ここ数日オーストリアでは1日の感染者数が10.000人を超える日が続いています。
11月10日は13.220人という発表がありました。
過去最多数です!
多くがワクチン接種を2回した人が感染、もしくは再感染ということになっていますが、春など早期に接種した人の効力が失われていることが考えられます。
さて、コロナが始まって日本ではコロナに打ち勝とうということでアマビエが色々な所に登場しました。
こちらでも感染者数が過去最高になったことで、今日はコロナに打ち勝とうという思いをこめてMade in ウィーン・・・ウィーン産のアマビエをお届けします。
アマビエは江戸時代後期に製作されたとみられる瓦版(今で言う号外のようなもので、時事性・速報性の高いニュースを扱った印刷物)に類する刷り物に、絵と文とが記されている。
肥後国(現熊本県)の夜ごとに海に光り物が起こったため、土地の役人がおもむいたところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6ヶ年の間は諸国で豊作がつづく。しかし同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる。(ウィキペディアより)
日本ではこのアマビエが新型コロナウイルス感染症の”予防”になるとして昨年2月27日頃からTwitterで広がり始めたようです。
4月頃からは日本各地の仏教寺院や神社などでもアマビエが見られるようになりました。
疫病よけの効果があるとされているからです。
私も何度かニュースで取り上げられているのをテレビで見ました。
そこでウィーンでもこのアマビエをということで私の奥さんが羊毛フェルトで制作しました。
こちらがMade in ウィーンのアマビエです。
このアマビエは実際に商品として契約店にいくつか並べられていて販売されています。
もちろんアマビエとは何かという解説も付けていますので、地元ウィーンの人にもアマビエの存在が少しずつ知られるようになりました。
疫病よけ=コロナに打ち勝つということから日本発のCoolなキャラクターであるアマビエがウィーンでも頑張っています。
いつも"ウィーンの街を公認ガイドと歩いてみませんか?"を訪れて頂きありがとうございます。
早いもので今日から9月です。
夏休みは今週で終わり、6日から学校も始まります。
今日はウィーンの街とは直接の関係はないのですが、ウィーン発のオリジナリティーある芸術的なハンドメイドを宣伝させて頂きたいと思います。
羊毛フェルトを御存知でしょうか?
羊毛を特殊な針でつついて繊維を絡めながら様々な形に仕上げる手芸の一種です。
動物やアクセサリー、マスコットなど色々な形を自由に作れます。
日本ではニードフェルトとも言われているかもしれません。
手芸コーナーにも羊毛フェルト部門があると思います。
実は私の奥さんが数年前から趣味で始めた羊毛フェルトが、知り合い枠から広がって、一般に売れています。
以前ここでアマビエも紹介しました。
うちの奥さんはもともと植物学を学びましたが、美術の素質があり、クリエイティブな発想の持ち主で、日本に行った時に羊毛フェルトの世界と出会い、興味を持ってやり始めたというわけです。
こちらでも羊毛フェルトはクリスマス市やガーデニングショップ、雑貨屋などで少ないですが見られますが、まだまだ未知の世界で、それこそ特定の人にしか知られていません。
自分の奥さんのことを称賛するわけではありませんが、シェーンブルン宮殿のクリスマス市などで売られている物よりはるかに質の高い物を制作しています。
また、ペットなどでも写真を見せて頂ければなるべくそっくりに製作できますし、御希望に応じた大きさで
製作できます。
等身大も可能です。
"Tomofelt"というブランド名でこちらで会社登録しています。
ホームページ内の写真をクリックすると拡大できます。
テキストはドイツ語で、ホームページ上からの商品発送の準備はまだ整っていませんが、お問合せや注文はホームページ上からメールで受け付けています。
奥さんは日本語もわかるので日本語でも大丈夫です。
日本でもコロナに打ち勝とうということでアマビエが色々な所に登場していますね。
今日はMade in ウィーン・・・ウィーン産のアマビエをお届けします。
アマビエは江戸時代後期に製作されたとみられる瓦版(今で言う号外のようなもので、時事性・速報性の高いニュースを扱った印刷物)に類する刷り物に、絵と文とが記されている。
肥後国(現熊本県)の夜ごとに海に光り物が起こったため、土地の役人がおもむいたところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6ヶ年の間は諸国で豊作がつづく。しかし同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる。(ウィキペディアより)
日本ではこのアマビエが新型コロナウイルス感染症の”予防”になるとして2月27日頃からTwitterで広がり始めたようです。
4月頃からは日本各地の仏教寺院や神社などでもアマビエが見られるようになりました。
疫病よけの効果があるとされているからです。
私も何度かニュースで取り上げられているのをテレビで見ました。
そこでウィーンでもこのアマビエをということで私の奥さんが羊毛フェルトで制作しました。
こちらがMade in ウィーンのアマビエです。
このアマビエは実際に商品として契約店にいくつか並べられていて販売されています。
もちろんアマビエとは何かという解説も付けていますので、地元ウィーンの人にもアマビエの存在が少しずつ知られるようになりました。
疫病よけ=コロナに打ち勝つということから日本発のCoolなキャラクターであるアマビエがウィーンでも頑張っています。
いつも"ウィーンの街を公認ガイドと歩いてみませんか?"を訪れて頂きありがとうございます。
今日はウィーンの街とは直接の関係はないのですが、ウィーン発のオリジナリティーある芸術的なハンドメイドを宣伝させて頂きたいと思います。
羊毛フェルトを御存知でしょうか?
