ウィーンの中心に立つシュテファン大聖堂はこの街のシンボルのひとつであり、何百年もの歴史を見続けてきました。
忙しい団体ツアーは別として、ウィーンを訪れてこのシュテファン大聖堂を見ない方はまずいないでしょう。
天を突き刺す氷細工のような印象的なゴシック様式の塔とモザイク的な要素を持った急こう配の屋根を載せた独特な形をしているシュテファン大聖堂・・・この場所に立つだけで歴史を感じます。
このシュテファン大聖堂だけでも数え切れない歴史的事柄があり、是非時間をかけて外側を一周し、もちろん内部も時間をかけて見学して頂きたいです。
このシュテファン大聖堂はオスマントルコの包囲やフランスとの戦争にも持ちこたえましたが、第2次世界大戦の時に屋根が焼け落ちることになります。
1945年4月11日から12日にかけて火災で、周辺からの火が屋根に燃え移り、屋根が焼け落ちました。
その時に大聖堂内にある歴史的なステンドグラス、トルコからの解放記念碑、大鐘のプンメリン、大オルガンなどが破壊されました。
爆弾の直撃ではなかったにもかかわらず、シュテファン大聖堂によれば、建造物や設備の45%が破壊されたいうことです。
その後まもなく地元の市民、オーストリアの諸州やスポンサーなどのお陰で、1948年11月19日には再建された大聖堂でミサを行うことができました。
上の写真は1945年夏で、屋根がないシュテファン大聖堂が見られます。
大聖堂を裏側から見ていて、右側に未完成の北塔があります。
こちらはこの大聖堂の屋根を修復している時の写真で、中世の時と同じよう小屋組みが見られます。
ちなみに1440年頃から屋根を支えるための小屋組みが3.000本近くのカラマツの原木で作られ、これには釘が全く使用されていなかったといいます。
戦災の後の小屋組みは605トンもの鋼鉄が使われています。
この小屋組みが1枚2.5kgもあるレンガ230.000枚を支えています。
ここに掲載した写真は実際にシュテファン大聖堂の外に展示されていたものです。
前回の110年前のウィーンの街と路面電車の貴重な映像1が大好評でした。
1906年のリンク道路の状況や当時の交通、人々、走っている路面電車などを通してウィーンの街の歴史を視覚的に楽しめます。
100年以上前の写真や貴重な映像を見ても、街並み自体が変わることはほとんどありません。
しかし、当時の流行りなどから人々のファッションが違ったり、車が全く走っていなかったり、現在は歩行者天国になっている所でも鉄道馬車が走っていたりなど現在との違いを多く見ることができます。
今回は115年前の貴重な映像第2弾です。
今回は国立オペラ座の前をゆっくり走っている路面電車からの映像ですので、路面電車自体は登場しません。
全体で25秒の映像ですが、スタートしてすぐ左側に国立オペラ座が見えています。
オペラ座1階部分のアーチは今と変わりはありません。
国立オペラ座を過ぎると馬車が右から左へ走って行くのが見えます。
路面電車の停留所でこの映像が終わりますが、ここには多くの人が路面電車を待っています。
当時の服装も115年前ですからレトロですね。
この辺の地面は石畳だったことがわかります。
このような映像は多くの事柄を教えてくれて、とても興味深いです。
ウィーンのリンク道路沿いの最初の大建造物のひとつが国立オペラ座で、観光客の皆さんにとってはウィーンの街を見る上での目安になる建物であり、集合場所などにもよく利用されます。
国立オペラ座は1868年にリンク道路最初の大建造物としてプランされ、シッカルズブルク、ニュルという2人の建築家によりルネッサンス様式で建てられ、翌年1869年5月25日にモーツァルトのドン・ジョバンニでこけら落としが行われました。
去年2019年は国立オペラ座150周年にあたり、それに関しての多くの歴史的資料が国立オペラ座内に展示されています。
国立オペラ座の内部見学は、通常よりもはるかに内容が濃くなっていて面白いです。
今日はその国立オペラ座に展示してある貴重な写真をお届けします。
第2次世界大戦の終わり頃である1945年3月12日に国立オペラ座は爆弾を受けて建物の80%が壊されました。
戦時中でもオペラが上演されていて、1944年秋についに戦争により劇場が閉鎖となります。
最後の演目はワーグナーの神々の黄昏でした。
上の写真は爆弾が落とされた後の様子です。
瓦礫が散乱していますが、かなり建物の形が残っていますね。
実はこの時リンク道路に面した正面部分だけが生き残りました。
上の写真は王宮から見た再建中の国立オペラ座です。
つまりリンク道路とは反対の後ろ側です。
だいぶ形が出来上がっていて、屋根もわかります。
その後、10年の歳月を経て国立オペラ座は修復され、1955年11月5日、ベートーヴェンのフィデリオで再開しました。
