前回「クリスマスの習慣はどこから来た?」というタイトルで、クリスマスの起源について書きました。
こちらオーストリアのクリスマスは、私達日本のクリスマスとは根本的に違っています。
そもそも私達日本のクリスマスはアメリカナイズされたクリスマスです。
とにかく私達日本にはアメリカの習慣が残念ながら多く取り入れらています。
これはいかに日本とアメリカの関係が深いかという象徴でもあると思います。
こちらオーストリアではサンタクロースがプレゼントを持ってくる・・・
なんてことは絶対ありません。
では誰が持って来るかというと子供のキリスト(Christkind・・・クリストキント)が持ってきます。
だってクリスマスはキリストが生まれたことを祝うものであり、それが12月25日ですね。
ちなみにサンタクロースは、聖ニコラウスから変化したもので、12月6日がニコロ・・・
と地元で呼ばれている日です。
このことについては聖ニコラウスの日12月6日に紹介します。
そのためクリスマス市のことを、こちらではたいてい「Christkindlmarkt」と
呼ばれています。
このクリスマスの時期のことを「ADVENT」アドヴェントと呼んでいます。
日本語でアドヴェントでもいいと思いますが、待降節とか降臨節なんて呼ばれています。
ADVENTはラテン語のadventusから来ていて、「到着/到来」を表します。
もともとAdventus Domini(ドイツ語でAnkunft des Herren)で
人間世界へキリストが到来すること・・・という意味です。
クリスマスイヴから遡って約4週間の期間で、厳密には、クリスマスイヴに一番近い日曜日から遡って4回の日曜日を数えます。
もし12月24日が過去にもありましたが、たまたま日曜日であればそのイヴが
4回目の日曜日となります。
一番早くて11月27日が第1アドヴェントの日曜日、一番遅くて12月3日となります。
ちなみに今年は明日12月1日が第1アドヴェント、12月22日が第4アドヴェントの日曜日です。
当初この習慣は、5世紀後半に聖マルティン祭(11月11日)からと定められましたが、
グレゴリウス1世の時代に4回と定められました。
さて、このADVENT時期に至る所に見られるものを紹介したいと思います。
ウィーンからザルツブルクへ行く時には、国鉄ÖBBでウィーン西駅(Westbahnhof)から行くのが一般的です。
今まではオーストリア国鉄ÖBBしか走っていなかったこの区間に、
2011年12月からwestbahn (ヴェストバーン)という新たな鉄道会社が走っています。
ウィーンの旧市街を歩いていると様々な発見があり、同時になんでこうなって
いるのだろう・・・といった疑問が出て来ます。
もっとも私自身、仕事柄興味があるからかもしれませんが・・・。
ウィーン国際空港から、ウィーンの街中に来るには、
国鉄S-Bahn(S7)、CAT(City Airport Train),
バス、タクシーのどれかでしょう。
値段的に一番高いのがタクシーですが、一番便利でホテルまで直接走ってくれますね。
その次がCATで、片道12ユーロで、Wien Mitteまで
16分と便利です。
バスは8ユーロで、Morzinplatz(Schwedenplatzのそば)、Westbahnhof(西駅)、国連都市、Kagran行きなどがあります。
やはり一番お得なのはS-BahnのS7でウィーン中心部に来る方法です。
モーツァルトの「魔笛の小屋」を9月24日に紹介しましたが、その魔笛に登場するパパゲーノが見られる「Papagenotor・・・パパゲーノの門」があります。
オペラ愛好家にはかなり知られているこのパパゲーノの門は、「Theater an der Wien・・・テアター・アン・デア・ヴィーン」にあります。
ここはよく日本語では、アン・デア・ウィーン劇場とも言われています。
現在世界の多くの国が、12月25日の「クリスマス」を祝います。
ドイツ語ではWeihnachten (ヴァイナハテン)と呼ばれています。
ここオーストリアでも生活の中ではこのクリスマスが年間で一番重要な行事です。
(宗教的には復活祭が一番重要ですが)
以前ウィーンのクリスマス市を紹介しましたが、12月24日まで、街は1か月以上もクリスマスの雰囲気で盛り上がるわけです。
このクリスマスというのはどこから生まれたのでしょうか?