羊毛を特殊な針でつついて繊維を絡めながら様々な形に仕上げる手芸の一種です。
動物やアクセサリー、マスコットなど色々な形を自由に作れます。
日本ではニードフェルトとも言われているかもしれません。
手芸コーナーにも羊毛フェルト部門があると思います。
実は私の家内が数年前から趣味で始めた羊毛フェルトが、知り合い枠から広がって、こちらで一般に売れ始めてきました。
家内はもともと植物学を学びましたが、美術の素質があり、クリエイティブな発想の持ち主で、日本に行った時に羊毛フェルトの世界と出会い、興味を持ってやり始めたというわけです。
こちらでも羊毛フェルトはクリスマス市やガーデニングショップ、雑貨屋などで少ないですが見られますが、まだまだ未知の世界で、それこそ特定の人にしか知られていません。
自分の奥さんのことを称賛するわけではありませんが、シェーンブルン宮殿のクリスマス市などで売られている物よりはるかに質の高い物を制作しています。
また、ペットなどでも写真を見せて頂ければなるべくそっくりに製作できますし、御希望に応じた大きさで
製作できます。
大変ですが等身大も可能です。
ホームページがありますので、是非ご覧になって下さい。
ホームページ内の写真をクリックすると拡大できます。
"Tomofelt"というブランド名でこちらで正規に会社登録もしています。
テキストはドイツ語で、ホームページ上からの商品発送の準備はまだ整っていませんが、お問合せや注文はホームページ上からメールで受け付けています。
家内は日本語もわかるので日本語でも大丈夫です。
ウィーンの街は旧市街を含め、かなりの広さが世界遺産となっていて、荘厳な建造物が多く建ち並ぶ上品さと優雅さを備えたかつての帝国の都を今でも感じることができます。
言ってみれば街全体が博物館みたいですね。
観光客の皆さんにとって重要なものはガイドブックなどにもある程度紹介されていますね。
今日は、地元では非常に有名ですが観光的にはまず知られていない中世のモニュメント的なものを紹介します。
こちらは"Spunnerin am Kreuz"(シュピンネリン・アム・クロイツ)と言われる地元で知られたゴシック様式の記念像みたいなものです。
これはウィーン中心部から離れた10区のTriester Sstraßeの通り沿い、Wienerbergに立っています。
ここはウィーンの街中ではウィーンの森を除いて最も標高が高い所で、ここからまた南へ向かって下り坂になっています。
通常の市内観光でここを通ることは多くありませんが、ウィーンの森の南側などに行く時にはよく通りますので、私もここを通る時には必ずと言っていい程これを御案内しています。
これは14世紀の終わりにMichael Knabによって作られたことになっていますが確かではありません。
もともとここには質素な木で作られた十字架があったようです。
その後15世紀にこれを新しくした後から記録で確認することができます。
1452年にシュテファン大聖堂の北塔を手掛けるHans von Puchsbaumによって現在の形になりました。
高さ16m、土台の部分を含めて5層構造のゴシック様式の教会の塔のように見えます。
真ん中の高さにはそれぞれ4方向に、磔刑、むち打ち、茨の冠、エッケ・ホモを表した大きな像が立っています。
こちらはこのSpinnerin am Kreuzの2ヵ所に見られる年号です。
プレートのように見えますが、これ自体に刻み込まれています。
左上は1452年にこれが作られたこと、右上はこれが修復された年を表しています。
今まで数多く修復されてきました。
<Spinnerin am Kreuzの伝説>
このSpinnerin am Kreuzには、700年以上も前から伝わる若い女性の絶望の伝説があります。
レオポルド公爵の使いが、聖地を征服したオスマントルコを倒すため、若い男性達が十字軍に召集されるという御触れが出されました。
その若い女性の夫がすぐに志願します。
この女性は自分の夫のために赤い十字架を彼の服に縫い付けますが、その際に彼女の涙が服にしみ込んだといいます。
3週間後に時は来ました。
若い女性は夫をこのWienerbergまで送って、2人はここで別れました。
別れの際に彼女は「私はあなたがここに戻ってくるまで、ずっとこの場所であなたを待っています」と夫に約束しました。
この場所には木でできた質素な十字架があり、この場所から南をずっと遠くまで見下ろせました。
夫は妻の言葉を真剣に聞かず、頭の中はこれからの戦いでいっぱいだったようです。
彼女はこの場所に座り、夫が去って行くのを日が暮れるまで見ていました。
次の日の朝、彼女はもうこの場所に座っていました。
彼女は自分の生活のために糸を紡ぐための巻き棒を持参し、糸を紡ぎながら遠くの聖地で戦っている夫の事ばかりを考えていました。
何日も何日も時が経つにつれて、彼女のこの姿はこの界隈に住む人達にとっても日常光景となりました。
当初人々は家で糸を紡ぐようにと説得したのですが、彼女は言うことを聞かず、どんな天候の時でも毎日欠かさず、街の門が閉められるまでここに居続けました。
彼女が織った織物を買う人も多く、彼女が言った価格以上を支払う人も多かったそうです。
そこで"Spinnerin am Kreuz" (シュピンネリン・アム・クロイツ)と言われるようになりました。
彼女は時間はたっぷりあったので、この木でできた十字架を、より立派な石で作り変えようという考えが生まれました。
それが完成したら、きっと自分の夫が戻って来るだろうと確信しました。
そこで名が知られていた親方Michael Knabを訪ね、いくつかの案を見た所、そのひとつが大変気に入りました。
親方から言われた価格は、彼女がその半分ですら支払うことができない価格だったそうですが、親方はこの若い女性の事情を知っていたようで、残りの支払いは後で少しずつでいいからと言って早速作業に取り掛かりました。
石の埃なども全く気にせず、この場所で彼女は今まで以上に熱心に仕事を続けました。
1年後に石の素敵なモニュメントが完成しました。
ここに来るお客さんに今にも夫が戻って来ると言っていたそうですが、聖地の状況がこちらにとって良くないことを誰も彼女に話すことは出来なかったそうです。
人々は彼女の気が狂ったのではないかと思うようになり、彼女は3回目の冬を越しました。
3年の月日が流れ、毎日南を見て夫の帰りを待っていたSpinnerin am Kreuzがある日、ついに大きな群衆を見つけました。
ついに十字軍が戻って来た!・・・この彼女の叫びを聞いた人々がどんどん集まって来てこの場所は大変な人だかりになりました。
本当だ、十字軍が帰って来た!
