今日は12月24日クリスマスイヴです。
ザルツブルクから車で20kmぐらい走った所にOberndorf (オーベルンドルフ)という人口5600人程の小さい街があります。
この街こそ世界的に知られた「きよしこの夜」が初めて歌われた場所なんですね。
ウィーンの画家として名高いHundert Wasser (フンデルト・ヴァッサー)が手掛けた
フンデルトヴァッサーハウスは観光ポイントとしても人気があります。
フンデルト・ヴァッサーのことを知っているウィーンに来られる観光の皆様は、
たいていフンデルト・ヴァッサーハウスというウィーンにある市営住宅をおそらく最初に
見るでしょう。
もちろんそちらは有名ですが、今日はフンデルトヴァッサーハウスではなく、彼が手掛けた教会について書きたいと思います。
ウィーンの旧市街を歩いていると様々な発見があり、同時になんでこうなって
いるのだろう・・・といった疑問が出て来ます。
もっとも私自身、仕事柄興味があるからかもしれませんが・・・。
ウィーンの楽友協会ホールは、世界で最も音響のいいホールのひとつで、この場所は抜きに出て世界的に有名ですね。
そこまで有名なコンサートホールはありませんが、それでもこのオーストリアには有名なコンサートホールが結構あります。
その中で作曲家の名前がそのままホールの名称になっている「ハイドンザール」について少し書きたいと思います。
ハイドンはオーストリアでの3大クラッシックの作曲家の1人ですね。
このコーナーで10月15日にベルヴェデーレ宮殿について書きましたが、バロック建築という観点から見ると、シェーンブルン宮殿よりも美しいのではないでしょうか。
このベルヴェデーレ宮殿の上宮と下宮には、それぞれ大理石の間という宮殿の中央に作られている素敵な空間があります。
その上宮の「赤大理石の間」とも呼ばれている天井に描かれたフレスコ画はとても見ごたえがあります。
シェーンブルン宮殿は重要なバロック建築であると同時に、世界遺産にも登録されています。
ここに来たらメインはもちろん宮殿の内部見学です。
宮殿内部はフレスコ画が素晴らしい「大広間」を始め、モーツァルトが御前演奏した「鏡の間」、マリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフ1世、エリザベート皇后を始め、ハプスブルグ家の多くの人々が登場し、個性ある美しい部屋が数多くあります。
宮殿見学が終わったら、庭園でのんびりしたいですね。
ウィーンはとても古い歴史ある街です。
でも実際は過去と現在がとても調和してる街だと思います。
ウィーンの旧市街で一番古い所は1~4世紀ローマ時代の駐屯地として栄えた部分があり、
当時はヴィンドボナ(Vindobona)と呼ばれていました。
そのずっと後の時代、ハプスブルグ家の前の中世のバーベンベルク王朝時代(976~1246)の12世紀終わりに、レオポルド5世によって城壁が築かれていきました。
その後オスマントルコの1回目のウィーン包囲の跡、1547年に更にBastion・・・Bastei(バスタイ)・・・堡塁が築かれていき、最終的に19世紀半ばの1858年からフランツ・ヨーゼフ1世皇帝の時代に取り壊しが行われ、リンク道路が建設されることになります。
現在ウィーンの中心部には、当時の城壁跡を思わせる箇所が8箇所あります。
Mölkerbasteiを2つ分けて数えて、Coburgbastei、Ruprechtskirche界隈、Stubentor,Dominikanerbastei,Augustinerbastei,Burgtorの計8箇所です。
ただ、Dominikanerbastei,Burgtorも数には入っていますが、厳密にはそこにあっただろう・・・ということを推測できる程度です。
大作曲家ベートーヴェンはドイツ人ですがウィーン、ウィーン近郊にたくさんの足跡を
残しました。
ウィーンの街だけでもベートーヴェンの跡を辿ったら時間がいくらあっても足りません。
ウィーンの南の森には温泉街で有名なBaden(バーデン)があります。
この街はローマ時代からの温泉地で、ハプスブルグ家の避暑地でもあり、
数多くの有名な音楽家が住みました。
この街にベートーヴェンは計15回、少なくとも7つの家に住みました。
10月27日にこのコーナーで「秋のウィーンの森」について書きました。
その時にチラッとドナウ河が登場したわけですが、今回はそのドナウ河について少し書いてみたいと思います。
ドナウ河は全長約2.860kmあり、ドイツを水源として、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナと10ヵ国を通り、最後は黒海まで流れています。
その中でオーストリアのドナウは約350kmです。
全長2800km以上あるドナウ河の最も美しい所と言われている有名な「ヴァッハウ渓谷」は、幸いにしてこのオーストリアに位置しています。
ドナウ河は昔から重要な役割を担ってきました。
ギリシャ人達ももちろんドナウは知っていましたし、ローマ時代にはドナウ河が国境ともなり、そのドナウ河沿いには重要な街がいくつもありました。
ウィーンもその街のひとつです。
