目で見るローマ時代のウィーン

ウィーンの街は今でもかつての帝国の都であった面影を残し、荘厳な建造物が建ち並ぶ、緑豊かな美しい街です。

それもハプスブルグ家というヨーロッパで一番長く続いた王朝の居城がこの街にあり、そしてそのハプスブルグ家の下にかなりにわたって神聖ローマ帝国の皇帝やローマ王の称号が置かれていたことで、様々な人たちがこの帝国の都に集まって来ました。

 

そのため他のヨーロッパの街とは全く違った奥深さがある街・・・いわゆるヨーロッパ文化が凝縮した街です。

中世、近世、近代の多くの建造物が残され、街を歩くだけで博物館を歩いているような感覚です。

でもウィーンの街はハプスブルグ家が拠点を置く以前は中世のバーベンベルク王朝、さらにはローマ時代に遡ります。

今日はウィーンのローマ時代をちょっと視覚的に紹介します。

 

古代ローマ帝国の領土が一番大きかった時は、紀元後1世紀終わりから2世紀初めのトラヤヌス帝の時代で、地中海沿岸を全て含んでいました。

この時北側のローマ帝国の国境ラインがこの辺りはドナウ河だったわけです。

そこでローマ帝国は外からの異民族に備えるため Legionslager(レギオンスラーガー)と呼ばれた軍の駐屯地を築きます。

現在のオーストリアにはドナウ河沿いに当時の大きな駐屯地が3つあり、そのひとつがここウィーンに置かれ、当時はVindobona (ヴォンドボナ)と呼ばれていました。

 

 

上の地図は現在のウィーン旧市街にVindobonaを示したものです。

赤く塗られた四角形がVindobonaで、広さは約22ヘクタール、現在の通りの名前があるので非常にわかりやすく比較することができます。

赤い線はローマ街道に通じる道で、十字に配置され、3つの入口があったことがわかります。

現在のケルントナー通り、コールマルクト、Wipplingerstraße~Landskrongasseを通っています。

赤く塗られた一番下の境界線がグラーベンです。

外側に広がる薄い赤い部分は、Lagervorstadtで、canabae legionis と呼ばれ、商人、職人、楽しめるような施設やレストラン的なものを経営する人などが住んでいました。

劇場、温泉、祈りをする教会の様な場所などもあったはずです。

 

Vindobonaは1世紀~4世紀に存在し、周辺地域が破壊されても、駐屯地は5世紀まではあったようです。

最大で約6000人の兵士(Militärsiedlung)と約3万人の人口(Zivilstadt)があったわけです。

 

シュテファン大聖堂がどこにあるか分かりますか?

Legionslagerのその外側にあることがわかります。

 

 

こちらはCGで再現した当時の様子です。

明らかに正方形のように見える場所がLegionslager、その周辺に広がる集落がLagervorstadtです。

右に見えているのはドナウ河ですね。

 

いかがでしたか?

個人的には非常に興味深いと思います。

今日ここに掲載した2枚の写真資料はウィーン市ホームページからの引用です。

 

 

 

 

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