多くの人々は再会を喜んでいましたが、彼女の夫はいませんでした・・・。
十字軍が帰国し、人々がここからいなくなって静かになり、彼女は神が自分の夫を聖地で死なせたこの運命を受け入れることができませんでした。
日が沈んで行きます。
気を取り直して、紡ぎ車を持って家に帰ろうとした時、暗くなった所から松葉づえをついて大変そうに歩いている男性が見えました。
彼に自分の夫の安否を聞いて、夫が亡くなっていたらもう二度とこの場所には戻ってこないと思いました。
長い髭を生やし、長いもつれた髪のその男性に話しかけようとしたら、彼が頭を上げたので顔を見ることができました。
彼は目を輝かせて言いました。
「私の愛する人よ!」その瞬間に彼は別れの時に言った彼女の言葉を思い出しました。
「お前は本当にここでずっと私のことを待っていたのか?」と静かに涙を浮かべて聞きました。
「はい」とささやき、続けて「あなたが無事に生きて帰って来てくれて本当にうれしい、よかった!」と言い、お互いに抱き合いました。
夫は「ごめん、私は人質となり、怪我のため皆の後について行くことが出来なかったんだよ」
彼女は「あなたは今ここにいるわ、もう何も私達を引き離すことができないわ」と言い、2人は暗闇の中をゆっくり家に向かいました。
それからまもなく"Spinnerin am Kreuz"の夫が戻って来たことが知れ渡りました。
ヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ王朝の居城があった街がウィーンであり、しかも
そのハプスブルグ家から神聖ローマ帝国の皇帝やローマ王が大変多く登場していますので、
このウィーンの街は皇帝の居城であったわけで、ヨーロッパの他の街とは歴史的な立場というものが全く違っています。
ウィーンの王宮にある宝物館に行くとその辺の流れがよく理解できるものがたくさん展示されています。
すでにこのコーナーでもオーストリア帝国帝冠や神聖ローマ帝国の帝冠、2680カラットのエメラルド、無敵の力を持つ聖槍、黄金の水差しと水盤などをすでに紹介しています。
今日はそこからまたひとつ取り上げようと思います。
こちらは"黄金のバラ"
(Goldene Rose)と呼ばれている豪華な生け花?です。
これは1818年~1819年に、
Giuseppe SpaganaとPietro Paolo Spagnaによってローマで製作されたものです。
高さが60cmの黄金のバラです。
ローマ教皇は四旬節の第4日曜日に黄金のバラを祝福して親しい人達に贈るという習慣がありました。
このバラはローマ教皇ピウスVII世がフランツII/I世の4番目の皇后カロリーナ・アウグスタに1819年に贈ったものです。
よく見るとこのバラは全部で13あり、頂点のバラはキリストを象徴するということです。
残りの12のバラはキリストの12使徒を象徴します。
一番上の13番目のバラには香料が入れられているということです。
このような工芸品にも宗教的な意味合いを示すものが多く取り入れられています。
そのような意味がわかるとこのような工芸品はもっとおもしろく見えてきますね。
ウィーンのシュテファン大聖堂は1147年から現在に至るまでの約870年間、このウィーンの中心部でずっと歴史を見つめ続けて来ました。
シュテファン大聖堂自身も時代と共に自らも改築や修復を重ねていますし、今もなお修復されています。
それだけ歴史ある重要なシュテファン大聖堂は見所も豊富で、歴史的に重要な物がたくさんあります。そのためシュテファン大聖堂だけでもしっかり見たら、大変時間がかかります。
このコーナーでもシュテファン大聖堂はよく話題にしますし、すでに色々な言われある物を
紹介しています。
シュテファン大聖堂の有名な説教壇、当時のステンドグラス、記念プレート、
涙を流す聖母マリア、プンメリン、ローマ時代の墓石、モーツァルト最後のお別れの場所、
祝福と幸運を授かるコロマニ石なども是非御覧下さい。
今日はそのシュテファン大聖堂にあるオーストリア3大ゴシック祭壇のひとつに数えられる
ヴィーナーノイシュタットの祭壇(Wiener Neustädter Alter)について少しまとめてみたいと思います。
参考までにSt.Wolfgangの傑作祭壇も御覧下さい。
ヴィーナーノイシュタットの祭壇は
シュテファン大聖堂に入って、一番左の
側廊(通称女性の廊)の一番奥に見られ
ます。
この祭壇はプレデラ(祭壇下の横に細長い飾り台)に記されている年代から分かる通り1447年にヴィーナーノイシュタットのベルンハルトシトー修道会の
ために作られました。
この祭壇はハプスブルグ家の皇帝フリードリヒ3世が寄進したということになっています。プレデラにはA.E.I.O.U.の有名なフリードリヒ3世のモノグラムを見ることが
できます。オーストリアで現存している二重扉の両開き祭壇では最も古い祭壇のひとつで