ウィーンのドナウ河は、永年からの河川工事のおかげで、現在見られる姿になっています。
ウィーンのドナウ河は大きく分けて4つあり、本流、新ドナウ、旧ドナウ、運河です。
ウィーンは歴史的にドナウ河の氾濫に悩まされてきました。
雨が降ったり、雪解け水が入り込むとすぐに水が溢れてきたのです。
そこで、河川工事が何回も行われては流されて・・・そんな繰り返しでした。
昔の地図を見ると、ウィーンのドナウ河は、網の目のようにぐにゃぐにゃになって、広範囲にわたって流れていました。
現在の姿になったのは、リンク道路建設時代に、昔の中心に流れ込んだラインを運河とし、さらに本流として、そのぐにゃぐにゃをほぼ直線的に川幅をたっぷりとり整備しました。
その100年後の1987年に、2回目の大きなドナウ治水工事を行った結果、新ドナウが作られます。これは、本流と並行して流されています。
さらに昔の支流が、新ドナウのずっと奥に残されていて、大きく全部で4本あるわけですね。
ウィーンに入る直前で、ドナウは本流と新ドナウに分かれ、その後本流から街の中心に行く運河が枝分かれしていきます。
ちなみに新ドナウを作る際、本流の隣に作ったわけですから、真ん中が盛り上がった部分が生じ、そこを「Donauinsel」ドナウインゼルという人口の島にしました。
全長20km以上にわたってウィーンを横たわっています。
8月20日に「知られざる中庭風景」、10月9日に「知られざる美しい中庭風景 2」を紹介しましたが、ウィーンの街は絵になる
中庭がたくさんあります。
毎回書いていると思いますが、そうような中庭は、普通に街中を歩いていると外からは見えないので全くわかりません。
でもウィーンの建物は、ある意味では中庭だらけ・・・と言ってもいいですね。
だって建物はほぼ中庭を囲むように作られているからです。
この中庭をウィーンで全て見るのは時間がいくらあっても足りません。
今回は2枚共、王宮(Hofburg) の中庭です。
10月15日に「ベルヴェデーレ宮殿」を少し紹介しました。
上宮と下宮の2つの宮殿とオランジェリーがあり、上宮の庭園と上宮と下宮の間にも庭園があります。
このベルヴェデーレ宮殿の上宮と下宮は文字通り、高さに差があり、その傾斜をうまく利用して庭園が作られています。
下宮と上宮の高低差は約23mもあります。
ウィーンの森には見所が点在しているわけですが、前回紹介したハイリゲンクロイツ修道院と並んで重要なスポットのひとつに「Mayerling」(マイヤーリンク)があります。
マイヤーリンクはウィーンの中心から車で約40kmほど行った、ウィーンの南の森に位置し、オーストリアのルドルフ皇太子がマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とピストル心中自殺を遂げた、かつての皇太子の狩猟の館が建っています。
そこは礼拝堂があり、その礼拝堂や建物内部でいくつかの資料を見学することができます。
ウィーンにはシェーンブルン宮殿という、マリア・テレジアイエローで有名なバロック建築の世界遺産があります。
16世紀中頃から登場しますが、現在の形になったのは18世紀中頃です。
中心から約5km西に離れたこのシェーンブルン宮殿は、ハプスブルグ家の夏の離宮・・・言ってみれば別荘です。
ウィーンの中心にはとても複雑な「王宮」・・・Hofburg(ホーフブルク)があり、こちらがいわゆる大元の都市宮殿です。
王宮については非常に複雑なので、このコーナーでは何回かにわけて取り上げようと思います。
シェーンブルン宮殿のように庭がゆったりしていて、大きな宮殿がドーンとかまえているわけではありませんが、歴代のハプスブルグ家の皇帝達により、時代と共に様々な増改築が行われ、その結果色々な建築様式から成り立つとても複雑な建造物になっているのです。
王宮は結果的に一度も完成しませんでした。
ハプスブルグ家は約650年というヨーロッパで一番長く続いた王朝でした。
1273年にハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国のドイツ王に選ばれてから、帝国が崩壊する1918年まで続くわけですが、その後、現在のオーストリアに至るまで、今でもたくさんの末裔の方がいるわけです。
つまり王宮は13世紀~20世紀までの様々な建築様式から成り立っているわけですね。
プラター公園の大観覧車は映画「第三の男」でも有名で、9月29日付でこのコーナーでも
登場しています。
その大観覧車に乗る時に、最初にチケットをスキャンし、バーを回して先に進みます。
その先の空間には、大観覧車のゴンドラが何台も展示されていて、そのゴンドラの中に様々なウィーンに関係する歴史的なジオラマが展示されています。
街中を歩いている時に、教会の鐘が時を知らせる・・・鐘の音を聞くと、ヨーロッパだなぁ~と新たに実感します。
街中には色々な様式の教会が数えきれないほど建てられています。
それぞれキリスト教という大きな枠の中にありながら、様式も違えば、年代も違い、また誰に捧げられているか等々・・・千差万別です。
それぞれの教会に地元の方がミサや祈りにやってきます。
時を知らせる鐘は教会にはつきものですね。大、小色々な教会があるので、それにある程度合わせた鐘がひとつから数個取り付けられています。
