの歴史を伝え、フェルメールがその霊感を受け取ってそのまま写しているようですね。
この絵はとても貴重なこの美術史博物館の1枚です。
美術史博物館は誰でも知ってるダ・ヴィンチとかミケランジェロとかがあるわけではありませんが、絵画史上重要な作品が目白押しです。
以前ここでも触れたルネッサンスの ヴェネツィア派の絵画も素敵ですが、
今日はルネッサンスの3大巨匠のひとりラファエロです。
ウィーンの美術史博物館にはラファエロの「草原の聖母」があります。
ラファエロは1483年ウルビーノで生まれ、ペルジーノの工房でも仕事をしたと言われ、
1504年頃からフィレンツェを訪れ、30歳年上のダ・ヴィンチの影響を大きく受けます。
ラファエロの有名な聖母子シリーズの多くはこのフィレンツェ時代に描かれています。
25歳の時にバチカンのローマ教皇ユリウス2世に呼ばれ、ローマで活躍し、
結果的に1520年にローマで亡くなります。
そこで7歳年上のミケランジェロの影響も受けることになります。
この草原の聖母は明らかにダ・ヴィンチの三角形型(ピラミッド型)構成で、マリア、
イエス、ヨハネ3人が生き生きとした調和を示し、一体感を生み出しています。
画面の真ん中に線を引くと、マリアとイエスの顔が同一直線状にきています。
なおかつ、左奥の風景の三角形、イエスと十字架の二等辺三角形も調和しています。
ダ・ヴィンチが完成したと言われるスフマート技法も、ラファエロは自らのものとして
習得していて、ダ・ヴィンチよりも自然形で取り入れ、なおかつペルジーノのもつ柔らかさも残しています。
ダ・ヴィンチの色彩遠近法もここでは登場し、遠くの風景が奥に吸い込まれるようで、
人物像とのかなりの距離感を演出しています。
イエスとヨハネが無言で見つめ合いながらの意思疎通、これをやさしいお母さんが
温かく見守ってるようですね。
音楽家で言えばモーツァルトのようなラファエロは、偉大な芸術家の美の本質を見抜き、
それを自らのものに吸収する才能を持っていました。
音楽に全く興味がない方が、音楽の都としてのウィーンで作曲家を挙げるとすると、
モーツァルトとベートーヴェンが圧倒的に多いでしょうか。
ベートーヴェンはオーストリアの3大クラシックの作曲家には入りませんが、ウィーンではモーツァルト以上に足跡を残しました。
それ以外でも、ヨハン・シュトラウス、ヨハン・シュトラウス(父)、ショパン、
シューマン、リスト、バルトーク、ブルックナー、マーラー、ドヴォルザーク、
ワーグナー、ヴィヴァルディ、リヒャルト・シュトラウス、シベリウス、グルック・・・
とウィーンに足跡を残した音楽家を挙げたら切りがありません。
音楽が好きな方は別として、一般に知られている作曲家でもウィーンで意外と見落とされているブラームスについて少し書いてみたいと思います。
ヨハネス・ブラームスは1833年5月7日にドイツのハンブルクで生まれています。バッハ、ベートーヴェンと並んでいわゆる"3B"のひとりです。
ホルン、コントラバスを弾くブラームスの父がおそらく最初にブラームスに音楽教育を施し、ブラームスは小さいころからピアノの才能を示し、また作曲の素質も早くから現れ、10歳でダンスホールやレストランでのピアニストとして家計を支えていたようです。
1853年にはリストやシューマンに自分の作品を見てもらっています。
このシューマンはブラームスを賞賛し、彼の作品を知らせるのに大きな貢献をしています。
ちなみにブラームスは、シューマンの妻クララとも知り合いになり、シューマンが1856年に亡くなった以降も親しい関係を築きます。
ウィーンには1862年、Wiener Singakademieの合唱指導で、ブラームスが29歳の時に初めてやって来ます。。
ドイツ レクイエムやハンガリー舞曲で高い評価を得ます。
1872年からウィーンに最後まで定住することになり、翌年から2年間ウィーン楽友協会の専属合唱団の責任者として仕事をします。
最後は1897年4月3日に肝臓がんで、カールス教会のすぐ横の、彼が1872年から住んでいた住居で63歳で亡くなりました。
ブラームスが亡くなった後、ウィーン市からの助成金によって、彫刻家Rudolf Weyerによってこの記念像が作られました。
座っているブラームスを表現した大理石で作られた像の下には、ミューズのひとりがリラを持っています。
