9月25日にこのコーナーで「モダンになったOpernpassage」について書きました。
私も毎日のようにここを通っていますが、このモダンになったOpernpassage
(オペルンパサージェ)は、前からこうなっている・・・というような空気で
街中の生活に溶け込んでいます。
前回、赤、紫、緑の電気の線に触れましたが、今回は出口付近の地面に注目してみたいと
思います。
先日仕事で移動中に街中を歩いていたらこの写真に見られるようなものを見つけました。
ここは、ウィーン旧市街地のある中庭の一角で、この場所は外からは普通はわからない、でも知る人ぞ知る、通り抜けができる閑静な場所です。
個人的にこのような路地や中庭は好きなので、旧市街を歩く時は
意図的に表通りを避けて、路地を通ることがよくあります。
普段この場所もよく通るのですが、以前は何もなかった壁の所に、鍵がついた鉄の棒が取り付けられていました。
最初これは自転車置き場だな・・・と思ったのですが、その割には自転車のタイヤを入れるには随分狭いスペースなんですね。
何だろう・・・と少し考え込んでしまいました。
それからまもなく何のためのものか見当がつきました。
もう10月もまもなく終わりになりますね。
今日から冬時間になり、日本との時差は8時間に戻ります。
公には夜中の3時に、1時間、時間を戻し2時にします。
ウィーンは森の都と言われていますが、この秋の時期ウィーンの街中やウィーンの森などの多くの木々の葉はだいぶ色が変わり、とても素敵で、秋を感じずにはいられません。
紅葉・・・というより黄葉と言った方がいいでしょうか。
(もちろん葉が赤くなる木もありますが・・・)
本日10月26日は、オーストリアにとって大変重要な「Nationalfeiertag」
(ナチィオナルファイエルターク)、直訳すれば国の祝日です。
国が定めた祝祭日という意味ではなく、「オーストリア共和国自身を祝う祝日」
という意味です。
よくオーストリアの建国記念日と訳されていますが、これは直訳ではありません。
ウィーンの森には見所が点在しているわけですが、前回紹介したハイリゲンクロイツ修道院と並んで重要なスポットのひとつに「Mayerling」(マイヤーリンク)があります。
マイヤーリンクはウィーンの中心から車で約40kmほど行った、ウィーンの南の森に位置し、オーストリアのルドルフ皇太子がマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とピストル心中自殺を遂げた、かつての皇太子の狩猟の館が建っています。
そこは礼拝堂があり、その礼拝堂や建物内部でいくつかの資料を見学することができます。
先日の新聞に、「この時期休暇をするなら、どこのヨーロッパ都市のホテルがどのくらいの宿泊料金を提供してるか・・・」という中々興味深い統計が掲載されていました。
ドイツ語で休暇は「Urlaub」(ウアラウプ)といいますが、休暇という日本語からはリゾート地をイメージしますね。
でもこの統計は必ずしもリゾート地だけではなく都市も含まれています。
この時期は基本的に、ヨーロッパでのビーチで泳ぐ休暇はほぼ終わっていますので、都市が多く登場しています。
以下の表を御覧下さい。
ウィーンにはシェーンブルン宮殿という、マリア・テレジアイエローで有名なバロック建築の世界遺産があります。
16世紀中頃から登場しますが、現在の形になったのは18世紀中頃です。
中心から約5km西に離れたこのシェーンブルン宮殿は、ハプスブルグ家の夏の離宮・・・言ってみれば別荘です。
ウィーンの中心にはとても複雑な「王宮」・・・Hofburg(ホーフブルク)があり、こちらがいわゆる大元の都市宮殿です。
王宮については非常に複雑なので、このコーナーでは何回かにわけて取り上げようと思います。
シェーンブルン宮殿のように庭がゆったりしていて、大きな宮殿がドーンとかまえているわけではありませんが、歴代のハプスブルグ家の皇帝達により、時代と共に様々な増改築が行われ、その結果色々な建築様式から成り立つとても複雑な建造物になっているのです。
王宮は結果的に一度も完成しませんでした。
ハプスブルグ家は約650年というヨーロッパで一番長く続いた王朝でした。