あり、このタイプはFlügelalter (フリューゲルアルタール)とドイツ語でよく言われます。
ヴィーナーノイシュタットはウィーンから車で60km程南に行った人口43.000の街で、
フリードリヒ3世の宮廷が置かれていました。
専門家の間でこの祭壇は、ヴィーナーノイシュタットの地元の工房で当時製作されたとされています。
祭壇には左右それぞれ2枚の計4枚、プレデラにも左右1枚、計2枚の扉があります。
このタイプの祭壇には必ず扉を閉めた状態でも見られるように、扉の外側にもそれぞれ
絵が施されています。
上の写真は一番外側の扉を開けた状態で、外側の扉の内側と、閉まっている内側の扉の外側の計16場面が見られます。
ペテロ、パウロ、アンドレアス、洗礼者ヨネ、福音書記者ヨハネ、フローリアン、セバスチァン、ルペルト等たくさんの聖人達の絵を見ることができます。一箇所に3人の聖人達が並んでいます。
全ての扉の外側と内側に描かれている聖人の数は72人です。
昔は日曜日に開けられ、平日は閉じられ、重要な教会祭日の時には全て開けられました。
現在のご時世では、閉じられている祭壇の状態を見るのが珍しいですね。
今は四旬節ですから閉じられています。
こちらが全開しているヴィーナーノイシュタット祭壇です。
シトー修道会は厳しい会則があって、全体を彫像で表現できるのは聖母マリアとイエスだけです。
ウィーンの森にはハイリゲンクロイツ修道院という有名なシトー修道会があります。
そのためここでのテーマは聖母マリアとキリストで、素晴らしい木彫りの群像を見ることができます。
祭壇中央一番上が聖母マリアの戴冠で、神とイエスがその横に見られます。
中央下が幼子イエスを抱いたマリア、左に塔を持ったバルバラと右に剣を持ったカタリーナが見られます。
左上はマリアの戴冠、左下はイエス誕生、右上はマリアの死、右下は三博士の崇拝を見ることができます。
プレデラの左扉は、受胎告知、エリザベスの訪問、右扉はキリスト誕生、三博士の崇拝を
見ることができます。
プレデラのゴシック様式の透かし細工も素敵です。
シュテファン大聖堂に入ったらこの祭壇は是非じっくり見るべきでしょう!
最近また宝物館を御案内することが多くなりました。
ここはハプスブルグ家が代々にわたって集めた世俗の財宝や教会の財宝、神聖ローマ帝国
時代の貴重な物やブルゴーニュ公国のものなども多くあり、ヨーロッパでも類を見ない
素晴らしい博物館となっています。
このコーナーでもオーストリア帝国帝冠や神聖ローマ帝国の帝冠、2680カラットのエメラルド、無敵の力を持つ聖槍などをすでに紹介しています。
今日はその宝物館から黄金の素晴らしい工芸品を少し紹介します。
それは黄金の水差しと水盤です。
これは1571年,スペインの工芸家が製作したもので、金10.5kg、
水差しの高さが34.5cm,水盤の
直径が61.5cmもあり、部分的な七宝細工が施されています。
このセットは、ハプスブルグ家の
シュタイヤーマルクのカール2世大公(1540~1590)がバイエルンのマリアと結婚した時にケルンテン領から贈られたものです。
元々は宗教的な意味合いはなかったそうですが、17世紀以降洗礼に使われるようになったということです。
水差しにはケルンテンの紋章が見られ、
また、水差しを取ると、その水差しが載せられている水盤の底にもケルンテンの紋章
が施されています。
これはガラスケースの中に収められていて、薄暗い館内でもひときわ目立っています。
このような工芸品を製作した当時の人々はすごいですね。
ウィーンに見られる多くの工芸品などは単純にハプスブルグ家が所有した・・・という意味だけではなく、ヨーロッパの歴史の中で重要な意味や伝統を持ったものが数え切れない程あります。
そのような意味がわかるともっと別のものに見えてきますよね。
何も知らなくてただただ見ているのとは大違いです。
ウィーンの宝物館にはそのようなものが目白押しに見られるわけで、前回は無敵の力を備えているとされる聖槍について少し紹介しました。
この瑪瑙の大鉢は皇帝フェルディナント1世が亡くなった後、その息子のマクシミリアン2世
やその兄弟が、"絶対に譲渡不能な宝"と宣言されたもののひとつです。
おそらく4世紀にキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の宮廷で作られたものと言われています。
単一の原石から切り出されていて、ハプスブルグ家の宝物の中でも最大傑作のひとつと
言われてきました。
左右の取っ手を含めて幅が76cmもあります。
実際にこの瑪瑙の大鉢は古代から伝わる貴石彫刻の傑作というよりも、自然の奇跡があるとされているため、大変に貴重な物だということになっていたようです。
その奇跡とは、光線の加減によって、"XRISTO" (キリスト)の文字がこの鉢の底に現れると言われています。
そこからこれは聖杯だとも言われるようになったそうです。
