もう何回も書いていますが、ウィーンの美術史博物館は15世紀~18世紀の絵画史上重要な
作品だけが集められており、その素晴らしい美術品を展示することを目的として、つまり
当初から"美術館"を意図としてリンク道路沿いに新たに作られた建物ですから、内部空間もその美術品に相応しく、とても贅沢な空間になっています。
その美術史博物館からティツィアーノの知られた肖像画を1枚見たいと思います。
ティツィアーノはヴェネツィア派最大の巨匠と言われ、1488年にヴェネツィア共和国の
ピエーヴィ・ディ・カドーレで生まれたとされいますが、正確な年代はわかっていないようです。10歳~12歳ぐらいの時に画家の弟子になるためヴェネツィアに送られたようです。
ヴェネツィア派の創始者とも言われるジョバンニ・ベリーニの工房で修行し、そこで
ジョルジョーネとも出会い、彼の未完成の作品をティツィアーノが完成させていく過程で
独自のスタイルを身につけていきました。
ベリーニが1516年、ジョルジョーネが1510年の亡くなってからはその後60年間は
ヴェネツィア派最大の巨匠であり続け、ハプスブルグ家のカール5世やその後の
フィリップ2世からの庇護も受けてハプスブルグ家の宮廷画家としても数々の作品を残しまし、1576年のヴェネツィアで亡くなっています。
こちらはそのティツィアーノの
"ヴィオランテの肖像"は
1515年~1518年に描かれ、
美人画と呼ばれる16世紀前半のヴェネツィア絵画の特徴を見ることができます。
Violante・・・ヴィオランテは
イタリア語のviola、ドイツ語の
Veilchen(すみれ)から由来した名前で、この絵の彼女にとっての左の胸元にすみれの花が見られます。
彼女が身に着けているデコルテは
ローブ・デコルテでも知られる
首元や胸元を露にしたドレスで、
ティツィアーノはそこに意識的に
青、赤、黄色を使っています。
実はその3色が微妙に彼女が
つけているすみれに使われています。
大胆な色使いに対し、金髪の細かいタッチや美しい肌の描写も見事で当時の理想の女性像を
表しています。この女性は高級娼婦と言われていますが、そんな人物に理想の美しさを
見出しているおもしろさがあります。
この時代はこのような美しい女性の肖像画がたくさん描かれていました。
ティツィアーノは後の巨匠ルーベンスやベラスケスにも大きな影響を与えました。
"森の都"とも形容されるウィーンの街は緑が多いことで知られていますが、その緑を囲むもっと広大な緑がウィーンの森です。
ウィーンの森には重要な見所が多く点在していますが、"悲劇のマイヤーリンク"として
知られるマイヤーリンクは、ルドルフ皇太子の一番のお気に入りの場所であり、彼が狩猟の館として入手していました。
その場所で1889年1月30日、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とピストル心中自殺をして
しまう・・・というドラマが起きることになるわけです。
息子が自殺した後、父親のフランツ・ヨーゼフ1世が、皇太子が自殺をしたと言われる場所を中心に取り壊し、礼拝堂を作らせました。その礼拝堂は今もひっそりと立っています。
そのマイヤーリンクが改装がやっと終わって、去年2014年10月9日からリニューアルされてオープンしました。
(改装中も礼拝堂の見学はできました)
今日が1月30日ということで、悲劇のマイヤーリンクを思い浮かべてしまいましたので、ここを話題にしたいと思います。
以前のように直接礼拝堂に行くわけではなく、新しく作られた駐車場の前に左の写真に見られる新しく建てられたインフォセンターのようなものがあり、そこで入場料を払って見学が始まります。見学はもうこのインフォセンターから始まっていて、当時の資料や、かつて、上の礼拝堂の横の建物に展示されていた写真などが今はここに移されています。
そのインフォセンターを抜けていよいよ上にある礼拝堂へ向かって歩いて行きます。
ちなみにこのインフォセンターを出るとすぐ左側に無料で使えるトイレが設置されました。
以前ここにはトイレがなかったので、そういう意味ではとてもありがたいです。
綺麗に整備された道を礼拝堂に向かって上って行きます。礼拝堂の扉は閉まってますが、鍵はかかってないので勝手に扉を開けて中に入ります。
礼拝堂内は以前とほとんど変わりませんが、左側の空間を仕切るガラスが外されて、エリザベートの祭壇などは直接見られるようになっています。
以前同様主祭壇に向かって右側から隣の建物に通じていて、そこは左上の写真に見られるように、以前の展示品とは大きく異なり、皇太子の親しい御者のブラート・フィッシュや
執事のロシェックの写真などが目立ち、皇太子がここを当時所有した時のこの土地のモデル
が置かれています。
またマリー・ヴェッツェラと皇太子の間を取り持ったラリッシュ婦人の写真や、
皇太子の写真などが多く展示されています。
その奥に行くと、右上の写真に見られるように、真ん中のガラスケースには、皇太子が自殺した時に使用した同じモデルのピストルが展示され、その中には、狩猟の館時代に皇太子の自殺した2階の寝室に敷かれていたオリジナルじゅうたんが展示されています。
そこを出て、一番奥まで行った空間にはマリーの柩や、興味深い資料が展示されています。
出口は基本的に最後空間の手前右側(ここは以前の出口)から出るようになってますが、礼拝堂に戻ってそこから出ても問題ありません。
以前と比べると展示品は充実し、この事件についてより深く知ることができます。
ウィーンの市庁舎のそばにひっそりと立っている像に気付く人は果たしてどのくらいいるでしょうか?