この前11月6日にキリスト教の成り立ちについて書きましたが、313年にキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の時代、おそらく325年のニケーアの公会議で、もしくは336年12月25日にローマ帝国でキリスト降誕祭が行われているのはほぼ確実とされていることもあり・・・あるいは354年とも?・・・いずれにしても325年~354年にイエスの生まれた日が12月25日に定められたようです。
聖書の中にはイエスがいつ生まれたかというハッキリした記述はありません。
当時ローマ帝国は多神教で、キリスト教はそのひとつであったわけです。
キリスト教は様々な異教に出会い、その祝祭日をキリストの誕生日にせざるおえなかったわけです。
言い方を変えれば、当時ローマ帝国で普及していた太陽神側にもいい顔をし、自ら認めたキリスト教側にもいい顔をして・・・というように帝国をまとめるための苦肉の政策のようにも見えます。
以下3つの大きなお祭りがクリスマスのベースとなっています。
①その多神教の中での太陽神ミュトラスを信仰するミトラ教はとても重要で、
太陽神の誕生を祝う冬至祭が12月25日であったこと。
②農耕の神サトゥルヌスを崇め、豊穣を祈願するお祭りのサトゥルナーリア祭、
これは紀元前217年頃からあったとされています。
③北欧のユールの祭りからも影響を受けています。
北欧においてもケルト、ゲルマンが信仰していた神々やその風習が取り入れられ、
収穫の感謝と太陽の復活を祝う冬至のお祭りがありました。
これらの習慣が現在私達の時代のクリスマスに密接な関係があるわけです。
オーストリアはスキー王国であり、国民的スポーツとしてサッカー同様に人気があります。
国内には国際的に有名なスキー場から小さなスキー場まで様々です。
オーストリアにはブルゲンラント州を除いて、ウィーンを含め、全ての州にスキー場があります。
総数258箇所です。
でも年々スキー場のゴンドラ、ケーブルカー、リフトの値段が高くなっており、全体的にスキー人口が減っている傾向です。
以下主だったスキー場の2013/2014年の大人1日券の比較です。
トップのSki Arlbergは、有名なSt.AntonやLechも含んでいます。
このように代表的な名称で呼ばれていますが、実際はいくつかのスキー場に分かれている所も多いです。
ウィーンの楽友協会ホールは、世界で最も音響のいいホールのひとつで、この場所は抜きに出て世界的に有名ですね。
そこまで有名なコンサートホールはありませんが、それでもこのオーストリアには有名なコンサートホールが結構あります。
その中で作曲家の名前がそのままホールの名称になっている「ハイドンザール」について少し書きたいと思います。
ハイドンはオーストリアでの3大クラッシックの作曲家の1人ですね。
このコーナーで10月15日にベルヴェデーレ宮殿について書きましたが、バロック建築という観点から見ると、シェーンブルン宮殿よりも美しいのではないでしょうか。
このベルヴェデーレ宮殿の上宮と下宮には、それぞれ大理石の間という宮殿の中央に作られている素敵な空間があります。
その上宮の「赤大理石の間」とも呼ばれている天井に描かれたフレスコ画はとても見ごたえがあります。
海外旅行をすると、その国の物価水準が当然気になりますよね。
オーストリアはユーロ通貨が使われているわけですが、
街中の表示価格を見て、
日本円に換算して、
~¥ぐらいか~・・・という計算を多くの方がされるでしょう。
私だって、オーストリアから他のヨーロッパの国々に行けば、ユーロ圏であればオーストリアの物価水準と単純に比較し、またユーロ圏ではない国に行くと、やはりユーロに換算して物価を計っています。
これは当たり前のことだと思います。
しかし、外貨で換算するということは、為替レートというものがあるので、
それは変動しますね。