ヨーロッパの宗教的工芸品などにはそのような奇跡話しや伝説がたくさんあります。
ウィーンの王宮一角にある宝物館(Schatzkammer)は伝統を持った歴史的に興味深い物が数えきれないほど展示されています。
ヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ王朝の、そしてそのハプスブルグ家にかなりの時代にわたって神聖ローマ帝国の皇帝やローマ王の称号が置かれていましたからこのような独特の素晴らしい博物館があるわけです。
オーストリア帝国帝冠や神聖ローマ帝国の帝冠、2680カラットのエメラルドなどをすでに紹介しています。
さて、今日は無敵の力が備わっているといわれる聖槍について少し書きたいと思います。
この聖槍は、おそらく774年にハドリアヌス1世ローマ教皇が
カール大帝に贈ったと考えられています。
つまりカロリング朝時代です。
長さ50.7cmで、銅、鉄、真鍮、金、皮革が使用されています。
槍の中央部分にはイエス・キリストが磔になった時に使用された釘が据え込まれているとされています。
11世紀には実際に十字架に使用された釘と見なされていて、
13世紀にはロンギヌスがキリストの脇腹を刺した聖槍ということになったようです。
金が巻かれたのは14世紀で、カレル4世の時代です。
「主の槍と釘」という銘が刻まれています。
槍の中の釘は真鍮製で、でこぼこのような形をしていて、十字架が施されていることがわかります。
955年のレヒフェルトの戦いで、マジャール民族をオットー1世が破った時も、この聖槍の力によるものとされています。
オットー時代には王者の統治と力を示すシンボルであり、無敵の力が備わっているとされました。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝に倣って、権力の象徴を受け渡すことによって、古代ローマ帝国とその後800年カール大帝から始まる神聖ローマ帝国を結びつようとする意図に基づいていたようです。
アドルフ・ヒトラーの野望がこの聖槍と結びついている話も有名ですね。
ヒトラーをこの聖槍をドイツに持ち去ることになります。
実際に聖槍はいくつか世界に存在していますが、このウィーンの宝物館に置かれている聖槍こそもっとも由緒正しい物とされています。
さぁ~、宝物館に行ったら見逃さずじっくり観察して下さい!
ウィーンの博物館や美術館には歴史的にとても重要で、話題性があるものがたくさん展示されています。これもヨーロッパで一番長く続いたハプスブルグ王朝の宮廷のおおもとがこの
ウィーンの街にあったことが一番大きな理由だと思います。
このコーナーでも、宝石の花束、2680カラットのエメラルド、オーストリア帝国の帝冠、
神聖ローマ帝国の帝冠など、歴史的重要な工芸品、美術品などを時間を見つけては簡単に
紹介しているわけですが、今日はルネッサンス時代の傑作である有名な黄金の塩入れについて少しまとめてみます。
この黄金の塩入れサリエラは
1540年~1543年にフィレンツェで生まれた金細工師であり、彫刻家のBenvenuto Cellini(ベンヴェヌート・チェッリーニ)によって彼がパリ滞在中、フランスワ1世からの依頼により製作されました。サリエラとはイタリア語で、塩とか胡椒入れという意味です。
その後、チロル大公のフェルディナント2世に贈られたものです。
高さ26cm,幅33.5cmで、素材は金、一部七宝で、台座は黒檀です。
こちらはサリエラを反対側から見ています。
自らの記録によれば、1枚の金板から型なしに打ち出されていて、地球を表しているそうです。
海と大地を寓意的に表す人物2人が向かい合った形になっています。
両者が足を組んでいますが、海と大地の入り組んだ関係を表現しています。
こちらの写真の左側にいる男性は海であり、中央に見られる豪華な船が塩入れです。
反対に右側の美しい女性が大地であり、1枚目の写真に見られるように神殿が見えますが、これが胡椒入れとなっています。
台座は、東西南北や、朝、正午、夕方、深夜といった人間の生活に関係するアレゴリーが施されています。
余談ですがこのサリエラに関する有名なエピソードがあります。
2003年にこのサリエラが美術史博物館から盗まれました。
これは美術史博物館の現在ではヴェネツィア派の部屋に、以前はラファエロの名画があった部屋に置かれていました。
犯人は防犯アラームの専門会社で働いていたその世界のプロで、美術史博物館のセキュリティーの甘さを指摘し、それが理解されなかったことから、それを証明するために自ら美術史博物館に忍び込んでこれを盗みました。
犯人の名前はRobert Mangです。
犯行時間は何と1分もかからない46秒以下と言われています。
地元では大変な話題になりました。
犯人の顔が公開され、中々のいい男だったので、地元では逆に獄中にいる彼のファンができたぐらいです。