かなりの教会は塔の上方に取り付けられていて、決められた時間に鳴らされます。
ウィーンのリンク道路は、様々な建築様式が見られることで有名です。
その中で、2本の塔がとても印象的な「ヴォティーフ教会」について書きたいと思います。
この教会は1879年4月24日・・・この日はフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの銀婚式の記念日に献堂されました。
それより遡ること1853年、皇帝フランツ・ヨーゼフはテロに遭って、奇跡的に無事だった・・・そこで神に感謝して皇帝フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンによって建てられました。
当時この教会を建てるためのコンペがあり、ヨーロッパ中から全部で75の案が出されました。
その中から、当時まだ26歳のHeinrich Ferstel が選ばれました。
工芸博物館(MAK)、ウィーン大学といったリンク道路の重要な建物も彼によるものです。
ベルギーやフランスには2本の塔を持った教会が多く見られますね。
パリの定番なノートルダムだって、四角い塔が2本あります。
そんな雰囲気ですが、このヴォティーフ教会はゴシックらしくて綺麗ですね。
全く余談ですが、東京都庁舎はパリのノートルダムをヒントにして生まれたものと言われています。
オーストリアは色々な映画に登場しますが、日本では特に知られている「サウンド・オブ・ミュージック」を知らない方は結構少ないのではないでしょうか。
ドレミの歌、エーデルワイス等、小学校で歌う名曲はこの映画で使われました。
オーストリアの雄大なアルプスの北斜面に位置するザルツカンマーグートとモーツァルトが生まれた街ザルツブルクで撮影され、マリアとトラップ大佐、また大佐の前妻との7人の子供が繰り広げる家族愛をテーマに、オーストリアの美しい風景が至る所に登場します。
この映画は1965年、ロバート・ワイズ監督、ジュリー・アンドリュースがマリア役で登場するミュージカル映画で、アカデミー賞5部門を受賞しています。
今年の3月10日に
というタイトルでウィーンの街にはバロック建築がとても多いことに触れました。
数あるウィーンの重要なバロック建築の中で、シェーンブルン宮殿とベルヴェデーレ宮殿は
ウィーンの2大バロック宮殿とも言われています。
シェーンブルン宮殿は
マリア・テレジアイエローが有名で、ベルヴェデーレ宮殿と比べると大きいですし、
単独で世界遺産にも登録され、印象深いかもしれません。
しかし、バロック建築的にはこちらのベルヴェデーレ宮殿の方が、より美しいバロック宮殿です。
ベルヴェデーレ宮殿は歴史に名高いオスマントルコのウィーン包囲1683年、ウィーンを危機から救った英雄プリンツ・オイゲンによるものです。
彼は、約150年トルコに支配されたブダペストや、ベオグラードも解放し、ハプスブルグ家3代の皇帝に仕え、(レオポルド1世、ヨーゼフ1世、カール6世)大出世し、地位と名声を手に入れ、この夏の離宮的なベルヴェデーレ宮殿を建築させました。
シェーンブルン宮殿の建築家フィッシャー・フォン・エアラッハに対し、もう一人のバロック巨匠建築家ルーカス・フォン・ヒルデブラントにより手がけられました。
完成はシェーンブルン宮殿より約25年遅い、1723年に完成しています。
ちなみに今年2013年はオイゲン公生誕350周年記念です。
今年8月20日に「知られざる美しい中庭風景」として2つの中庭を紹介しました。
ウィーンの街はとにかく外からは全くわからない、そして見ることができない美しい
中庭空間・・・(ドイツ語ではHof・・・ホーフ)がたくさんあります。
ウィーンの街を高い所から眺めると、建物は空洞だらけで、中庭空間を持っていることが
わかります。それぞれの建物には、それぞれの中庭空間があり、その中庭空間が他の建物の中庭空間と協力して、ひとつの大空間を作っているパターンが多くあります。
基本的に住所が違うので、自分がいる建物以外の中庭空間には入れませんし、中庭を経由して、反対側の建物の中庭に行くこともできません。
でも空間は共有されています。
オーストリアには歴史的にとても重要な修道院、教会、お城などがたくさんあります。
観光でよく行くウィーン近郊、ウィーンの南の森にある、「ハイリゲンクロイツ修道院」はとても有名です。
ウィーン中心から車で南西約35km走った所に、Heiligenkreuz(ハイリゲンクロイツ)というウィーンの森の中にある街があります。
元々ここはこのハイリゲンクロイツ修道院が建てられて、やがて街ができて、その街の名前もハイリゲンクロイツです。
ハイリゲンクロイツは、聖なる十字架という意味で、イエス・キリストが磔にされた、十字架の木片の一部がこの修道院に運び込まれたことからその名前がついています。
この修道院はシトー修道会と呼ばれる、キリスト教カトリックの修道院で、ドイツ語ではZisterzienserと呼ばれ、ベネディクト会から枝分かれし、フランスのシトー(Saint-Nicolas-lès-Cîteaux・・・ブルゴーニュ地域の街) に1098年に設立された、ベネディクト会の改革宗派です。