1273年にハプスブルグ家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国のドイツ王に選ばれてから、帝国が崩壊する1918年まで続くわけですが、その後、現在のオーストリアに至るまで、今でもたくさんの末裔の方がいるわけです。
つまり王宮は13世紀~20世紀までの様々な建築様式から成り立っているわけですね。
このブログコーナーではウィーンのカフェをすでにいくつか紹介させて頂いていますが、今回は地元でも大変有名な「Café Sperl」(カフェシュぺルル)です。
カフェ シュぺルルは、1880年Groß und Jelinek
によって、Jacob Ronacherのために作られました。
その年の12月には、Sperlファミリーによって受け継がれ、現在でもそのままその名前が使われています。
1998年には、 "Coffee of the Year" of Austria にも選ばれています。
プラター公園の大観覧車は映画「第三の男」でも有名で、9月29日付でこのコーナーでも
登場しています。
その大観覧車に乗る時に、最初にチケットをスキャンし、バーを回して先に進みます。
その先の空間には、大観覧車のゴンドラが何台も展示されていて、そのゴンドラの中に様々なウィーンに関係する歴史的なジオラマが展示されています。
こちらはドイツ語で、Gewöhnlicher Spindelbaum,もしくはPfaffenhütchenで、ラテン語では、Euonymus europaea,日本語ではニシキギ属です。
高さは2~6mぐらいで、原産はおそらくヨーロッパでしょうか。
特に中央ヨーロッパには多く見られますが、アイルランドやスウェーデンにも、また北スペインやシチリア、ギリシャにも多く見られます。
街中を歩いている時に、教会の鐘が時を知らせる・・・鐘の音を聞くと、ヨーロッパだなぁ~と新たに実感します。
街中には色々な様式の教会が数えきれないほど建てられています。
それぞれキリスト教という大きな枠の中にありながら、様式も違えば、年代も違い、また誰に捧げられているか等々・・・千差万別です。
それぞれの教会に地元の方がミサや祈りにやってきます。
時を知らせる鐘は教会にはつきものですね。大、小色々な教会があるので、それにある程度合わせた鐘がひとつから数個取り付けられています。
かなりの教会は塔の上方に取り付けられていて、決められた時間に鳴らされます。
このブログコーナー6月26日にウィーンの地下鉄について簡単に書きました。
ウィーン地下鉄の扉の上の
真ん中部分にかなり前から、この写真のように赤く点滅する警告灯が、かなりの車両に取り付けられています。
これは扉が閉まる時に、ピー、ピー、ピー・・・っと音を出しながら、平均8~9回点滅を繰り返します。これによって扉付近の乗客に注意を促すわけです。
もっとも、現在のウィーンの地下鉄の新車両と地下鉄6号線(U6)は、扉が左右に開いている時の、扉付近両脇の部分にはセンサーが取り付けられていて、閉まる時にセンサーを遮ると、扉がそのまま閉まらず、すぐにまた開くようになっています。
このセンサー機能は、現在もまだたくさんウィーンの街を走っている旧式の路面電車
(階段付で、ローフロアーではないウィーンらしい路面電車)にも取り付けられています。
私自身も、路面電車の扉が閉まりかけている時、カバンや手でセンサーを遮って乗り込んだこともよくあります。
ウィーンのリンク道路は、様々な建築様式が見られることで有名です。
その中で、2本の塔がとても印象的な「ヴォティーフ教会」について書きたいと思います。
この教会は1879年4月24日・・・この日はフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの銀婚式の記念日に献堂されました。
それより遡ること1853年、皇帝フランツ・ヨーゼフはテロに遭って、奇跡的に無事だった・・・そこで神に感謝して皇帝フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンによって建てられました。
当時この教会を建てるためのコンペがあり、ヨーロッパ中から全部で75の案が出されました。
その中から、当時まだ26歳のHeinrich Ferstel が選ばれました。