このブラームス像は1908年5月7日に序幕されています。
このブラームスの記念像は彼が亡くなった場所のすぐ近くの、カールス教会がよく見えるResselparkにあり、道路を挟んだその目の前には有名な楽友協会ホールが建っています。
1870年に建築された楽友協会ホールの小ホールは、1937年からBrahmssaal(ブラームスザール)と言う名がついています。
ウィーンには7つの美術館がありますが、美術史博物館は本当に絵画史上重要な画家が
目白押しです。
またここは問題なく撮影もできるので、このブログコーナーの「絵画」のタイトルでは
今の所この美術史博物館がメインとなっています。
今日はこの美術館でも重要なブリューゲルです。
ブリューゲルの家系は画家が多く、一般的にピーテル・ブリューゲル(父)と書きますが、
長男のブリューゲルも次男のヤン・ブリューゲルも知られています。
ドイツ語では"Pieter Bruegel der Ältere"です。
このブリューゲル(父)の作品はこの美術史博物館の大変重要な位置を占めるもので、
一族では最も有名ですが、それにもかかわらす生い立ちがはっきりしていません。
1551年にアントワープの画家組合に登録されているのが最初の記録です。
そこから生まれた年が推測されています。
おそらく1525-30に生まれ、1569年に亡くなっているフランドル(現在ではベルギー)の画家で、アントワープ、ブリュッセルで活躍しました。
1551~1554年にイタリア旅行をし、ローマ滞在や南イタリアにも赴いた様で、
またアルプス地域もおそらく通っています。
1554年からアントワープに再び約8年住み、その後1563年からはマリア・クックと
結婚すると同時にブリュッセルに住みました。マリア・クックはブリューゲルが絵を習っていた先生の娘です。
こちらはお馴染みの「雪中の狩人」です。
1565年から1年かかって6連作を描いた
月歴画です。
そのうち5点は現存していて、ウィーンには
「暗い日」と
「牛群の帰り」の
2点があり、
これと合せて計3点があります。
一見日本画的な印象を与えることから親しみやすいのかもしれません。
「バベルの塔」はとても迫力があります。
巨大な塔が建設されていく・・・でも神からの
怒りによって言葉が混乱されて、建設が途中で
終わってしまうという
話ですが、ブリューゲルは初めからこの塔は完成することはないということを念頭に描いているようです。
内部のアーチ構造はローマのコロッセウムを念頭に描いているとされ、
イタリア滞在の影響が見られます。
「農民の婚宴」は、やはりこの美術史博物館にある「農民の踊り」とともに臨場感をもって描かれ、画面全面に人物が大きく描かれています。
伝統的な習慣を描いたものとされています。
私達がこの場所でこの婚宴を見ているようで、わいわい、がやがやといった声が聞こえて来そうです。
風刺画的な人物表現も特徴があります。
これは納屋での婚宴です。
ブリューゲルはおそらくオランダの画家「ヒエロニムス・ボッシュ」の影響を受けた画家のひとりで、当時多くの画家がボッシュの影響を受けましたが、
ボッシュの影響を受けながらも自らの個性を発揮できた唯一の画家かもしれません。
宗教画、伝統行事、農民、教訓、風景などと広範囲にわたって作品があります。
ちなみにブリューゲルの長男は父の模索を多くし、地獄の絵を描いたことから
「地獄のブリューゲル」、次男のヤン・ブリューゲルは、花や鮮やかな細かいタッチで
描いた絵が多いことから「花のブリューゲル」とか「ビロードのブリューゲル」とも呼ばれています。
ウィーンのシンボルとも言えるシュテファン大聖堂は12世紀半ばから現在に至るまでの約870年間ずっと歴史を見つめて来ました。
それだけの歴史がこの大聖堂には詰まっているので、じっくり見るとそれなりの時間がかかり、言われあるものが数多く残されています。
その中で大変重要な石細工の説教壇があります。
この貴重な大作は、シュテファン大聖堂の身廊部分の中ほど正面祭壇に向かって左側に見られます。
このKanzel(説教壇)は、1510~1515年にかけて、Breitenbrunnner Kalksandstein・・・ブライテンブルンの石灰砂岩で作られています。