このオーストリアのハイリゲンクロイツ修道院はバーベンベルク王朝時代のレオポルド3世によって、1133年に作られています。
この写真は修道院の中庭です。とても情緒があり、12世紀終わりの教会部分や、バロック様式のペスト像が印象的です。
音楽の都とも言われるウィーンでは、毎日至る所で演奏会が行われています。
オペラ、通常の演奏会、教会音楽、観光の皆さんが手軽に行けるワルツコンサート等、とても豊富です。
ウィーンでのいわゆる通常演奏会と言えば、楽友協会ホール、コンツェルトハウスが2大演奏会ホールでしょうか。
今回はこの楽友協会ホールについて少し書きたいと思います。
ウィーンを象徴するものはたくさんありますが、この「大観覧車」もそのひとつです。何と言っても往年の映画「第三の男」に登場し、映画に素晴らしい効果を与えていました。
この大観覧車は、映画よりも古く、1897年イギリスの技師 Walter Basset によって作られました。最高点が約65m、ゴンドラの数は15台、一周約15分、材質は鉄、木、ガラスです。
このゴンドラは一台20~25人まで乗ることができるとても大きなゴンドラです。
私は今まで、計24人で一台のゴンドラに乗ったことがあります。
でも現在では安全性のことも考えられ、一台12~15人までとなっています。
映画「第三の男」は、1949年にウィーンで撮影され、キャロル・リード監督、
オーソン・ウェルズとジョゼフ・コットンが主役として登場します。
オーソン・ウェルズが映画ではハリー・ライムという悪役で登場し、彼はペニシリンを水増しさせ、闇で儲けていて指名手配中になっていました。
そこへ長年の親友である、ジョゼフ・コットン(映画ではホリー・マーチンス)が
親友に会うためにウィーンへやって来て、ハリーに会う・・・という話です。
ウィーンに来てみると、親友のハリー・ライムが亡くなっていると聞かされショックに陥るマーチンス・・・でも話を聞いていくうちにおかしい・・・誰か別の人間がいるな・・・
そこで映画のタイトルは「第三の男」です。
最初はハリー・ライムが中々姿を見せないんですね。
でもハリーはこっそりマーチンスを尾行します。
ハリーが生きてることがわかり、この2人がウィーンで再会するのが、この大観覧車の前だったんです。
そこで2人がこの大観覧車に乗り込んで、ハリーがマーチンスに悪の道に誘います。
この時大観覧車はもちろん回っていて、しかもハリーが、ゴンドラの内側から扉を開けて、ここから飛び降りるか・・・何てシーンも登場します。
もちろん現在の大観覧車はゴンドラ内側から扉を開けることはできません。
この映画では、ウィーンの街が万華鏡のように登場し、今見ても十分楽しめる白黒映画です。クライマックスはウィーンの街の地下下水道の迷路が効果的に登場し、本当のラストシーンは中央墓地の並木道です。
当時のオーストリアは第2次世界大戦が終わって、連合国の占領時代でした。
そのため映画の中には、瓦礫の山、また冒頭に一台のジープに4ヵ国の兵士が乗っているというシーンも見られ、この映画にまた別の効果を与えています。
やはり天才作曲家の
モーツァルトは有名ですので、このコーナーでも「モーツァルトのお墓」 などを始め何回か取り上げています。
今回はかなり知られているものですが、実はあまり見ることができない「魔笛小屋」です。
「魔笛」はモーツァルトが亡くなる年の1791年3月 エマヌエル・シッカネーダーから
ドイツ語劇の依頼がありました。
シッカネーダーは1751年生まれ・・・モーツァルトより5つ年上です。
彼はレーゲンスブルクで学び、22歳頃、モーザーの劇団に入団し、その5年後には座長になり、一座を率いて様々な所を回ります。
その時1780年、ザルツブルクでも公演し、モーツァルト一家との関係が生まれ、モーツァルトとは旧知の仲になるわけです。
モーツァルトがウィーンで活躍する頃から、シッカネーダーもウィーンに出て来ることとなり、色々な劇場と契約して活動します。
1789年、現在のウィーン中心から近い所にある「Freihaustheater (フライハウステアター)、または
Theater auf der Wieden (テアター・アウフ・デア・ヴィーデン)」の監督となり、ドイツ語による台本を多く作成し、大衆的な劇を演じるようになっていました。
そんな状況からモーツァルトに「魔笛」の依頼が来たわけです。
晩年のモーツァルトは妻コンスタンツェがバーデンに療養に行き、かなり孤独でした。
そこでシッカネーダーがこのTheater auf der Wieden のそばの小屋にモーツァルトを住まわせ、作曲活動をさせることになるわけです。
その小屋が「魔笛小屋」であり、この小屋はウィーンから1897年にザルツブルクに移されることになります。
現在この「魔笛小屋」はザルツブルクの国際モーツァルト財団が所有し、音楽大学「モーツァルテウム」の大ホールが使用されるイベントの夏季のみ一般が見ることができます。
この小屋はモーツァルテウムの庭園「バスチオン」に置かれ、このコンサートホールを通ってしか行くことができないという,とても限られた場所に置かれています。
この魔笛小屋の屋根には苔がついているのがわかります。