工芸博物館(MAK)、ウィーン大学といったリンク道路の重要な建物も彼によるものです。
ベルギーやフランスには2本の塔を持った教会が多く見られますね。
パリの定番なノートルダムだって、四角い塔が2本あります。
そんな雰囲気ですが、このヴォティーフ教会はゴシックらしくて綺麗ですね。
全く余談ですが、東京都庁舎はパリのノートルダムをヒントにして生まれたものと言われています。
オーストリアは色々な映画に登場しますが、日本では特に知られている「サウンド・オブ・ミュージック」を知らない方は結構少ないのではないでしょうか。
ドレミの歌、エーデルワイス等、小学校で歌う名曲はこの映画で使われました。
オーストリアの雄大なアルプスの北斜面に位置するザルツカンマーグートとモーツァルトが生まれた街ザルツブルクで撮影され、マリアとトラップ大佐、また大佐の前妻との7人の子供が繰り広げる家族愛をテーマに、オーストリアの美しい風景が至る所に登場します。
この映画は1965年、ロバート・ワイズ監督、ジュリー・アンドリュースがマリア役で登場するミュージカル映画で、アカデミー賞5部門を受賞しています。
今年の3月10日に
というタイトルでウィーンの街にはバロック建築がとても多いことに触れました。
数あるウィーンの重要なバロック建築の中で、シェーンブルン宮殿とベルヴェデーレ宮殿は
ウィーンの2大バロック宮殿とも言われています。
シェーンブルン宮殿は
マリア・テレジアイエローが有名で、ベルヴェデーレ宮殿と比べると大きいですし、
単独で世界遺産にも登録され、印象深いかもしれません。
しかし、バロック建築的にはこちらのベルヴェデーレ宮殿の方が、より美しいバロック宮殿です。
ベルヴェデーレ宮殿は歴史に名高いオスマントルコのウィーン包囲1683年、ウィーンを危機から救った英雄プリンツ・オイゲンによるものです。
彼は、約150年トルコに支配されたブダペストや、ベオグラードも解放し、ハプスブルグ家3代の皇帝に仕え、(レオポルド1世、ヨーゼフ1世、カール6世)大出世し、地位と名声を手に入れ、この夏の離宮的なベルヴェデーレ宮殿を建築させました。
シェーンブルン宮殿の建築家フィッシャー・フォン・エアラッハに対し、もう一人のバロック巨匠建築家ルーカス・フォン・ヒルデブラントにより手がけられました。
完成はシェーンブルン宮殿より約25年遅い、1723年に完成しています。
ちなみに今年2013年はオイゲン公生誕350周年記念です。
数日前仕事中に歩いていたら
写真のような水飲み場に気づきました。
実際には消火栓として
街の歩道の部分に設置されているものですが、最近ウィーン市がその以前からあった消火栓の上に、新たに、井戸から
水をくみ上げるような機能を持った、青い部分を取り付けたようです。
ユニークなことに消火栓の下には、お皿が用意されています。
これは犬用に設置されたものですね。
青いレバーの様な部分をポンプのように作動させると、手前の青の大きな蛇口のような所から水が出て来ます。
この水はもちろん、ウィーンの上水道です。
つまりアルプス山脈からの湧水ということになりますね。
ウィーンの公共交通機関のチケットは、「ウィーン公共交通機関」にまとめてあるように色々な種類のチケットがあります。
その中で、なぜかあまり知られていない、でも結構お得なシニア2回券があります。
ウィーンの公共交通機関でシニア用というと、2種類しかありません。
ひとつは、年間定期です。
でもこれは住所がオーストリアにあって、写真入りの登録制ですから、
普通にウィーンに来る観光の皆様には全く意味がありません。
もうひとつがここで紹介するシニア2回券です。
ウィーンは様々な作曲家が足跡を残した街です。
一般的には、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウスなどの住居や記念像はお馴染みでしょうか。
でもこの街は「へぇ~、この人もウィーンにいたんだ~」という意外な作曲家の跡も
かなりたくさん残っています。
その中で、アントニオ・ヴィヴァルディもその一人でしょうか。
こちらはドイツ語で
Aster(アスター)、
ラテン語ではAster,
日本ではシオン、別名ではオニノシコグサで、
キク科シオン属です。
原産は北アメリカらしく、ユーラシア、アメリカ、アフリカにも多く見られます。