その時のレートを基本にして計算しますので、例えば円安の時、円高の時では
大きな差が生じます。
例えば2007年の時に日本に休暇で帰った時、1ユーロ≒165円(手数料なし)で、かなりの円安だったんですね。
これで計算すると、ここオーストリアで、100ユーロを基本にすると、単純に日本円では¥16.500となるわけです。
でも現在は、手数料なしの1ユーロ≒133円ですから、¥13.300となりかなりの差が
あるわけです。
実際はここオーストリアで100ユーロを出すということは、日本で言えば1万円札を出すという感覚です。
1ユーロはつまり100円玉を使うという感覚ですね。
為替レートに関係なく、こちらの方が本来の物価水準の目安です。
日本で生活をしているのであれば、外貨に関係がある人を除いて、
全て「¥」で社会が動いています。
ここオーストリアにいる限り、基本はユーロしか使いませんので、本来為替レートは普通に生活する上では必要ありませんね。
シェーンブルン宮殿は重要なバロック建築であると同時に、世界遺産にも登録されています。
ここに来たらメインはもちろん宮殿の内部見学です。
宮殿内部はフレスコ画が素晴らしい「大広間」を始め、モーツァルトが御前演奏した「鏡の間」、マリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフ1世、エリザベート皇后を始め、ハプスブルグ家の多くの人々が登場し、個性ある美しい部屋が数多くあります。
宮殿見学が終わったら、庭園でのんびりしたいですね。
この時期クリスマスが後何日したら来るんだろう・・・とワクワクして待つ時期のことを
と呼んでいますが、(厳密にAdventは、
クリスマスイヴから遡っての約4週間を指します)
それに合わせてウィーンの街中ではChristkindlmarkt(クリストキンドルマルクト)
・・・いわゆるクリスマス市が至る所で開かれます。
クリスマスの習慣などについては、まだ別の機会に御紹介したいと思いますが、
今日はウィーンの主だったクリスマス市のオープン時間を掲載したいと思います。
(「ウィーン観光で役立ちそうな情報」でも紹介しています)
速い所では、11月15日からオープンしています。
ウィーンのこの時期に来られる方は、是非参考にして下さい!
ハプスブルグ家事実上最後の皇帝(実際は後ろから2番目)のフランツ・ヨーゼフ1世の
奥さんが、バイエルンのエリザベート(愛称「シシィ」)というのは有名ですね。
ウィーンは多くのエリザベートファンの方が訪れます。
街中には、彼女の一番知られた肖像画を使ったお土産、宣伝、お土産袋など至る所に見られます。
エリザベートの跡を辿ったり、記念像を見る方も多いわけですが、たいていの方はリンク沿いにあるVolksgarten(フォルクスガルテン・・・国民庭園)にある像を見に行かれるでしょう。
ウィーンはとても古い歴史ある街です。
でも実際は過去と現在がとても調和してる街だと思います。
ウィーンの旧市街で一番古い所は1~4世紀ローマ時代の駐屯地として栄えた部分があり、
当時はヴィンドボナ(Vindobona)と呼ばれていました。
そのずっと後の時代、ハプスブルグ家の前の中世のバーベンベルク王朝時代(976~1246)の12世紀終わりに、レオポルド5世によって城壁が築かれていきました。
その後オスマントルコの1回目のウィーン包囲の跡、1547年に更にBastion・・・Bastei(バスタイ)・・・堡塁が築かれていき、最終的に19世紀半ばの1858年からフランツ・ヨーゼフ1世皇帝の時代に取り壊しが行われ、リンク道路が建設されることになります。
現在ウィーンの中心部には、当時の城壁跡を思わせる箇所が8箇所あります。
Mölkerbasteiを2つ分けて数えて、Coburgbastei、Ruprechtskirche界隈、Stubentor,Dominikanerbastei,Augustinerbastei,Burgtorの計8箇所です。