映画「アマデウス」の中でも、酒にかなり酔って鍵盤の前に座って魔笛の中の曲を演奏しているモーツァルトのシーンが出て来ます。そのシーンの最後には、この魔笛小屋と似たような小屋がちゃんと映し出されています。
このコーナーですでに何回か美術史博物館が話題に出て来ていますが、やっぱりここは何回来ても素晴らしい所です。
規模的にはそこまで大きくはありませんが、絵画の質が本当に高く、名画ばかりが並んでいます。
ウィーンに来てこの美術館を訪れる方はとても多いでしょう。
館内に入った瞬間そこは別世界です。
展示されている絵画の内容に相応しい内装になっています。
このコーナーで9月5日に書いた、「デュルンシュタインの廃墟のお城」 のように、ドナウ河の最も美しい
と言われる世界遺産にも登録されているヴァッハウ渓谷にはいくつかの廃墟のお城があります。
その中で、「Spitz」(シュピッツ)というヴァッハウ渓谷のほぼ中央に位置する街はバケツ千杯の山といわれるぶどう畑の山があります。
通常メルクから船で下るとこのシュピッツの街に最初にとまります。
このシュピッツにとまる前に左の丘の上に見えるのが
このヒンターハウスの廃墟のお城です。
ヴァッハウ渓谷のハイライトが何と言ってもディルンシュタインということもあり、この街で乗船、下船する日本の皆さんはほとんどいません。
でもヨーロッパの他の国々の方は結構この街で楽しんでいるようです。
今日御紹介させて頂くのは「Blockheide」(ブロックハイデ)です。
ここは興味深いことに自然に形成された巨大な石が
いくつも横たわっているという、地元でも有名な自然公園です。
ウィーンにはたくさんの重要な教会があります。
建築様式も違えば、カトリックでもいわゆる宗派が色々あったり、また様々な聖人に捧げられていたりと・・・
キリスト教は本当に奥が深いです。
このイエズス教会はやはり重要な教会のひとつです。
ウィーンの旧市街地の中でも少しひっそりし、歴史的にも重要な場所に建てられています。
イエズス会は1539年に設立され、反宗教改革の担い手でもありました。
ウィーンには1550年、後の皇帝フェルディナント1世が、
イエズス会の創始者であるイグナチオス・ロヨラに
ウィーン大学での神学授業のためのとイエズス会創設のためにコンタクトを取りました。
その1年後の1551年にはウィーンに最初のイエズス会がやって来ました。
1623年には、ウィーン大学で神学や哲学等を受け持ち、彼らの施設や教会が作られ、1631年にこの教会が完成しています。
教会正面のスタイルはルネッサンス的要素も少し残っている初期バロック様式です。
1702年、皇帝レオポルド1世がアンドレア・ポッツォをウィーンに呼びます。
彼はこの教会の建築家、彫刻家、画家として働き、1703~1705年にかけて現在見える姿に改築させました。
その後イエズス会は1773年に解散に追い込まれますが、その後紆余曲折を経て現在でもイエズス会がここで活動しています。
オーストリアは9つの州があり、それぞれに郷土料理があるわけですが、
ウィーン3大名物料理といえば、Wiener Schnitzel (ヴィーナーシュニッツェル)、Zwiebel Rostbraten (ツヴィーベルローストブラーテン)、そしてここで紹介するTafelspitz(ターフェルシュピッツ)でしょうか。
Tafelspitzは時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が好んで食べた料理で、
牛肉の煮込み料理です。
Tafelspitz(牛のおしりと太ももの一番上との間のあたりの肉)をかたまりで何時間も煮込んで、そのやわらかくなった肉をスライスして、リンゴに西洋わさびが入ったソースとSchnittlauchソース(白のクリーム状のソースにチャイブがまざったもの)を肉にかけて食べます。
その定番2つのソース以外にほうれん草のペースト状ソースもとても好まれています。
ジャガイモを炒めたものと野菜が添えられるのが一般的です。
今回もシェーンブルン宮殿に個人で入場しよう・・・という方のためのInfoです。
2013年8月14日にシェーンブルン宮殿に入場する時・・・でも書いていますが、入場券にはいくつかの種類があります。
今日はそれを具体的に紹介します。
オーストリア世界遺産の
ひとつであるシェーンブルン宮殿は、オーストリアで最も観光客の数が多い
スポットです。
初めてウィーンに来た人で、ここを訪れない人はまずいないでしょう。
通常、入場チケットが販売されている場所に一番近い、シェーンブルン宮殿の正門(Haupttor)から宮殿に入るパターンが圧倒的に多いと思います。
この正門を入るとすぐ左手の所に、ミニチュアのシェーンブルン宮殿が今年から置かれています。
この写真はバックのマリア・テレジアイエローが本物のシェーンブルン宮殿ですが、手前の銅色がミニチュアシェーンブルン宮殿です。
ミニチュアシェーンブルン宮殿は本物同様、前庭も作られています。
このミニチュアシェーンブルン宮殿は、今年2013年、ウィーンのガイド協会から宮殿に贈られたものです。
シェーンブルン宮殿に訪れの際には、是非シャレで御覧になって下さい!