市庁舎はフランドル風ゴシック様式でとても立派な建物ですし、その市庁舎前広場では
年間を通して様々なイヴェントが行われています。
クリスマス市やスケートリンクなどは毎年地元でも楽しみにしているイヴェントです。
その市庁舎のすぐ脇のアーケードの一角にこの像があります。
この像は"Wehrmann in Eisen"で
鉄でできた防衛男なんて直訳を勝手に
してますが、兵士の様ですね。
もともとこの像は1915年3月6日に
Scwarzenberg広場に置かれ、
第一次大戦で亡くなった兵士の妻や
子供達を救済する目的でした。
よく見ると鉄で兵士ができているわけではなく、釘が打ち込まれていることがわかります。
この兵士自体は菩提樹の木で作られています。
この像は1919年まで、Schwarzenberg広場に置かれ、
その後倉庫に置かれ、1934年5月、
王宮にあるBurgtorが第一次大戦で
亡くなった兵士達の英雄記念となったことがきっかけで、再び
Schwarzenberg広場に置かれて以前同様寄付の運動があり、その年9月にはそれも終わって現在の場所に移されました。
上の写真は兵士の足元です。無数の釘が打ちつけられていることがわかりますね。
釘の数は50万本と言われています。
前述したように第一次大戦で亡くなった兵士の妻や子供達を救済する目的で義援金を出した
人々がこの像に釘を打ち込むことができ、名前を芳名録に書いてもらえました。
このような像は当時オーストリアには結構あったらしいですが、このウィーンのSchwarzenberg広場に置かれた像が最大だったということです。
釘を打ち込むということでは、以前もここで話題にしたケルントナー通りの終わりにある
Stock im Eisen(シュトック・イム・アイゼン)を思い出させます。
オーストリアはハプスブルグ家がほぼカトリックを守ってきたので、現在でも国内では
ローマカトリックが圧倒的な割合を持っています。
ローマカトリックはキリスト教の中では最もボリュームがある宗派です。
キリスト教はヨーロッパ文化を見る上では非常に重要で、キリスト教に少しでも精通するとヨーロッパの街はよりおもしろく見えてきます。
カトリックには様々な聖人が登場し、イエスキリストや聖母マリアを盛り上げています。
その聖人の中でこちらの4大女性守護聖人のひとりに入る人気のある聖人バルバラ・・・
St.Barbaraについてちょっと触れてみます。
バルバラは伝説によると3世紀の終わり、小アジア(現在のトルコ)のニコメディアに生きていたとされ、
バルバラは若いキリスト教徒達を訪問し、迫害時代にもかかわらずひそかに知り合いになり、自分もクリスチャンになろうと思ったようです。
非キリスト教徒の父が、この美しい娘を外の男たちから遠ざけるために塔を建設し、そこに彼女を閉じ込めてしまいました。
実際はキリスト教迫害時代だったので、絶望した父が娘をキリスト教から遠ざけるために閉じ込めた・・・
ともされています。
父が拷問などをしてキリスト教信仰を変えさせようとしますが、彼女の意思はますます強くなり、また、バルバラが塔に3つ目の窓を取りつけさせたことで、(三位一体)父が激怒し、娘を殺そうとします。
その時奇跡的に岩が2つの裂けてバルバラは逃げることができました。
バルバラの居場所は羊飼いによって密告されますが、その羊飼いは神から石に(別の伝説ではコガネムシ)、羊はイナゴに変えられてしまいます。
娘を発見した父は、彼女を殴り、ローマ総督に連れて行き死刑の判決を受けます。
その後拷問などを受けますが、その夜キリストが現れ、彼女の傷を癒します。
さらに腹を立てた総督は、公衆の前で彼女を棍棒で殴り、胸を引き裂き、松明で拷問します。死の直前に彼女は祈り、天使が現れ、彼女を雪のような白い衣で包みました。
最後は残酷な父が娘の首を自らはねることになります。
その後すぐに父は雷に打たれて死ぬことになるわけです。
そこでバルバラの絵や像などには
塔や剣がよく描写されるわけです。
バルバラの日は12月4日で、彼女は
14救護聖人の1人に数えられ、様々な分野からの守護聖人として崇められています。
救護聖人とは危急の際に名前を呼んだらそのピンチを救ってくれるという聖人です。
その中のひとつに鉱山で働く工夫さん達の安全を守る守護聖人でもあるわけです。
そこでウィーンの森にある有名な地底湖"ゼーグロッテ"にはバルバラ礼拝堂があり、
当時の石膏鉱山時代から今でもこの鉱山の安全を守っています。
今日は1月27日です。
一昨日25日の夜に雪が降り、昨日26日は比較的いい天気でしたが、昨日の夜に雪が降り、
その雪がまだ降り続いていて、今日の朝は雪景色のウィーンの街です。
別の内容に触れるはずでしたが、今日の日付はモーツァルトの誕生日であることを意識したのでモーツァルトの内容にしたいと思います。
モーツァルトに関してこのコーナーではモーツァルトのお墓、魔笛の小屋、最後の住居、パパゲーノの門、最後のお別れの場所などについて書いていますのでそちらも参照して下さい。
ウィーンの街でモーツァルトの足跡を辿るとなるとそれなりの時間がかかります。
中心部だけでも18箇所モーツァルトが住んだ場所が確認されています。
しかし、博物館としてはモーツァルトハウス ウィーンの1箇所しかありません。
このモーツァルトハウスウィーンはDomgasse 5番地にあり、シュテファン大聖堂のすぐ近くに位置しているとは思えない閑静な地域です。
御存知の方も多いと思いますが、ここは2004年の終わりまで"フィガロハウス"として知られ、モーツァルトが有名なオペラ「フィガロの結婚」を書いたことからその名が付けられました。
フィガロハウス時代は、モーツァルトが住んだ、日本でいう2階の部分だけが博物館として公開されていて、写真撮影も可能でした。
(現在は残念ながら写真撮影禁止となっています)
2005年まるまる1年かけて大改装が行われ、2006年の1月27日のモーツァルト生誕250周年のまさに彼の誕生にのその日に話題性たっぷりにリニューアルされてオープンしました。
その当日は私も仕事でモーツァルトツアーというテーマで、モーツァルトハウスに行きましたが、整理券制度であり、入場制限があったことを今でも覚えています。
現在ではそんなことはありませんから、混んでなければすぐに入れます。
フィガロハウス時代と違い、3階、4階も博物館となり、展示スペースが大きく広げられました。見学する時にはエレベーターで4階まで行き、そこから下へ降りてくるという順路となっています。
4階はモーツァルトのウィーン時代背景が、3階はモーツァルトの音楽的世界について、そして2階がモーツァルトの住居ということになっています。
この建物は本来2階建てだったようで、1716年に増築されて現在の姿になっています。
モーツァルト一家は、1784年9月29日にここに入居し、1787年4月23日に引き払っていますので、2年と約7か月住んだことになります。
モーツァルトが生涯を通じて、一番充実した時期であり、部屋が4つ、小さな部屋が2つ,台所、寝室があり、モーツァルトの時代には人気のある高級住宅であったようです。
モーツァルト没後150周年記念の1941年にウィーン市の管轄に入り、フィガロハウスとして公開されるようになりました。
モーツァルトファンの方にとっては是非見学したい場所です。
最後にオープン時間です。
毎日10:00~19:00 最終入場 18:30
ウィーンの街を何気なく散歩をしていると意外な物が意外な場所に見られることがよく
あります。
だいぶ前にこのコーナーでも登場したキックボード専用置き場なんかはいい例です。
今回もそんなような物について紹介します。
こちらは普通の公園に何気なく置かれていた物で、遠くからこれを見て何だろうと最初は思いました。
これはフィットネスセンターなどに置かれているトレーニングをするためのものです。
誰でも入れる公園の中に、
お金もかからず誰でも自由にトレーニングをすることができるわけです。
公園と言えば、ベンチとか子供の遊び場などが多く設置されているわけですが、
フィットネスマシーンが置かれている公園は見たことがありませんでした。
これはFree Gymという2011年に設立された会社が提供しているもので、フィットネスマシーンに不安がある方や、フィットネスセンターのような閉じ込められた場所で体を動かす気分になれない方、全くコストがかからずにトレーニングをしたい方などの気持ちを考えたコンセプトです。
ウィーンの街中だけでも現時点で12カ所の公園に設置されていますが、残念ながら中心から簡単に行ける公園にはありません。
写真はAuer Welsbach公園に置かれているものです。
"fitness im freien" (屋外でのフィットネス)を掲げたこの案内表示には一般的なな注意事項が書かれています。
健康に問題のない方14歳以上が対象となっていて、一般的にトレーニングを始める前には
医師の助言を受けることをお勧めします・・・
心臓に問題があったり、血圧が高い方は禁止・・・
トレーニング中に心地よさを感じることが大事で、以上を感じたらすぐやめること・・・
トレーニング前にはからっだを温めること・・・
などといった内容です。
観光で疲れたら、公園でトレーニングをしてリフレッシュ!?