BreitenbrunnはオーストリアのNiederösterreichとBurgenland州の境に横たわるライタ山脈にある人口2000人弱の小さな街です。
この説教壇はずっとアントン・ピルグラムのものだとされていましたが、現在では彼のものではどうやらなかった・・・
ということになっています。
しかしピルグラムの作ではなかったとしても、これは中世末期の芸術的な大変貴重な物であることには変わりません。
よく見るとこれを作ったと思われる本人自らが、柱の下の所に窓から顔を出した状態で描写されています。
一番目立つ説教壇の上部には、4人の教会博士が登場しています。
アンブロジウス、ヒエロニムス、グレゴリウス、アウグスティヌスの4人です。
その4人を支えるかのように、花のように開いた部分があり、その中に支柱が床まである土台に来ています。
その支柱の内部には36cmのキリストの12使徒達が見られ、
その支柱を囲むように、4人の教会博士を支えている花びらから繋がった細めの柱が土台まで来ています。
その細い柱にはカトリックの様々な聖人達が24cmの像で見られます。
これはゴシック様式のとても貴重な素晴らしい説教壇で、細部に至るまで念入りに作られていることがわかります。
この説教壇がある場所は、大聖堂の有料見学ゾーンになりますが、是非時間をかけて観察して頂きたい、絶対に見逃すことができない芸術的大作です。
ヨーロッパ西側はキリスト教の発展や市民社会の確立などの影響もあり、様々な様式が
時代と共に存在し、それを現在私達の時代でも見ることができるわけです。
以前ユーロ紙幣のデザインをテーマにした時にも、ユーロ紙幣にもヨーロッパの主要な
建築様式が使われていることを紹介しました。
これらの様式は、建築、音楽、絵画、キリスト教、生活習慣、工芸品などなどあらゆる所に見られます。
絵画と言えばウィーンでは真っ先に美術史博物館が出て来ると思いますが、
ここは15世紀~18世紀の絵画史上とても重要な作品が目白押しです。
15世紀~18世紀といえば大きく分けてルネッサンスとバロックですね。
ルネッサンスの前のゴシックやその前のロマネスクでは、キリスト教の世界はとにかく神が中心であり、古代のギリシャ、ローマで培われた人間が主役である芸術が忘れ去られていました。芸術家という考え方はなく、絵を描く職人だったわけです。
しかし15世紀初頭フィレンツェから始まる、ルネッサンスは、古代復興であり、
人間が再び主役として登場し、絵画にも感情が吹き込まれ、遠近法なども確立されて、
ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった3大巨匠を雨生み出し、
絵画分野は飛躍的な発展を遂げることになります。
でもいきなりこの3大巨匠のような作品が登場したわけではありません。
絵画の世界では、イタリアのジョット(1266~1337)が絵画に最初に魂を吹き込んだと
されています。
フィレンツエのドゥオモの大ドームを手掛けたブルネレスキー(1377~1446)は遠近法の実験も行い、フィレンツェでヨーロッパ最古の捨て子養育院の建築にも携わります。
こちらは言わずと知れた
フィレンツェのドゥオモです。
高さ約115m,直径45mの八角形です。
1418年にブルネレスキーの案が採用されました。
こちらは捨て子養育院です。
やはりブルネレスキーで、
1419年のものです。
リズミカルなアーチ構造が印象的です。
絵画ではマザッチョ、彫刻ではドナテッロ、建築のブルネレスキーとルネッサンスの幕開けを告げたそれぞれの分野の巨匠達がいたわけです。
とりわけ、絵画ではパウロ・ウッチェロ(1397-1475)、
フラ・アンジェリコ(1387/1400-1455),マザッチョ(1401-1428/29),
フィリッポ・リッピ(1406-1469),ピエロ・デラ・フランチェスカ(1415/20-1492)
といった画家達が遠近法を駆使して素晴らしい作品を残しています。
ウィーンの美術史博物館には上述の画家達は見られませんが、同時期の画家の手による、
ゴシックからルネッサンスの移り変わりを見ることができるおもしろい祭壇画があります。
これは聖ヒエロニムスの祭壇で、Antonio Vivarini (1415~1486頃)によるものです。