日本では本州から九州にかけて分布し、野生のものは稀だそうです。
日本では、平安時代には観賞用として植えられるようになったそうです。
Asterの種類も色々ありますが、この紫色は結構定番かもしれません。
今年8月20日に「知られざる美しい中庭風景」として2つの中庭を紹介しました。
ウィーンの街はとにかく外からは全くわからない、そして見ることができない美しい
中庭空間・・・(ドイツ語ではHof・・・ホーフ)がたくさんあります。
ウィーンの街を高い所から眺めると、建物は空洞だらけで、中庭空間を持っていることが
わかります。それぞれの建物には、それぞれの中庭空間があり、その中庭空間が他の建物の中庭空間と協力して、ひとつの大空間を作っているパターンが多くあります。
基本的に住所が違うので、自分がいる建物以外の中庭空間には入れませんし、中庭を経由して、反対側の建物の中庭に行くこともできません。
でも空間は共有されています。
日本のことを書く前に、誤解が生じないようにちょっと御断り書きを・・・。
私自身は東京生まれの東京育ちで、ウィーンに住む前は日本で社会人でした。
いくらウィーンが好きで、ヨーロッパ文化が好きでも、日本人としてのプライドもあり、
日本人でよかったな・・・と思っています。
このウィーンに住んでいなければ、日本人としてのプライドはもしかしたらそこまで強くなかったかもしれません。
そのため、このコーナーで日本のことをテーマにする時には、決して自分の国日本を否定するつもりはありません。
あくまでヨーロッパから日本を見た視点で、客観的に見ている・・・ということを
御理解下さい。
「ヨーロッパから見た日本という国」というタイトルはあまりにも総括的ですが、
このブログコーナーの花シリーズの様に、短いですがシリーズにしようと思っています。
その第1弾として、「日本語」を考えたいと思います。
日本語は世界でもとても難しい言語のひとつですね。
もちろん、日本で生まれ、幼少時代から日本語環境で育てば、全く問題ない当たり前の言葉です。しかし、グローバルで見れば、日本語ほどまわりくどく、複雑な言葉はそう多くないでしょう。
世界の様々な言葉を見ても、「ひらがな、カタカナ、漢字」というように3種類の違う文字スタイルが使われている言語はあるのでしょうか。
少なくとも、ここヨーロッパでは聞いたことがありません。
別にひらがなだけだって十分コミュニケーションはできますね。
でも私達日本社会はそうではありません。
この辺が日本人独特の考え方、民族性というものを象徴しています。
スイスのような4か国語が公用語という複雑な国もあるわけですが、でも基本は、ひとつの言語を話す人々が、それぞれの国に分かれているわけです。
ただこのオーストリアはドイツ語で、ドイツ、スイスでもドイツ語が話されるわけですが、この3つの国は歴史が示しているように、ひとつの国としての共存は不可能でしょう。
ヨーロッパは言語が複雑ですね。
でもイタリア語、フランス語、スペイン語といったラテン系言語・・・
チェコ語、ロシア語、ポーランド語などといったスラブ系言語のようにお互いに
共通性があるわけです。
どれかができれば、その共通性を持った言語は習得し易いわけです。
ドイツ語もかなり複雑な言語ですので、ドイツ語を母国語にしている人が、もっと簡略化された英語が楽なのは理解できます。
そういう意味で、英語はグローバルで、共通語的イメージがありますね。
例えば、外国に行って、見知らぬ人と話すとき、その国の言語ができる人は別ですが、
たいてい英語で話し、または英語で話しかけられることが多いと思います。
つまり、英語がそれだけ話されてるということは、ある意味で、簡単で分かり易い
からです。その英語だって日本語を母国語にする私達からすれば、やっぱり大変ですね。
最低6年間勉強するわけですが、現実的にまだまだあまり使い物になりません。
逆に、外国の人が日本語を勉強するのは、私達が外国語を勉強するのと同様に大変です。
でも・・・
日本語はある意味ではつぶしが利かない言語です。
日本語ができても、中国語の漢字を見て、なんとなく意味が想像できるだけ・・・筆談は少し機能するでしょうけど会話はできない。
日本語以外の言葉を勉強する枠で考えれば、それ以外の特権があるでしょうか?
