ウィーンは音楽の都ですから、有名な音楽家が数多く住みました。
ウィーンに跡を残した作曲家と言えば、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、
ハイドン、ブラームス、ヨハン・シュトラウス等がすぐ浮かんできますが、
それ以外の音楽家でちょっと意外的なフランツ・リストもこのウィーンにはよく
住んでいました。
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リストはハンガリーの作曲家であることで有名ですが、生まれは
1811年10月22日に
このオーストリアBurgenland州のライディングです。
ここは当時ハンガリー王国でしたが
当時のKaisertum Österreich
(オーストリア帝国)の支配下の半ば
形式的な独立国だったわけです。
リストの父はアダム・リストで、
やはりこのBurgenland州で生まれ、ハンガリーの大貴族エスターハーズィー家で
働いていました。
リストの母マリア・アンナは、オーストリアのクレムス出身です。
父のアダムは夏のエスターハーズィ家オーケストラでチェロを弾き、
ハイドンやフンメルが運営する別の楽団でも弾いていました。
マリア・アンナは彼にとっては2回目の奥さんです。
そんな環境からリストはハンガリー語は習得しなかったと言われ、彼の文化圏は
オーストリアと言っても過言ではありません。
母国語はドイツ語であり、(1820年ぐらいからフランス語も学ぶ)
ライディングはオーストリアの国境に近いわけで、
現在でもそうですが国境界隈はたいてい2か国語が話されているわけです。
1870年代になってリストはやっとハンガリー語を学ぼうとしたらしいです。
神童ぶりは早くから表れ、7歳で誰にも習わずに楽譜を書け、9歳ですでにコンサートで
人前に立っています。
父アダムはそんな息子の才能を見て、まるでモーツァルトの父レオポルドのように熱心な
音楽教育者となり、1822年にウィーンにやって来ました。
リストが11歳の時です。
その時カール・ツェルニーやアントニオ・サリエリの下で学んでいます。
1823年にはベートーヴェンからも賞賛されています。
父が亡くなった後、15歳ですでにピアノ教師として家計をささえました。
リストは当時アイドル的なピアニストでもあり、たくさんの女性が彼の生涯には登場しますが、特にマリー・ダグー伯爵夫人と恋愛関係になり、3人の子供が生まれますが、その1人がハンス・フォン・ビューローの、また後にリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマです。
長くなってしまいましたが、この写真はウィーンでリストが住んでいたということを示す
記念プレートです。
この記念プレートには、この家にフランツ・リストは住みました。
1869年から1886年まで彼は頻繁にウィーンに滞在しました。
ブダペスト市からの寄贈・・・と書かれています。
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このリストの記念プレートがある場所は、美しい広場のひとつFreyung
(フライウング)にある
ショッテン修道会の中庭です。
この写真はフライウングを
ショッテン教会に向かって撮影したもので、ここからは中庭を見ることができません。
ここの中庭はかなり広く、自由に通り抜けができますので、この辺を歩かれたらちょっと
寄り道して見て下さい。
この写真側の方から中庭に入ると、かなり奥の壁のちょっと高い所に掲げられています。