ウィーンの中央墓地 3

以前にこのコーナーで、中央墓地中央墓地 2 と2回ほど話題にしました。

 

ヨーロッパでは2番目に大きな墓地で、特に有名な音楽家が眠っているということで

観光名所にもなっています。

 

前回はワルツ王のヨハン・シュトラウスとブラームスを紹介しましたが、

今回はそのシュトラウスのお父さんについて書きたいと思います。

 

 

ヨハン・シュトラウス(父)は、1803年3月14日に、ウィーンの現在2区LeopoldstadtのFloßgasse で生まれました。

1825年(息子のシュトラウスが生まれる年)から、

ヨーゼフ・ランナーの楽団で

演奏していました。

 

まもなく、そこから独立をして、自らの楽団を組織し、

様々な店で演奏し、大成功を

収めます。

 

1835年には、 k.k. Hofballmusikdirektor

(宮廷舞踏会音楽監督)の

ポジションに出世することに

なります。

 

また自らの楽団を率いて、

ドイツ諸都市、

パリ、ロンドンにも

演奏旅行に出かけます。

 

シュトラウスはマリア・アンナと結婚していましたが、洋裁師エミーリエ・トランプッシュという別の女性と関係ができ、そこから家庭を捨ててしまい、その女性との間には

8人の子供がさらに生まれます。

 

この前妻アンナとの子供のうち成人したのは3人で、あの有名なワルツ王シュトラウス、ヨーゼフ、そしてエドワードで、ワルツ王はもちろん、他の2人も共に音楽家に

なりました。

 

特にこのワルツ王ヨハン・シュトラウスは父から音楽を反対されていましたが、

母アンナが息子シュトラウスに大変な協力をしたんですね。

 

そこで息子は19歳になる直前にデビューすることになります。


その結果、父親と息子がそれぞれライバルとして対立することになるわけです。

 

しかし、父シュトラウスが45歳という若さで、猩紅熱(しょうこうねつ)でこの世を去ってしまいます。

 

そこからワルツ王シュトラウス2世の時代が始まります。

 

でもこの父シュトラウスは音楽的には息子に大きな影響を与え、ワルツ、ポルカ、マーチなど様々な作品が残されています。

 

特に、「ラデツキー行進曲」は誰でも知ってる曲ですね。

よく運動会でかかってました。

また、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは必ず最後に演奏される曲ですね。

 

この曲の主人公ラデツキー将軍はもちろん実在した人物で、1766年生まれです。

時の皇帝フランツ・ヨーゼフがまだ18歳で皇帝になったばかりの時、将軍は83歳という

高齢にもかかわらず、ノヴァラの戦いで戦場の最前線で活躍したオーストリア軍の

将軍です。

 

中央墓地の名誉区には有名人達がたくさん眠っていますが、その人物が生前どのようなことをしたのか・・・といった背景を少しでも知ってお墓の前に立つのと、知らないでお墓の前に立つのとでは、お墓が絵画のように全く違って見えてきます。

 

それと同時に背景を知ると、とても感傷的にさえなりますね。

 

 

 

 

 

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