目で見るローマ時代のウィーン 2

ウィーンの街はハプスブルグ家が拠点を置く以前は中世のバーベンベルク王朝、さらにはローマ時代に遡ります。

1年以上前にウィーンのローマ時代をちょっと視覚的に紹介しましたが、Legionslagerと言われるローマ軍駐屯地だけをまとめました。

実は当時Legionslagerだけではなく、その外側にもLagervorstadtやお墓なども置かれていました。

 

古代ローマ帝国の領土が一番大きかった時は、紀元後1世紀終わりから2世紀初めのトラヤヌス帝の時代で、地中海沿岸を全て含んでいました。

この時北側のローマ帝国の国境ラインがこの辺りはドナウ河だったわけです。

そこでローマ帝国は外からの異民族に備えるため Legionslager(レギオンスラーガー)と呼ばれた軍の駐屯地を築きます。

現在のオーストリアにはドナウ河沿いに当時の大きな駐屯地が3つあり、そのひとつがここウィーンに置かれ、当時はVindobona (ヴォンドボナ)と呼ばれていたわけです。

 

 

上の地図は現在のウィーン旧市街にVindobonaを示したものです。

Vindobonaは1世紀~4世紀に存在し、周辺地域が破壊されても、駐屯地は5世紀まではあったようです。

 

最大で約6000人の兵士(Militärsiedlung)と約3万人の人口(Zivilstadt)があったわけです。

Zivilstadtは現在のウィーン3区の一角にあったため、この地図では見られません。

 

現在の通りの名前があるので非常にわかりやすく比較することができます。

 

Legionslagerに隣接して外側に広がる薄い赤い部分がLagervorstadtで、canabae legionis と呼ばれ、商人、職人、楽しめるような施設やレストラン的なものを経営する人などが住んでいました。

劇場、温泉、祈りをする教会の様な場所などもあったはずです。

 

緑で示された公園のような所が3カ所見えていますね。

これはGräberfeldと言われ墓地でした。

ローマ人達はLegionslagerに通じる道の外側にたいてい墓地を置いています。

当初は火葬であり、今でいう墓碑が置かれ、裕福な人たちは霊廟のようなものも置かれていました。

キリスト教文化が浸透してきた3世紀ごろからは火葬に代わって土葬が一般的になりました。

死者は質素な棺や煉瓦や石の棺桶に入れられて埋葬されました。

 

ここに掲載した写真資料はウィーン市ホームページからの引用です。

 

 

 

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