世界遺産のひとつである
ヴァッハウ渓谷はドナウ河の一番美しい所として知られています。
このヴァッハウ渓谷のハイライトが
メルクから船で下り、デュルンシュタインで船が180度ターンして船着き場に停まる時に絶好の写真ポイントがあります。
この聖堂参事会修道会の教会とその背後に見える廃墟のクエンリンガー城がとても綺麗に納まります。
この廃墟のお城はイギリスのリチャード獅子親王がオーストリア、バーベンベルクのレオポルド5世に捕らえられ、1192~1193年に幽閉されていたお城です。
Schwedenplatz近くのドナウ運河沿いから見られるルペルト教会は少し小高い所にあり、蔦がロマネスク様式の塔にからまる姿は印象的です。
たいていのガイドブックにはこの教会が「ウィーンで一番古い」と書いてあります。これは厳密には正しくありません。
ウィーンで現存している教会では一番古いという言い方が正しいわけです。
ウィーンで一番古い教会はグラーベンのすぐ近くにある4世紀後半に作られたとされているペータース教会です。
このルペルト教会は伝説によれば8世紀の740年頃、記録で確認できるのはバーベンベルクHeinrich2世がショッテン修道会を提供する時の古文書に1200年と記されています。
Rupertはもともとラインフランク貴族の出身と言われています。彼はウォルムスで宗教的に高い地位についていたとされ、Theodo公爵がキリスト教の布教とそれを支える目的でRupertを呼びました。
このブログコーナーで2013年1月30日付で書いた内容ですが、
チロルはスイスだ・・・と思われている方が非常に多いんですね。
そんなことは全く考えなかったのですが、毎日色々な皆様を案内している中で
結構多くの方がチロルはスイスにある・・・と思われていた方が多いのには驚きました。
最も「アルプス」(ドイツ語ではAlpen)という名称で国を無視して考えれば
感覚的に理解できそうな気がしますが・・・。
このブログコーナー2013年8月16日付でメルク修道院だまし絵のフレスコ画
について書きました。
このメルク修道院はバロックの素晴らしい建造物としても有名ですが、内部見学をすると様々なおもしろい物や貴重な物、歴史的流れ等を見ることができます。
2013年6月17日にこのコーナーで自転車文化について少し書きました。
自転車も生活に密着し、ハイキングと同様、余暇に楽しまれています。
国内にはハイキングコースと同様に様々な自転車コースがあるわけですがその中でウィーンの森にあるHelenentalradweg
(ヘレーネ渓谷サイクリングコース)は地元で有名なサイクリングコースのひとつとなっています。
その名のHelenentalはウィーンの南の森で、地元でも観光でも非常に有名な場所です。
ただ、通常の観光ではウィーンの南の森の見所
ヘルドリッヒスミューレ、マイヤーリンク、バーデン等が一般的)を見学し、このHelenentalを経由してBadenに抜ける時、その逆でBadenからマイヤーリンクに入る時、またはマイヤーリンクからAlland経由でウィーンへ戻る時、もしくはその逆ルートの時にHelenental を通るのが一般的です。
そのHelenentalはシュベヒャート川が流れ、その川に沿って有名なベートーヴェンの散歩道があり、それはハイキングコースとしても人気があります。
そのベートーヴェンの散歩道の川を挟んで反対側にHelenentalradwegが通っています。
ウィーンは街の至る所に緑があります。
街中で緑と言うとたいてい市立公園とか王宮庭園などの
リンク道路沿いか、プラター公園やシェーンブルン宮殿などが思い浮かぶと思います。
その辺ならもう歩きました・・・という観光の皆様で、
ウィーンの森に行く時間もない、でも公園ではなくて静かな緑の雰囲気を味わいたい方にお勧めなのが
Botanischer Garten (ボターニッシャー・ガルテン)・・・植物庭園です。
ウィーンは全ての建築様式が見られます。手っ取り早く色々な様式を見るにはリンク道路を周ると様々な様式の基本を見ることができます。
リンク道路は19世紀後半に作られ、その時代の習慣で色々な様式が登場するわけです。
そんな背景の中である意味では古典建築と現代建築をうまく橋渡しをした建築家が
Otto Wagner(オットー・ヴァーグナー)です。
オットー・ヴァーグナーは1841年のウィーン生まれ、ウィーンで一番古いアカデミーギュムナジウムで学び、ベルリンの建築アカデミー、その後ウィーンのアカデミーで国立オペラ座の建築家シッカルズブルクとニュルのもとで学んでいます。
当時支配していた古典的な保守的な時代から抜け出し、時代にふさわしい新しい素材、例えば鉄骨やガラスなどを用い、機能性を考え、その中に美しさを見出す・・・といった画期的なコンセプトでウィーンを中心に新しい風を吹き込ませました。
7月26日に中央墓地について少し書きました。
中央墓地への行き方の質問がよくあります。
中心からオーソドックスな行き方は路面電車71番で乗換なしで行けます。
71番は現在リンク道路のBörseから中央墓地を結んでいる便利な路線で、オペラ座から1本で行けるわけです。