"ヨーロッパから見た日本という国"というタイトルで、日本を外から客観的に見ているわけですが、グローバルで見た場合はやはり日本がいい意味でも、また悪い意味でも特殊な国であり・・・逆に言えば独自の国、独特の国であることがわかります。
ヨーロッパから見た日本という国 1では日本語という言葉をテーマに,
ヨーロッパから見た日本という国 2では永世中立について書いていますので是非御覧
下さい。
毎回断り書きをしていますが、この内容はあくまで私個人が、この伝統的な混合民族から成り立っていたかつての帝国の都ウィーンに20年以上住んでいて、そのウィーンを首都とする私が大好きなこのオーストリアを中心とした、ヨーロッパの様々な国の諸事情や、日常生活の中で色々な人々と接触し、そこから得た経験などをベースに書いています。
決して日本を批判したりとか、否定しているわけではありませんので、誤解のないように
お願い致します。
日本の様々な地域からウィーンにいらっしゃるお客様と年間を通して様々な話をしていると
まだまだ義理と人情、相手の立場になって考える、感謝の気持ち・・・日本的な部分を、
最近の日本は私が過ごしてきた当時の日本とはかなり変わってきているとはいえ、まだまだ
感じることができます。
逆に相手のことを考えることから、ハッキリ断ることができない・・・という状況も多く
見ることができます。
例えばレストランで食事をしている時、最初に頼んだ飲み物を全部飲んでしまって、
空のグラスがテーブルに立っているような時、ボーイさんやウェイトレスさんは、もう一杯いかがですか?・・・とビールやワインの時には習慣からよく聞いてきます。
ソフトドリンクの時も、何か飲まれますか?・・・とよく聞かれます。
そのような時に、すぐ、はい、お願いします、とか逆にいいえ、結構です・・・と
ハッキリ答えることに、ついつい躊躇していまうことがよくあるようです。
このようなちょっと曖昧なリアクションから、これをボーイさんがもう1杯と思って、
2杯目を持って来るケースはよくあります。
え~、2杯目はいらなかったのに・・・なんて光景は今までよくありました。
つまり、ダイレクトに断ると相手に不快な感情を与えてしまうかもしれない・・・という
日本人であれば理解できることが、こちらでは逆に誤解を招く結果となることがあります。
日本人的なメンタリティーと言えばそれまでかもしれませんが、ひとつには外国語を
話さなければいけない・・・というコンプレックス的な無意識な考え方があるかもしれませんね。
曖昧な表現というのはこちらではあまり通用しません。
"はい" か "いいえ" かということはハッキリ言った方がいいでしょう。
話が飛躍していまいますが、その辺が外交的にもよく出ていると思います。
具体的に言ってしまえば、アメリカにそこまで気を使う必要はないはずですし、
もっと日本としてのプライドを持ち、いい意味で外交的にずうずうしく振る舞うことがなぜ
できないのだろう・・・とよく思います。
最近は雪が降っていませんが、去年の冬と比べるとウィーンの今年の冬はクリスマスの後からかなり多くの雪が降っています。
通常、東京に降る雪とは比べ物にならない、肉眼で雪の結晶が十分見られる質のいい雪が降ってきます。
雪が積もると、街中の雰囲気がガラッと変わりますね。
気温がマイナスだど雪も解けないので、やがて氷のようになって残ります。
そんな時に天気がよくなり青空が広がると、普段見慣れている建物も美しく見えますね。
今日は青空と雪化粧のシェーンブルン宮殿と庭園を紹介します。
仕事がらシェーンブルン宮殿は1日に2回行くこともしょっちゅうですが、この時の青空と
雪、そして宮殿の黄色のコントラストはとても素敵でした。
雪も太陽の光を反射しますから、宮殿が光って見えます。
これは宮殿後ろ側から撮影しています。
こちらはシェーンブルン宮殿のシンボル的なグロリエッテに向かっての眺めです。
幾何学模様の庭園は雪のせいでほとんど隠れてますが、青空の中の雲と太陽の光が
この広い雪景色の庭園に素晴らしい演出を提供しています。
ちなみに私がこのホームページにアップしている画像は、利用規約にも書かせて頂いている通り、全て私がその場所で撮影しています。画像のリサイズ以外は一切加工していません。
もっともそこまでのこだわりもなく、時間もないのですが・・・。
天気がいいと冬でも外で散歩したくなるウィーンの街です。
前回のアーチの奥に見える風景5では、メルク修道院界隈の風情あるアーチの小路に触れましたが、今回第6弾もメルクの街です。
今回は中世の雰囲気がある街の小路に、フライングバットレス的なアーチがいくつもかかっている光景です。
石畳の小路にかかったアーチがいくつも見え、その奥に路が延びています。
左の写真をよく見ると、アーチとアーチの隙間にメルクの修道院がチラッと見えています。
アーチの形を見ると、手前は三角ですが、奥は孤のように滑らかになっています。
右の写真は大きめの通りからちょっとそれた静かな脇道的な小路で、ちょっと奥まで歩いて行きたくなるような雰囲気です。
小路の右下入り口には古い街によくあるPrellstein(プレルシュタイン・・・縁石)が見られます。
アーチの奥には建物のアーチ構造も見ることができますね。
このメルクの街はハプスブルグ家の前の王朝であるバーベンベルク王朝(976~1246)の
最初の居城が置かれた街ですし、さらにローマ時代からちょっとした集落も存在し、
とても歴史ある街です。
ちょっと静かな裏側に気付けば、このような中世的空間を見ることができます。
音楽の都であるウィーンの街では、至る所で演奏会が楽しめます。
国立オペラ座、楽友協会、コンツェルトハウス、国民歌劇場といったオペラや演奏会が毎日のように楽しめる重要なホールを始め、様々な教会音楽や観光向けの宮殿コンサートまで
バリエーションが多彩です。時として、音大生の発表会的なローカルな演奏会や、卒業演奏会などにも出会えます。
"音響"ということで世界的に有名な楽友協会ホールはここ数年多くの方がガイドツアーにも
参加するようになり、せめてホールだけにでも入ってみたいという方が多くなりました。
このコーナーでも"ウィーン楽友協会ホール", "楽友協会地下にある4つのホール",
"楽友協会ホールのパイプオルガン", "楽友協会ホールの女像柱"などについていくつか取り上げています。
今回は小ホールであるブラームスザールについて少し書きたいと思います。
楽友協会自体は1812年に、当時演奏会がまだまだ一般に普及していなかったため、より多くの演奏会を一般に提供しようという目的、専門的な音学家教育機関、
そして重要な資料を管理する目的を持って設立されました。
