こんな所にウクライナ国旗の色が・・・

ロシアがウクライナに侵入して3週間が経過し、250万人以上の方が避難民としてウクライナを脱出しています。

隣国のポーランド、ルーマニア、ハンガリー、そしてもちろんオーストリアにも多くの避難民が到着していて、すでに数か所の避難所が設けられていて、医療、食事、精神面などのケアーを受けています。

ウィーンの観光で有名なホテルアナナスも避難民のために利用されています。

戦争や武力衝突などはどちらも自分が正しいと思ってやっているでしょうから、どちらも頑固で後に引くことがなければ長引くことになり、その結果、多くの人が犠牲となり、多くの分野に影響を及ぼします。

現時点でロシアの上空を飛べないことから、日本からウィーンに来るには迂回路となり、また食料品の流通などにも影響が出て価格が高騰し、天然ガスの問題もあり、ガソリンなども1Lで2.20ユーロとめちゃくちゃ高くなっています。

 

このウクライナとロシアの問題は今に始まったわけではなく、17世紀後半ぐらいから、第1次、第2次世界大戦、さらに2014年のクリミア併合・・・そして現在と非常に複雑な関係になっていて、アメリカが実はバックに・・・いやいや、ここで持論を展開するつもりは全くありません。

とにかく早く終わって欲しいですし、一番悲惨なのは一般国民です。

 

前回のライブオンラインツアーVol.83で御案内しましたが、ウィーンの街にも戦争に反対し、ウクライナに同調するウクライナ国旗の色がこんな所にも見られます。

 

こちらはSchwarzenberg広場にあるロシア兵士記念像です。

この記念像を囲む列柱を通して御覧下さい。

壁にはウクライナの国旗の色が塗られています。

この壁はこの広場の後ろ側にあるバロック建築のSchwarzenberg宮殿のもので、この広場との境を担っているようです。

ここにロシアのウクライナ侵攻に抗議する意味で、この宮殿の所有者(Schwarzenberg家)が塗ったというもので、オーストリアがやったものではありません。

私は普段このロシア兵の記念碑の案内は簡単にしかしないのですが、前回のライブオンラインツアーでここを案内しました。

 

ちょっとこの記念碑にまつわる歴史的背景をお話ししましょう。

第2次世界大戦末期、連合軍の中でソ連軍が一番最初に国境を越えてオーストリアに侵入してきたのが1945年3月29日11:05で、その後ウィーンには4月10日に到着、そして4月27日にはソ連をバックにしたカール・レンナーを首相とする暫定内閣が生まれています。

5月7日にはドイツが降伏し、戦争が終結、そして8月17日には残りの連合軍(アメリカ、イギリス、フランス)がウィーンに到着します。

ソ連はヒトラーからオーストリアを解放したのは、あくまでも自分達であること、連合軍よりも早く勝利を収めたこと、同時にそれには多くのロシア兵の犠牲(17.000人)も伴ったこと、占領軍ではなく、解放軍としてふるまいたかったことなどを誇示するために急いでこの記念碑を作らせました。

このロシア兵記念碑の除幕は8月19日なので、その2日前に入った連合軍はこの除幕式を黙ってみてることしかできませんでした。

この記念碑は、戦勝記念碑、開放の記念碑などとも呼ばれていますが、正式にはドイツ語ではHeldendenkmal der Roten Armee(赤軍英雄記念碑)と言われています。

これは取り決めにより、ウィーンが管理、修復をするということになっているので、取り除くことができないんですね。

ウィーンの人々には占領時代を思い起こさせるものなので、決して気持ちのいいものではなく、むしろ目の上のこぶのような感じです。

 

このような背景があって、よりにもよってこのロシア兵記念碑の後ろ側にウクライナの国旗色です。

でもロシア大使館がどういうコメントを出したかと言うと・・・

第2次大戦では、ロシア軍とウクライナは一緒に戦ってここを開放した、その証であるという解釈をしています。

今の世界世論からすれば何とも言えない都合のいい解釈と思われるでしょう。

でもこの問題はロシアがウクライナを侵攻したという単純なことではありません。

一番の犠牲者は何の罪もない一般国民です。

本当に早く終わって欲しいです。

 

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