中央墓地の第2門(Zentralfriedhof 2.Tor)で降りるのが定番です。
そこからの入口を入って徒歩3分で有名な名誉区です。
もうひとつの方法は、地下鉄3号線(U3)で終点のSimmeringまで行き、
そこから路面電車71番もしくは路面電車6番に乗り変えて、中央墓地第2門までです。
この方法ですと、ウィーンのシュテファン大聖堂からでも行き易いですね。
国立オペラ座から近い所のカフェといえば、オペラ座自らカフェがありますが、カフェ モーツァルトが知られています。
でもそこから少しだけ歩いていくとモーツァルト像で有名なBurggarten (王宮庭園)にPalmenhaus という地元でよく知られているカフェがあります。
私も空き時間がある時によく行くお勧めスポットのひとつです。
リンク道路側からこの庭園を見ると、ト音記号で有名なモーツァルト像が目立ち、向かって左側には王宮の新王宮の荘厳な建造物が見られますが、このカフェは全くと言っていいほど見ることができません。
それはリンクから見れば一番奥に位置している上に、庭園の豊かな緑が茂っているため見えないのです。
ウィーンの旧市街はとても歴史があり、ローマ時代から現在に至るまで様々な発見があります。ウィーンに来られるたいていの皆様は、ケルントナー通りがまず基本となるでしょう。これは国立オペラ座とシュテファン大聖堂を結んでいることもあり、また歩行者天国としては一番長いことも理由のひとつです。
その次にグラーベン、そしてコールマルクトと3つの歩行者天国を一筆書きで歩くことができます。ホームページでも紹介していますが、3つの歩行者天国ではグラーベンが一番美しいでしょうか。
でもそんな繁華街から少しでも外れると人通りが少なくなり、
ウィーンらしい路地によく出会います。
ウィーンはヨーロッパ文化が凝縮した街・・・と私はよく表現していますが、建築、音楽、絵画、キリスト教、
歴史・・・ありとあらゆる分野を楽しむことができます。
その「絵画」の中でウィーンは7つの大きな美術館がある中で、真っ先に訪れたい美術史博物館があります。
正式にはKunsthistorisches Museum (地元ではKHMとも略して呼ばれています)...
直訳すれば芸術史博物館です。
ここは絵画の他に工芸品などのコレクションもとても充実しているので
芸術史博物館という名称になっています。
でもあまりにもここの絵画コーナーが有名なので、一般的に美術史博物館とか
美術史美術館、または単純に美術館などと呼ばれています。
ウィーンのリンク道路時代の重要な建築のひとつとして、ゴットフリート・セムパーと
カール・フォン・ハーゼンナウワーによって初めから美術館を意図として作られ、1891年一般公開されています。つまり昔からあった宮殿を使って、何とか美術館にしているわけではありません。例えばフィレンツェのウフィツ美術館はメディチ家のオフィスがあったので、オフィス・・・ウフィツ美術館といいますがそういう形ではありません。
基本はハプスブルグ家のコレクションですが、ここは15世紀~18世紀の期間の作品しかありません。ハプスブルグ家は完成品にしか興味がなかったので、中途半端な未熟的な作品は目もくれませんでした。
この美術館はいい意味でとてもかたよった美術館ですが、しかし逆から見れば
これだけ充実した美術館はヨーロッパにはありません。
よくヨーロッパ3大美術館と言われますが、もちろんルーヴルのような大きさはありませんが、集められている作品の内容がとても素晴らしいのです。
観光ポイントとしてもとても人気があり、多い時には週4回ぐらい、
1日で午前、午後と2回行くこともめずらしくありません。
バロックの重要な建築のひとつに
メルク修道院があります。
ドナウ川の最も美しいと言われる、ヴァッハウ渓谷の船下りの起点としても知られ、ウィーンからも日帰りの
ツアーがよく出ています。
この断崖に立つメルク修道院は、
もともとハプスブルグ家の前の時代、バーベンベルク王朝時代(976~1246の270年間)の最初の居城が置かれた場所です。
その君主の1人レオポルド2世が1089年、ベネディクト派に提供し修道院として
現在に至っています。18世紀、ヤコブ・プランタウアーによって
このバロック様式に大改築されています。
遠くからでも目立ち、まるで修道院が街を支配している印象を受けます。
オーストリアはとても奥が深い国、その首都ウィーンはヨーロッパ文化が凝縮した街ですから様々なテーマがあります。
ありとあらゆるものをできるだけたくさん御紹介したいのですが、毎日仕事で忙しくて、(当たり前なのですが・・・)このブログコーナーではあまり深く、詳しく書いている時間が残念ながらありません。
でも思い立った時に短くても時間を見つけて色々なことを書いています。
今日はオーストリアのワインについて少しだけ紹介します。
オーストリアワインと一言で言ってもとても奥が深いんですね。
日本でヨーロッパワインと言えば、ドイツ、フランス、イタリア・・・などが一般的でしょうか。でもこの国オーストリアは生産量からすればヨーロッパでは3本指に入るとさえ言われるワイン王国です。