結局無事に戻ってきて、2006年3月からは再び美術史博物館で見られるようになりました。
現在では美術史博物館のKunstkammerコーナーで見ることができます。
オーストリアは9つの州があり、それぞれが個性を持ち、美しい風景が国内に広がっていますが、その中で映画サウンド・オブ・ミュージックでも登場し、オーストリアの宝石箱とも形容される大小70以上の氷河から生まれた美しい湖が点在するザルツカンマーグートには
有名な街がいくつもある中で、以前ここでも話題にした、私も大好きな街のひとつであるSt.Wolfgang(ザンクト・ヴルフガング)には、白亜の教会があり、有名なホテル"白馬亭"があることで知られています。
この街の名の由来になっている教会St.Wolfgangには、オーストリア3大ゴシック様式祭壇のひとつに数えられている素晴らしい祭壇があります。
こちらの教会がPfarr KircheSt.Wolfgangで、教区教会とでも日本語で言いますでしょうか。湖の反対側からでもこの教会はよく目立ち、白馬亭のすぐ横に立つこの街のシンボル的存在です。
確かな記録としては12世紀になってから登場していますが、伝説によれば聖人ヴォルフガング自身によって10世紀に作られたとされています。
聖ヴォルフガングは924年にシュヴァーベン地方の貴族ファミリーの出身で、レーゲンスブルクの司教でもあり、
994年にオーストリアのOberösterreichで亡くなりました。
その彼に捧げられています。
その薄暗い教会内部に入るとゴシック様式の構造がハッキリ見られます。
一番奥にその素晴らしい祭壇が置かれています。
この祭壇はMichael Pacher(ミヒャエル・パッヒャー)によって製作された後期ゴシック様式の傑作です。
ミヒャエル・パッヒャーは1435年にチロルで生まれ、1498年に
ザルツブルクで亡くなったオーストリアで大変重要な画家であり、木彫りの彫刻家でもあります。
この祭壇は1471年12月13日にMondseeベネディクト会修道院長のBenedikt Eck von Piburgから受注したという記録が残されています。
ミヒャエル・パッヒャーはその後、別の教会の祭壇を完成させ、その後1477年から彼の全エネルギーをこの祭壇に注ぎ、仮の工房で製作され、1481年にこの教会のこの場所に置かれることとなりました。
これは左右両側に開かれるようになっている見開き祭壇で、写真ではわかりませんが左右それぞれ2枚の扉があります。
それぞれの扉の外側と内側に宗教的な絵を描く習慣があり、完全に閉じられた時の扉の外側には計4枚、1枚目の扉が開かれた状態で、その扉自身の内側計4枚と、2枚目の扉の外側
計4枚の合計8枚、そしてこの写真のように全開した時の2枚目の扉の内側2枚の計4枚の絵が
見られるわけです。つまり合計で16枚の絵ということになります。
見開き祭壇は当時の習慣では、平日には完全に閉じられ、祝日には1枚目の扉が開けられ、
最も大事な祝日には2枚目の扉も開かれ、祭壇の中が完全に見えるようになるわけです。
今日ではたいてい、教会に置かれている祭壇は、復活祭の前以外平日でも開かれてる状態となっています。
左の写真では外側扉が開かれ、内側扉が閉まっている状態です。
木彫りに黄金が塗られていて、等身大に近い人物像がたくさん見られます。
中央には王様であるイエス・キリストの前に聖母マリアがひざまずき、2人の上には精霊のシンボルである鳩が見られます。
その2人を、天使が歌を歌っていたりと、音楽を奏でて囲んでいます。
画面一番左には聖人ヴォルフガングが教会のモデルを持って立っていて、反対の一番右には聖ベネディクトが立っています。
写真に見られる2枚目の扉の内側の絵4枚は、左上がイエス降誕、左下がキリストの割礼、右上が神殿奉献、右下はマリアの死です。
イエスは生後8日目に割礼を受けます。これによってユダヤ人社会に受け入れられることを示しています。神がアブラハムやその息子達に割礼を施すように命じています。
イエスは降誕から40日後に神殿で祭司から聖別されるわけです。
この祭壇の下をよく見るとPredella (プレデラ)と呼ばれる横に細長い飾り台があります。
そこも見開きになっていて、左の絵はマリアがエリザベスを訪問するシーン、右の絵はエジプトへの逃避を表しています。
プレデラが閉じられた状態では、3枚目の写真に見られるように、4人の教会博士が描かれています。
プレデラその中央には聖三王がキリストを拝んでいます。
17世紀の後半オーストリアにバロック様式が流行し、たくさんの教会がバロック化されていきます。その時に、このミヒャエル・パッヒャーの祭壇も別のバロック様式の祭壇に取り換えられるはずでしたが、この素晴らしい傑作の真価が認められてそのままここに置かれるようになりました。
美しいザルツカンマーグートのこの街に、大変な中世の傑作があるわけです。
是非お見逃しのないように!