中国語とは発音も違いますし・・・。
でも前に書いた様に、イタリア語ができる人が、スペイン語も楽にできる・・・
ドイツ語を母国語にする人は英語も楽にできる
(これは私達日本語を母国語にする人が、別の外国語を習得する大変さと比べると・・・
と言う意味です)わけで、そのためヨーロッパの人は何ヶ国語も話せる・・・という状況になるわけです。
またそれが普通なんですね。
もちろん、オーストリアの教育を見れば、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語等かなり早いうちから授業で皆さんが習うわけですが、言語の性格を見れば、日本語は本当に個性ある、独特の言語であることがわかります。
それが私達日本が、島国である、他の国と全く隣接していない・・・
という現実からも理解できます。
そして同時に日本のある意味で独特のMentarität(考え方)があるわけです。
先日9月29日に、ウィーン名物「大観覧車」について書きました。
今でも映画「第三の男」ファンがたくさん集まるウィーンの名物観覧車で、
また映画を知らなくても手軽に街の景色や夜景を楽しめるのでお勧めです。
この大観覧車は、現在映画と同様の15台のゴンドラが回っています。オリジナルは前回書きましたが30台でした。
この15台のゴンドラのうち、数台は特別ゴンドラがあってちょっと豪華内装に
なっています。この特別ゴンドラは、特別料金で貸切ることができます。
かつて、ある企業が昼食会を楽しんでいたり、カップルが誕生日パーティーを
楽しんでいるのを見たことがあります。
オーストリアには歴史的にとても重要な修道院、教会、お城などがたくさんあります。
観光でよく行くウィーン近郊、ウィーンの南の森にある、「ハイリゲンクロイツ修道院」はとても有名です。
ウィーン中心から車で南西約35km走った所に、Heiligenkreuz(ハイリゲンクロイツ)というウィーンの森の中にある街があります。
元々ここはこのハイリゲンクロイツ修道院が建てられて、やがて街ができて、その街の名前もハイリゲンクロイツです。
ハイリゲンクロイツは、聖なる十字架という意味で、イエス・キリストが磔にされた、十字架の木片の一部がこの修道院に運び込まれたことからその名前がついています。
この修道院はシトー修道会と呼ばれる、キリスト教カトリックの修道院で、ドイツ語ではZisterzienserと呼ばれ、ベネディクト会から枝分かれし、フランスのシトー(Saint-Nicolas-lès-Cîteaux・・・ブルゴーニュ地域の街) に1098年に設立された、ベネディクト会の改革宗派です。
このオーストリアのハイリゲンクロイツ修道院はバーベンベルク王朝時代のレオポルド3世によって、1133年に作られています。
この写真は修道院の中庭です。とても情緒があり、12世紀終わりの教会部分や、バロック様式のペスト像が印象的です。
音楽の都とも言われるウィーンでは、毎日至る所で演奏会が行われています。
オペラ、通常の演奏会、教会音楽、観光の皆さんが手軽に行けるワルツコンサート等、とても豊富です。
ウィーンでのいわゆる通常演奏会と言えば、楽友協会ホール、コンツェルトハウスが2大演奏会ホールでしょうか。
今回はこの楽友協会ホールについて少し書きたいと思います。
このブログコーナーで、何を書こうか・・・ということは全く決めていません。
無理に考えると、それがストレスになって、半ば強制的に何か書かなくてはいけない・・・となってしまいそうなので、気軽に考えています。
街中を歩いてる時に、突然「あっ!、これを書こう」と思ったものを書いています。
今回は、ウィーンのちょっと珍しいアングル第3弾です。
前回第2弾は9月11日付でした。
数日前このコーナーで、少しモダンになった「Opernpassage」について書きました。
国立オペラ座のすぐ前の階段を下りて、このOpernpassageに入ると、階段を下りたすぐ右側に結構目立つ音量で音楽が聞こえてきます。
よ~く聞いていると「美しき青きドナウ」なんですね。
最初は何かと思うのですが、すぐに公衆トイレであることがわかります。
そこには「Opera Toilet」(オペラトイレ)と書いてあり、まるでオペラ座に入って行くかのような演出をしてあります。
この写真は、Opersnpassageからこのトイレの入り口です。
ずっと奥にオペラ座の客席が見えますね。
バロックの重要なメルク修道院については何回かここでも登場しています。
8月31日に書いた、
と同じように、この金庫は興味深いものがあります。
1683年オスマントルコの襲来があった時、ウィーンを始め周辺地域などもかなりの脅威でした。
そこで、この修道院の重要なものを守るために作られたのがこのいわゆる金庫です。
まるで宝箱のような雰囲気です。
これは鉄で作られていますが、中身を入れる側の一番上の部分は現在
ガラスが貼られています。
これは、ドイツ語でGewöhnliche Wegwarte
(ゲヴェーンリヒェ ヴェッグヴァルテ)、ラテン語ではCichorium intybus、
日本では、チコリーとか、キクニガナとも
呼ばれています。
原産は地中海沿岸地方、西アジア、北西アフリカとも言われ、キク科の多年生野菜です。
だいたい2~5cmぐらいのライトブルー(薄い紫に近い色)の花で、高さは30cm~140cmぐらいです。
葉は羽状に切れ込んで、タンポポに似ています。
葉や根には独特の苦みがあって、若い芽や葉はサラダに用いたり、薬効のあるハーブとしても用いられます。
日本でも国産のチコリーが生産されているそうです。
低地の湿原などに多く見られますが、こちらでは道端などにもよく見られます。
この写真のチコリーはウィーンの森のマイヤーリンクで咲いていたものです。