当初はTuchlaubenという今とは違う場所にありましたが、1870年のリンク道路沿いの建築ラッシュ時代に、この現在の場所に新しく移り、
テオフィル・ハンセンという有名な建築家によってこの建物が作られました。
そこにはいわゆる黄金の間と言われる大ホールとこの小ホールも作られました。
当初は小ホールと呼ばれていたこのホールでブラームスの提唱によりクララ・シューマンが最初のコンサートを行いました。
当初は舞台は真ん中にあったため、2階席が1階を囲むように作られています。
後に音響上の理由から舞台が正面奥に移されることになります。
ホールの建築様式はギリシャ=ルネッサンスという様式で細長く作られています。
黄金の間にも見られるカリアチュード(女像柱)、イオニア式の柱、ギリシャ神殿風切妻などを見ることができます。
1937年のこの楽友協会創立125周年記念の年に、Brahms Saal (ブラームスザール)と名前に変えられました。
ブラームス自身、ここで多くの初演を行い、またここでも仕事をしていました。
このホールの座席数は約600、長さ32.50m、幅10.30m、高さ11mです。
大ホールの黄金の間と比較すると結構おもしろいですね。
最近Holiday Check.de が "オーストリアではどのホテルが一番評判がいいか"という統計が発表され、今回で10回目となりました。
オーストリアのそれぞれの州のランクインしたホテルを見てみたいと思います。
Hotel Sans Souci, Das Capri, Boutiquehotel Stadthalle,
Steigenberger Hotel Herrenhof
Hotel Sole-Felsen-Bad, Hotel Therme Laa an der Thaya,
La Pura Women's Health Resort, Linsberg Asia Hotel & Spa
Villa Seilern Vitalresort & Spa, Hotel zum Dorfwirt, Hotel
Gugerbauer,
Hotel Guglwald
Hotel Ritzenhof, Hotel Nesslerhof, Hotel Schneider, Familotel
Seitenalm
Hotel Martin, Thermenhotel Stoiser, Hotel Schwaigerhof,
Schlössl Hotel Kindl
Hotel Die Post, Almwellness Tuffbad, Feuerberg Mountain Resort,
Hotel SeeRose
Hotel Pachmair, Wellnesshotel Engel, Alpin Spa Tuxerhof,
Vitalhotel Edelweiss
Sonne Lifestyle Resort, Ferienhotel Fernblick, Hotel Krone in Au,
Gästehaus Büchele
Reiters Supremehotel, Reiters Finest Familyhotel, Hotel Sonnenpark,
Pension Apfelhof
オーストリアそれぞれの州から4つのホテルを紹介しています。
こちら2015年Award http://www.holidaycheck.de
で見ることができます。
日本からの一般的なツアーなどではまず含まれていない、オーストリアの地元の方々や
ヨーロッパの他の国々の方々が休暇として、つまり滞在型としてこのオーストリアで過ごす
時の評判がいい人気ホテルがランクされています。
クリスマスが過ぎてからお正月にかけてウィーンは寒くなりましたが、その後日中は+17℃という日もありましたが、ここんとこ7℃前後という日が続いています。
冬の時期ですが、今日は久しぶりに花をテーマにしてみたいと思います。
冬のこの時期でもたくさん咲いていたこの小さな黄色い花です。
ドイツ語ではWinterling
(ヴィンターリング)、
学名でEranthis hyemalis、
日本語ではおそらく
キバナセツブンソウです。
キンポウゲ科セツブンソウ属です。
多年草で、高さ5cm~15cmぐらいです。上の写真に見られるマロニエの実が偶然ここに
落ちていたのでの大きさを想像することができます。
開花時期は2月~3月です。
たいていの場合花が出た後に、5~7つの部分に分かれた、花を円形に囲むような形で
葉が出て来ます。
花は濃い黄色でつやがあり、2cm~4cmぐらいの幅で、花が開く前はコップのような形をしています。
形は違いますが同じキンポウゲ科のヒメリュウキンカのようなつやのある花です。
原産は南東ヨーロッパで、
茂みや森などに多く見られます。
キバナセツブンソウは16世紀後半
にはすでに薬草の本に登場しています。
このキバナセツブンソウは、
1月14日の昼頃、ベルヴェデーレ宮殿の隣にある植物庭園で撮影したものです。
ここ以外でも自然が見られる茂みなどに咲いています。
ウィーン3大名物料理と言えば、ウィンナーシュニッツェル、ターフェルシュピッツ、
そしてZwieberlrostbraten (ツヴィーベルローストブラーテン)でしょうか。
このZwieberlrostbratenもウィーン料理の定番ですが、ウィンナ―シュニッツェルや
ターフェルシュピッツと比べるとお勧め度がウィーン名物料理の中では3番目になってしまいますので、このコーナーの登場も知らない間に今頃になってしまいました。
Zwiebelrostbraten(ツヴィーベルローストブラーテン)は、Zwiebel (玉ねぎ) と Rostbraten (ローストビーフを焼いたもの)ということで、言ってみればウィーン風
ビーフステーキです。
塩、胡椒で下味をつけ、外側に切り込みを入れ、マスタードやニンニクをすり込んだ小麦粉をつけてスライスしたローストビーフをちょっとだけ焼いて、その後同じフライパンで炒めたパリパリの玉ねぎをローストビーフの上にのせ、ワインなどを入れて作った特製ソースが
かけられて提供されます。場所によっては玉ねぎは最後にのせられることもあり、ソースと
最初は混ざってない場合もあります。
上の写真は玉ねぎが最後にのせられています。
たいていこんがりジャガイモがいっしょにつきます。
ウィンナ―シュニッツェルは基本的ににどこで食べてもそこまで味の違いはありませんが、
Zwieberlrostbratenは店によって結構違いがあると思います。
ステーキと言っても肉は厚くありません。
ウィーンに来られたらこれも是非お試し下さい!