ただ、Dominikanerbastei,Burgtorも数には入っていますが、厳密にはそこにあっただろう・・・ということを推測できる程度です。
大作曲家ベートーヴェンはドイツ人ですがウィーン、ウィーン近郊にたくさんの足跡を
残しました。
ウィーンの街だけでもベートーヴェンの跡を辿ったら時間がいくらあっても足りません。
ウィーンの南の森には温泉街で有名なBaden(バーデン)があります。
この街はローマ時代からの温泉地で、ハプスブルグ家の避暑地でもあり、
数多くの有名な音楽家が住みました。
この街にベートーヴェンは計15回、少なくとも7つの家に住みました。
10月27日にこのコーナーで「秋のウィーンの森」について書きました。
その時にチラッとドナウ河が登場したわけですが、今回はそのドナウ河について少し書いてみたいと思います。
ドナウ河は全長約2.860kmあり、ドイツを水源として、オーストリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナと10ヵ国を通り、最後は黒海まで流れています。
その中でオーストリアのドナウは約350kmです。
全長2800km以上あるドナウ河の最も美しい所と言われている有名な「ヴァッハウ渓谷」は、幸いにしてこのオーストリアに位置しています。
ドナウ河は昔から重要な役割を担ってきました。
ギリシャ人達ももちろんドナウは知っていましたし、ローマ時代にはドナウ河が国境ともなり、そのドナウ河沿いには重要な街がいくつもありました。
ウィーンもその街のひとつです。
ウィーンのドナウ河は、永年からの河川工事のおかげで、現在見られる姿になっています。
ウィーンのドナウ河は大きく分けて4つあり、本流、新ドナウ、旧ドナウ、運河です。
ウィーンは歴史的にドナウ河の氾濫に悩まされてきました。
雨が降ったり、雪解け水が入り込むとすぐに水が溢れてきたのです。
そこで、河川工事が何回も行われては流されて・・・そんな繰り返しでした。
昔の地図を見ると、ウィーンのドナウ河は、網の目のようにぐにゃぐにゃになって、広範囲にわたって流れていました。
現在の姿になったのは、リンク道路建設時代に、昔の中心に流れ込んだラインを運河とし、さらに本流として、そのぐにゃぐにゃをほぼ直線的に川幅をたっぷりとり整備しました。
その100年後の1987年に、2回目の大きなドナウ治水工事を行った結果、新ドナウが作られます。これは、本流と並行して流されています。
さらに昔の支流が、新ドナウのずっと奥に残されていて、大きく全部で4本あるわけですね。
ウィーンに入る直前で、ドナウは本流と新ドナウに分かれ、その後本流から街の中心に行く運河が枝分かれしていきます。
ちなみに新ドナウを作る際、本流の隣に作ったわけですから、真ん中が盛り上がった部分が生じ、そこを「Donauinsel」ドナウインゼルという人口の島にしました。
全長20km以上にわたってウィーンを横たわっています。
8月20日に「知られざる中庭風景」、10月9日に「知られざる美しい中庭風景 2」を紹介しましたが、ウィーンの街は絵になる
中庭がたくさんあります。
毎回書いていると思いますが、そうような中庭は、普通に街中を歩いていると外からは見えないので全くわかりません。
でもウィーンの建物は、ある意味では中庭だらけ・・・と言ってもいいですね。
だって建物はほぼ中庭を囲むように作られているからです。
この中庭をウィーンで全て見るのは時間がいくらあっても足りません。
今回は2枚共、王宮(Hofburg) の中庭です。
オーストリア世界遺産のひとつであるシェーンブルン宮殿は、
オーストリアでは最も観光の方が多く訪れる場所であると同時に、地元の皆さんも多く訪れます。
シェーンブルン宮殿はハプスブルグ家の夏の離宮で、マリア・テレジア女帝の時代に現在の姿になっています。