ウィーンの王宮(Hofburg)は様々な建築様式から成り立っていて非常に複雑です。
そこには多くの見所が存在しますが、王宮での博物館というと経験上、エリザベート博物館や皇帝の部屋に行かれる方が多いと思います。
でも時間があれば是非宝物館(Schatzkammer)にも足を延ばしてみて下さい。
ここには歴史的に大変貴重な物や興味深いものがたくさん展示されています。
この宝物館の歴史的貴重な物として最近、オーストリア帝国帝冠や神聖ローマ帝国の帝冠
なども紹介しました。
今回は王冠ではなくエメラルドです。
こちらのエメラルドは2680カラットという大変巨大な物で,高さ10.9cm,長さ8.5cmという大きさです。
これはいわゆる器であり、極力エメラルドが無駄にならないように原石の形を生かして製作されたので、形がちょっと独特です。
この器の蓋の部分も、この器からくり抜いてカットされたもので、金七宝細工細工が施されています。
このエメラルドは皇帝ルドルフ2世がコロンビアのムーゾ鉱山から入手したとされていて、1641年にプラハで製作されました。
この巨大なエメラルドは宝物館のこの空間の中央に、単独でガラスケースの中に入って展示されています。
ハプスブルグ家はヨーロッパで一番長く続いた王朝で、そのハプスブルグ家の頭上に
ほぼ神聖ローマ帝国の皇帝やローマ王の称号があった・・・その彼らの都はウィーンが中心だったので、ウィーンにはこの宝物館に限らず、歴史的重要な様々な物を見ることができるわけです。
王宮の宝物館には大変貴重で、歴史的にとても重要な物がたくさんあるわけですが、
前回はルドルフ2世の帝冠(オーストリア帝国の帝冠)を紹介しましたが、今日は同じ帝冠でももっと古い神聖ローマ帝国の帝冠について書いてみたいと思います。
この神聖ローマ帝国の帝冠は、10世紀後半(もしかしたら962年)に今のドイツもしくは
ミラノで作られたもので、八角形をしていて、上には十字架が載せられています。
また帝冠の前後の頂部がアーチで結ばれています。
こちらでは神聖ローマ帝国の始まりはカール大帝の800年からと解釈されていますが、
日本の世界史の教科書にはオットー1世が戴冠し、そこから断続的に戴冠式が行われてきた962年からと書いてあると思います。
十字架部分は、1010年~1020年に追加され、頂部アーチはおそらくコンラート2世の時代の1024年~1039年にかけて作られました。
前面部のプレートの高さ約15cm,幅11.2cm,十字架の高さは9.9cmです。
素材は金、七宝、貴石(ダイヤモンド、ルビー、サファイア、エメラルドなど)、真珠
です。
8角形の8という数字は、天と地の接点となる皇帝の象徴です。
前後左右計4枚のプレートにはぎっしりと貴石がはめこまれています。
この写真で見られる正面プレートと、後ろのプレートには12の貴石を見ることができます。
イスラエルは12部族から成り立っていたこと、イエスの12使徒といったシンボル数です。
それ以外の4枚の七宝プレートはキリスト、ダヴィデ王、ソロモン王、預言者イザヤ
が描かれ、神の慈悲、正義、智恵、長寿を意味する文字が記されています。
非常にビザンティン的な特徴が見られるこの神聖ローマ帝国の帝冠は、中世の世界統治の
概念を象徴するものでした。
この頃の王様達は、自分達こそが使徒や大祭司を継ぐものであると考えていました。
オーストリア帝国の帝冠とはまた違ったスタイルですね。
ウィーンの王宮には、色々な博物館が入っていますが、以前話題にしたSchatzkammer (宝物館)には歴史的にとても重要な帝冠を見ることができます。
この帝冠は"ルドルフ2世の帝冠"で、1804年以降は"オーストリア帝国帝冠"と呼ばれているものです。
このルドルフ2世の帝冠ではありませんが、神聖ローマ帝国時代、歴代戴冠式の度に神聖ローマ皇帝の帝冠を使用しました。
その帝冠もウィーンのこの宝物館に置かれているのでいつかまた紹介したいと思います。
このルドルフ2世個人の宝冠は、皇帝の在位期間中の1602年、プラハでJanVermeyen(ヤン・ヴェルメエン)によって製作されたもので、神に仕える皇帝・・・キリストの生きた代理人としての権力の象徴を表しています。
この帝冠は高さ28.3cm,金、七宝、ダイヤモンド、ルビー、サファイア、真珠、紅色ベルベットから成り立っています。
この帝冠は百合の花をモチーフにした帝冠の下の部分、頭部アーチ部分、高位司祭を象徴する司教冠部分と、大きく3つの部分から
成り立っています。
百合の花は8つあり、その周りを真珠が囲んでいます。
天のエルサレムには8つの角が
あると想像されたことから来ています。
8という数字は、天と地の接点となる皇帝の象徴です。
ダイヤモンドはキリストのシンボル、頭上のサファイアは天国、ルビーは王の叡智を表わすとされています。
司教冠部分には4つのシーンが 浮彫りされていて、最高司令官、神聖ローマ帝国の皇帝、
ハンガリー王、ボヘミア王のルドルフ2世の4大称号を表しています。
ルドルフ2世は皇帝マクシミリアン2世の息子のひとりで、 神聖ローマ帝国の皇帝
(1576年〜1612年)であり、ハプスブルク家には珍しくウィーンではなくプラハに居城を置いた人物です。
このルドルフ2世の帝冠が、神聖ローマ帝国崩壊2年前の1804年から始まる
Kaisertum Österreich (オーストリア帝国)の正式の表章となりました。
宝物館に入って2つ目の部屋の真ん中に置かれているガラスケースの中に置かれています。
今年6月の始めにメルク修道院に関してシリーズで紹介しました。
そのメルク修道院は今年2014年は、聖人コロマンのまだ腐っていなかったと言われる遺体をバーベンベルクのハインリヒ1世がこの修道院に運ばせた1000年記念の年です。
その記念の年に合わせて、普段見ることができないメルクの十字架が特別に展示されてる
わけですが、その他にも今年だけ特別に見られる物があります。
それはコロマン顕示台です。
コロマンはアイルランド人のいい所の出の巡礼者で(一説には王様の子とも)1012年メルクがあるNiederösterreichのStockerauで不審な身なりや
外国語を話したことからスパイの容疑をかけられ、拷問され、ニワトコの木に絞首刑となりました。