ウィーンで最も美しい歩行者天国のグラーベンをシュテファン大聖堂側から歩いて行くと有名なペスト記念柱がを見ることになりますが、そのまま少し行った右側の引っ込んだ所にバロック様式のペーター教会(Peterskirche)が2本の塔を見せて立っています。
ウィーンには数多くの教会がありますが、今日はこの教会について少しまとめてみます。
ペーター教会はウィーンで最も古い教会です。たいていのガイドブックでは"ウィーンで2番目に古い教会"と書かれていますが、この教会の最初は4世紀となっているため、ウィーンでは歴史的に見て一番古い教会です。
この場所はグラーベンの北側、つまりローマ時代ヴィンドボナの一角にあたるわけです。
外観は18世紀初頭のバロック様式ですから、容姿から見た場合はウィーンで2番目に古いと言えるでしょうか。
この教会は4世紀の後半に、ヴィンドボナ時代のKaserne(兵舎とか長屋のようなもの)をバシリカ風の教会に改築したことから始まったようです。
その後の歴史の中でカール大帝が792年にここに教会を作らせたという説もあります。
最初の記録では1137年に聖人ペトロ(ペトゥルス、ドイツ語でペーター)に捧げられたということが確認できます。
その後ロマネスク様式やゴシック様式に改築されたりしていますが、12世紀の終わりにショッテン修道会の管轄に入り、1661年には火災により焼失しました。
その後、皇帝レオポルド1世の提唱により新しい教会にすることが決まり、ベルヴェデーレ宮殿を手掛ける建築家ルーカス・フォン・ヒルデブラントにより現在のバロックの姿になり1701年~1733年の間に完成しています。
教会内部は外からは想像できない素晴らしいバロック空間です。
こちらの写真は教会に入って正面奥に位置している主祭壇です。
Antonio Galli-Bibienaのプランで、Martino Altmonteによる祭壇画です。
上には聖三位一体が描かれ、エルサレム神殿前にいる12使徒のペテロとヨハネが身体障害者を治しています。
主祭壇の上には神の名"JAHWE"の栄誉が表されています。
手前にはだまし絵的ドームが見えます。
左の写真は内部空間をちょっと別の角度から見ています。
右の写真は上に設置されているロココ様式のパイプオルガンでパイプの数は2175本です。
この部分はMatthias Steinlのコンセプトです。
天井のフレスコ画はカールス教会の天井画も描いたミヒャエル・ロットマイヤーによるもので、彼がほぼひとりで2年の歳月をかけて描き、1714年に完成しています。
このフレスコ画のメインテーマはマリアの天界での神とイエスからの戴冠を表したもので、さらに上に伸びた中央には精霊の鳩が描かれています。
左の写真では中央から見て、その下にいる人がマリアです。
たくさんの宗教的重要人物や天使が描かれています。
ここまでの高さは床から56.8mです。
このペーター教会はグラーベンの雑踏からは信じられない、静けさが漂う宇宙的バロック空間を楽しむことができます。
是非お見逃しなく!
ウィーンを始め、オーストリア(ヨーロッパ)にはありとあらゆる時代様式の建物があり、そのような美しい装飾がある建物が"街"の雰囲気を演出しているわけですから、街中を歩くだけで楽しいものです。
色々な様式が見られる中で、この装飾スタイルはウィーンの街中ではほとんど見ることができないもの・・・それがスグラフィット装飾です。
スグラフィットはイタリア語のsgraffiare・・・ドイツ語ではkratzen (ひっかく)から由来し、壁などに見られる装飾技法の名称です。
右の写真に見られるように、壁にまるで刻まれたような装飾模様が特徴で、平面に描かれているわけではありません。
16世紀のルネッサンス時代にイタリア、ボヘミア地方で特に好まれて用いられた装飾スタイルです。ルネッサンス時代にこのスグラフィットがイタリアで流行っている時に、ルネッサンス時代建築の親方などによってこのオーストリアや現在のドイツにもたらされ、驚きと感動をもって受け入れられました。
スグラフィットは対照的な色の漆喰を2層で塗ります。
1層目は、鉄分や木炭などを含んだ黒とか赤などの漆喰で、その上の2層目は白の漆喰を塗り、その2層目の表面を引っ掻き落とし、1層目の濃い色が現れて模様や絵ができるというものです。
このタイプの素朴な技法はすでに13世紀ぐらいから現在のドイツにあったことが確認されています。
ウィーン中心部から比較的近い、車で26km程離れたNiederösterreichの一角にLeobendorfという小さな街があります。
そこにある標高220mの小高い丘の上にが地元でよく知られ、特に子供達にも人気のある中世風のロマンチックなお城 Burg Kreuzenstein(クロイツェンシュタイン城)があります。
このお城と場所の重要性は先史時代からの出土品によって示され、ここには要塞のようなものがあったことが確認されています。
研究によれば最初のお城は12世紀だろうと考えられていて、1115年に"Grizanstein"という現在のお城の名前Kreuzensteinのもとの名前が挙げられています。
この名前はおそらくこのお城の最初の所有者のひとりであるバイエルンのDietrich von Grizanestaineであろうということです。
13世紀にここはハプスブルグ家の所有となり、250年以上管理させていました。
16,17世紀は頻繁に所有者が
変わりました。
30年戦争の1645年にスウェーデン軍に引き渡し、ここが一時的にTorstensson元帥の住まいになりますが、オーストリア軍が再び侵入し、スゥエーデン軍がここを引き渡す際に破壊されました。
バラバラになったお城の建築素材は何十年もの間、別の場所の建築素材として人々に使われてしまったため、城壁の一部、東の塔の一部、礼拝堂の一部だけが残りました。
1702年からWilczek家に移り、
その一族のJohann Nepomuk Graf Wilczekが、1874年から彼のコンセプトをベースに再建が始まり、1906年に完成しています。
彼はオーストリアの芸術・文化において重要な人物で、極地探検家であり芸術奨励者です。
多方面に興味があった彼は、特に中世の芸術品を熱心に収集しました。収集数は100.000を超えると言われ、ヨーロッパの色々な地域からの物が集められ、それらを展示するための半ば博物館としてこのお城の再建を行いました。
このお城にはヨーロッパの様々な所から彼が収集した当時のオリジナルの貴重な素材が使われています。
ここはガイドツアーのみ見学が可能です。
4月1日~11月1日の毎日、
月~金 10:00~16:00
日、祝日 10:00~17:00
となっています。
車があると断然便利ですが、ウィーンから国鉄
(S -Bahn)でLeobendorf-Kreuzensteinで下車し、そこから徒歩約30~40分です。
城内には台所、武器室や多くの居住空間があり、それぞれの空間にヨーロッパからの様々な調度品などが置かれ非常におもしろいです。
Kreuzenstein城 は一見の価値があります。
こちらの空間はウィーン旧市街地の
一角のLedererhofです。
"Ledererhof"という住所ですが、
厳密には完全な袋小路的なHof(中庭)ではなく、この石畳の小路は奥に通り抜けできるようになっています。
小路に合わせて、建物も曲がって建てられていますね。
このすぐそばには"Am Hof"という,
ウィーン旧市街地では建物に囲まれた広場では一番大きな広場があるにも
かかわらず、中世に迷い込んだ美しい
空間です。
この空間には私の好きなレストランが
あります。
こちらはちょっと高い所からの