ヴィヴァリーニはヴェネツィアムラーノで生まれ、マンテーニャやドナテッロと接触し、
空間の把握を学んだとされ、ゴシック様式の伝統をベースにした宗教画家で、
ヴェネツィア派の発展に貢献しました。
ヴェネツィアのシュテファノ聖堂のために1441年に描かれたもので、上下3枚ずつ
計6枚の聖人が描かれたヴェネツィア風スタイルになっています。
上の部分はギリシャ正教で見られるイコン画的要素で、当時すでに時代遅れだった
金箔が背景に使われ、空間が全く感じられません。
下の段の中央に描かれているのが聖ヒエロニムスです。
この下の段の3枚には、台上に聖人が載っていて、3次元空間表現を見ることが
できます。
さらに絵だけではなく、この祭壇の枠組みも観察すると、基本は高く伸びるゴシック様式
ですが、それぞれの絵の上部にはルネッサンスを予感するアーチ構造を見ることが
できます。
前述の捨て子養育院にも使われたルネッサンス時代のアーチは安定感、リズミカル、
古代のアーチとは違ったやわらかさを感じます。
ゴシック様式とルネッサンス様式の中間に位置するヴィヴァリーニのこの祭壇は
時代様式の移り変わりが見られるという点でおもしろい祭壇画です。
ウィーンは音楽の都ですから、これだけの作曲家が集まった街は他にないでしょう。
作曲家の住居、記念像などが至る所にあります。
以前もここでは音楽家に関することはよく話題にしています。
ベートーヴェンに関してはすでに「中央墓地」、「最後の住居」、「第9交響曲の家」などについて書きました。
今日は2つのベート―ヴェン記念像について書きたいと思います。
こちらはウィーン中心に近いBeethovenplatz
(ベートーヴェン広場)にある
有名な記念像です。
ウィーンに音楽に興味を持って
来られる方はたいてい見る記念像でしょうか。
この広場は、19世紀後半リンク道路が建設され、その両側には様々な建物が建てられていきます。
もともと城壁があった頃は、その城壁の外側はGracisと呼ばれた、敵からの見通しを良くするため何も建ててはいけない地域だったわけです。
リンク道路時代にその当時のGracisにリンク道路自体を始め、色々な建物が建てられる中、このベートーヴェン広場には何も建てられませんでした。
そこで文字通り広場となります。
この記念像はCaspar von Zumbush (カスパー・フォン・ツムブッシュ)というマリア・テレジア像やラデツキー将軍像なども手掛けた有名な彫刻家によるもので、1880年に序幕されています。
こちらはよく知られている散歩をしているベートーヴェンの記念像です。
このベートーヴェン像がある場所は、中心からかなり離れたハイリゲンシュタット公園にあります。
ここは、1781年にローマ時代からの鉱泉が発見され1875年まで使われていた、Heiligenstädter Bad (ハイリゲンシュテッター・バート)と呼ばれた療養所でした。
ベートーヴェンは、難聴の治療として当時の医師の勧めに従ってこの場所で療養をすることになります。
ここから歩いてすぐの所に、「ハイリゲンシュタットの遺書の家」というベートーヴェンが32歳に遺書を書いた有名な住居があります。
ここをウィーン市が1900年に現在に見られる公園にしました。
この記念像は、1910年 Robert Weigl (ロベルト・ヴァイグル)というオーストリアの彫刻家によって手がけらたものです。
手を後ろに組んで、ゆっくり歩くベートーヴェンが表されています。
彼の左ポケットに五線紙が入れてあります。
ベートーヴェンは自然を好み、散歩が日課のひとつでも
ありました。
自然の中に自分を置き、耳の回復を願い、同時に様々な曲の霊感を受けました。
この地域はベートーヴェンが特に好んだ地域で、彼が滞在した場所が多く残されています。
ベートーヴェンはドイツ人ですが、ウィーンにはモーツァルト以上に足跡を残しました。
2013年9月22日付で美術史博物館の天井画を紹介しました。
その美術史博物館の吹き抜け大階段ホールの天井画は見るものを圧倒します。
たいていここを訪れる方は、2階の絵画コーナーがメインですので、通常エレベーターを
使用しない限り、この大階段を上がって絵画コーナーに足を踏み入れます。
その時に天井にはその「ルネッサンス讃歌」が迎えてくれるわけです。
