ベートヴェンの最後の住居

ウィーンの街の至る所に有名な音楽家の跡があります。

 

以前ここでも書いていますが、オーストリアの3大クラシックの作曲家と言えばモーツァルト、シューベルト、ハイドンです。

しかし、ドイツ生まれのベートヴェンはこのウィーンの街にモーツァルト以上に足跡を残しました。

(ベートーヴェンが生まれた時も、亡くなった時も"ドイツ"という国は存在していませんでした)

だってベートーヴェンはウィーンで80回近くの引っ越しをしています。

そのため色々な場所にベートーヴェンの跡が見られるわけです。

 

ベートーヴェンは、1770年ドイツのボンで生まれました。

16歳の時にすでにウィーンに来ましたが、3ヶ月程の滞在でボンに戻りました。

2回目のウィーンは22歳の時でした。

そこから亡くなる56歳まで(56歳3ヶ月と10日で亡くなる)ほぼウィーン、ウィーンの森に滞在しました。

 

ウィーンに2回目に出て来てからはまもなくベートーヴェンは有名になり、順調なスタートでした。

しかし、26歳頃から難聴の兆しが現れました。

作曲家としては致命傷の難聴が原因で、32歳の時に死を決意して遺書を書いたことは有名です。

これが俗に「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれています。

 

しかし、自分は芸術家であり、それを成し遂げるまではやはり死ぬことはできない・・・と気持ちを改め、その後様々な名曲が生まれます。

 

彼はおそらく48歳の時からは完全に聞こえなくなってしまいます。

そんな状況の中50歳を過ぎたベートーヴェンは、ウィーンの森のバーデンの街で、第九交響曲の大半を作曲したわけです。

 

こちらはウィーンでのベートーヴェンの最後の住居です。

当時ベートーヴェンが住んでいた建物は1904年まで残っていましたが、その後壊されて、新しい建物がその場所に建てられました。

 

この場所には1779年まで、17世紀にベネディクトの改革派からこの場所を提供された修道会がありました。

 

そのスペインの修道士の服の色が黒かったことから、同じスペインの白の服を着る修道会と区別するため、Schwarzspanier(黒のスペイン人)という名で呼ばれました。

現在この建物はSchwarzspanierstraße 15番地にあります。

ベートーヴェンは当時、この建物の3階に住んでいたとされています。

 

 

 

ベートーヴェンは彼の最後となるこの場所に、1825年10月から住み始め、1827年月26日にここで、おそらく肝硬変で亡くなりました。

彼の髪の毛を調べたらそこから通常の40~100倍の鉛が検出されました。

ベートーヴェンはアルコール依存症ではありませんでしたが、それに近いぐらいまでのアルコールを摂取していた・・・つまりワインが大好きでした。

当時のヨーロッパでは大量生産の安物ワインには酢酸鉛を甘味料として利用していました。つまり死因は鉛中毒が原因であったかもしれません。

 

 

ベートーヴェンは当時、貴族以上の葬儀をしてもらえました。

2万人以上の人が参列し、秩序を保つため、軍隊も出動したという大きな葬儀でした。

 
ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書の家」に行くと、このベートーヴェンの最後の住居からの資料も展示されています。

 

ウィーンでは「遺書の家」、「パスクラティハウス」、「エロイカハウス」の3つが博物館として見学することができますが、それ以外博物館になっていなくても、とても重要な場所が至る所にあります。

 

 

 

 

 

 

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