中庭空間です。
普段街中を歩くとまず気付くことがない建物の中庭は、上から見ると実はこれだけ広い空間があることがわかります。
この眺めはシュテファン大聖堂の
塔から見たもので、建物は空洞だらけであることがわかります。
外からは知る由もなく、その建物に関係している人だけが見ることができ、またその人々にとっては全く日常の光景である隠れた中庭空間はとても興味深いです。
このような中庭空間に入ると、一瞬、時を止めでくれます。
時間を見つけてウィーンの色々なカフェを紹介していますが、Café Residenzのトイレに
ついて少し触れて見ます。
Café Residenzは以前もここで話題にしたシェーンブルン宮殿にあるお勧めカフェで、
宮殿正門から入り、左側の細長い建物一角にあります。
このカフェのトイレが去年12月から有料になりました。
有料になったのは、男性の個室と女性の
トイレで、写真に見られるようにお金を入れなければ扉を開けることができないシステムに変更されています。
金額は0.50ユーロ(50セント)硬貨1枚が必要です。
男性の"小"の方は以前同様無料で使うことができます。
扉に張り紙がしてありますが、
"Toiletten nur für unsere Gäste,Bitte fragen Sie Ihren Ober. Herzlichen Dank" と記されています。
カフェのお客様専用のトイレです。あなたのボーイさんに聞いて下さい・・・という
内容です。
さて、そこでカフェのボーイさんにトイレに行きたいんですけど・・・と聞くと
ボーイさんはすぐに右の写真に見られる
Jeton(ジェトー)というコインをくれますので、これを50セントの代わりに使用することになります。
シェーンブルン宮殿に来る一般の観光客が
カフェで何も頼まず、トイレだけを使用するために押し寄せて、ここで行列している光景を何度となく目にしていたので、トイレがそのうち有料になるだろうということは予想していました。その時にカフェの本来のお客さんがトイレに行っても並ばなければいけないわけですから、ちょっとおかしいんじゃないか・・・ということになるわけです。
女性用トイレは完全に有料システムになってますので、このカフェに来られる方は
ちょっと覚えておかれたらいいかもしれません。
こちらは背景があまりヨーロッパ的ではないですね。
主題が分かり易く、画面中央にイエスが見られます。
こちらはアルプスの中のイメージで、雪の中という演出です。
よく見ると屋根にはつららまで描写され、寒さが伝わってきます。
イエス、マリア、ヨゼフの3人に、左側にはカスパール、メルキオール、バルタザールの
3人だけと、他は全く登場していないシンプルでなおかつオリジナリティーを感じます。
こちらは真ん中の大きなアーチの下にイエスが見られます。
岩や木も配置させ、自然の中に作られた神殿的イメージですね。
Weinachtskrippeは、テーマが同じでも作者の感性の違いもあり、自由性があって
創造力の違いを見ることができるので、見比べるととてもおもしろいものですね。
この彫刻は、当時ヨーロッパでおそらく一番有名であったイタリアの彫刻家
アントニオ・カノーヴァが製作しています。
カノーヴァ(1757年イタリアのPossagnoで生まれ、1822年ヴェネツィア没)は、父も祖父も石工や彫刻家であり、父が早く亡くなり、母も別の所に嫁いだため、祖父が家業を継いでもらうため、早くからカノーヴァにスケッチの手ほどきをし、幼いころから美術をすることになり、彫刻に関心を示し、すぐに祖父を手伝うことができるようになったといいます。
ウィーンのアウグスティーナ教会にあるマリア・クリスティーナの墓石は非常に有名です。
この彫刻は英雄テセウスがケンタウルスをやっつけている場面で、カノーヴァの特徴である
裸体の大理石で表現されています。
テセウスはアテナイの王アイゲウスとトロイゼンの王女アイトラの子と言われ、後に王位を
継ぎます。彼の有名な話はクレタ島の迷宮内の牛頭人身のミノタウロスを、王女アリアドネの助けで退治し、迷宮を脱出したことでしょうか。
このケンタウロスは上半身が人間で、下半身が馬で、好色で粗暴です。
ラピタイ族の王ぺイリトオスの結婚式で、花嫁に襲いかかったので、テセウスが退治するという話です。
この彫刻はナポレオンが注文したものですが、ナポレオンが失脚した後、ローマでハプスブルグ家の皇帝フランツII/I 世が入手し、1822/1823年にウィーンに運ばれました。
そして以前ここで紹介した国民庭園のテセウス神殿に置かれましたが、この美術史博物館が
オープンした1891年よりこの場所に置かれています。
堂々としたこのテセウス群像はこの美術史博物館の大階段ホールを飾るのにとてもふさわしい彫刻となっています。
シェーンブルン宮殿はマリア・テレジアイエローと言われるバロック様式の世界遺産にも
登録されている重要な宮殿で、このコーナーでもよく話題にするのですが、残念ながら
宮殿内部が撮影禁止なので、ここでは内部の紹介は一切していません。
素晴らしいロココ様式を見ることができるのですが・・・。
さて、昨日はウィーンは何と日中+18℃もあり、天気も良く、青空が広がっていました。
そこで散歩がてら仕事で毎日行くシェーンブルン宮殿にプライベートで家族と行って
来ました。
こちらはシェーンブルン宮殿を真横から見ているため、一瞬シェーンブルン宮殿には見えませんね。
宮殿見学では、この辺りはエリザベート皇后の書斎やサロン、フランツ・ヨーゼフとの共同寝室、マリー・
アントワネットの間や子供部屋があります。
左の並木道の宮殿に近い辺りは春に
見られる素晴らしいフジのアーチが
あります。
こちらはシェーンブルン宮殿の動物園にいる時に見た空で、左から一直線に
飛行機雲が右に向かってどんどん伸びています。
空の色もちょっと赤い部分や、青紫の
ように見える部分があり、とても印象的で、動物園にいるのですが、動物達よりも昨日は空を多くみたような気がします。
この時期は動物園も16:30分に閉館
するので、動物園を出た後に見た
夕焼けです。
左に見えているのは温室です。
温室の奥には日本庭園があります。
昨日は天気も良く、暖かかったので、
この時間でもたんくさんの人が
シェーンブルン宮殿の庭園を散策していました。
これから気温がまた下がって行くようですが、昨日とは違って今日は雨のウィーンです。
シュテファン大聖堂を周りの建物に遮られることなく、この角度で眺められる場所は
とても限られています。
街中に建っている普通の建物の屋上水準から見ています。
大聖堂の屋根から上の部分がハッキリ見えていますね。
塔の右側の屋根にある双頭の鷲の紋章もハッキリわかります。
こちらは同じ場所から若干ズームにして撮影しています。
夕暮れ時で、シュテファン大聖堂もライトアップが始まっています。
シュテファン大聖堂のこの美しい形を全体像として見ているわけで、大変新鮮な大聖堂の
光景です。
ちょっとお腹が空いたので軽く食べたいな~・・・ということはよくあるでしょう。
メインを頼むほどでもないし、かといってスーパーでパンなんかも買う気もないし・・・
そんな時はスープだけ頼んでもいいでしょうか。
スープはVorspeise(前菜)にあたるので、高級レストランなどではスープだけ頼むというのはかなり気が引けますね。
カフェなどではたいていスープも提供されていて、パンもついてくることも多いので
堂々とスープだけでも注文できます。
さて、ウィーンのスープと言えば定番スープからその店ならではのスープや季節のスープがたくさんあるわけですが、定番スープのひとつGulaschsuppe(グラーシュズッペ)はどうでしょうか?