今日ここで紹介する天井画は、中2階にあるKunstkammer(クンストカンマー・・・芸術の小部屋)にある天井画です。
この写真は天井画全体がわかりやすいような向きで掲載しています。
この天井画は、Julius Victor Berger(ユリウス・ヴィクトーア・ベルガ―)が手掛けた、「ハプスブルグ家の芸術奨励者」です。
Julius Victor Berger は、1850年現在のチェコのモラビア地方Neutitscheinで生まれ、ウィーンで1902年に亡くなっています。
彼は14歳にしてウィーン美術アカデミーで学び、奨学金をもらい3年間ローマで修行しています。その後同じ画家仲間のEmil Jacob Schindler (エミール・ヤコブ・シンドラー)とその妻Anna(アンナ)と共同生活をします。
シンドラーが温泉療養中にベルガ―はアンナと深い関係になり、そこから子供が生まれます。
有名なアルマ・マーラー(作曲家マーラーの妻)との父親違いの姉妹です。
アルマ・マーラーの父親はエミール・ヤコブ・シンドラーです。
1881年にベルガ―は工芸美術学校の教授に、1887年からはアカデミーの教授になり、ハンス・マカルトとも親しい間柄でした。
この天井画はキャンバスに描かれ、当時の巨匠による肖像画をベースに、熱心な芸術家奨励者であったハプスブルグ家代々の皇帝達が登場しています。
中央の椅子に座っているのはマクシミリアン1世で、その私達から見て右側にアルブレヒト・デューラーが立っています。
左側の黒の服を着た人物が、カール5世、私達から見てその左の赤い服を着た人物がティツィアーノ、そこに座っている女性はカール5世の妻ポルトガルのイザベラです。
このKunstkammerは、長い改装が終わって2013年3月1日より一般公開されています。
美術史博物館に行った方は是非見て下さい!
ハプスブルグ家事実上最後の皇帝(実際は後ろから2番目)のフランツ・ヨーゼフ1世の
奥さんが、バイエルンのエリザベート(愛称「シシィ」)というのは有名ですね。
ウィーンは多くのエリザベートファンの方が訪れます。
街中には、彼女の一番知られた肖像画を使ったお土産、宣伝、お土産袋など至る所に見られます。
エリザベートの跡を辿ったり、記念像を見る方も多いわけですが、たいていの方はリンク沿いにあるVolksgarten(フォルクスガルテン・・・国民庭園)にある像を見に行かれるでしょう。
今回は意外と知られていない、ウィーン西駅構内にある
エリザベート像です。
この像はもともと昔の西駅にありました。
そもそもこの西駅は作られた当時、西駅ではなく、 „k.k. priv. Kaiserin-Elisabeth-Bahn“「宮廷エリザベート皇后鉄道」という名で、皇帝フランツ・ヨーゼフが1857年3月4日に工事許可を出し、その翌年の1858年ウィーン~リンツ間が開通しました。
そんな事情から、1860年有名な彫刻家ハンス・ガッサーによってこのエリザベート記念像が作られて、ここに置かれることになりました。
ハンス・ガッサーは1817年、オーストリアEisentratten(ケルンテン州)の出身です。
この像は大理石で作られ、エリザベートと同じ等身大です。
第2次世界大戦で西駅はかなりの被害を受け、1949年に取り壊されてしまいます。
その後、このエリザベート像はずっと国が管理する家具倉庫(Bundesmobiliendepot)
に置かれていたようで、1982年に新たに発見されて、
1985年から現在の西駅に再び
置かれています。
現在の西駅と書きましたが、その現在の西駅も最近駅ビルが追加されてかなり変わりました。1985年からはエリザベート像は日本で言う1階にありましたが、現在は2階に置かれています。
何かと話題性があるエリザベートですが、彼女は幼少時代、本当に子供らしい幼少時代を
過ごし、感覚も普通の人だったんでしょうね。
皇帝フランツ・ヨーゼフに一目惚れされ、結婚が決まってウィーンに嫁いでからは予想はしていたと思いますが、それを上回る環境変化だったわけです。
エリザベートに御興味あれば是非、王宮の「シシィ博物館」に行ってみて下さい。
ウィーンは様々な作曲家が足跡を残した街です。
一般的には、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウスなどの住居や記念像はお馴染みでしょうか。