もともとは宮廷の狩猟の土地として、1569年マクシミリアン2世皇帝が入手したことから始まり、その息子のマティアス皇帝がシェーンブルンの言われとなる「美しい泉」を見つけたわけです。
当時森だったこの場所は、素晴らしいバロック宮殿と庭園になっています。
ウィーンには個性ある伝統カフェがいくつもあります。
一般的に単独のカフェハウスをイメージしますが、ザッハートルテを生んだホテルザッハーのようにホテル自体が有名で、そこのカフェやトルテが知られている場合もあります。
その中で、ウィーンでは一番格式があると言われる「ホテル インぺリアル」のインペリアルトルテも有名で、ザッハートルテに対抗するかのように、ホテルインペリアルが力を入れて宣伝しています。
ホテル インペリアルは元々リンク道路上の建造物として、1865年 Prinzen von Württemberのプライベート宮殿として、Arnold Zenetti によって建てられました。
その後所有者が変わり、最終的に1873年にウィーン万博博覧会の時、フランツヨーゼフ1世皇帝とエリザベート皇后立ち会いのもと、ホテルとしてオープンしています。
ウィーンの街は音楽家だけに焦点を当てても見きれません。
これだけの作曲家が足跡を残した街はウィーン以外にはないでしょう。
以前にも書きましたが、オーストリアにおいての3大クラッシックの作曲家と言えば、モーツァルト、シューベルト、ハイドンですね。
一般的に観光では、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトといった作曲家がウィーンでは特にポピュラーでしょうか。
先日の新聞記事からのものです。
EU-Kommission (欧州委員会)は環境に悪影響を与えるビニール袋の使用を
極力控えるようにという考えを示し、ビニール袋を禁止する方向で動いています。
EUによると、毎年80億以上のビニール袋が捨てられているということです。
これは大変な環境汚染とEUは考えています。
年間約1000万トンのゴミが海に蓄積され、その3/4 がプラスチックであり、
しかもそれらは長くて450年の寿命があるそうです。
そこでスーパーなどで定番のビニール袋について税金を課す、もしくは禁止を考えています。
以下EU主要国のビニール袋の年間1人当たりに使用状況です。
キリスト教なくしてはヨーロッパ文化は語れません。
キリスト教があったからこそ、様々な建築、絵画、音楽等が生まれ、また現在の人々の生活にも
大きな影響を与えています。
実際にキリスト教と言っても、
とにかく様々な宗派があるわけですが、ここではあくまでも
成り立ちに触れます。
キリスト教の世界が少しでも見えてくると、ヨーロッパの街が違って見えてきますし、
教会、修道院、宗教画などがとてもおもしろくなります。
キリスト教はユダヤ教から派生したものです。
古代オリエントでは唯一の一神教の民族であるヘブライ民族からユダヤ教は生まれます。
民族的苦難が多く続くことから、ヘブライ人だけが信じれば救われる・・・という排他的な考え方が生まれます。
紀元前13世紀中頃にモーセが神ヤハヴェとの契約を結びます。
紀元前13世紀頃のイスラエルの民がパレスチナに定住し、
紀元前1021年に12部族から成り立つイスラエル王国が作られます。そのイスラエル王国が紀元前922年頃、北と南に分裂し、北イスラエルは紀元前722年アッシリアの滅ぼされ、その時に10部族がなくなります。その南側がユダ王国となります。首都はエルサレムでした。
そのユダ王国も紀元前587年、新バビロニアに滅ぼされ、
そのバビロン捕囚約50年の間にイスラエル民族の考え方、言ってみればユダヤ教のベースができました。
紀元前539年にユダ王国の人々はユダヤに帰国を許され、ユダヤ教を発展させていき、
エルサレムに再度神殿が作られるわけです。
最初の神殿は紀元前10世紀頃、ソロモン王によって作られ、これが新バビロニアに紀元前587年に破壊され、その後ほぼ同じ場所に再建されることになります。