グラーシュズッペはもともと現在のハンガリーからというのが一般的で、18世紀終わりにはハンガリーのナショナル料理として宣言されています。
ハンガリーではグヤーシュで、ドイツ語ではGulasch・・・日本語でグラーシュとかグーラシュとも書かれています。
アメリカ大陸が発見され、その後パプリカがヨーロッパにもたらされてからは農家の人々によって食べられていました。
貴族達も食べるようになり、その後急速に広がって行きました。ハプスブルグ帝国の時代なのでこのオーストリアにもすぐに入って来ました。オーストリアでは1827年にはレシピが登場しています。
パプリカを利かせたコクのあるビーフシチューのような雰囲気で、煮込み料理なので、肉も柔らかいです。一般的には牛肉が多く使用されますが、豚肉や羊肉もあります。
ジャガイモやタマネギなども柔らかく溶け込んでちょっとピリッとした絶妙な味です。
たいていのレストランやカフェではこのグラーシュズッペを食べることができると思いますが、店によって結構味が違います。
そんな中で個人的にお勧めしたい場所があります。
以前ここでも話題にしたZwölf-Apostelkeller(ツヴェルフ アポステルケラー)の
グラーシュズッペは本当においしいです!
上の写真はツヴェルフ アポステルケラーのGulaschsuppeですが、ゼンメル(パン)と
共に提供されます。
今日はグラーシュスープをテーマにしましたが、このグラーシュはスープだけではなく、
メインとしてもポピュラーです。
メインとしてのグラーシュはスープとはちょっと違うのでそれはまたいつか時間を見つけて
話題にしたいと思います。
グラーシュのことを書いていたらグラーシュが食べたくなってきたので、今日の昼は
グラーシュにしよう・・・!
1月6日は"Heilige Drei Könige"で、ベツレヘムからの星に導かれて3人の学者がイエスを
拝みにやって来るという有名な話からの祝日でした。
このシーンを表したジオラマが"Weihnachtskrippe"で、アドヴェント時期から教会や
クリスマス市、家庭などに多く見られます。
今日はそのWeihnachtskrippeをいくつか紹介したいと思います。
こちらはお馴染みミノリーテン教会の素晴らしいWeihnachtskrippeです。
ここでは登場人物が一部動く演出もされていて、見るものを別世界に誘い込みます。
ここのWeihnachtskrippeは絶対に見逃せないですね。
こちらはシュテファン大聖堂のWeihnachtskrippeです。
大聖堂内の、ある祭壇の前にあり、あまり目立たないため、残念ながら気づかない人も多く
います。これはイエス、マリア、ヨゼフが登場していないのでちょっと珍しいですね。
ほのかにライトアップされたこの場所は浮かび上がっています。
こちらはシェーンブルン宮殿のWeihnachtskrippeで、クリスマスツリーの前に置かれていました。クリスマス市の中にあったのでクリスマスの雰囲気をより盛り上げました。
ガラスケースの中に入っていて、全体的にライトで灯されていますが、イエス、マリア、
ヨゼフの部分がより明るくなっています。
前から書こう書こうと思いつつ、今頃になってしまいましたがウィーンでおそらく一番
おいしいホットチョコレートについての話題です。
それは、去年から急に日本の皆様に知られ始めた地元でも知られているおいしいチョコレート屋さん"LESCHANZ(レシャンツ)"のホットチョコレートです。
LESCHANZさんのチョコレート屋さんを2014年3月にここで紹介しましたが、
その後日本のあるクイズ番組でスケート界のある有名人がこの店に行ったことがテレビで
放映されたことをきっかけに、この"ウィーンの街を公認ガイドと歩いてみませんか?"のLESCHANZさんのページに大変多くのアクセスを頂く結果となりました!
LESCHANZさんの店に入るとすぐ目の前にこの写真に見られるように自家製ホットチョコレートが提供されています。
ここでは"Trinkschokolade"(トリンクショコラーデ)と書いてあります。
店員さんにホットチョコレートを下さいと言って下さい。
セルフサービスではありませんので
くれぐれも勝手に触らないようにして下さい。
大きいカップと小さいカップの2種類が置かれていますが、日によって1種類のカップしかない時もあります。
1杯€3.50- ~ €3.90-でカップの大きさで値段が定められています。
お好みでシナモンの粉などを自分で追加することができます。
このLESCHANZのホットチョコレートはとにかくコクがあって
大変おいしいです。
個人的には有名なカフェよりもLESCHANZさんの方がおいしいと思っています。名称通り"飲むチョコレート"です。
ただ・・・
ここはカフェハウスではありませんので、くつろげる椅子などはありません。
チョコレート屋さんの店内の一角にちょこんと置かれています。
店内で立ちながら飲んでいても大丈夫です。
店でチョコレートや何かを買う必要はなく、ホットチョコレートだけを飲んでも全く問題ありません。
実際私はここのホットチョコレートが好きなので、それだけ飲みによく行ってます。
ただ非常に残念なのが冬の時期だけしか飲むことができません。
去年は3月17日が最後の日でした。
人によっては甘すぎるとか、濃厚すぎると思うかもしれませんが、この時期LESCHANZに行った方は是非飲んでみましょう!
元旦の次の祝日は今日1月6日の"Heilige Drei Könige" (ハイリゲ・ドライ・ケーニゲ)です。日本語では東方三博士、東方三賢者などとも呼ばれ、イエス・キリストが誕生したので東から星に導かれて三学者がやって来る・・・というよく知られた話です。
こちらではクリスマス時期によく登場するWeihnachtskrippe (ヴァイナハツクリッペ)という、イエスが生まれ、この3人がイエスを拝みにやって来るシーンを表すジオラマが多く見られます。
クリスマス時期でなくても美術館に行けばこれをテーマにした絵画がいくつもあります。
この東から来た三学者は、ヘロデ大王のもとへ行き「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」について尋ねます。
ヘロデ大王が「幼子を見つけたらここに連れて来るように・・・」と言いましたが、
3人は王の所へは戻らず、そのまま帰って行きました。
彼ら3人には名前があり、それぞれ以下の物をイエスに捧げます。
カスパール (アジアを象徴)
没薬を渡し、将来の受難の死を意味する老人の姿で登場
メルキオール (ヨーロッパを象徴)
黄金を渡し、王権を意味し、青年の姿で登場
バルタザール (アフリカを象徴)
乳香を渡し、神性を象徴し、普通は黒人で壮年の姿で登場
新約聖書のマタイ書では「イエス・キリストが生まれ、ベツレヘムからの星に
導かれて東からやって来る学者」としか書かれていません。
つまり人数なども細かく描写されていないわけです。
しかしすでに3世紀ぐらいから「人数」と「王様」で登場していたようで、6世紀初頭にはそれぞれの名前も与えられたようです。
ちなみにこの1月6日の"Heilige Drei Könige"が過ぎるまではクリスマスツリーをまだ飾っておく習慣があるので、クリスマスが終わっても、クリスマスツリーも一緒に年を越して新年を迎えるわけです。
ウィーンの王宮(Hofburg)は様々な建築様式から成り立っていて非常に複雑です。
そこには多くの見所が存在しますが、王宮での博物館というと経験上、エリザベート博物館や皇帝の部屋に行かれる方が多いと思います。