でもこの街は「へぇ~、この人もウィーンにいたんだ~」という意外な作曲家の跡も
かなりたくさん残っています。
その中で、アントニオ・ヴィヴァルディもその一人でしょうか。
ヴィヴァルディは、1678年イタリアのベネツィアで生まれ、1741年このウィーンで亡くなった
バロックの作曲家です。
「四季」は彼の作品の中では、群を抜いて有名です。
ヴィヴァルディは、父からどうやらバイオリンの手ほどきを受けたようで、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂のオーケストラの一員でした。
また彼は教会付属学校で学んだこともあり、司教という聖職者でもあったわけです。
作曲活動も旺盛で、かなりの速さで楽譜を書いたことは知られています。
500を超える協奏曲や、50以上のオペラ、ソナタ、室内楽曲、宗教音楽など、幅広く手掛けています。
ウィーンに来たのは、彼が亡くなる一年前の、
1740年でした。
でもこの年は、マリア・テレジアの父で、ヴィヴァルディの理解者でもあった皇帝カール6世が亡くなり、予定していた演奏会も取りやめになり、彼は失意の中、体調を崩し、ヴェネツィアに帰ることなく、ケルントナートーア劇場の一角で63歳でこの世を去りました。
ケルントナートーア劇場は現在はなく、そこにはあの有名なホテルザッハーが建っています。そのホテルザッハーの壁には、この写真に見られるように
ヴィヴァルディの銘板を見ることができます。
1枚目の写真はヴィヴァルディの記念像です。この記念像は、2001年6月18日に序幕され、Gianni Aricoによって大理石で作られています。
3人の音楽家が表されています。
彫刻群の正面には、ヴィヴァルディ本人のレリーフがあり、裏側に行くと、ヴェネツィアとウィーンのシュテファン大聖堂が表されたレリーフを見ることができます。
ウィーンの街には何気ない所に実はとても重要な意味を持つものがたくさんあるんですね~。
このコーナーですでに何回か美術史博物館が話題に出て来ていますが、やっぱりここは何回来ても素晴らしい所です。
規模的にはそこまで大きくはありませんが、絵画の質が本当に高く、名画ばかりが並んでいます。
ウィーンに来てこの美術館を訪れる方はとても多いでしょう。
館内に入った瞬間そこは別世界です。
展示されている絵画の内容に相応しい内装になっています。
入るとすぐ正面に、大階段ホールが見られます。
その階段を数段上って行くと、
視界が急に開け、吹き抜けの
さらに素晴らしい空間が広がっています。
そのまま普通は階段を上がってしまい、その正面に置かれているアントニオ・カノーヴァーの彫刻に見とれてしまいます。
でも、この空間には色々な物が見られるんです。
例えばこちらは、ハプスブルグ家のワッペンです。
さらによく見ると、そのワッペンの上には、オーストリア帝国の帝冠をモデルにした装飾もありますね。これは堂々と階段の上に2つ置かれています。
この大階段ホールにはマカルトやクリムトの作品も見られますが、これはまたいつか紹介します。
そしてここの吹き抜け大階段ホールをさらに盛り上げてくれている天井の絵にも注目してみて下さい。
この絵はオーストリア・ハンガリー帝国時代の画家、ムンカーツィによるもので、
よくフレスコ画と思われがちですが、キャンバスに描かれているのです。
この絵は「ルネッサンス賛歌」という140m²の大作です。
ルネッサンス時代は、遠近法も確立され、絵を描く職人が芸術家になり、人間が主役として再び登場する、そんな時代に絵画は飛躍的な発展を遂げました。
この天井画には、ティツィアーノ、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ、ヴェロネーゼといったルネッサンス絵画の巨匠達が登場しているのです。
この大階段ホールだけでも十分見ごたえがありますが、あくまでも前奏曲です。
美術史博物館の絵画はさらにその先にあるのです。
こちらはウィーンを訪れれば、おそらく必ず見るであろうモーツァルト像です。
リンク道路に面した、王宮庭園に立っています。
ザルツブルクで生まれたモーツァルトですがそこにあるモーツァルト記念像よりもこちらウィーンの方が