伝説によればコロマンの遺体は腐らず、しかもその枯れていたニワトコの木が再び緑を吹き返したということからハインリヒ1世がコロマンの遺体をこのメルクに運ばせました。
おそらくこの歴史がまだ浅いバーベンベルクの居城に聖人を置きたかったと思われます。
つまりコロマンは1633年までこの地の最初の聖人でした。
この聖コロマンの顕示台は、1752年にJoseph Moserによって製作されたもので、ニワトコの木がモデルになっています。
木の幹には、拷問道具を始め、コロマンが身に着けていたマント、巡礼ぼうしなどを見ることができます。
顕示台は、銀(部分的に金メッキ)、ダイヤモンド、エメラルド、アメジスト、トパーズなどが使用されています。
メルクの十字架と並んで、貴重な物なので普段は見ることができませんが、今年は前述したように記念の年なので展示されています。
マリア・テレジア広場には、美術史博物館と自然史博物館の2つが、女帝の像を真ん中に
して、向かい合って建っています。
観光では圧倒的に多くの割合で、美術史博物館に行きますが、反対側の自然史博物館は
子供達にとっても楽しい博物館なので、美術史博物館とは違って家族連れが目立ちます。
以前この自然史博物館については少し天井画と共に書いていますし、ここの大変重要な
ヴィレンドルフのヴィーナスも紹介しています。
今日は別の話題性がある物を紹介します。
これは「宝石の花束」
(BLUMEN STRAUSS AUS
EDELSTEINEN)
です。
この宝石の花束は、
マリア・テレジア女帝が、最愛な夫フランツ・シュテファンにプレゼントしたもので、マリア・テレジアが夫フランツ・シュテファンのために、ある朝彼の収集品の中にそっと置かせたものということです。
フランツ・シュテファンは神聖ローマ帝国の皇帝であり、(最もマリア・テレジアが国を統治していましたが)学問的に自然研究にも取り組み、動植物、鉱物学にも大変興味があった研究者で、この自然史博物館の基礎を気築いた人物です。
この素晴らしい宝石の花束は、
ウィーンの宝石商の
Michael Grosserによって1760年に作られました。
高さ50cm,重さ2.8kg,全部で
2863個の宝石が使用されています。
その中でダイヤモンドが2012個、
その他の宝石が761個です。
葉はシルクで、花瓶は水晶です。
この素晴らしい宝石の花束は、自然史博物館に入って、正面ではなく、
すぐ右側の階段を上がって始まる鉱物コーナーの4つ目の部屋にあります。
ウィーンの重要な博物館のひとつに自然史博物館があります。
ここには"自然"をテーマにした陸・海の動物のはく製、微生物、恐竜コーナー、人類の歩み、鉱物、隕石・・・等々と様々なものが展示されてます。
その中で考古学上大変重要なもののひとつにヴィレンドルフのヴィーナスがあります。
このヴィレンドルフのヴィーナスは、紀元前28.000~25.000年頃と推定され、旧石器時代のものです。
その時代に"人為的に作られた像"ということで非常に価値が高いもので、日本の高校の世界史の教科書にも載っています。(現在は知りませんが私の時代は載ってました)
高さ11cm,石灰岩で作られていて、シンメトリーに女性の豊満な裸体を表現しています。
頭は大きくて少し右側に傾き、また顔はありません。
髪型なのか、それとも何かをかぶっているのでしょうか。
肩はせまく、腕は細く、重い胸の上に置かれているようです。
腰も力強く、お腹も大きく出ています。
女性部分が意図的に強調されています。
この像は古来の地母神との関係があるでしょうか。
元々代赭石(たいしゃせき)による赤い着色が施されていました。
代赭石とは土状をした軟質の赤鉄鉱で、ドイツ語ではRötelです。
この土の赤色は生命の象徴とされていたそうです。
このヴィレンドルフのヴィーナスは特別なケースに展示されています。
さて、ヴィレンドルフ・・・Willendorfとは、ウィーンから約100km離れた、ドナウ河の最も美しいと言われるオーストリアの世界遺産のひとつであるヴァッハウ渓谷にある、人口1000人にも満たない小さな街です。
その街から1908年にこのヴィーナスが発掘されました。
こちらの写真はWillendorfの発掘された場所に記念として立てられている10倍の大きさのコピーヴィーナスです。
ヴァッハウ渓谷は通常ウィーンから日帰りで、メルク修道院と船下りが一般的ですが、以前このコーナーで
デュルンシュタインの廃墟の古城やヒンターハウスの廃墟の古城なども紹介
している通り、多くの見所があるのんびりとした美しい地域です。
そんな場所から旧石器時代の物が発掘されたわけですね。
ヴァッハウ渓谷入り口にあるメルク修道院は荘厳なバロック建築で、この辺りの風景とよくマッチしています。
すでに メルク修道院については何回かにわたって書いていますが、今年2014年は
このメルク修道院にあるとても貴重な「メルクの十字架・・・Melkerkreuz」を見ることができます。
このメルクの十字架はハプスブルグ家のルドルフ4世によって1363年に作られたもので、この十字架の中にはイエスが磔になったといわれる十字架の木片が収められています。
この木片はバーベンベルク王朝時代の3代目の君主アダルベルトによって1040年にもたらされたものということになっています。
左側の写真は素晴らしい宝石が十字架に施されていて、世俗権力を表し、
右側はその裏側で、真ん中にイエスが磔になっていて、その周りには4人の福音書記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が見えます。
ここでは宗教的権力が表されています。
この貴重なメルクの十字架は普段は展示されていませんので、映像でしか紹介されていません。
しかし、このメルク修道院にとってとても重要な記念の年にはこのように特別に展示されます。
今年2014年は、バーベンベルク王朝の2代目君主ハインリヒ1世が、このメルクの街の守護聖人コロマンのまだ腐っていなかった遺体を、1014年10月13日にこの修道院に運び込んだ日の1000年記念の年というわけです。
このメルクの十字架は是非見て頂きたい貴重なものです!