でも時間があれば是非宝物館(Schatzkammer)にも足を延ばしてみて下さい。
ここには歴史的に大変貴重な物や興味深いものがたくさん展示されています。
この宝物館の歴史的貴重な物として最近、オーストリア帝国帝冠や神聖ローマ帝国の帝冠
なども紹介しました。
今回は王冠ではなくエメラルドです。
こちらのエメラルドは2680カラットという大変巨大な物で,高さ10.9cm,長さ8.5cmという大きさです。
これはいわゆる器であり、極力エメラルドが無駄にならないように原石の形を生かして製作されたので、形がちょっと独特です。
この器の蓋の部分も、この器からくり抜いてカットされたもので、金七宝細工細工が施されています。
このエメラルドは皇帝ルドルフ2世がコロンビアのムーゾ鉱山から入手したとされていて、1641年にプラハで製作されました。
この巨大なエメラルドは宝物館のこの空間の中央に、単独でガラスケースの中に入って展示されています。
ハプスブルグ家はヨーロッパで一番長く続いた王朝で、そのハプスブルグ家の頭上に
ほぼ神聖ローマ帝国の皇帝やローマ王の称号があった・・・その彼らの都はウィーンが中心だったので、ウィーンにはこの宝物館に限らず、歴史的重要な様々な物を見ることができるわけです。
ウィーンは車が多い街で、路上駐車だらけです。建物の中はたいてい駐車場にはなっていないので路駐が当たり前です。
以前書いたウィーンの街の路上駐車、ウィーンの街の路上駐車2, ぶつかっている路上駐車も参照して下さい。
ショートパーキングに関しての違法駐車はウィーン市の係りが定期的に、
交通法規に関しての違法駐車は警察が担当します。
どちらの場合も違法駐車が認められた場合は罰金の紙がワイパーに挟まれます。
それでも持ち主が車を動かさない場合や、また早急に違法に駐車している車を動かす時や、
車が故障して動かなくなった場合にはレッカー移動が行われます。
街中ではたまにレッカー移動に遭遇しますが、去年のまだ暑い頃偶然にもレッカー移動の
場面に立会いました。
工事現場で活躍するような大きなレッカー移動車が止まっています。
係りがレッカー移動するワゴン車の4つのタイヤ部分に吊り上げるための引っかけをセットしています。
こちらではレッカー移動を"ABSCHLEPPDIENST"と呼ばれています。
4つのタイヤ部分に引っかけを固定して、そのまま吊り上げるという
効率がいい方法です。日本でもよく見る、前輪を浮かせて後輪は地面を走らせるという
(前輪駆動か後輪駆動かによって逆になりますが)スタイルはあまり見ません。
レッカー移動は5分とかからず終了し、係りはこの車を所定の場所に運び、その後はまた
別の場所へ向かいます。
ウィーンとカフェは切り離すことができないもので市民の生活に密着しています。
今風のカフェ、ケーキがおいしいカフェ、そして100年以上の歴史を持つ伝統カフェ・・・と様々で、それぞれのカフェによって雰囲気が違います。
このコーナーでもたまにカフェハウスを話題にしていますが、今回は観光の皆さんを始め、地元でも非常に有名なカフェ モーツァルト(Café Mozart)についてです。
現在のカフェ モーツァルトの場所には14世紀初頭に作られた女性修道会と病院がもとになった市民病院住宅が建っていました。
18世紀終わりに10の中庭、220の世帯があった大きな賃貸集合住宅に改築されます。
モーツァルトが亡くなった3年後の1794年にこの建物に一角にカフェがオープンします。
1825年Simon Corraが経営を引き継ぎ、ウィーンで最初のシャニガルテン(外のテラス)を導入しました。
1840年に経営が変わり、Café Katzmayerという名で、
ジャーナリストや文学家などのたまり場となっていきます。
リンク道路の建設などでウィーンが拡張されていく1873~1883年に建物が壊され、カフェはなくなりました。
当時の賃貸集合住宅のエリアであったTegetthoffstraße, Führichgasse, Maysedergasseにもう一列建物がその後建てられました。
その後新しく建物が現在のように建てられ、Katzmayerの後として1929年に再びカフェがオープンし、その時からカフェ モーツァルトとして現在に至っています。
カフェ モーツァルトは映画"第三の男"の最初の方でも登場します。
でも映画では現在のカフェ モーツァルトの位置ではありません。
カフェ モーツァルトという名はこのカフェの前に位置するアルベルティーナ広場に、王宮庭園にあることで有名なモーツァルト像が立っていたことに由来しています。
カフェ モーツァルトはケーキがおいしいことでも知られています。
以前ここでも紹介した個人的に大好きなMaroniblüteが食べられます。
Café Landtmann,Café Museum,Café Hofburg,Café Residenzが全て経営が同じなので、ケーキの内容も同じというわけです。
ここは食事も結構おいしいです!
ウィーン旧市街にはケルントナー通り、グラーベン、コールマルクトという3大歩行者天国があります。
たいていのガイドブックではケルントナー通りが一番の目抜き通りとして紹介さいれていますが、美しさから言えばGraben (グラーベン)が一番です。
もともとGrabenは、ローマ時代の堀があった場所が、バーベンベルク時代12世紀の終わりに埋められ、現在の通りとなったわけです。
この美しい細長い広場のようなGrabenの象徴的なものは何と言ってもペスト記念柱です。
ペストは伝染病で、かつては高い致死率で、皮膚が黒くなって死亡することから黒死病と呼ばれています。
元々ネズミに流行する伝染病で、その感染したネズミの血を吸ったノミが、人間の血を吸う時に感染し、ヨーロッパでは14世紀から100年に一回ぐらいは流行していました。
そんなペストが早く終息して欲しい・・・ペストが終息してありがとう・・・とういう意味を持ったペスト記念柱が
ヨーロッパの色々な街で見られます。
そのペスト記念柱でも、このウィーンのGrabenの記念柱はひときわ芸術的です。
このペスト記念柱はウィーンに1679年ペストが猛威を振るい、その終息を記念して、マリア・テレジアの祖父である当時の皇帝レオポルド1世によって立てられました。
当時は暫定的に木で作られた記念柱でしたが、その後1683年に大理石にするというプランが出され、フィッシャー・フォン・エアラッハ等を始め色々な人が関わり、最終的に当初の木製の物から14年間かかった1693年にこの現在の姿になりました。
バロック様式の素晴らしい統一性を見ることができます。
上の左の写真は、皇帝レオポルド1世がひざまずき、神に敬意と感謝を表しています。
上の右の写真は記念柱の最上部に見られる、神様、イエス・キリスト、鳩の3つで、これは父・子・精霊の三位一体です。
ペスト記念柱の下3か所の角には、双頭の鷲の神聖ローマ帝国、ハンガリー、ボヘミアのワッペンを見ることができます。
ローマ・カトリック教会ではペストの守護聖人として4人が有名で、通常のペスト記念柱にはたいてい少なくともその内1人は登場するものですが、このグラーベンの記念柱にはペストの守護神は誰もいません。
代わりにレオポルド1世が登場しているわけです。
その下には天使が老婆を突き落としているシーンが見られ、この老婆がペストを表します。
いつもこのコーナーを読んで下さっている皆様、またこのホームページから観光を申し込まれてウィーンで御案内させて頂きましたお客様の皆様、明けましておめでとうございます。
こちらは年間を通してクリスマスが一番大事な行事です。年の始まりの元旦は休日にこそなっていますがさほど重要ではないようです。