オーストリア国内には44.912haの広大なぶどう畑が存在し、9つ全ての州でワイン生産が行われていますが、主に17の生産地域に分かれています。
州としては、ウィーン、低部オーストリア州、ブルゲンラント州、シュタイヤーマルク州の4州が基本で、アルプスの標高が高くない地域を除いてワイン産業が営まれています。
こう毎日暑いとどうしても涼しい場所を求める傾向になってしまいます。
ウィーンは森の都とも言われ街中も緑がとても多いですが、ウィーン市郊外からその外側にかけて有名なウィーンの森が広がっていますし、何と言ってもヨーロッパアルプスが横たわっているという地形の特徴がこのオーストリアにはあります。
大きな街を離れるとのどかな風景と豊かな自然が広がります。
そんなオーストリアは国内に48箇所のNaturpark (自然公園)があります。
VNÖ (Verband der Naturparke Österreichs) ---オーストリア自然公園連盟が中心になって管理しています。
ウィーンはずっと日中30℃を超える暑い日が続いています。
猛暑7月の27日は夜22時でも30℃以上の気温がありました。
街中では噴水のそばで水しぶきを
楽しむ方が多く見られます。
少しでも涼しい風景を・・・
何て思っていたら
KRIMMLER WASSERFÄLLE
(クリムルの滝)を思い出しました。
残念ながらウィーンからこれからすぐ行こう・・・という近場ではなく、
ウィーンから車で約450km離れた有名なゲルロス街道沿いにあります。
ゲルロス街道はオーストリア国道165号線で、
ザルツブルク州OberpinzgauのMitterstill~チロル州のツィラータールまでの
61kmの有名な景勝ルートです。
クリムルの滝はザルツブルク州の終わりに近い、Krimmlの街にあり、ここから先のGerlospass(ゲルロス峠)は有料道路になります。
こちらはBlumenkatze(ブルーメンカッツェ)...花のねこです。
正式にはPRASKATZ (プラスカッツ)といいます。
この素敵な花のねこがある場所は、
PRASKAC Pflanzenland Tulln
(プラスカス プフランツェンラント)
地元で有名なガーデンショップです。
場所はウィーンから約40km離れたTulln(トゥルン)にあります。
ちなみにこの街はエゴン・シーレが生まれた街です。
植物庭園的なこのショップはTullnの中心から離れた一角にあり、15.000m²の店の広さ、2500以上の様々な植物を栽培し、その場でもちろん購入できますし、カタログ購入も可能です。
植物だけでなく、ガーデニング関係の
物や石、灯篭、庭に置く椅子やテーブルなども販売しています。
ウィーンには中央墓地という世界的に知られている観光スポットがあります。
広さ約2.5km²あり、ヨーロッパでは
2番目に大きな墓地です。
この墓地は1874年にオープンし、
「名誉区」という特定の地域があり、
歴史に名を残した人々がいわゆる名誉市民としてその場所に埋葬されています。
その一角に「32A]区 という有名な
場所があり、たくさんの音楽家が眠っている地域で、中央墓地を観光として訪れる方がたいてい目指す地域です。
ウィーンにはダ・ヴィンチの
「最後の晩餐」があります。もちろんコピーですが、モザイクなんですね。
これは13世紀 1224年レオポルド
6世にウィーンに呼ばれたミノリーテン修道会の教会にあります。
(ミノリーテンはフランシスコ会の始まりであった小さな兄弟会)
イタリアのミラノにあるオリジナルの最後の晩餐と同じサイズで、ナポレオンI世が依頼し、1809年Giacomo Raffaelli がこの仕事を請け負いました。 このコピーは当初パリに運ばれるはずでしたが、完成した時点でナポレオンはすでに皇帝ではなくなっていたため、マリア・テレジアの孫、フランツI世オーストリア皇帝が買い取ってウィーンに運ばせました。
近くで見るととても精巧に作られています。それぞれのモザイクは数ミリで、全く隙間なく敷かれています。
モザイクですから非常に輝いて見えます。
時間があれば是非見に行って下さい。
ウィーンは街の至る所に緑があり、
様々な花が植えられています。
これらはウィーン市が管理しています。
膨大な量のウィーンに見られる街中の花はウィーン22区の私がよく行く大好きなスポットのひとつ
Blumengärten Hirschstetten der Stadt Wien (MA42)でも栽培されています。
(ブルーメンゲルテン・ヒルシュシュテッテン・デア・シュタットヴィーン)
これはあくまでも個人的にお勧めできるということでちょっとネタにしてみました。
地元で非常に有名な、スペアリブがおいしい店です。
その店の名前は「Zur Alten Kaisermühle」(ツア・アルテン・カイザーミューレ)です。
この店は1893年、Fischerwirt という名でオープンし、Alte Donau(旧ドナウ)沿いに位置し、目の前にはAlte Donauがあり、とてもいい雰囲気です。