ユダヤとは、ユダ族が居住していた地方の名前です。
旧約聖書は紀元前1000年頃から書き始められているようですが、正式に決定されたのは、紀元後90年頃です。
ただ・・・
ユダヤ教の中では「旧約」と言われていません。
今回は「花」ではないのですが、散歩をしていてちょっと印象的だったので写真を撮りました。
これはドイツ語でTintlinge,ラテン語ではCoprinus、
日本ではササクレヒトヨタケと呼ばれているキノコです。
ハラタケ科でササクレヒトヨタケ属に属するキノコの一種です。
高さは3cm~12cm程になる中型もしくは大型キノコで、表面は白色で繊維状で
無味無臭です。
幼時は白色ですが、成熟するに従って黒変し、最後は黒インク状に液化して消えます。
この液化は腐るのではなく、ササクレヒトヨタケ自身の酵素による自家消化だそうです。
食べることも出来て、味もいいです。
マッシュルームのような食感です。
ただ食べる場合は黒くなる前の白い状態が一般的です。
日本でも一般的に見られるそうですが、こちらでは晩秋にかけて草地や路傍で多く見られます。
この写真のものも実際に道端に生えていたものです。
先月10月26日は、オーストリア共和国の祝日でした。
その定義に関しては、「10月26日 オーストリア共和国の祝日」に書いていますので
そちらを御覧下さい。
その10月26日の祝日に合わせて、恒例のオーストリア軍のイベントが王宮の英雄広場で
催されました。
10月15日に「ベルヴェデーレ宮殿」を少し紹介しました。
上宮と下宮の2つの宮殿とオランジェリーがあり、上宮の庭園と上宮と下宮の間にも庭園があります。
このベルヴェデーレ宮殿の上宮と下宮は文字通り、高さに差があり、その傾斜をうまく利用して庭園が作られています。
下宮と上宮の高低差は約23mもあります。
ウィーンの街の至る所に有名な音楽家の跡があります。
以前ここでも書いていますが、オーストリアの3大クラシックの作曲家と言えばモーツァルト、シューベルト、ハイドンです。
しかし、ドイツ生まれのベートヴェンはこのウィーンの街にモーツァルト以上に足跡を残しました。
(ベートーヴェンが生まれた時も、亡くなった時も"ドイツ"という国は存在していませんでした)
だってベートーヴェンはウィーンで80回近くの引っ越しをしています。
そのため色々な場所にベートーヴェンの跡が見られるわけです。
ベートーヴェンは、1770年ドイツのボンで生まれました。
16歳の時にすでにウィーンに来ましたが、3ヶ月程の滞在でボンに戻りました。
2回目のウィーンは22歳の時でした。
そこから亡くなる56歳まで(56歳3ヶ月と10日で亡くなる)ほぼウィーン、ウィーンの森に滞在しました。
ウィーンに2回目に出て来てからはまもなくベートーヴェンは有名になり、順調なスタートでした。
しかし、26歳頃から難聴の兆しが現れました。
作曲家としては致命傷の難聴が原因で、32歳の時に死を決意して遺書を書いたことは有名です。
これが俗に「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれています。
しかし、自分は芸術家であり、それを成し遂げるまではやはり死ぬことはできない・・・と気持ちを改め、その後様々な名曲が生まれます。
彼はおそらく48歳の時からは完全に聞こえなくなってしまいます。
そんな状況の中50歳を過ぎたベートーヴェンは、ウィーンの森のバーデンの街で、第九交響曲の大半を作曲したわけです。
「ウィーンのちょっと珍しいアングル」というタイトルで、普段街中を歩いている時に見られるいつもの風景とは違い、その当たり前の風景を別角度から見たものを紹介していますが、その第4弾です。
前回第3弾は10月4日付でした。
教会などの塔が多いのですが、そんな塔などがいつもの場所からではなく、全く違った場所から見えた時はとても新鮮です。