国立オペラ座内部にはこのような歴史的資料が多く展示されていますので、時間をかけて見ることをお勧めしたいです。
ただ、ここは個人的に見学することができないためガイドツアーに参加する必要がありますが、ガイドツアーだと他の皆さんもいるのでその場で立ち止まってゆっくりということができません。
私のような公認ガイドであれば単独で皆さんを御案内することができます。
国立オペラ座の公演のチケットを買って早めに中に入れば、館内を散策することができるので個人的にゆっくり見学することができます。
国立オペラ座博物館ですね。
ウィーンの中心部はリンク道路という有名な環状道路があり、その両側には様々な様式で荘厳な建造物が多く建ち並んでいます。
このリンク道路は19世紀後半、時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が中世からの城壁(市壁)の取り壊しを決定した1857年から1865年にかけて建設されました。
ウィーンの観光でリンク道路はヨーロッパの色々な建築様式が見られることからとても重要です。
リンク道路は車は一方通行で、時計回りにドナウ運河沿いを経由して1周することができます。
基本3車線のリンク道路の真ん中の車線を車で1周すると運河沿いを入れて5.4kmです。
かつてはリンク道路の周りを路面電車の1番、2番が東京の山手線のように1周していましたが、2008年10月より廃止され、それぞれ別の動き方をしています。
その路面電車はリンク道路が開通した1865年から走っていますので、2015年はリンク道路開通150周年記念と同時に、路面電車も150周年記念という大変おめでたい年でした。
最初の区間はSchottenring~Hernals間で、鉄道馬車から始まっています。
1883年には蒸気路面電車が導入され、1897年1月28日には電化された最初の路面電車が現在のLinie5の部分を走り、それ以降急速に普及し始め、1903年には最後の鉄道馬車が現場から別れを告げました。
ちなみに蒸気路面電車は1922年までは外の地域で活躍していました。
路面電車ひとつとっても興味深い歴史を見ることができますね。
さて、今日は約110年前の1906年のウィーンの街を走る路面電車の貴重な映像を紹介します。
是非以下の映像を御覧下さい。
ウィーンに詳しい方であればこの場所がどこだかすぐにわかると思います。
そうです、リンク道路です。
走っている路面電車の中からの映像ですね。
興味深いことに今とは通行が逆です。
この映像ではリンク道路の国会議事堂界隈からSchottentorに向かっています。
路面電車がしっかり電化されていることがわかります。
現在では車が多く走っている所は馬車のオンパレードです。
路面電車も頻繁に走っていますね。
映像で1分ぐらい経ってから右側に見える大きな建物はブルク劇場です。
今日ここに紹介した映像はレオポルド美術館の一角で一般公開されています。
ウィーンの歴史に興味があれば大変おもしろい映像です。
私は何回も見入ってしまいました。
ウィーン旧市街のリンク道路から内側の街並みはまだ城壁があった頃と比べても基本的には変わっていません。
19世紀半ばの1858年から城壁の取り壊しが始まり、リンク道路は1865年に完成し、その両側には様色々な建築様式で様々な建物が立ち並んで行きました。
リンク道路界隈だけを観察すれば大きな都市改革があったことがわかりますが、リンクの内側は中世からの地図を見ても現在の街並みと簡単に比較することができます。
ウィーンの当時の写真は1857年頃から存在していますので、現在より160年遡って当時の模様を知ることができます。
110年以上前に活躍していたウィーン郊外の蒸気機関車や最初は蒸気機関車だったStadtbahn(シュタットバーン)などを話題にしていますが、今日は古き良きひとコマの第3弾です。
上の白黒の写真はウィーンのある一角です。
ウィーンを知っている人であればこれがどこだかすぐにわかるでしょう。
広場のような所に記念像が目立って立っています。
この場所はPraterstern(プラターシュテルン)で、この像はテゲトホーフの記念像です。
Wilhelm von Tegetthoff(ヴィルヘルム・フォン・テゲトホーフ)はオーストリア=ハンガリー帝国時代の重要な海軍軍人です。
この写真は1953年の8月21日に撮影されたもので、奥の方に見えるのはFranzensbrückengasseです。
向かって左側にWien Prater駅があります。
このPratersternは大きなロータリーになっていて現在は車しか走っていませんが、この当時は路面電車が活躍していました。
こちらの写真はどうでしょうか?