有名です。
この像はヴィクトール・ティルグナーという有名な彫刻家によるもので、
19世紀終わりに作られました。
もともとこの像はオペラ座裏のアルベルティーナ広場に立てられていたのですが戦争で被害を受け、その後修復されて現在のように王宮庭園に新たに立てられました。
通常このような記念像は全体の写真を撮りたいため、ある程度距離を持って何気なく見る方がほとんどです。
でもこのような記念像は近くで見ると色々な発見があるんです。
この写真はモーツァルト像の
台座部分ですが、綺麗な浮彫レリーフが見られます。
これはモーツァルトのオペラのシーンです。
またその上を見ると、様々な楽器が乗せられているのがわかりますね。
しかももっとよく見ると、鍵盤がデザインされていることがわかります。
モーツァルトは当時「音楽」を表現する上で、可能な楽器(歌も含めて)を全て用いて様々な作品を書きました。
こちらはこの記念像の裏側です。ここには素晴らしいシーンを見ることができます。
モーツァルトが幼少の頃、父のレオポルドと姉のナンネルとの3人でのアンサンブルのシーンです。
この原型となっている有名な絵が存在しますがそれを浮彫彫刻で表現しています。
このように記念像を色々な角度から観察することによって、新しい発見をすることができますね。もちろん全ての記念像がそのように作られているとは言えません。
像によっては、本当に像だけ・・・なんていうのも多くあります。
でも美術史博物館と自然史博物館の間にあるマリア・テレジア像などもそうですが、重要な人物で、ある程度の大きさであればたいてい何か見つかります!
2013年8月19日付のブログで美術史博物館について少し書きました。
これだけの内容を誇る美術館は世界でもそう多くありません。
このウィーンの美術史博物館の絵が全て「名画」と言われるレベルの絵の中で、
私が特に好きなのはヴェネツィア派の名画群です。
画家で言えば、ジョバンニ・ベリーニ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、ティントレット、ヴェロネーゼなど、ヴェネツィアで活躍した画家達です。
時代ではルネッサンス~後期ルネッサンスにあたり、色彩の美しさや自然風景の調和などが特徴です。
これはヴェネツィア派の創始者とも言われる、ジョバンニ・ベリーニ
(1430頃~1516)の最晩年の作で
「化粧する若い婦人」です。
ベリーニはヴェネツィアという地方都市をフィレンツェ、ローマに次ぐルネッサンス中心地へと変貌させました。
義理の兄弟でやはり有名な画家マンテーニャの影響を大きく受けています。
この絵から、ジョルジョーネやティツィアーノの好みを予告しているようです。
色彩を人物と風景や、内部空間や外の風景に調和のとれた雰囲気を演出するために効果的に使っています。
こちらはティツィアーノ(1488~1576)の初期の作品「ジプシーのマドンンナ」です。
ティツィアーノはベリーニの下で学び、ヴェネツィア派最大の巨匠で、色彩の魔術師
・・・なんて
あだ名がついてるぐらいで、色がとても綺麗で鮮やかです。
マリアとイエスといったどこにでもあるテーマですが、三角形構図であり、宗教画と自然の風景が調和している特徴があります。
先に紹介したベリーニ同様、風景が効果的に使われています。
風景で使われている色が、画面の別の場所でも同様の色が使われています。
ヴェネツィアの街は私も好きな街のひとつで、とても魅力的な街ですが、
「自然」と言えば海しかないわけです。
そのためヴェネツィアで活躍する芸術家達は、自然に対するあこがれが強く、
このように風景を画面に盛り込ませる・・・という手法が生まれました。
ウィーンの美術史博物館は、ここ最近ヴェネツィア派のコーナーを設け、ベリーニ、ティツィアーノ、ジョルジョーネ、パルマ・ヴェッキオの作品を並べて模様替えを行いました。
ウィーンはヨーロッパ文化が凝縮した街・・・と私はよく表現していますが、建築、音楽、絵画、キリスト教、
歴史・・・ありとあらゆる分野を楽しむことができます。
その「絵画」の中でウィーンは7つの大きな美術館がある中で、真っ先に訪れたい美術史博物館があります。
正式にはKunsthistorisches Museum (地元ではKHMとも略して呼ばれています)...
直訳すれば芸術史博物館です。
ここは絵画の他に工芸品などのコレクションもとても充実しているので
芸術史博物館という名称になっています。
でもあまりにもここの絵画コーナーが有名なので、一般的に美術史博物館とか
美術史美術館、または単純に美術館などと呼ばれています。
ウィーンのリンク道路時代の重要な建築のひとつとして、ゴットフリート・セムパーと
カール・フォン・ハーゼンナウワーによって初めから美術館を意図として作られ、1891年一般公開されています。つまり昔からあった宮殿を使って、何とか美術館にしているわけではありません。例えばフィレンツェのウフィツ美術館はメディチ家のオフィスがあったので、オフィス・・・ウフィツ美術館といいますがそういう形ではありません。
基本はハプスブルグ家のコレクションですが、ここは15世紀~18世紀の期間の作品しかありません。ハプスブルグ家は完成品にしか興味がなかったので、中途半端な未熟的な作品は目もくれませんでした。
この美術館はいい意味でとてもかたよった美術館ですが、しかし逆から見れば
これだけ充実した美術館はヨーロッパにはありません。
よくヨーロッパ3大美術館と言われますが、もちろんルーヴルのような大きさはありませんが、集められている作品の内容がとても素晴らしいのです。
観光ポイントとしてもとても人気があり、多い時には週4回ぐらい、
1日で午前、午後と2回行くこともめずらしくありません。
これは美術史博物に見られるラファエロの有名な「草原の聖母」です。
30歳年上のダ・ヴィンチの影響を受けた、完璧な美しさと安定した3角形構図・・・
見てるだけで心が落ち着きます。
マリア、イエス、ヨハネ・・・昔からある3大キリスト教主人公です。
ダ・ヴィンチのモナリザの背景と同様の色彩遠近法(空気遠近法)が用いられています。
キリスト教宗教画は私達日本ではあまり縁がないかもしれませんが、キリスト教は
とても重要です。キリスト教はひとつの学問です。キリスト教の世界が見えてくると
ヨーロッパはもっとおもしろく見えてきます。
絵画などはまさにその典型的な例でしょうか。
ここの美術館の絵画だけを紹介しても時間がいくらあっても足りません。
また時間を見つけて御紹介致しますね。
この美術史美術館に見られる主な作品はティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ、ジョルジョーネ、ジョバンニ・ベリーニといったヴェネツィア派の巨匠達、
パルミジャニーノ、パルマ・ヴェッキオ、ブロンツィーノ、カラヴァッチョ、ラファエロ、カナレット、ベラスケス、ムリーリョ、ブリューゲル、ルーベンス、ヴァン・ダイク、
メムリンク、レンブラント、フェルメール、ファン・エイク、ボッシュ、デューラー、
クラナッハ、ホルバイン、アルトドルファー・・・挙げるときりがない大変な顔ぶれです。
これだけ内容の濃い美術館は他にありません。
つまり、中途半端な作品がないのです。
あえて言えばフランス、イギリスものやルネッサンス全盛期は少ないですが、
絵画史の中での重要所を抑えています。
絵画が好きな方はまる一日いても足りません。
絵画に興味がない方も是非見て頂きたい美術館です。