正面奥に立っているのはそのテゲトホーフの記念像で、上と同じPratersternですが見ている場所が違います。
ずっと奥にはシュテファン大聖堂が見えますね。
こちらは1920年の撮影ですので、1枚目の写真よりも約30年前ということになります。
この時代は馬車がこの通りを車の代わりに走っています。
奥には路面電車も見えますね。
このような写真は歴史的にも大変興味深いものがありますね。
ウィーンで観光中に地下鉄4号線や地下鉄6号線で移動したことがある方はこの路線はちょっと特徴的な様式で作られた駅舎が多くあることに気づくかもしれません。
それらは今でも十分ウィーンの街に溶け込んでいて市民の生活に欠かせないものとなり、尚且つ懐かしさを感じさせてくれます。
これらは19世紀終わりに建設されたStadtbahn(シュタットバーン)が始まりでした。
ウィーン生まれ有名な建築家であるオットー・ヴァーグナーによる歴史主義からスーゲントシュティールの重要な建造物です。
このStadtbahnの始まりは蒸気機関車でした。
上の写真を見て下さい。
これはStadtbahnの当時の駅舎を見せてくれる貴重な写真です。
"WIENER ELEKTRISHCE STADTBAHN" (ヴィーナー・エレクトリッシェ・シュタットバーン)と表示されているのがわかります。
つまり、電化されたシュタットバーンとううことになります。
Stadtbahn自体は1898年から1901年に完成して営業しています。
電化されてのオープニングは1925年6月3日~1925年10月20日ですから、上の写真は1925年以降ということになります。
上の写真は大変おもしろいですね。
両方面から蒸気機関車が高架線を走っています。
この高架部分は今でも見られる地下鉄6号線 (U6)ですね。
つまりここは当時"Gürtellinie"と呼ばれたStadtbahnで1898年6月1日にオープンしています。
蒸気機関車でもウィーンの街並みに溶け込んでいるように見えます。
今から120年ぐらい前の近代の終わりではありますが、このような歴史的背景を知っていて地下鉄に乗るのと知らないでただ乗っているのとは感じ方が全く違いますね。
110年以上前に活躍していた郊外の蒸気機関車も御覧下さい。
ヨーロッパは鉄道がよく発達していることで知られています。オーストリアは帝国時代からプランされヨーロッパの中でもかなり早くから鉄道が発達し始めた国で、帝国の都ウィーンとを結ぶ路線という自然な考え方からも来ています。またオーストリアは鉄鋼業が重要な産業のひとつに数えられているという背景もあります。
ウィーンの街に来た方はこの街は何とたくさんの路面電車が走っているのだろうとお思われるでしょう。この路面電車は鉄道馬車から始まっています。ドイツ語で鉄道馬車は"Pferdeeisenbahn"(プフェルデアイゼンバーン)と言われ、オーストリアでは1825年に現在のチェコBudweisの南Netrowitzで最初の工事が始まって、リンツに向けて最初の50kmが1827年に完成し、リンツまでの全区間は1832年に完成し、その年の8月1日にフランツ2世/1世皇帝と皇后カロリーナ・アウグスタの同席でオープニングセレモニーが行われました。これがヨーロッパ大陸では一番最初の鉄道工事となっています。
その後まもなく蒸気機関車が導入されることになりますが、オーストリアでは1836年に最初の工事が始まって、1838年に開通する Kaiser Ferdinands-Nordbahnが一番最初です。その後蒸気機関車が主流になり、20世紀初頭になると一般人も蒸気機関車に揺られて遠出をすることが人気となっていました。
今日はウィーンの郊外に当時人気のあった蒸気機関車について少しまとめておきます。
上の2枚の写真は私がよく子供と走るEuro Vero 9号線にもなっている気持ちのいいサイクリングコースです。
ここはぶどう畑が広がり、奥の方にはカーレンベルクなどが見渡せ、とてもウィーンとは思えないのんびりした美しい自然が広がっています。今ではのんびりしたサイクリングコースとなっているこの場所には20世紀初頭からは蒸気機関車が走っていました。
このサイクリングコースには右の写真に見られるようにウィーン市の通りの名前を示す標が立てられています。
"ウィーン21区 Alte Bahnstrasse"と書かれています。日本語では"旧鉄道通り"なんて意味になると思います。ここを走っていた蒸気機関車はDampftramway-Gesselschaft "Kraus und Company"によるもので1901年に営業許可を取得し、1903年にはウィーンのホイリゲで有名なStammersdorf~Auersthal間22kmの営業を始めました。前述したように20世紀初頭は蒸気機関車に乗ることが流行し、蒸気機関車は大変な商売繁盛でした。
上の写真がこの当時の蒸気機関車です。
この蒸気機関車は時速25km,60馬力の性能で多くの人を喜ばせました。
10年後の1913年にはNiederösterriechischen Lokalbahnenがこの蒸気機関車を引き継ぎ、その後1935年にはオーストリア連峰鉄道(ÖBB)に引き継がれ、1日10往復も走っていました。
1988年5月28日に営業が停止され、その後ここはサイクリングコースになったというわけです。
ここを走るとわかりますが、当時使用されていた駅の一部、歴史的資料や実際に使われていた蒸気機関車の車輪やポイントの切り替え装置などが展示されていて当時を偲ぶことができます。